第五話 あの方

 鬼が篝火だと指差した灯りが大きく見えてきた。その灯りにだいぶ近づいてきたようだ。

 わたしは必死にそこへ向かおうと歩いているが、身体も足も重い。

 ただの一歩踏み出すだけでも息が切れる。ここ数日ろくに食べていないせいだ。早く何かお腹に入れないと、わたしは死んでしまう。


 屋敷の門が見えた。わたしの仕える武家屋敷だ。

 よかった、鬼の言ったことは やはり本当だった。


 門の前に 人影が見える。きっと門番だ。こちらに気がついたのか近づいてきた。

 近づくにつれ、門番と思しき人の形がわたしの持つ灯りで徐々に照らされていく。

 しかし、それはいつもの門番ではなかった。

 だ。

 その“男”はわたしの前に立ちはだかるように止まる。


「随分遅かったな」

 意地の悪い笑みを浮かべながら、黒い瞳でわたしを見る。

 帰って早々、苦手な相手に会うとは、身体がさらに重くなったように感じた。

「申し訳ございません……」

  直垂袴に小袖を着ている 中途半端な短い髪をした男が不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 小馬鹿にするな、と思うが 決してそんなことは顔にも出さず、わたしはただ口を閉じる。

 仕える主人の一人に、跡継ぎとしての地位にいる方に、そんなことは口が裂けても言えるわけがなかった。


 黙ってこちらを見ている。訝しげに視線を向けられているような気がしてずっと俯いていたが、その訝しむ顔が視界に入る。

 身を屈めてわたしの顔を覗き込んできたのだ。

 わたしは怖くて すぐにでも逃げ出したくなったが、仮にも武家の若様だ。

 下人低い身分がそんなこと、 出来るわけがない。

 わたしは視線を泳がせた。

「こんなに遅くまで何をしていた」

「道に、迷ってしまいました」

 相手の眉間に皺が寄る

「籠はどうした」

「あ……」

 そういえば、背負っていた籠は鬼に持っていかれてしまった。

 あー、と間延びした声を出している間に言葉を探す。

「どこ、かに落としました」

 さらに眉間に皺が寄ったが、構わずわたしは言葉を続ける。

「実は、思いっきり山の斜面を転んでしまって……。籠はどこかへいってしまいました」

 本当のことも盛り込んだのでなんとか取り繕えたはず。


「ほう」顎に手に当て 姿勢を正した。わたしから視線を外したので、この話を信じたようだと思った。

「では、その火のついた枝はどうしたんだ」

「え……」

「火打石でも持っていたのか」

 鋭く冷たい眼を向けられた。わたしはお腹が冷えていくような感覚に襲われる。たしかに若様の言うように、山から火のついた枝を持ってくるのはおかしい。

 夜山へ行くために 松明を持っていくなり、火打石やらの道具を持っていくなら ともかく、わたしは日が暮れる頃には帰るつもりでいたのだから、もちろん火をつける道具など持っていない。

 答えに窮した。


 この火のことは誤魔化せない。

 いっそ、本当のことを話してしまおうか

 そう頭をよぎる。

「おい、どうした」

 もし言えば、 あの鬼を怖れて 皆で退治しようとするだろう。あんなに優しそうに微笑むのに。

「主人の言うことが聞けないのか」

 足のケガを治して、帰りの道も案内してくれた。わたしみたいな人間を 助けてくれる いい鬼なのに。あんなに————

「何を隠し立てしている。場合によっては、痛い目をみるぞ」


 あんなに、温い手をしている鬼なのに。


「ません……」

「よく聞こえないぞ。なんと言った」

「言いません」

 わたしは若様の方へ顔を向けた。涙で滲んで 前は見えない。

「痛い目見ても、言いません。絶対に言いませんっ」

 わたしは屋敷へ走り出す。早くこの場から立ち去りたい一心だった。

 しかし 何かが足に引っかかって、転ぶ。

 顔面が痛い、と思ったと同時に、ぐぅ と音が聞こえた。自分のお腹が鳴ったのだ。


「おい、大丈夫か」狼狽えたような声で呼びかけられる。

 肩を掴まれ、そのまま起こされた。

「大丈夫です……」肩を掴んだ手を剥がそうとしたが、びくとも動かせない。

「言っとくが、お前の両足が縺れて転んだんだぞ」

 肩を掴まれたまま立たされた。

「だいぶ 腹、空いているな」

「別に空いてま」ぐるる、とお腹が鳴った……。

 どうしようもない身体の悲鳴なのだろうが、すごく 惨めだ。

 若様は息を吐き、肩から手を離した。

 わたしの落とした 火のついた枝を手に取ると篝火の中に入れる。

「ついてこい 」

 そう言って武家屋敷へと 先に歩み始めた。

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