椎名ゆり その3




 居心地のいい空間とは抜けるタイミングを逸してしまうもので、結局そのまま休日の半日を、そのままタキモトの家で過ごした。


 その間、私はタキモトのギターを弾いて作曲などをし、タキモトは読書したり掃除や洗濯をしたりしていたので、ただ二人でぐだぐだと無為に過ごしていたわけではない。

 それでもこのまま長居し続けるのは非生産的であるとどちらともなく思い始め、解散の運びとなった。


 タキモトは友人の家へ行くと言って新宿駅の方へ向かい、私は夕方からの予定に備えて一旦帰宅する。

 時間は真昼、本格的に活動を始めた夏の太陽の下では、走って帰ろうという気力はさすがの私も起こらない。

 セミたちの合唱をBGMに、疲れないペースで歩く。



「あ……そういえば……」

 帰宅し、外出用の私服に着替えたところで、今日の私は朝からラフな運動着のままであることに気がついた。

 いかに相手が気心の知れたタキモト相手とはいえ、確かにだらしがないと言われても仕方のないことかもしれなかった。


 色々と鈍い私でもそのぐらいの機微はわかる。

 鈍いという自覚もある。

 ただ、それを即座に実行に移せない程度にはやはり鈍い。




 音楽ばかりの人生は、私にとっては自然なもので、それによって一般人としての色々なものが犠牲になっていることについては特に負い目も感じていない。


 が、私の生き方とはそういう不出来な部分が生まれてしまうものなのだという理解はするようになった。

 するべきだと思った。

 どうせ適合できないなら、理解の上で合わせない方がまだ潔いと思ったからだ。


 高校生の頃の私などは、もっと独善的で、自分の音楽以外には怠惰な部分を強引な理論で正当化しようとしていたところもあった。

 音楽は絶対的に正しくて、価値があって、それに殉じている私は誰よりも正しいのだ、と。


 ……恐ろしいことを考えている小娘だった、と今では思う。

 ちょっと恥ずかしい。


 タキモトやその他友人らが矯正してくれたからよかったものの、あのままの姿勢で音楽を続けていたら、周囲との軋轢からいずれ立ちゆかなくなっていただろう。無知とは恐ろしい。

 持つべきものは常識的な友人である。


 おかげさまで今の私は、色々な人に呆れ顔をされつつも、なんとかはみ出さない程度の常識を踏まえながら、大好きな音楽に没頭できていると思う。



「よし」と私は姿見に映った自分の全身を確認して頷いた。

 星型のマークがプリントされたTシャツ。デニム地のジーンズ。

 アクセサリーの類は付けない。左手の腕時計ぐらいだ。

 それだってファッショナブルなものじゃなく、少し前にタキモトが買ってくれたGショックだけど。

 なんともシンプルな服装。

 だが、動きやすく、外着としても違和感ない。このぐらいの飾り気の無さが私にはちょうどいい。


 私ぐらいの年代にはゴテゴテと着飾る女の子も多いようで、大学などではたまに驚くようなのを見かけたりもする。

 音楽の世界にはヴィジュアル系という男女とも派手に着飾って厚く化粧をするような一派があるが、そういうわけでもなかろうに。


 私はおしゃれが苦手だ。

 身だしなみは大切だと思うからやらないことはないが、「最低限で良いのでは?」と思ってしまう。

 ただ派手さはなくともそれなりに気を使っている風の同性の友人を見ていると、こんな私でも危機感を覚えなくもない。


 制服さえ着ていれば良かった高校生の頃は気楽だった。

 画一化された服だから、多少のセンスは見え隠れしても、根本的な服飾への無頓着さが露呈することもなかった。

 制服をおしゃれに着こなすにはそれこそ相当のセンスが求められるのかもしれないが、そこまでの熱意があったのは一部の人間だけだったろうし。



 ……とまあ、過去への振り返り方さえ言い訳臭い私は、本当にその辺りを息苦しく感じているのだろう。

 こうして見れば自室の内装だって家具やインテリアには凝った要素が全く見られないし。


 強いて言うなら楽器と機材だけはいっぱいある。

 どこまでいっても私だ。何万円もする服を一着買うぐらいなら、そのお金で新しいエフェクターとかマイクを買うか、そのお金を全てギターの弦に替えてしまいたいとか本気で考えているあたり。


 お金は消耗する。ギターの弦も消耗する。

 だったら後者が手元にある方が、精神衛生上よろしいと思うのが私である。

 資産家が手持ちの現金を金の塊と交換しておくような感覚だ。



 胡乱な思考は程々にして部屋を出た。

 階段を降りて玄関の方へ向かおうとして、何か飲んで行こうと思い居間へ入った。

 さっき帰ってきた時にはいたはずだが、両親も兄弟も出かけているらしくいない。

 私は冷蔵庫から作り置きしてある麦茶を取り出して、コップ一杯だけそれを飲んでから部屋を出る。



「いってきまーす!」

 一応大声で言ったが反応はなし。本当に不在のようだ。


 私の家は両親二人と、兄と弟がそれぞれ一人ずつの五人家族だ。

 私は雰囲気が男の子っぽいとよく言われるが、それはこの家族構成の男女比に影響されたからだと言っていいだろう。

 唯一の同性である母親ですら私のことを兄弟二人と一緒くたに扱っている傾向があるぐらいだ。



 若くから音楽好きだった父親に感化される形で、私は音楽に興味を持つ。

 ただ、聴くだけでは物足りないから自分で演奏するという程にまでのめり込んだのは私だけで、兄弟二人は好きではあるようだが聴くだけに留まっている。


 現在使っているギターのうちの一本も父のお下がりだ(一番のお気に入りでもある)。

 ただし、父は「やってたの学生のころだし、忘れちゃったよ」と弾き方を教えてはくれなかったので、その辺りは自分で勉強して覚えた。


 今日び楽器屋に行けば入門書やスコアなんていくらでも手に入るし、兄にパソコンの使い方を教わってからはネットでも調べられることもわかった。

 けれど、いったんコードを覚えてしまうと人の書いた文章を読むより、感覚通りに弾いてみる方がうまくいくような気がしてきて、繰り返し読んできたのは結局コードブックぐらいだ。


 父は私に時々ギターを聞かせて欲しいと部屋までやって来て、その度に「ゆりはもう俺よりもうずっと上手いね」とよく言う。

 父が実際に演奏をしている姿を見たことのない私はその発言がどれほど本気なのかはわからない。


 中学の頃にも私は友人知人から、「椎名より上手く弾ける知り合いなんていない、すごい」などとよく言われた。

 けど、私にはそのすごさに対する誇らしさだとか、興味もあまり湧かなかった。


 褒めてくれるのは嬉しかったし、そうして周囲が持ち上げてくれたから、高校生時分の私は間違った全能感のようなものに浸ることになってしまったのだろうが、本当に根本的な部分で私の中にあったのは、そうした驕り以前に、もっと音楽やらなきゃ、という焦りにも似た気分だけだ。


 最近は特にそれを強く感じる。

 確かに私は音楽を普通の人間よりは長くやっているのかもしれない。

 ただ、所詮はちっぽけな私一人の努力でしかない。


 世の中には実際に音楽家が両親の家庭があって、そこの子供たちは幼少期から厳しいレッスンを受けたりしながら、順調に音楽家としての人生を歩んで行くのだろうな、と思う。

 最高に整ったその周辺環境に羨ましさも覚えるけれど、自分とは全然違う世界だという隔絶感もなんだか強く感じる。

 そんな、独学故のコンプレックス。

 私はそんな英才教育も受けていないし、有名な先生に師事したり、賞を取ったりすることにも無縁の人生を送ってきた。

 仮に自分を音楽家の一人として数えたところで、世の正当な音楽家の人たちとは比べるべくもない程度の人間でしかないのだ。


 その遠すぎる世界と自分との差異に、寂しさやままならなさを覚えることもある。


 ……それでも、私は、そういうものをこうして意識的にならなければ、普段はさっぱり忘れてしまっているぐらいなので、結局はただ単純に音楽というものが大好きなのだと思う。



 それは、嬉しいことだ。



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