第8話 流れ肯定派、否定派、それぞれの信仰

 「流れが存在するかどうか」についての言説はネット上に多々あるが、肯定派の意見にしろ、否定派の意見にしろ、ちょっと複雑に考えすぎているのではないかと思うときがある。

 僕にとってこの問題はとても単純なものだ。



「ルーレットで赤がでる確率はいつでも1/2」

 これだけ。流れについての議論は究極的にはこの一文に集約できると思っている。(なお、これは概念上のルーレットなので親の総取りの緑はないものとする)



 ポイントは麻雀でなく、ルーレットとかサイコロとかできるだけ単純なものを基に考察することだ。そのほうが色眼鏡抜きで流れについて考えることができる。



 ルーレットで赤がでる確率はいつでも1/2。例え赤が1兆回連続で出た後でも、次に赤がでる確率は1/2。

 1/2より上がることはないし、下がることもない。それが全て。

 僕にはどう頭をひねってもそれ以外の結論がでてこないのだが、世の中、そうではないと考える人達がたくさんいる。



 流れを肯定する人達はルーレットの出目とか、麻雀の自摸といった「抽選」について、前もって予想が可能であるとか、人為的に影響を及ぼせるとか本気で信じている。僕の感覚からすると、それは完全に宗教なんだけど、そういった人達のほうがこの世界では多数派なのだ。



 なぜ、流れ論がいつまでたっても解決をみないかというと、流れを信じる、信じないというのは、ただの麻雀等における戦術論にとどまらず、個人の人生観や哲学に密接に関わっている問題だからである。端的に言えば「天道是か非か」という問題だ。



 もう少し詳しく述べると、流れ論というのは「確定した未来」が存在することを前提としている。つまり、因果律の肯定である。因果律という言葉がわかりづらければ運命と言い換えてもよい。



 ルーレットでいえば、「赤が出るか黒が出るかは、回す前にあらかじめ結果が存在する」ということだ。。ゆえにその流れを読んだり、流れを変えることで、有利に勝負を進めることができるというのが流れ論の基本的な立場である。



 逆に僕のような「流れ」を信じていない人間は「確定した未来は存在しない」ことを前提としている(あるいは「仮に因果律が存在したとしても、それは人間には感知できないし、人為的に影響を与えることはできない。つまり無いのと同じ」という考え方)。赤が出るも黒がでるも、確率は1/2で、どっちに結果が確定するかは事前には決まっていないという立場だ。



 「流れ」を否定することは、単に麻雀の戦術論としての流れを否定するにはとどまらず、「天道」とか「人間を超える大いなる者の意志」とかも否定するということになる。なぜなら「流れ」がないことを確信するということは、予め定まった運命は存在しないことを確信することにほかならないためである。



 上記の因果律(運命)についての認識の違いは、そのまま個々人の人格形成の基底を成している人生観、宗教観の差異であるため、右翼・左翼とか、選択的夫婦別姓に賛成・反対といった、表層に現れる思想の差よりはるかに根深い。



 また、このことは流れ肯定派と否定派は真っ二つに分断された両端であり、中間的な立場が存在しないということも意味する。

 例えば、貧富の差であれば、一概に完全な金持ちと完全な貧乏人との二者に分かれるものではなく、持っている富による立場の差、つまりグラデーションがある。

 しかし、流れの問題は純粋な信仰の問題であり、「あらかじめ決められた未来」があるかを、信じる・信じないの二者択一しかない。

 「信じる」「信じない」がお互いの立場の相違点となる問題については、そのどちらかの陣営に入るしかなく、「ちょっとだけ信じている」とか「ちょっとだけ疑っている」といった中道的な立場は基本的にはありえない。また、「信じる」「信じない」のどちらの陣営にも所属しないというノンポリ的な立場も存在し得ない。


(例えば、サンタクロースを信じない人間は、その存在をまったく感じられないから、その存在を信じていないのであって、「30%ぐらいは信じてる」なんてことはありえない。逆にサンタを信じている子供はまったく疑っていないからこそ信じている状態なのであって、「30%くらいは疑っている」なんてことはない。

 サンタの存在を疑いだした中途の段階で「ちょっとだけ疑っている」状態になるではないか、との指摘があろうが、それは「白あるいは黒」のどちらを信じるかの葛藤が生じているだけであって、「グレー」を信じているわけではない。「サンタクロース」を「恋人の浮気」に変えて考えてみればわかりやすいかもしれない)


 もし、流れについて、否定派から肯定派、あるいは肯定派から否定派への転向が起きた場合でも、すっぱり信じるようになるか、すっぱり信じないことになるかであって、中間はありえない。経済的な立場と違って、ちょっと金持ちになる、とかちょっと貧乏になるという変化は存在しない。


 もっとも、流れを信じるかどうかは、コロコロと意見が変わるようなものではなく、一生を通じてほぼ一定であり、仮に転向があるとしても、肯定派から否定派への一回限りであろう。それこそ、一度、サンタクロースを信じなくなった大人が、もう一度、サンタクロースを信じるようになったりはしないようなものだ。



 貧富の差であれば、富を再配分するといった方策で問題の緩和を図ることができるし、民族的な対立の場合もたいていは利権とか相対的な社会的地位の差による嫉妬が背景にあるので、解決ないし緩和は可能である。

 しかし、流れの認識については、完全なる信仰上の問題であり、上記のとおり中間点が存在しないので、妥協点が探ることが構造的に不可能である。また、立場が極端にしか存在せず基本的に変動がないということは、「相手の立場になって考える」ことが難しいということでもある。

 一種、流れ肯定派と否定派は相手が絶滅するか自分が絶滅するかの最終戦争以外にない、不倶戴天の敵なのである。



 六面体のサイコロを振って任意の目が出る確率は1/6。

 生まれてこの方、虫も殺したことがなく、毎日ボランティア活動に精を出しながら、収入は全て孤児院に寄付している童貞がサイを振っても1/6。

 犯した少女を殺して埋めた男が、お地蔵さんに小便かけながらサイを振っても1/6。

 それが数学的な帰結だし、それで別に何の問題もないと思うが、それでは駄目だという人が世の中にはたくさんいる。



 人間に心がある限り、流れ論が決着することはないのかもしれない。

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流れについての考察 @titeto

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