3
「お〜い、ご飯ができたわよ。降りてらっしゃい。」
文枝が、食事の完成を階上の銘々に告げた。ダダダッという慌ただしい音とともに、葉月が駆け下りてくる。遅れて、敏夫が、最後に晴翔が降りてきた。
「俺の釣ったアユ、どうなった?」
「ほら、こんなに美味しそうに焼けました。」
「おー、いいじゃん。めちゃ美味しそう。」
葉月が満足げに屈託ない笑顔を浮かべる横で、晴翔は、白く濁り生気を失った球体を沈んだ顔で見つめていた。
「これが、本当にさっきのあのお魚なの?」
晴翔が指した先には、綺麗に血が抜かれ、こんがりと焦げ目をつけながら白身をのぞかせた魚が、食卓の上に整然と人数分並んでいた。魚料理が出るときにいつも並ぶ光景に相違ない。
「ああ、そうなんだろう。そういえば、晴翔には釣ってきた魚をちゃんと見せたのは初めてだったな。前回初めて釣りに行った時は、熱が出て寝込んでいたっけ。まあ、あの時はほとんどあまり釣れなかったから、お母さんが慌てて魚を買い足してくれたんだっけ。」
「そうだったわね。あの時よりはだいぶ成長したんじゃない?」
「今度は、本当に川釣りにでも行くか。」
「いいね、父さん。それは俺もやってみたい。来週か再来週にでも一緒に行こうよ。晴翔はどうする?」
「うーん。お魚さんが可哀想だから...。僕は、嫌だ...。やっぱり水族館が、いい。」
「それじゃあ、また二手に分かれるほうがいいかな。父さんは来週末、京都の工場に出張が入っちゃったから再来週にしよう。お母さん、それでいいよね。」
「また水族館ですか...。まあ、いいんじゃないかしら。」
晴翔は、始終陽気に話す葉月や両親の姿を不思議な目で見つめていた。先ほど見た魚は、葉月が仕込んだ手品のようなもので、赤い血はケチャップか何かでの見せかけだったのではないか。本当は全く釣れなかったから、スーパーの「それ」に赤い血を装飾しただけではないのか。あるいは、そもそもあの魚たちは、水族館で元気に泳ぐ魚とは全く別物なのではないか。そう考えてすらいた。
「ほら、晴翔のお魚は、綺麗にむいてあげたやつがあるから、これを食べてね。」
「はーい...。」
そう母から言われた晴翔は、慣れない箸づかいで、盛られた白身には手をつけず、横に添えられた白米をしきりにつついていた。
晴翔は、その夜、教科書を開いていた。明日の4時間目には道徳の授業がある。
『いきものをたいせつに』
低学年向けの大きな教科書体の文字で書かれた教科書には、幼稚園か小学生くらいの兄弟がアゲハチョウを育てている姿が、優しいタッチのイラストで描かれている。
「ただしくんとつよしくんは、ちかくのこうえんにはえていたミカンの木のはっぱのうらに、小さなきいろいつぶが見つけました。」
正と剛という兄弟が、ミカンの木からアゲハチョウの卵を見つけ、毎日観察日記をつけながら卵から孵化し、どんどんとミカンの葉を食べて成長していく幼虫に驚く様子が描かれている。その後、兄弟が目を輝かせながら見つめる先で、蛹になった幼虫が美しい模様を持つアゲハチョウへと羽化する場面で幕を閉じる。
「①ただしくんとつよしくんは、アゲハチョウをどんな気もちでそだてたとおもいますか?」
「②あなたは、いきものにふれあったことがありますか?そのとき、どんなことをかんじましたか?クラスのおともだちと、じぶんのたいけんをはなしあってみましょう。」
晴翔は生き物を観察するのが好きだったが、生き物を飼ったことがなかった。家の狭い虫かごの中でカブトムシやクワガタを飼ったり、狭い水槽にひしめくように金魚を飼うことよりも、水族館の水槽で自由に泳ぐ生き物たち、ふわふわと気ままに漂うクラゲを見ているのが好きだった。彼は、胸を高鳴らせながら成長を見守る兄弟の気持ちが今一つ理解できなかった。
ただ、「生き物に触れ合ったことがあるか」と言われれば、つい先ほど食卓で、不気味に白光りするニジマスやアユの中身を見たばかりだった。いつもは母が丁寧に向いてくれた白身を美味しそうに頬張る晴翔も、この日ばかりは結局一口も手をつけずに部屋に戻ってきてしまった。
「今日、お兄ちゃんたちが見せてくれたお魚は、『いきもの』だったのかなあ...。」
一日遊び疲れた晴翔は、ふわふわと気ままに舞うクラゲの姿と、クーラーボックスの中に横たわる魚の姿を浮かべながら、そのまま眠りについてしまった。
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