椎名ゆり その1
今年も夏と呼んでよさそうな季節が始まってしばらく経つ。
午前五時すぎ。
気温はまだ涼しく、薄い雲をたなびかせた空が遠くまで広がっていた。
心地良い時間帯。
私は夏の朝が好きだ。
四季はそれぞれに良さがあると思っているが、夏の早朝と夕暮れはその中でも特に気分がいい。
「はっ……はっ……」
まだ人気のない、道沿いの商店も軒並み閉まっている朝の町並みを私は走っている。
動きやすい服装に着替え、安物のシューズを履いて、アスファルトの道を駆けていく。
休日の私は必ずこうして早起きして走っており、平日であっても寝る前の筋トレは欠かさない。
傍から見ればさぞや健康的に見えるのだろうが、私の運動に対する意識はそう言われるほど高くはない。
むしろ小学生の頃から体育は苦手で嫌いだったし、今でも屋内にこもりがちな生活は慢性的に運動不足と言っていい。
それでも走ったりしているのは、いくらインドアであっても筋力はあるに越したことはないし、何より朝早く起きて走るのは考え事にちょうどいいと思い始めたからだ。
「~♪」
気分がいいから鼻歌交じり。
ポケットに入った音楽プレーヤーから伸びたイヤホンからは、色々な曲が流れてくる。
曲のテンポで足踏みをしているから、ペースは不安定で、速くなったり遅くなったりするが、歌を鼻ずさむ余裕があるぐらいには総じてゆるい。
運動としてはなんとも不真面目ではあるけれど、それでいいのだった。
大好きな音楽を聴きながら、大好きな夏の朝を感じている。
それだけで私の思考は冴え渡っていって、それはとても気分がいい。
気分がいいのはいいことだ。
早いもので私ももう大学生。
大人に近づいていくにつれ、色々なことがわかってくる。
かつて無駄だと思っていたものが、実は自分にとっても価値があったりしたこと。
好きなものを好きなだけやっているだけだと、色々とダメっぽいこと。
そういうものに気づき始めて、私の人生はそれまで以上に楽しくなりだした気がする。
……って、あれ?なんだ?今のメロディーは。
不意に聴こえてきた音楽の一節に、私は唐突に強い興味を惹かれた。
今まで何度も聞いたことがある曲なのに、今この瞬間、妙に感動的に私の中に響いたからだ。
すごい、すごいぞ。
改めて思う。
音楽はすごい。
たった数分の間鳴り続けているだけの音の配列は、その何百倍の時間をかけても読み解けない程に、多くの要素が含まれている。
そのひとつひとつが絶妙にからみ合って、聴く私たちに感動を与える。
理論とか、コードとか、そういうものを踏まえて分析することだってできる。
けど、そんな理屈抜きに、ただ純粋に音楽という芸術の密度が私にとっては好ましい。
こんな風に何度聴いていても思いもよらない瞬間に新しい発見があったりする。
そんなところにも、音楽の素晴らしさを感じ取って、私はそれが嬉しくて、興奮して、湧いてくる笑みを隠せない。
人気の少ない朝の町並み。
空気と共に澄んでくる私の思考が、とても素敵な何かを閃かせる。
それがあまりに楽しくて、いてもたってもいられない。
聴き慣れたメロディーからの再発見に端を発して、私の頭の中には音楽のインスピレーションが洪水のように溢れ始めていた。
不意に湧いてきたそれらを抑えきれなかった私は、外したイヤホンをポケットにつっこみ、全速力でゴールに定めている地点まで走った。
山手通りから少し路地を入った先にあるアパートまでやって来た私は合鍵を使って中に入った。
ひとまずシャワーを浴びてから、居間に置かれたギターを持って早速さっき頭に湧いた音楽を弾いてみたりする。
「ふむ……、なるほど……ふむふむ……」
実際に楽器を使って音にしてみると、具体的に良い所と悪い所がわかってくる。
どう改良を加えたものだろう。
私はテーブルの上にメモ用紙を広げ、気づいたところを書いていく。
書いておかないと忘れてしまいそうだし、というか書いている側から頭の中には次々いろんなことが思いついてきて、今にも零れ落ちそうなくらいで。
はやくギターを弾かなくちゃ。自然と書き殴るような感じになる。
楽器を弾く。音が出る。
それは最初は断片的なメロディーでしかなく、曲として成立するためにはその前後のフレーズが必要となる。
奇跡的に一つ素晴らしいメロディーを思いついたとしても、それを一曲に仕立て上げるにはその奇跡に見合うぐらいの試行錯誤が必要になる。
悩ましい。けど楽しい。
作曲は楽しい。夢中になる。
もちろん色々な楽器を弾くのも好きだし、人が作った音楽をCDや、インターネットで聴くのも好きだ。
こと音楽が絡む物事において、私が好きじゃないものはないと言っていいだろう。
これは別に自負とかではなく、自然体としてそうである自分についての話だ。
「……」
「……?」
そんな風に私がギターとメモ用紙を行ったり来たりしていると、部屋の引き戸がガラガラと開いて、隣の部屋で寝ていたらしい人物が起きてきた。
よれたTシャツと短パンという寝間着姿の男。
私は起きてきたそいつに、「おはよう」だとか「ギター、うるさかったか?起こしてすまない」とかの言葉をかけるべきなのだろうな、と思った。
が、ちょうどいい具合のフレーズが思いついた瞬間で、何か喋ったら忘れてしまいそうだったので、そのまま何も言わずにギターを弾いていた。
「……」
チラっと姿を見る余裕はあったが、言葉をかけることができず、結果的に姿は認識したけど意図して無視したような感じになってしまった。
あ、まずい、と思った。
作業を中断する暇がなかったとはいえ、悪いことをしてしまった。
私はこういうところが昔からよくない。
目の前の物事に、夢中になりすぎるのだ。
親しき仲にも礼儀あり。せめて挨拶ぐらいはするべきなのでは?
「……おっ、おはようっ」
とりあえずそのまま朝の挨拶をしたら、変な声になった。
他のことを考えながらだと、挨拶をするだけでも一苦労だった。
声は震えて裏返るし、思考の方もたった一言無関係な言葉を口にしてしまうだけで、頭の中が一気にぐしゃぐしゃになる。
「椎名さあ……」
その上、そいつが呆れたような息をもらしたりするので私は更にうわーっという気分になり、もう作曲どころではなくなる。
無視したりしたことを謝らなきゃ。
「あっ、あの……タキモト、怒ってるか?すまん」
「いや、別に。もう割といつものことかなって」
ため息をつかれた。
うわ、うああ、やばい。やばいぞ。これは本気で怒っている!
「そ、そんなこと言うな。私はおまえのことは大切な友人だと思っているし、だからたった今無視してしまったことはすまないと思っているんだ。
作曲に夢中になると周りが見えなくなってしまうのは私の良くない癖であって、おまえが呆れ果てるのも無理もない話だと思うが、今後努力して改めるので寛大な心で許して欲しい!」
言外に「最早改善の余地なし」と言われたような気がした私は自分でも若干引くぐらいの必死さでまくしたててしまう。
そしたらずるっとされた。
「そっちかよ! んなのお前と知り合ってからずっとじゃねーか!今更気にしたりするか!」
「え?」
「俺が言ってんのは、なんでお前は俺の家に勝手に上がり込んで、ギター弾いたりしてて、その上風呂まで使ってんのかって話!」
「……、……ああ」
現状について改めて言われていることに一瞬遅れて理解をして、タキモトの態度に得心が行くと同時に、「今更気にしてない」と言われたことにも私は思わずほっとした。
「すまない。今は夏場で汗をかくし、走ってそのままの状態ではさすがに私も不快というか……」
「それで何故俺の家に来る!?」
「え?」
言われて呆気に取られかける。
なんだ、この男は安眠を邪魔されたこととか、無視されたこととか、風呂を勝手に使われたこと以前に、そんなつまらないことを気にしていたのか?
「だって、家まで帰るより、おまえの家に寄った方が早かったから」今更言うまでもないと思っていたことを、私は言った。「ここならギターもあるし、ちょうどいいだろ」
「お前、自分がおかしいこと言ってんのわかってるか!?」
そいつは大声でそんなことを言った後、こらえ切れないとばかりに「うははははは!」と大笑いしだした。
爆笑だ。
むー。なんだかわからないが、怒っているというよりバカにされている気がする。
この朝から爆笑している男の名前は
高校時代の同級生。
今、私たちはそれぞれ大学生になり、別々の大学に通っているが、それでもこうして友人関係は続いている。
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