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 晴翔は、名残惜しそうにクラゲの水槽を離れると、母に連れられ、水族館の出口へと向かった。都内の名だたる水族館は、決まってイルカやアシカを見世物として客寄せをしているが、この水族館の貧弱な予算では、クラゲやイソギンチャク、小さな魚たちを飼うのが精一杯だった。花形のショーもなく、都内の川と東京湾と沖縄がそれぞれ手狭な水槽に再現された館内は、全体が子供の足でも数十歩の範囲に収まっている。子供に引っ張り回される母親の身になれば、この狭さはありがたい限りだが、多くの子どもにしてみれば、大きなサメも、トレーナーの指示に忠実に従う賢いイルカもいない施設はおよそ殺風景なものだったに違いない。しかし晴翔は、海の小動物たちを具に観察し、一仕事を終えたような満足感に浸った顔を見せていた。

 晴翔と文枝は、腰のあたりに板切れを横に渡しただけの出口を出た。そして、その先の土産物屋に入った。看板の文字が剥がれ落ちかけ、そこが土産物屋であるのか、あるいは倉庫であるのかが、初めて来た家族連れなどには全く見当もつかないのだが、いわば常連であった晴翔親子は、その店に、硬貨2枚がミニチュアの生き物たちに早変わりする機械があることを知っていた。生き物観察を終えた仕事帰りに、晴翔が決まって立ち寄るコースである。

「ねえ、あのガチャガチャ、また、やっていい?一回でいいから。」

「晴翔、前に来た時もやってたよね。またやるの?」

「うん、だってせっかく見た生き物、おうちにも欲しいし。」

「じゃあしょうがないな、一回だけね。」

 文枝は、そしょうがなく付き合っている顔をしつつも、内心では息子がこの程度で満足してくれることに安堵していたのである。舞浜の海に浮かぶネズミの王国に行ったならば、4人家族で3万円以上を抜き出さねばならない。対して、この水族館は、区民ならば入場料が大人350円、小学生は100円であり、多少のお土産を加えても1日1000円足らずで遊べるため、家計をやりくりする母としてこれほどありがたいことはなかった。


「やった!ダイオウグソクムシだって。この子は、確か家に1匹もいなかったから初めてだよ。海の中のダンゴムシって、こんなに大きいんだね...。」

 晴翔は、戦利品を母に自慢しようと懸命に掲げながら、その奇妙な形の生物に、慣れ親しんだ生き物の姿を重ねていた。それは無理もない。ダイオウグソクムシは、この水族館には、当然展示されていないからである。晴翔は、数え切れないほどの足を動かしながら海底をはうように進むその生き物の動きを、頭の中で想像していた。観察が終わると、小さなカバンの中にそれを押し込み、文枝の手をしっかりと握りしめ、水族館を後にした。


「いやあ、今日は大漁だったよ。春先は、活きがいい魚がたくさん取れるね。」

「父さん、それは生簀でとったやつだから年中同じだよ。」

「いいじゃないか、たまには少しくらい父親自慢をさせてくれよ。」

兄の葉月と敏夫は、クーラーボックスの中に収められた魚を指差しながら、狩人としての戦績を、晴翔らに示してみせた。

「このちょっと太ってまだらのような模様が少し入っているのは、ニジマスっていうんだ、晴翔。お母さんは、よく塩焼きにしてくれてるよな。あれがうまいんだ、また。ビールによく合う。今日も一杯ひっかけてきたかったくらいだ。」

「ちょっと、敏夫さん。子どもの前ですよ。第一、車で帰って来るのにお酒を飲まれた日には、うちは一体どんな目で見られるか。」

「いや、冗談だって冗談。ほら、エンジニアって普段は論理だとか客観性だとか、そんなことばっかり考えているから、たまにはこういう冗談を言う頭にもなりたいものさ。」

 父の敏夫は、大手電機メーカーのエンジニアである。機械工学科の陰気なイメージとは裏腹に陽気な性格の持ち主である彼は、会社内でもすこぶる評判が良かった。その二枚目の顔立ちも合間って、事務や経理の女性からも人気が高く、自分より若い子たちから色目を使われる旦那を、文枝は少しばかり妬いていた。しかし、専ら家の中では生真面目で几帳面な文枝の方が力は強く、敏夫は小遣いでビールを引っ掛けては、金の使い方を子どもと一緒になって教えられる有様であった。


「ほら、これ、アユだよ。俺がとったんだ。それも5匹も。」

「え、お兄ちゃん、すごい!お魚って、どうやって取るの?」

「まずここに釣竿があるとするだろ。そこに糸がついてて、そのさきに釣り針っていう鉄でできた針がついているんだ。かぎ針っていって、魚が食いついてきたときに離れないように少し逆に返してある部分があったりする。すごい尖っているから、人間でも刺さると痛いんだ。」

「え、お魚さん、それにささっちゃうの?」

「まあ、エサをつけると、ヒョイっと。いけすの中の魚は、お腹をすかせているから、ちょっとエサを入れるだけで、まさに入れ食い状態さ。」

 兄の葉月は、今年で小学校最後の年であり、中学受験を控え、日々塾と学校と家の往復を繰り返していた。今回の束の間の休みは、母だけでなく葉月にとっても貴重な休みだった。彼は、言葉遣いは少し悪いが、根は素直に育ち、反抗期という反抗期も未だ見られない。父の背を見て育ったような子で、エンジニアの職に憧れ、将来は、自然災害で人が立ち入れなくなった場所に入って救護活動をする、人命救助ロボットの開発をしたいと夢に見ていた。それは、父の計測機器開発とは少し毛色が違う部分もあったが、機械いじりや、ものを分解したり組み立てたりするのが小さな頃から大好きだった彼は、よく父とともにパソコンやスマートフォンのジャンク品を買ってきては、分解し中身を色々と調べていた。目の前にない釣り竿のつくりを詳細に諳んじてみせたのも、彼の父から受け継いだ才能といえよう。

 対して、晴翔は、生き物を観察するのが幼稚園の頃からの楽しみであった。帰り道にアリの巣を見つけると、音もなく静かにしゃがみ込み、黒い小さな働き者たちが右往左往しながらエサを懸命に運んでいく姿を、目を輝かせながら観察していた。


「お魚さん、なんかかわいそう...。ほら、口から血が出ているけど、これってさっきのかごばり、だっけ、それでささっちゃったやつ?」

「かぎ針、な。まあ、俺らが美味しくいただいちゃうんだから、いいっしょ。」

「でも...。」

 普段の食卓では、晴翔の前には、母が丁寧にむいてくれた魚の白身が出されていた。先ほどまで水族館で自分の隣を泳いでいた魚が痛々しい姿でケースに放り込まれているのを目の当たりにし、果たして自分が「これ」を食べて良いものか、幼心ながら逡巡していた。


「今日取ってきたお魚も早く料理しちゃいたいから、おしゃべりはこのくらいにして。二人とも、ほら、勉強。お父さんも、部屋の片付けでしょ。」

「片付けか、腕がなるな。」

「はーい!」

「うん......。」

三者三様に次にこなすべき課題を見据えながら、階段を登りそれぞれの部屋へと戻っていった。

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