プロローグ 2 

 どれくらい意識を失っていたのだろうか・・。


 この船のオーナーである医師は、床に突っ伏して倒れこんでいた。顔面を激しく床に強打したせいか、鼻血を流し、口からも血を流していた。前歯が数本折れ、歯茎から出血していた。かけていた眼鏡も、フレームがひん曲がり、レンズが少し割れている。幸い、割れたレンズが目に刺さるなどの被害を受けることはなかった。だが、眼鏡は使い物にならない。極度の近眼である彼は、今、船が、家族が、ほかのものたちがどうなっているのか、まったく分からない状態だった。


 どこかにほかの眼鏡があったはずだ・・。


 医師は床に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

 眼鏡をしていないせいか、立ち上がると、貧血のようにくらっとめまいがした。同時に、後頭部に激しい痛みを覚えた。医師は自分の後頭部に手をやり、痛みを抑えようとしたが、どろっと生暖かいものが手を濡らしたので、ぎょっとして、手のひらを自分の目元に近づけて凝視した。驚いたことに、手にはべっとりと血がついていた。顔面だけでなく、後頭部も激しい怪我をおっているらしい。そう思うと、後頭部から脈拍が激しく感じられるようになり、それと呼応してズキン!ズキン!とした激しい痛みが彼を襲ってきた。


 眼鏡が無く、ただでさえ視界がほとんどさえぎられているのに、船の明かりも消え、夜の暗闇で、まったく状況が分からない。


 後頭部の痛みに耐えながら、手探りで壁に触ると、恐る恐る壁に沿って進みだす。痛みとクラクラするめまいに襲われながらも、なんとか踏ん張り、ゆっくりと歩みを進める。


「おい!誰か!!誰かいないのか!?」


 医師は大声で叫んだ。いや、自分では大声を上げたつもりでいるが、口の中の出血が喉の奥にまで入り込んでいて、実際はそんなに大きな声が出なかった。おまけに歯が折れて、歯茎が腫れているせいで、言葉も不明瞭だ。


 誰の返事もない。

 驚くほど静かだ。


 サァーッ、サァーッ


 浜に波が上がってくるような、優しい音がするものの、ほかはとにかく静かだ。静か過ぎる。妻は・・?息子の鳴き声もしない・・?船員達は・・?

 目が見えなくとも、気配くらいは感じるものだが、それがまったく感じられない・・。


 一体私の船に何が起こったというんだ・・・。


 嵐・・・

 座礁・・・


 ・・・・・


 何かを、うっすら思い出してきたその時だった・・。


 ジャリリッ!!ジャリリッ!!


 金属音・・。


 金属の何かが床を引きずっている。そして、その金属音とともに、何かが歩いている足音がする。耳をそばだてて聞くと、足音の主は、何か、金属を引きずって歩いている。


 鎖・・


 そうだ・・。鎖を引きずりながら、何者かが歩いている・・。


 まさか・・!?


 そう思ったとき、医師は何かにつまづいてまた激しく床に倒れた。しかし、医師の体は、硬い床に打ち付けられたのではなく、何かもう少し弾力があり、少しやわらかく、大きなものの上にのっかった。


 そのものに手を触れる。

 恐る恐る手を触れる。


 ひえっ!!


 医師はびっくりして手を引っ込めた。今触っているもの。明らかに人間の体だ・・。しかも相当大きくてがっちりしている、おそらく、男性の背中であろう・・。かなり恰幅がよく、肥満体のように感じられた。うつ伏せになって倒れているようだが、生きているのか死んでいるのかはまったく分からない。しかし、呼吸しているようには見受けられない。


 この男は何者なのだ!?船員にこんなに太っていた男は見たことがない・・。


 そう考えながら、再び男の背中に手をあて、慎重に、上方へ、頭部の方へと手を這わせていく。パンパンに肉の張った肩口を確認し、首の方へ手をやり、そこからやがて喉の方へ。首にかなりしわが寄っている人物・・。こんな男、本当に心当たりが無い・・。更に触ってゆくと、男の喉仏が触れる・・。


 喉仏・・??

 んっ!?


 不審に思った医師は、その人物の首筋から、うなじのの部分に手を這わせた。


 が、そこにはうなじの筋ではなく、でこぼこした、硬いものがいくつも不ぞろいに飛び出たくぼみがあったのだ。想像すらしていなかった事態に、医師は驚愕しながら手を引っ込めた。


 いくつもの硬いもの・・。見えないが、触ればよく分かった。とても目を近づけて確認する気など起きない・・。硬いものは、何本もあった。本当なら、規則正しく、きれいに並んでいるもののはずだが、そこを思い切り殴られたのか、私と同じように床に打ちつけられたせいなのか、ほとんどが、その支えられていたものから折れて、ぐちゃぐちゃな並びになっていた。その硬いものとは、この倒れている人物の歯だ。しかも、この人物はうつ伏せに倒れているはずなのに、歯のあるくぼみ、つまり口は床に伏せられておらず、まっすぐ上を向いていた。うつ伏せになっていれば、本来触れられることの無い、喉仏も天を向いている。つまり、この人物は、顔をめちゃくちゃにされた挙句、首をねじられしまったのだ。当然、すでに死んでいる。


 奴だ!奴が、最悪の状況で解き放たれてしまった!!


 彼は戦慄した。


 ジャリリッ!ジャリリッ!


 鎖を引きずる音はなおも響いている。

 幸い、医師のいる位置から、音はどんどん離れている。本来なら、責任をもって何とかしなければならない・・。しかし、視力を失われ、負傷し、恐怖に打ち震えている今の自分には到底、何もすることはできない・・。

 このまま、身を潜めて、奴が去ってゆくのを待とう・・。


 ここは今どこなのか、さっぱり見当がつかないが、どこかの島に連なる岩礁であることは確かなようだ。奴が解き放たれどこかに上陸したとして、もう、そんなことは知ったことか・・。私のせいではない・・。運が悪かった、そう思ってくれ・・。


 ズキン!ズキン!と激しく襲ってくる痛みに耐えながら医師はそう思っていた。しかし、その思いとは裏腹に、体は自然に、許しを請うかのように、祈るように両手を握り合い、まるで懺悔をしているかのような態勢になり、激しい嗚咽とともに涙を流した。


 その時、


 ウキャッキャ!


 笑い声がした。子どもの・・。幼子の、笑い声!


 息子が!?息子がまだ生きている!!

 この暗闇の中、誰もいない中、息子がおびえることも無く、明るい声で無邪気に笑っている。よかった!まだ生きいていた!!大切な息子!いとしい息子!!待ってくれ!今助けに行く!!


 しかし、その笑い声に反応したのは医師だけではなかった。

 床を引きずっている金属音が、その笑い声に反応して、ぴたりと止まった・・。


 まずい!!息子が気づかれた!!


 金属音が止まったのはほんの一瞬だった。

 しかし、医師には何十秒もの間金属音が止まっているように感じられた。医師の心臓の鼓動は激しく脈打ち、あまりの静寂に、その鼓動が、奴に聞こえてしまうのではないかという恐怖も覚えた。


 ウキャッキャ!


 また子どもが笑った。すると


 ズリリリリリリリリリリ!!!!


 強烈ですばやい金属音と、激しく床を踏み鳴らす音が、息子の笑い声のする方へ向かっているのが分かった。


 息子が!!息子が殺される!!!


 痛みと恐怖で立ち上がることさえできなかったはずの医師はどこからその勇気が沸いてきたのか分からないが、息子の笑い声の方向へ走り出した。また何かにつまづいて倒れたが、それも多分、誰かの屍であることは想像できた。だが、今はもう、そんなことはどうでもよい。とにかく息子を、息子を助け出さねば・・。奴よりはやく、息子のもとにたどり着いて・・・。


 しかしそれは到底無理な話だった。視力を奪われた上、足元は予想以上に死体が転がっているようで、二足歩行では何度もつまづいて進むことができない。医師は両手も使いながら這いつつ、息子のもとへ急いだ・・。


 死臭漂う屍の上を何体も乗り越え、自分の血なのか、他人の血なのかわからないほど血まみれ、体液まみれになりながら、医師はある部屋へたどり着いた。部屋にたどり着いたとき、四つん這いの医師の左手が、また屍から出た血液と思われる液体にとられ、つるりとすべり、ずでんとひっくり返った。


 キャッキャ!


 目の前で息子の笑い声がする。

 私がひっくり返ったのが面白くて笑っているのか?

 なんてかわいい笑い声なんだ・・。


 医師は倒れたまま顔を見上げて、息子の笑い声のする方を見た。しかし、その笑い声のする方向は、彼の頭上のはるか上だった。床に仰向けにひっくり返っている医師の、2メートル近くは上の方で息子が笑っているのが感じられた。


 視界がぼけていてもはっきり分かった。

 息子は、奴に抱えあげられている。奴は息子を、奴の頭上よりはるか上に掲げている。ならば2メートルどころではない。

 息子が、このまま床にまっさかさまに突き落とされるのか、それとも、したたか壁に投げつけられるのか、はたまた、首をへし折り、その肉をむさぼり食われるのか・・。

 奴ならどんな残虐なことをしでかすか・・

 それを思っただけで、医師は激しい憤りを覚え、言葉にならない、強烈な叫び声をあげて立ち上がり、奴を威嚇した。


 奴は息子を左手でのみ抱え、右手で医師の頭をつかんだ。医師の顔面いっぱいが奴の手のひらに納まった。奴は医師の目玉が飛び出してしまうのではないかと思われるほど激しい握力で医師の頭を握ると、したたか床に投げつけた・・。


 グギッ!という鈍い音とともに、自分の首がねじれたと、医師は感じ取った。

 頭をひどく打ち付けられ、耳元、いや、脳内にキーン!という強烈な音さのような耳鳴りが響いていた。

 奴に頭部を握りつぶされそうになったせいか、目玉が通常の位置よりも少し前に飛び出してしまったような感じもする・・。と、何故か、視力が戻ったような気がした。

 奴が、また息子を両手で抱え、2メートルを有に超える高さまで掲げているのがはっきり分かった・・。何も知らない息子は、まだ無邪気に笑っている・・。


 やめてくれ・・・。やめてくれ・・。息子はたすけて・・


 やがて意識が薄れ、息子を掲げる奴の姿を凝視する力が無くなった医師の目玉は、ゆっくりと床の方へ倒れた。

 薄れてゆく意識の中、最後に医師の目玉が焼き付けたものは


 衣服を剥ぎ取られ、胸をあらわにされた状態で口から血を流し倒れていた、妻の屍だった。


 肌の色が、白く、美しかった・・。

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