5 マツール島 2日目 ⑦

 砂浜のベースキャンプでは、シンゴが朝食のトーストにかぶりついていた。先ほど、胃の内容物はすべて吐き出してしまったので、二日酔いもすっかり収まっていた。そのためか、霧消に腹が減っていた。もう、かなり湿気っぽくなってふにゃふにゃとした歯ごたえのないパンは美味くはなかったが、腹が減っているので、どんなものでもよかった。手づかみで、卵と肉もむさぼるように食った。肉は冷えてしまっても、それなりにうまかった。

 彼は自分の分も食べ終わると、涼香が手をつけなかった分にも手を出して、ムシャムシャとほおばった。

 まだ、2人分残っていたが、さすがにそんなには食えない。2人分は残しておいて、レイが戻ってきたら、食わせてやるんだ。きっと腹をすかせているに違いない。


 シンゴは立ち上がり、涼香たちが向かっていった森の方をみた。ついで、一回りぐるりと回転し、山のほうから海のほうへ視線を移した。どこを見てもレイが戻ってくるような気配はなかった。彼は、海のほうへ足を踏み入れ、先ほど、血まみれの肉片が浮いていた岩場の方を見た。


 あれは、レイじゃないよな・・。絶対、レイなわけがない・・。

 シンゴはそう言い聞かせたが、なぜか、あの死体とレイはなにかしら関係があるのではないか、と、嫌な予感を抱かずにはおれなかった・・。


 思いにふける彼の背後、テントの方に、何者かの影がさっと動いた。

 海のほうのに目をやっていたシンゴは、ちょっと離れていたせいもあってか、その影に気づく様子もない。


 *******************************


 ナホはすっかり眠りについていた。

 何度か目を覚ますが、ちょっと目を閉じると、自然と寝息をたてて意識を失っていた。しかし、またすぐに目を覚ましてしまう。寝ている時間は結構経っているのかと、時計で確認するが、1時間も寝ていないようだ。寝てはすぐ目を覚ます。そんな繰り返しが続いていた。やはり疲れていたのと、ショックで眠りが浅いようだ。

 姉さんが「残ろうか」といってくれたとき、遠慮しないで残ってもらえばよかった。そうしたら、誰もいない中、姉さんとずっと愛し合えたかもしれないのに・・。

 でも、姉さんに悪いし、何よりも、自分の体が今は異常なくらい動かなかった。もっとよく寝て、明日には姉さんと行動をともにしよう・・。

 そうして、ナホはまた目を閉じた。


 ガサッ!!


 何か物音がする。すっかり眠りについていたナホだったが、ちょっとした物音でまた目を覚ましてしまった。今度はあまり充実した睡眠をしたという実感はない。きっと、さっき目を覚ました時間からあまり経っていないのだろう・・。


 ところで、何の物音だ?

 いや、物音だけではない・・。

 この、鼻をつく匂いは何なのだ・・。

 誰かが・・。誰かの気配がする・・。

 しかも、私のすぐ、目の前・・。

 何者かが、私の顔を覗き込んでいるのが、気配で分かる・・。

 ヒューッ、ヒューッ

 少年の声のような呼吸音・・。

 ナホは、恐怖で身震いした・・。とても、凝視することはできない。

 自分の顔を覗き込む何かを確認しようと、薄目を開けた。


 !!!


 恐怖でたまらない・・。

 自分の顔の目の前に、ヤツの顔があった。

 ヒューヒュー呼吸してくるのは口か?ものすごい口臭だ。血なまぐさいにおい?。何かの肉のにおい?焼いたパンのようなにおい・・。

 そして、体からは、雨に濡れた家畜が放つにおい・・。獣のにおいだ・・。

 やつはナホに強い興味を抱いているようだ・・。興味?いや・・、食欲・・・?


 良く見えるよう、ナホは、もう少し目をはっきり開けてみた。


 赤茶けた縮れ毛に全身を覆われているようだが、人間のようだ・・。

 目も、鼻も、口もある・・。顔じゅう、ひげに覆われているようなその顔だが、老人のそれではない、顔はむしろ若い者のような感じがする。

 背格好、年齢の感じから見て、あのユーチューバーと同じくらいか・・。


 ヤツは、ナホの顔に自分の顔を更に接近させた。やつの目がナホの目を凝視している。だが、ヤツは、ナホが眠っていると思っているようだ。薄目を開けていることに気がついていない。ヤツのぎょろりとした目・・。化け物の目・・。だが、意外にそいつの瞳は、青く美しく、吸い込まれてしまうようだ。まるでカラーコンタクトでもはめているのかと思ってしまうほどに美しい。化け物にはそぐわない瞳。

 ヤツは、自分の口を、レイの口に近づけると、ゆっくりと、舌を彼女の唇に這わせた。それとともに、やつの、ヒューヒュー!という呼吸音は、大きく、激しくなっている。

 興奮しているのか?うまそうな食事を目の前にして、舌なめずりか??


 いや、こいつは、私に性的欲求をいだいているのだ!!

 こいつはオスだ!!


 不意に怒りがこみ上げてくる。汚らわしいオスが、私の身体に触れ、唇を奪おうとしている。


 そのとき、ハッと何かに気づいたヤツは、驚くくらいに音も立てず、すばやくザザッとどこかに隠れた。どこに隠れたのか!?分からない・。でもそれを確かめるために目を開けることも、身体を起こすこともできなかった。恐怖に体が硬直し、動かない・・。


 どれくらいの時間が経ったのか・・。

 自分があまりの恐怖で体が動かないせいだろうか。何時間も経っているような気がする・・。実際は数分程度なのだろうが・・。


 姉さん・・。助けて・・。

 なぜか、強烈に、眠気が襲ってきた・・。


       *************************


 シンゴは、戻ってこないレイのことをしばし考えるのをやめ、テントのほうに戻ってきた。


・・・!?


 ベースキャンプの焚火の跡を通り過ぎたとき、ふと、彼は何かに気がついた。何かはよくわからないが、ついさっきと何か、景色が違う。何だ?なにが違うのだ?

 彼はついさっきまで、自分がパンを食べていたところあたりを見回した。


 無い!トースト、ベーコンエッグ!二人分・・。

 食べ物は食い散らかされて、それが乗っていた皿が、砂浜の上へ落ちている。

 どうなってるんだ?レイが帰ってきたのか!?それとも、あのユーチューバーたちか?それとも旅行屋の姉ちゃん!?だが、見回す限り、自分のほかに誰かがそこにいる気配はなかった。


「レイ!!レイか!?」


 声をかけるが返事が無い。

 あまりに静かだ・・。人の気配が一切ない。しかし、目の前には、何者かに食事が食い散らかされた跡が・・。


 昨日のけが人、今朝の動物の内臓、行方が分からないレイ・・・。

 恐怖がシンゴの身体を突き抜ける・・。

 本当に、何か得体の知れない怪物がいるのかもしれない・・・。

 ひょっとすると、今、すぐ近くに・・。

 確か、怪力の、ばかでかい化け物といっていたようだが・・。

 そんな化け物が、自分の気配を消して、すぐ近くに潜むことなんてできるんだろうか?

 武器は!?武器・・・。

 しかし、手近には武器らしきものは見当たらない。

 仕方が無い。薪用に切った木がある。

 できるだけ先がとがった、太めで長い木を手に取り、ゆっくりとテントのほうへ向かう。まずは、男性用のテントだ・・。


 シンゴは男性用のテントに近づくと、ゆっくりとテントの入り口に手をかけ、そうして勢いよくあけた。

 しかし、そこには誰もいる気配がない。男性陣は、自分以外は出かけているのだから、誰もいないのは当然だが、それでも、よく確認したが、人のいる気配がまったくなかったので一安心した。


 テントから出るときも、細心の注意を払って出た。

 だが、テントの外にも何もいない。ほっとして、次は女性用のテントのほうへと歩みを進めた。ひょとすると、レイが戻ってきているかもしれない。そういえば、女性のテントには、昨日、怪我をした女子がひとり休んでいるんだった。女性用のテントでもあるし、少なくとも一人はテント内にいるから気をつけて入るとしよう。


 シンゴは男性用のテントに入ったときのような、がさつな方法ではなく、テントの

 入り口にゆっくりと手をかけると、静かに、静かにあけた。

 やはり、誰もいる気配は無い。

 ひとり、ここに寝ている女子をのぞいては・・。

 寝顔がキュートだ。とても可愛い。

 シンゴは思った。


       **********************


 ハッ!!


 ナホは目を覚ました・・。

 どれくらい寝てしまったのか?


 そうだ!さっき例の化け物が私の目の前にいたのだ。

 ヤツは人間のようだった。しかもオスだ・・。

 恐怖に怯えながら、なんで私は寝てしまったんだ・・。

 違う、恐怖のあまり気を失ってしまったんだ・・。そうに違いない・・。

 しかし、ヤツはどこにいったんだ・・。

 私を襲うつもりなら、とっくに襲ってきてもいい・・。

 !?

 違う!ヤツは何かに怯えて身を隠したんだ・・。

 もしかして姉さんが帰ってきたの!? 助けて!助けてほしい・・。


 意識の戻ったナホは、またいろいろと考えをめぐらし始めた。今、テントの中はどうなっているのか?外はどうなっているのか?ヤツは今どこにいるのか??とにかく、今は、薄目を開けて、様子を探ろう・・。


 ナホは薄目を開けようと、まぶたに全身系を集中して、ゆっくり、ゆっくり力を入れて、あけようとする。しかし、瞼が開かない・・。先ほど、恐怖のあまり流した涙が固まったのか、目やにがひどく固まって、彼女の瞼をふさいでいる。どうしよう、どうしたらいいの!?


 ガサガサッ!!


 そのとき、また音がした・・。

 ミシッ・・、ミシッ・・!

 明らかに自分に向かってくる足音がする・・。


 ああっ、姉さん!助けて!!

 また、あの汚いオスの生き物に身体をまさぐられる屈辱を味わうの!?

 それなら、一思いに殺してくれたほうがよほどいい・・。殺せ!殺してくれ!!


 ズズズズズズツ!


 ヤツが自分の目の前にかがんだ!

 さっきと同じだ・・。どうしよう・・どうしよう・・!!


 ナホの目の前にかがんだそいつは、彼女の顔に、愛おしそうに触れた・・。

 その手は、思ったよりも優しい・・。

 だが、オスが触れている、そう思うだけで、ナホにとっては吐き気をもよおす存在でしかない。


 ああっ、この手が姉さんだったらどれだけいいのに・・。


 その手はやがて、彼女の胸の方へ這われた。

 人間だろうが、獣だろうが、オスはいやらしく、汚らわしい!

 そして、その手は、服の上から、明らかにナホの胸に触れている。最初は優しく、反応を確かめるかのように・・。そうして、しだいに胸に触る手に力が入ると、胸を強くまさぐりだしてきた・・。


 もう、このまま目を覚まして、殺されてしまおう・・。この身体は姉さんだけに捧げるんだ・・。化け物め!!


 でもっ、でも、死ぬならば、どうせ死ぬならば、せめて姉さんに抱かれてから死にたい。もう一度、姉さんと愛し合ってから・・。


 涼香と愛し合うことに、かすかに生きる希望を見出したナホは、なんとか、ここから脱出するすべが無いかと、この目の前にいるそいつに気づかれないように、自分の手元を探った。


 !?


 あった!!


 ナホの手に、何か触れた。棒状のものだ。ペンか?それとも何かの木の枝か?ものが何かは分からないが、硬さと、先端の鋭さは確認できた。これで、こいつを刺せば、殺せなくとも、ひるませて、その間に逃げることはできるだろう・・。

 自分の体の自由が利けばの話だが・・。


 ナホは足の辺りに神経を集中して、足が動きそうか試してみる。足の指を上下させると、はっきり神経がとおり、動く。太ももの筋肉も動かしてみる。筋肉からひざにかけて、筋も思ったように動くようだ。


 いける!これなら逃げ切れる。

 あとは、この棒を、やつのどこに刺すか?乳房に触れている手?にくい手?しかし、今その手はナホの乳房をまさぐっている。目やにが激しく、目が開かない状態では、誤って自身の胸に刺してしまう危険がある。そうなっては元も子もない。


 そいつは今ナホの体の上にいる。きっと覆いかぶさって私を犯そうとしているに違いない。一か八か、正面にこの棒を振り下ろそう。うまくいけば、化け物の心臓をつけるかもしれない。


 ナホは棒を持つ手に、力をいれて握り締めた。

 そうして、その手を一気に引き上げると、そいつに棒を振り上げ、そして刺した。


 ウゲェェェェェェェェェェェェ!!!!


 そいつは激しい叫び声をあげた。

 刺した!確かに手ごたえがあった。勢いで瞼がひらいた。大量の目やにとタンパクで目のレンズがぼやけているせいか、視界ははっきりしない。しかし、ナホは一気に身体を起こすと、自分の上にのっかっていたそいつを蹴り飛ばした。そいつは首筋を押さえてひっくり帰ったようだ。首だ!首をやったのだ!!そいつが押さえている首筋からは、血が噴水のように飛び出しているようだ。目がぼけているが、そいつの陰から赤いしぶきが、まるで鯨の潮吹きのようにあふれているのが分かる。


 ナホは叫びながら一目散にテントの外に出た。


 ようやく、視界が戻ってきた。外の明るい太陽光がまぶしい。

 ふとテントに目をやると、血しぶきがテントを汚しているのがわかった。


 うぎゃやややや!!げぇぇぇ!!ヤメッ!!ヤメェェェェェ!!


 言葉にもならない断末魔の叫び。テントが大きくガサゴソ動く。

 あいつは、相当苦しみ、もがいているようだ。


 ジュブッ!!ジュブッ!!


 肉きり包丁で肉をたたききっているような、鈍い音がテントから響く。

 あいつに相当大きなダメージを食らわせたらしい。うまくやったら、殺せているかもしれない!!


 その時だった。


 ビリッ!!ビリッ!!


 音を立てて、テントが破れる。いや、何かで、テントを切り裂いている。ビリビリに破られ、もはや、テントの体をなしていない。あの化け物は最後の断末魔を挙げながら、怒り狂っているのか・・。化け物の最後を拝む必要は無い。万が一、死にぞこないの化け物に追いかけられるとも限らない。ここはもっと遠くへ逃げるのが先決だろう・・。


 !?


 ナホは目を見開いた。

 テントから、何か巨大な何かが、ナホのほうに向け飛んできた。

 黒い影!?まさか、あの化け物がジャンプして、飛んできたのか!?

 その巨大な何かは、ナホの目の前に、ぐちゃりっ、と鈍い音をたて落ちてきた。

 それは死体だった。首から上が無い。黒のタンクトップを着た、男の死体。


 そして、破けたテントから、もう一体、何かがゆっくり立ち上がった、

 その何かは、赤茶けた毛にうっすら覆われた、無駄な肉が一切無い、若い全裸の、もう一人の男。そいつは右手にマチェーテのような刃物を、左手には、血に染まった何かを握っていた。それは、男の頭だった・・。この頭の無い死体のものだ・・。しかもその頭の首の部分には、木の枝が刺さっている!?


 私が殺したのは、あの化け物ではない・・。

 このタンクトップの男・・。そうだ、一緒にツアーに参加し、常に女とけんかをしていた、あのチンピラ風情の男だった・・。私は違う人を殺してしまったのか!?いや、刺したが、殺したのは、あの化け物だ・・。それに、あの男は、私に覆いかぶさり、私を犯そうとした・・。だから、だから刺したのだ・・。


 サッ!サッ!


 化け物は首と刃物を握り締めながら、ナホのもとへ、すばやくやってきた。

 そうして、仁王立ちに立ち尽くしながら、ナホを、上からなめるように見定めた。

 化け物の目はいやらしく光った。その、歯がボロボロの口から、汚らしい舌が舌なめずりをしている。そして、何より、化け物の股間が、異様に膨らんでいる。ヤツの忌むべき腕のように太く、グロテスクで直立に起っているペニスは、明らかにナホに欲情している。


 ナホは恐怖以上に怒りを覚えた。

 こいつは、このオスは私を品定めしている!屈辱だ!!


 ナホの怒りは沸点に達すると、突然、手近にあった岩をつかみ、ヤツの股間に投げつけた。岩の的は、巨大でいきり起っているので、狙いやすかった。岩はヤツの股間に命中した。


 ウギィィィィィ!!!!


 ヤツは股間をおさえ、刃物も首も落とすと、股間を押さえて苦しみだした。古今東西、どんな生き物も、オスの弱点は股間だ。そこをやられて、どれだけつらいのか、そんなことはわからない。しかし、この化け物の苦しみようを見ていれば、はっきり分かった。


 ヤツは歯を食いしばりながら苦しんだ・・。今まで味わったことの無い激痛にもだえ苦しんだ。歯を食いしばりすぎ、歯茎や唇は切れて血が流れ出る。不ぞろいな歯も、何本か歯茎から抜けて、浜に落ちた。

 ヤツはものすごい憎悪の目でナホをにらみつけた。身体を起こして、ナホを襲うと試みるが、痛みに体が自由にならない。ナホはもう一度、別の、先ほどよりもう少し大きな岩を持ち上げると、苦しむ、ヤツに近づいた。


 脳天にお見舞いしてやる!!


 その時、ヤツは飛び上がり、ナホに飛び掛ると、ナホの腹に自分の広げた手を当て、思い切り突き飛ばした。ナホは岩を持ちながら、砂浜に強く背中を打ちつけた。

 目が回る・・・。

 すると、ヤツが苦しみ腹を押さえながらも立ち上がると、おとした刃物をひろい、腰にくくりつけた紐にひっかけた。そして、シンゴの死体の足をを持ち上げると、そのまま引っ張って森の中に消えていった。死体は切断された首から、まだ大量の血を流している。


 ナホは呆然と倒れていたが、

 次第に背中かからヅキヅキと激しい鈍痛に襲われたかと思うと、急に気持ち悪くなり、砂浜に嘔吐した。


 浜には、首に棒が刺さった、すでに血の気が失せ、不気味なほどに白い色になったシンゴの生首が落ちていた。まるで、首から下は砂浜に埋められているのではないかと思わせるほど、きれいに、生首は浜の上にさらし首にされていた。


 森に向かって、白い砂浜に、一筋の赤いラインが引かれた。


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