なにかが感染った

グリード・A・ハスレイミー

直訳 『トイレの謎』


その日、クライトン街のバスストップの前にはだれもいなかった。いつもならある程度の列ができているのだが、今日は影さえも見えず空には薄暗い雲がいつ雨を降らしてやろうかと悪戯めいた瞳で我々を覗き込んでいるように思えた。私は傘を片手にバスストップの前に立ち、降らなければいいなと思いながらぼーっとしていた。私はダッフルコートに身を包み、頭には小さめのハットと平々凡々な服装をしているつまらない男であった。これまで何の変哲もない誰でも歩みそうなあくびの出る人生を送ってきた。

妻はいたが、私がつまらないからと浮気をして離れてしまった。息子も私よりも妻の方が好きだったからか一緒について行ってしまった。残された私は、1人で天候の悪い日もバスストップの前に立つしかないのである。私に残された救いというものは気をそらすことのできる仕事という存在を持っていることだけだ。

ほおを何かが伝う感覚があった。

指先でほおに触れると、私のほおを水滴が伝っているのがわかった。すぐにそれが雨であることも理解できた。傘をささねばと手元に目を向けると、なにやら視界の端に見慣れぬものがあるのがわかった。視界の端に、直方体の足元が見えるのである。ふと見上げると、そこにはトイレボックスがあった。何の変哲もない道端に突如としてトイレボックスは現れていた。それは、仮設トイレのような見た目をしている。薄緑色をしており、何故だか私のことをじっと見つめているように感じた。私と同じくらいの大きさのそれは、開けと言わんばかりに扉を私の方に向けている。開けるべきか?

得体の知れない仮設トイレだ。バスストップ前、それも道路に存在しているのだ。明らかにおかしい。しかも周りにはだれもいない……悪夢のようだ。得体の知れぬ、何もわからぬ悪夢……。

私は扉に伸ばそうとした手を引っ込めた。嫌な予感がする。


しかし、バスはまだか……。バスさえ来ればそれにのって私は会社に行くのだ。そうすれば日常は再びやって来る。私はそう思い辺りを見渡す。いつまでたってもバスの来る気配はない。それどころか他に車の姿は見えない。ただ静かに信号機が点滅しているだけだった。


私以外の人間はこの世界のどこにもいないように思えた。



私はなんだか恐ろしくなり、家に帰ろうと道を引き返す。会社には具合が悪いと電話をしよう。社会人として休むことはあまりよくないとはおもうが、今日はダメだ。

今日はダメなんだ。

私は自分にそう言い聞かせた。歩く速さはだんだんと増していき、私の顔色もだんだんと真っ青になっていく。

街には無造作に仮設トイレが置かれていた。それも一つや二つではなく、まるでそれ自体が人のように、数十個と存在している。ちょっと遠くを見てもその量には圧倒される。どこまでも仮設トイレが続いている。

なんだ?まるで街が仮設トイレに侵略されたかのようである。そんなふざけたものがあるだろうか。

私の額を汗が伝う。その汗は、私の瞳の中へと沁みていく…。それさえも気にならないほどに私は愕然と仮設トイレを眺めていた。

開けてみるべきか。

いっそ開けてみて中に何があるのかみるべきなのだろうか。私は再び扉に手を伸ばそうとした。開ければそれがなんであれ、そこで全てが終わる気がしていた。もしかすると仮設トイレの中に吸い込まれて…それこそブラックホールのようなものがトイレの中に存在し、開けた途端に私がその中で藻屑と消えるかもしれない。

だが、ただ一人孤独の中で生きていくよりはそれの方がだいぶマシに思えていた。

取っ手をつかんだ。

開ければ中身がわかる。

それで終わる。

開ければ…

開ければ……



私にはできなかった。足がすくんでしまったのだ。いざ開けようとすればその瞬間手は震え出すわ、謎の朝は流れ出るわ私は散々であった。とんだ臆病者だ。

何もできず私は逃げ出し、ただひたすらに自分の部屋のあるアパートメントを目指した。脇腹が痛い。いつぶりだか痛む。学生の頃以来のような気がする。それだけ無我夢中だったんだ…私は俯いて息を整える。

顔を上げれば、そこにはアパートメントがある。この階段を登り、扉を開ければそれで終わる。眠ってしまえば、それでひとまずの安寧が訪れるのだ。

息を切らしながら、私は足を上げ、階段を上っていく。物音一つ、何も聞こえない世界。いや、聞こえる。私の足音、私の吐息、私の鼓動、私の音だけが響いている。

私の音だけがこの世界で生きている。

ドアノブをひねる。

さぁ、寝よう。眠ってしまえば……



部屋の真ん中には仮設トイレがあった。朝食を食べ、ほったらかしにテーブルの上に置いていた皿は、テーブルと一緒に床に倒れ、割れている。部屋が荒らされ、物が倒れている中で、トイレだけがそこに立っている。

青と赤の気持ちの悪い配色のトイレだ。

私は吸い込まれるようにトイレに近づく。

取っ手を掴む。先ほどまでの震えなどなく、ただなんの躊躇もなく扉を開ける。


産声が上がる。

便器の中で泣く赤子。此奴は私を見つめている。涙を浮かべながら、ただひたすらに泣き続ける。

耳が支配される。赤子の声が耳にへばりつき離れなくなる。息もできない。瞬きさえできない。

まるで吸い込まれるようだ。

ブラックホール…

そうだ…トイレの中は確かにブラックホールだった……。私の考えは当たっていたのか。

思考がだんだんと消えていく気がした。頭の中身がからっぽになっていくのではない。何かで満たされるような…この感覚は確か…。



オギャアオギャア………

オギャア………………

オギャ………………

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