クラゲの舞う空に

柚月 智詩

1

「ねえ、お母さん、クラゲは、なんでなかないの?」

 聖沢晴翔は、ふわふわと水槽を漂うクラゲを懸命に指差しながら、ぼうっと水槽を眺める彼の母の目をじっと見て、問いかけた。

「なんでだろうね...。お母さん、考えたこともなかった。晴翔は、面白いことに気づくから、将来は大学の先生になってたりして。」

「大学の先生って、美代子先生よりもすごい?」

「うーん、むずかしいなあ。けど、美代子先生もすごいし、大学の先生もすごいんじゃないかな。先生になるためには、たっくさん勉強しなきゃいけないから。お母さんも小学校の頃の夢は、先生になることだったけど、勉強が大変で諦めちゃった。」

「僕、美代子先生は好きだけど、学校の勉強はきらいだよ。教科書読んでるだけで、なんかつまんないもん。ケンちゃんとかと遊んでる方が、すき。」


 この4月から小学校2年生に上がった晴翔は、彼の母、文枝に連れられ、地元の水族館に来ていた。大人の足でゆっくり見ても30分くらいで見終わってしまう、この小さな寂れた水族館には、人はまばらである。晴翔と文枝の他には、向かいのヒトデとナマコが何匹か入った水槽の前に、白髪に帽子がよく似合っている老人と落ち着いた色の服を着たご婦人、そして少し遠く、とはいっても、大人の足だと5、6歩でついてしまう距離にあるフナやコイがいる長い水槽の前に、水槽に見向きもせず互いの世界の中に入り込んでいる、この寂れた水族館で一際目立つ明るい茶色の髪をしたカップルがいる以外に、人は見当たらない。沖縄の人気水族館など、入るまでに数十分待つこともザラで、入っても人の頭しか見えないこともあると聞くから、同じ水族館でこうも違うものか、と文枝は良くも悪くも感心していた。

 彼女は、近くのA病院で受付事務の仕事をしていた。受付事務といっても、実質は飲食店の接客とさして変わらず、訳もなく言いがかりをつけてくる来院者やその家族に頭を下げ続け、それが済んだかと思えば、右も左もわからず、前もよく見えていないだろうご老人を、内科の診療スペースに送り届ける職務を負わされる。人員不足というのもあり、残業が重なることが多く、平日は、晴翔とその兄の夕食を作って家を出、帰ってくるのは彼らが寝静まった後であることもしばしばであった。

 束の間の休暇が取れた文枝は、自分自身も日頃のストレス発散をしたいという心持ちで、そして、普段構ってやれない子どもへの罪滅ぼしの気持ちで、子どもたちをどこかに遊びに連れて行こうと思ったのである。晴翔の父、敏夫は、兄の葉月とともに近くの川に釣りをしに行っているらしい。正直、川に魚を釣りに行くくらいの方が、この水族館よりもずっと綺麗な魚が見られるのかもな、と彼女は思いつつ、晴翔が水族館に行きたいと必死にせがむのに負け、敏夫が兄の葉月を、文枝が弟の晴翔を、それぞれ分担する形で、休日のレジャーに繰り出したのである。


 晴翔は、相変わらず、クラゲの水槽の前から離れようとしない。江ノ島の水族館よりも水槽もずっと小さく、泳いでいるクラゲも大した数はいないのだが、アイスコーヒーの中に入れるシロップのように、水の中にいるとそのまま溶けてしまいそうなくらい透明なクラゲたちが、水の流れに身を任せつつ、優雅に漂っている。

「1、2、3...、全部で8ひきいる!」

「ほんとだ、8ひきだね。じゃあ、あっちのお魚は6ぴきだったから、足すといくつになる?」

 文枝は、ちょうど1年生の終わり頃に、繰り上がりの足し算をやったという話を聞いていた。勉強嫌いな息子に少し意地悪をしてやりたいという気持ちも込めて、問題を出してみる。

「え、え、うーんと。クラゲが8ひきだから、1、2、3...。そこに、お魚の6を足すから...。あれ、お母さん、手が足りないよ...。うーん...。」

「ぶぶー、答えは14ひきでした。1年生の最後の方にやったんじゃなかったっけ。手で数えるんじゃなくって、まず10のかたまりを作って、それから...。」

 文枝が懇切丁寧に説明を試みようとしたが、晴翔は全く知らぬ存ぜぬといった顔で、説明を聞く気がないようだった。

「算数は、いっちばんいやだ。それよりも、なんか狭くて、かわいそうだよ。もうちょっと広いおうちに、住ませてあげたいなあ。」

「晴翔がいっぱい勉強して、大学の先生になれたら、おっきなクラゲの水槽を買ってあげられるかも。」

「うーん、クラゲのためにがんばりたいけど、やっぱり算数はいやだよ...。」


 晴翔は、母との会話がひとしきり終わると、自分の身長よりもずっと高いところを漂うクラゲを、再び眺めていた。ゆっくりとしたスピードで頭をすぼめたり、広げたりしながら、ふわっ、ふわっと、透明な水の中を気ままに浮き沈みしている。水槽の背景が、ちょうど青空に近い色をしていたのもあり、晴翔は、クラゲが空の上をふわふわ飛んでいるように感じた。

「クラゲって、なんかお空をふわふわ飛んでるみたいだね。ふわふわふわ、って。すごく楽しそう。」

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