椎名ゆり その2
ひとしきり爆笑した後、タキモトはシャワーを浴びると言って風呂に入り、出てきたら朝食を作った。
私の分もある。せっかくなのでご相伴に預かる私。
あ、別に作って欲しいなんて、図々しいことはお願いしてない。作曲してたらタキモトが気を利かせてくれただけだ。
結局あの後私はまた作曲に戻り、そのままタキモトを完全に放置して集中してしまった。
タキモトの登場によって、あの時思いついていたアイデアなどは何処かに霧散してしまったが、それに代わるぐらいの良いものがこの時間で改めて閃くことができた。
なので私は機嫌が良かった。
努力に結果が伴うのは嬉しい。その努力が自分にとって心地良いものであるのだから尚更。
こうしてこいつの家におじゃまして、食事を作ってもらったり、先程のようにギターを弾かせてもらったりすることはたまにある。
いや、たまに……でもないか、結構多いと言っていいかも……。
「椎名は最近は朝によく来るね」
「走った後に寄っているから」
「あー、だからそんなラフな格好なのか」
「……おまえ今、私なら普段着でこういう格好しててもおかしくないと思っただろう?」
「お、思ってませんに……」
「に?」
「ちょっと自意識過剰なんじゃねーのって! っつーか運動してんだ、ご立派ね」
「ああ。あと、毎回シャワーも使わせてもらってるぞ。とても助かってる」
「……この狭い家の壁一枚隔てたところに俺がいるのに?」
「? ああ」
「……相変わらず大物だね、キミは」
あまりにも自然に出入りしているため自分でも時々忘れそうになるが、このアパートは私の自宅でもなんでもなく、同級生のタキモトが暮らしている家である。
大学生になった折、タキモトは実家を離れ、一人暮らしをしながら大学に通う道を選んだ。
ちなみに言っておくと、私がタキモトの家で暮らしているとか、そういう話でもない。私は実家暮らしで、タキモトの家にはこうしてしょっちゅう寄るだけだ。
「タキモトが実家にいる頃は、さすがにいきなり押しかけたりはしなかったぞ」
「俺が家出てから畳み掛けるように来てんのはその反動か?」
「……とはいえ、実家からそう離れていない場所での一人暮らしにどれほど意味があるんだか」
「ほっとけ」
タキモトの実家は新宿の外れにあるが、ここはそこから十数分歩けばつく程度の距離だ。
加えて、タキモトが通う大学に近づいたかといえばそうでもない。
「住み慣れた土地を離れたくはなかったんだよ」
「その反面、親元は離れたかったと」
そういう心理は、まあ、理解できなくもない。
私は未だに実家暮らしだが、両親のことが好きだし、兄弟仲も良いので、特に一人暮らしをしたいとは感じていないが。
でも、私たちぐらいの年代の若者に、そうした考えが浮上することがあるという一般論は私だって知っている。
それはそれとして、この場所は私の家からも程近く、気心が知れた友人が一人で住んでいる家だけあって、ちょっとしたタイミングに立ち寄りやすい。
それぞれ別の大学に進み、住む場所も変わってしまったら会える機会も激減していただろうことを考えると、私としては現状は頻繁に会える今の環境は結構嬉しかったりもする。
「タキモト、今日大学は?」
「んー、だりーから休むわ。単位足りてるし」
「よくないぞ」
「いいんだよ別に」
「だらしのないやつだ」
「知ってんだろ」
タキモトは一見するといかにもだらしない青年という感じの印象だが、これでも意外と自立していて、この通り料理や洗濯などの家事はできるし部屋もそんなに汚くない。
今の卓袱台に朝食として並べられているのはご飯と味噌汁それに納豆。ご飯は昨晩炊いたものの残りだそうで、実質的に作ったのは味噌汁だけだが、私は料理なんてまるでできないのでそれだけでもすごい。
「風呂場に洗濯物が溜まっていたりすることもあるしな」
「めんどくせーじゃん。つーか、人んちの洗濯事情まで把握してんな」
「目に入ってくるんだから仕方ないだろ」
「だらしないで言えばお前だってそうじゃん」
う……、そう来るか。
確かに私はだらしない。自覚している。
「ひ、否定は、しないが」
「この前とか、汗だくになったから着替えたいとか言って俺の服着て、自分の服置いてそのまま帰っただろ」
「心配しなくても、ちゃんと洗濯して返す」
「……じゃなくてさ、知り合いの男の服着てそのまま家まで帰るとか、脱いだ服をそいつに洗濯させてるとかって状況は二十代に突入せんとする娘としてどうなの?」
「だらしない、かな?」
「っつーかおかしい。それを言うなら女が男の家に朝からいるって今の状況も結構おかしいからね」
「そういうものかな?」
「恋人同士とかならともかく」
「友人同士でも、気兼ねなく互いの家に出入りできるべきだと思うが」
「いや、そりゃそうかもしんないけど、……やっぱズレてるなーお前」
「むー。バカにするな。私だって努力してるぞ」
「それはわかるけど」
「だろう?」
「ドヤ顔するほど成果出てねーよ」
「むー」
納豆をぶちまけたご飯をかっこみ、味噌汁をずず、とすするタキモト。
こいつは納豆が食べられなかったはずだが、いつの間に克服したのだろう。
そんな調子で、私の知らない間に家事も覚えたりしたのだろうか。
「タキモトの家は居心地がいいんだ」と私は仕切りなおすように言った。
「そうか?なんもないぜ」
「そんなことはない。現に私はシャワーを使わせてもらってとても快適だし、タキモトが台所で作ってくれた朝食はとてもおいしい」
「……いや、今時風呂場もキッチンもない家なんてほぼねーだろ」
「こうして机もあるし、メモ帳もあるぞ。それだけでも充分すぎる」
「お前それ、俺の家に対しての期待値低すぎるからな」
「それはそうか」
私は笑った。
タキモトの言うことは面白い。喋るのが上手だ。私が自然と口にした言葉の穴を、的確に突いてくる小気味良さ。
私の発言にツッコミを入れてくる人間はタキモト以外にもいるし、私はその度にコミュニケーションの難しさを感じたりもする。けど、タキモトに色々言われるのは昔も今も悪い気分ではなかった。
色々言われて煩わしいところもあれど、このやりとりを総じて楽しいと感じている私がいる。
「タキモトはツッコミが上手だ。芸人にでもなればいいんじゃ?」
「お前という稀有な才能のボケがいたら誰でもツッコミ上手になれんよ」
「それに、何より重要なものがこの家にはあるんだぞ」
「……いきなり話を戻すなよ」
「この家にはギターと、私の相談に誰より真面目に応じてくれるタキモトがいる」
「……」
そう、それが大きいのだ。私は人と話すのが苦手であり、大好きな音楽についての話題でさえ上手くできない事が多かったりする。
だからよく人と喧嘩になるのだろうし、そこまで険悪でない相手からも気難しい人間だと思われがちなのだろう。
そんな私とは対照的に、タキモトはすごく聞き上手で、話し上手だ。
私の発言を理解してくれる早さにおいては、付き合いの長さも相まって一番であると言っていい。
昔からタキモトは私の話をじっくり聞いてくれたし、より適切な言葉に言い直す方法を教えてくれたり、頭の悪い私にもわかるように反論や助言をしてくれたりする。
タキモトにツッコミを入れられて嬉しいのも、それが私のことを深く理解してくれていると実感できるからだ。
音楽のことばかりで、常識がなくて、偏屈で気難しいと思われていて、特に女の子らしくもない私を友人としてこんなにも深く理解してくれているタキモト。
それが本当に得難い存在であると気づいたのは恥ずかしながら割と最近になってからだが、そのことに感謝しつつも、「そうとわかって頼らない手はない」とか近頃はある意味打算的に開き直って、以前よりもべったり依存してしまっているところがあるのも私が大人になってしたたかさを身につけたからなのか?
いや、もっと単純に、大切だと気付いた相手と、一緒にいたいし、もっとお喋りしていたいと私は思っているのだ。
そうしているのが嬉しいから、そうしたい。
それは甘えかもしれないけれど、その心地良さをもう私は捨てられない。
持つべきものは自分に対して理解ある友人。
私にとってタキモトはとても大切な相談相手で、一番の理解者で、タキモトも私に対して色々言いつつも憎からず思ってくれていることが、私はとても嬉しい。
「そのギター、俺が中学の時に買ったヤツだぜ。もう全然弾いてないし、ボロボロじゃん」
「そんなことはない。私がちゃんと綺麗にしたし、定期的に手入れもしているからこの通り問題なく弾けているぞ。安物だが悪くないギターだ」
「俺、昔弾いてたっつっても音楽に関しちゃ素人みたいなもんだぜ?お前みたいに作曲とか作詞とかできる才能があるわけじゃないし」
「別にそれでもいいんだ。私が自分の考えを喋って、タキモトがそれを一緒に考えてくれるだけで、私の頭はすっきりするから。最近はそうしてからじゃないと、ユークンとかに説明できなくなってきているくらいだ」
「そういうもんかねー」
首をかしげるタキモト。
「ああ、感謝してる、タキモト。高校が終わってからもおまえとこうして一緒にいられて、本当に嬉しい」
私がそう言うと、タキモトは何故か不意にそっぽを向いた。
こいつのこういう態度は珍しい。いつも嫌になるぐらい余裕があって、私がどんなに怒っていても不敵ににやついていられるようなヤツなのに。
「……、お前さ」と僅かな沈黙を挟んでタキモトが言う。「誰に対してもそういうこと言うの?」
「……?そういうこと、とは?」
「いや、やっぱいいや。でも、気をつけろよな、お前。男って結構、そういうのすぐ誤解するから」
「……?」
よくわからないが、こいつが言うからにはそうするべきなのだろう。何を気をつけたらいいのか不明なままだけど。
私がそんなどこか不明瞭なものを感じていると、「ギターね」とタキモトはつぶやく。
「お前ってホントに、音楽が好きだよね」
頬杖を突きながら、しみじみとした口調で言われた。
なんだか呆れているような、もうどうしようもないみたいな投げやりな感じさえする言葉。
けれどどこか優しくて、理解があって、だから私はこいつのそんなところに、いつだって甘えたくなる。
ああもう、なんだっておまえはそう、私が一番欲しい言葉をくれるんだろう?
そう、私は音楽が好きなんだ。大好きなんだ。
だからそれを、自分がいちばん信頼している友人のタキモトに言ってもらえることが、こんなにも嬉しくて。
「ああ。大好きだよ」
本当は涙が出そうになるぐらい。
なのに、出てきた言葉はその喜びを少しも表現できていない。自分の語彙の少なさ。伝えきれない思い。心にわだかまる。
……あ、この感じ。
そんな思いを私はいつも歌にする。
時間をかけて、味わうように、広げて深めて詩を作る。
何かメロディーを思いついて、試行錯誤を繰り返して一曲として仕立てあげたところでそれは半分だ。その曲に乗せたいと思える心――詩がなければ、それは歌には成り得ない。
今日はいいメロディーを思いついた。そして今日は大切なことも心に抱いた。
だから、とてもいい気分だ。
きっと、今日はいい歌が作れる。
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