夜から夜へ

上高田志郎

夜から夜へ

 合宿は楽しいものになるはずだった。田崎はヒステリーを隠そうとはしなかった。それはいつものことだった。今でも考えることがある。もし、田崎がヒステリーであっても、生徒をおまえら呼びさえしなければあんなことにはならなかったんじゃないかと。


 夜の校舎は灯りをつけるのは最小限という話だった。音が極端に減った校舎は知らない他人の顔をしていた。そこに悪意さえかんじられたのだ。見たこともない影を宿して、かつて見たこともない色で周りを取り囲む壁。そこには一切の友好も妥協もなかった。交渉の余地なし、拒絶。それでも教室の中に入っていれば私たちは普段の神聖な光に守られているはずだった。外との明暗が不気味なほど強烈であっても。


 私たちはよく笑いよく話した。あの時不安を感じていたのは私だけではないと信じたい。だが、私と同じくらいの不安を感じていた者はいないのではないか。不安はあまりにも条件がそろっていれば、結末は予想通りになる。回避するのは難しい。馬を管理する調教師のコメントに私たちは起こりうる未来の画を鮮やかに浮かび上がらせることができる。その画はほとんど現実だ。そろっていたのだろう。不幸なことが起こるのは避けられそうにないと思っていた。


 誰の力を借りればよかったのか、いまだにその答えは出ない。すべてが一瞬であり、始まった時には私にはもうチャンスがなかった。


「おまえらなんかにナメられちゃたまんないんだよ!おまえらなんかに!」田崎は腕組みをして口から言葉を吐き出した。女教師が使う怒りの言葉はいつだって滑稽だ。田崎は廊下側の窓を怒りにまかせて開けて閉めた。重たい衝撃の音、悲鳴、ガラスが砕け散る。ガラスの一部は無残な形を残し、瀕死の動物のように窓枠に残って震えていた。四肢が神経のみで引きちぎれる寸前で持ちこたえているようだった。ほんの束の間、バランスを取った後、地面に落下し油断していた私の足首に刺さった。よけれたはずだったという後悔が痛みを強くした。


 顔を上げると一番近くで怒鳴られていた生徒がガラスの破片を握っていた。石器時代のナイフのようなガラスの破片を、彼は両手で握っていて、すでに手から血が流れていた。悲鳴と絶叫の土砂降りの中、田崎めがけて体をぶつけていった。ぶつかった後、田崎は渾身の力で生徒のジャージをつかんで、自分の体から引きはがした。田崎の叫びは官能的な響きがあった。私は人間のそんな声を初めて聞いた。二回目のうめき声には絶望しかなかった。私の耳も心も初めての異物に混乱し、拒絶しようとしていた。見なくても誰かが吐いたのが分かった。匂いが教室を満たすのに時間はかからなかった。匂いは耳の穴からでも入ってきて脳髄を汚されたような気がする。誰かを呼びにいかなければならない。私は後ろのドアから暗い廊下へと這っていった。廊下に差し込んでくる外の外灯の灯りと非常灯に勇気づけられ、自分一人だけが正しいことをしていると信じていた。水面にもぐるように教室から出て行った私はやがて腰をかがめて壁によりそいながら歩いた。そこで理解したのは、スイッチを探すのは無駄だということ。恐怖に負けないで進んでいかなければならないということだ。


 誰も私の後を追ってこなかった。後ろの騒ぎは今や聞こえないところまで来ている。まだ運が残っている、校舎の配置は全部頭の中にあった。昼でも違う学年にいけばまるで景色が違うものだが、この時はそれほど気にならなかった。おそらく誰も私を見る者がいなかったからだろう、あの、よそ者を見る目がなかったからだ。


 階段を降りて、踊り場でひときわ大きな鏡の前で、月明かりと外からの外灯が私を照らした。足から流れる血は黒く、肌には砂のような細かい破片がこびりついているのが感じられた。鏡の恐怖と痛みで涙が出そうになる。声を上げて泣き崩れたい衝動がほとんど便意のように体を走った。


 一階は今までとうってかわって真っ暗だった。この廊下の一番端が事務室で、そこには誰かがいるはずだった。今までよりもさらに深い暗闇の中を歩く心の準備には、時間がかからなかった。どこかで誰かに見られているような気がする、突然体をつかまれそうな気がする、突然誰かがドアを開けて出てきそうな気がする。そんなことはあるはずがないのだ。妄想を振り払うのに足の痛みはかえって好都合だった。


 事務室のドアは開かなかった。中は灯りがついていない。ドアを叩くのはまだ早い、乱暴に手をかけていれば気づいてくれるだろう。するとドアが開いた。鍵などかかっていなかったのだ。不思議に思いながら暗闇を見つめた、中から開けた気配はない。その時、灯りがついて人影が動いた。私は職員が知らない顔であることを残念に思った。近寄ろうとすると灯りが消えた。職員の後ろの窓から外の光が差し込んでいた。また室内の灯りがついた。ほかに人がいるのだろうか? 後ろを振り返ると、私が開けたドアにクラスメートが六人立っていた。一人はドアのすぐ横のスイッチに手をかけていた。四人はガラスの破片を持っていた。にぎっている部分はするどく割れなかったのか血が出ていない。職員の顔は正常で私の味方になってくれることは間違いなしだった。スイッチを押す音が耳に届き、灯りが消えると、黒い四人の固まりが職員をかこむように体当たりした。かすかな光が差し込んで、職員はなぜ自分がこんな目にあうのか分からない顔をしていた。


 私は六人が徹底的に無表情だったのを覚えている。彼らは、まるで行列に並んでいる他人同士のようだった。私は事務室のそこらじゅうに体をぶつけながら窓から走って逃げて大通りを走る車の前に駆け込んで助けを求めた。


 刺された二人は死ななかった。私は二度とあの学校には通わなかった。あれ以来だれとも交流がない。あの大通りの外灯がどれだけ規則正しく並んでいて、白い外灯がどれだけ人間的でなかったか、それなのにどれだけしがみついて泣いて訴えたかったかを覚えている。


 彼らはどうしているだろう。今でも、私はあの暗闇の恐怖が甦りそうな時がある。今でもあの白い外灯の下を、足をかばいながら懸命に走っているような感覚に襲われることがある。


 二十年たってもだ。

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夜から夜へ 上高田志郎 @araiyakusi1417

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