第11話 東儀忠虎と神代夜白①

                  ※※※                  

「貴君の勝利を祝し万歳三唱を行いたいと思う。僭越ながら東儀忠虎大尉より一言!

 誠に其の功偉大なり! 七生報国の意を胸に今後とも精進せよ!

 色褪せぬ栄光は努力という名の土台の上に立つ!

 それでは手を構え!

 バンザ――イ。バンザ――――イ! バンザァァァァ――――――イッ!!」

「え? ちょっと待って、アタシ今から死ぬの?」

 忠虎の悲喜こもごもの万歳三唱を聞いていると、夜白は戦地へ送り出される兵士の気分になる。そう考えると、テーブルに並べられたご馳走も最後の晩餐に見えてくる。

 鯉川に雪辱を果たした序列戦も終わり、現在の時刻は午後六時。祝勝会をしようと忠虎が提案し、六星機女学園内の学食まで来ていた。本来六人用のテーブルに向かい合って座った二人の前には、山ほどの肉料理が湯気を立てて並んでいる。

 二人して料理を見つめる、つばを飲み込んだかと思うと、競うように食べ始めた。

 今日までの苦労や笑い話をしながらの夕飯は、非常に楽しいものだった。あらかた皿も空き始めた頃に投げられた忠虎の言葉に、トンカツを咀嚼していた夜白は目を丸くした。

「この食事を終えたら部屋に戻って休め」

「休め?」夜白は口の中のものを飲み込んで尋ねた。

「あぁそうだ。疲れも溜まっているだろう」

 確かに疲れている。だがここ数日忙しくしていたせいで、夜白の中で休むという感覚が縁遠いものとなっていた。呆けていた夜白は、向かいから差し出された手に反応できなかった。夜白が気づいた時には忠虎の大きな手に頭を撫でられていた。

「戦いは終わった。よくやったな夜白」

 華美な万歳三唱なんかより、ずっと胸に染み入る言葉だった。

「……痛いんだけど」

 決して優しい手つきではない。ここに来る前、一時間をかけてセットした髪が崩れるくらい雑なやり方だ。けれど夜白は忠虎にされるがままに頭を預けた。言葉はなく、髪を撫でる音だけが二人の間に流れる。

「……ん?」

 不意に夜白は気づいた。夕方というのは皆同じように、ここで夕食を摂る時間だ。

 加えて言えば六女とはその名の通り女子校であり、数えるほどしか男性がいない場所だ。つまり男女関係というものに飢えている。そして今見る人が見れば自分たちはそういう関係に見えるのではなかろうか。

 顔を上げるとまず首を傾げた忠虎が目に入る。恐る恐る視線を周囲に向ける。いつの間にか混雑していた学食中の生徒全員がこちらに注目していた。彼女たちは顔を上げた夜白を見て視線をそらす。まるで何かイケナイものを見てしまったかの如き反応に、夜白はボッ、と顔を赤くした。

 夜白は慌てて忠虎の方を見た。

「どうした?」見つめられた忠虎は何も気づいていないのか、首を傾げている。

 何度か深呼吸をし、いつものペースを取り戻すために夜白は憎まれ口を叩く。「何の面白みもない顔だなぁって」

「知っている。というか貴様と比べれば大抵の人間は面白みのない顔だ」

「今そういうこと言うな! バカ! 口説いてるんじゃないわよ!」

 周囲のひそひそ声が増す。

 確かにここ何日かこの学園で過ごしてみて、夜白が耳に挟んだ噂の中には、自分と忠虎が主人と護衛という関係を越えた、ただならぬ仲だというものもあった。初めて聞いたとき笑いが止まらず、腹筋が攣りかけたものだ。

 なのに今、全く笑えない。何でこんなに落ち着かないのか。

「顔が赤いぞ……? 熱でもあるのか? 疲れがまだ取れないか?」

「大丈夫! 大丈夫だから! 全部アンタのせいだから!」

「……いや、あれだけの特訓を課した以上、否定する気もないが。まあ申し訳ないな」

 そういう意味じゃない。けれどこういう意味だと形になりそうにもなかった。だから、夜白はまとまらない気持ちのまま踏み出そうとする。

「あのさ」

 緊張で口が乾いている。グラスの水を一気に胃に流し込む。「ん?」と首を傾げる忠虎の手を取る。触れた手は心地よい温かさだった。

「よお! 神代夜白――ッ! やっぱテメエ強えじゃねえか! 今度はオレとやろうぜぇ!!」

 突然柄の悪い声が響いた。ドカドカと床を鳴らし、金髪の女が傍らに立つ。胡桃坂八重。序列第3位だった。

 うん、死ね。

「おお! トラタもいたのかよぉ! 相変わらず気合入った服だなぁ!」

「ねえ帰ってくれる? てか帰れ」

「おっ? 腕相撲してたんか? オラ、どけトラタ! テメエ弱えんだからよ、美々美を倒したコイツに勝てるわけねえだろ」

 胡桃坂が忠虎を押しのけ、向かいに座る。彼女は鋭い表情を浮かべた。

「〈胡桃坂流〉第五五代拳鬼、胡桃坂八重! いざ参る!」


「あいつ腕大丈夫か? 妙な方向に曲がっていたように見えたが」忠虎が再び椅子に座る。

「自業自得よ」夜白はまさに今、腕を庇いながら学食を出て行く胡桃坂に吐き捨てるように言う。邪魔者は去ったが、完全にタイミングを外された。

 会話の糸口を見失う。ちょうどできた空白に、忠虎がかしこまった言葉を投げた。

「……夜白。実は話があるのだが」

「……何よ改まって」

 唐突で静かな声に、夜白は思わず身構えてしまう。彼の表情は固く。どこか言いにくそうにしている。つられたように夜白も心配が募る。

「実は……」

「お疲れさまっす! 調子はいかがっすか?」

 またしても唐突に横から声がかけられる。腹立つくらいに明るい声と、イラつく語尾が特徴的な女を自分は一人しか知らない。二人が視線を向ける先には鯉川が立っていた。

「鯉川、身体の方は大事ないか?」

「的確に心臓を狙った一撃のおかげで、おっぱいが三つになるとこでしたけど、保険医の治癒魔法のおかげで何とかなったっす。トラタさん、傷痕見るっすか?」

 忠虎が何か言うより早く、夜白は鯉川を睨みつけていた。

「今度は四つにしてあげようかしら」

「あっ。一つもない人が何か言ってる」

 明らかな敵意を含ませた言葉に、夜白は苛立ちを隠すことなく言い返す。

「充分あるわよ! アンタの無駄にデカいのと比べないでくれる!」

「トラタさん。CとFだったらどっちが好きっすか?」

「ほら! コイツ英語使ってるわよ、アレ言ってやりなさい!」

「て、てきせい……」

「いつものハキハキした声はどこ行ったのよ!?」

 自分と鯉川の胸に視線をやった忠虎は、ゴニョゴニョと言い淀む。

 腹に据えかねた夜白は思いっきり机を叩く。立ち上がり、威圧的に鯉川を睨みつける。鯉川もまた苛立ちを隠すことなく睨み返してくる。

 結局のところ自分と鯉川はこうなのだ。ナイスファイトだったと、互いの健闘を称え合うことなどできやしない。

 夜白が六女を見下していたことは事実だ。だから鯉川が大切なものを否定されたと憤るのも当然のことだった。互いの間にあるわだかまりは小さくなることはあっても、完全に消えるなんてことはないのだろう。

 夜白がおもむろに右手を掲げると、遠巻きに見ていた生徒たちが息を呑んだ。口論の末にケンカになると見たのだろう。けれど忠虎だけは、静止することなく見守っていた。

 その態度を信頼と呼ぶのだろう。

 信頼を守るためには、決して激情の赴くままにこの手を振り上げてはならない。

「私はあなたが大嫌いっす」

「気が合うわね。アタシもアンタのことが大大嫌いよ」

 コイツとは永遠に友達になんかなれるはずもない。

「次はその無駄にデカい乳を六つにしてやるわ」

「だったら私は、CからAAになるよう切り落としてやるっす」

 互いの健闘は讃えられない。けれど悪態をつきながら握手するくらいはいいだろう。

 夜白は掲げた手を鯉川に差し出す。それを見た鯉川は鼻を鳴らしながら握り返した。

「……フッ」と忠虎がこちらを見て苦笑を浮かべた。

 照れくさい雰囲気だったが、不思議と嫌ではない自分がいることに夜白は内心驚いた。

 ふとその時、握られた右手が傷んだ。すぐに鯉川が力を込め握ったのだと気づく。

「あ、いや今のはマジでそういうのじゃないっすよ!」

 あたふたとする鯉川の様子から本当に他意はないのだろう。だが、痛いものは痛い。

「え? 何かしたの、今? 何も感じなかったけ、ど!」鯉川の手をグッと握り返す。

 一瞬、顔を歪めた鯉川だったが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。

 グググ、と互いに手に力を込めていく。正直痛いが、そんなことお首にも出さない。ため息をついた忠虎が再び席を立つと、入れ替わるように鯉川が座る。

 冷や汗を額に浮かべた笑顔のまま二人は向かい合い、

「「合図」」

 奇しくも胡桃坂のときと同様、腕相撲の体勢になった二人は同時に忠虎に言う。彼は呆れた顔をしながらも、収まりがつかないと見たのか、合図のため手を挙げる。

「よーい…………ドン!」


「……おい夜白。やりすぎだ」

 忠虎に言われ、夜白は視線を逸らす。食堂のすみっこには真っ二つになり端に寄せられたテーブルがあった。共犯者である鯉川は食堂のオバちゃんに平身低頭謝罪し、すでに食堂からは去っていた。ちなみに腕相撲の勝敗はドローだ。

 気まずくなった夜白はごまかすように口にする。

「そういえばアンタ。話があるって言ってなかった?」

 忠虎の顔が真剣なものになる。そういえば、言いにくそうな雰囲気を出していたことを思い出す。この話題は藪蛇だったかもしれない。

「……夜白。国崩し――」

「忠虎先輩」

 三度の横槍。響いた声に忠虎が口をつぐみ、声の主に顔を向ける。そこには深刻そうに眉根を寄せた夜々の姿があった。

「どうした夜夜」つられた忠虎も深刻そうに尋ねる。

「七篠シノの日本での目撃情報が入ってきました」

 突然床を蹴飛ばす勢いで忠虎が立ち上がった。あまりの驚き様に夜白は訝しげな顔で忠虎を見上げた。

「シノ《・・》が!?」

 忠虎の狼狽える様子もそうだが、魔法犯罪者である七篠シノを親しげに呼ぶことに、夜白は引っ掛かりを覚えた。

「魔法省は防衛省、警視庁と連携し、総力を上げて七篠シノを捜索中です。目的ははっきりとはしませんが、このタイミングで日本に現れたということは、あなたの存在がバレたと見て間違いないでしょう」

 顔面を蒼白にする忠虎と違って、夜々はあくまで事務的に報告をしている。だが、最後に告げたその声音は僅かに感情の揺らぎがあった。

「くれぐれもお気をつけを。あの女は必ず――」

 その感情の名は……

「あなたに会いに来る」

 嫉妬のように見えた。


 緊急会議があると言い残し、夜々は食堂から去っていた。だがすでに祝勝会という雰囲気ではなかった。七篠シノの名を耳にした忠虎は、どこか上の空な様子で押し黙っていた。

「事情を」そう言った声は自分でも驚くくらい冷たい響きをしていた。

 なぜこんなにも苛つくのか。あやふやだった答えが急速に、形を帯びている気がした。

 ハッと目を見開いた忠虎に、夜白は追撃をかける。

「話しなさい」

 真っ直ぐに睨みつける夜白から、忠虎が思わず目を逸らせた。

 夜白は首根っこを掴み、無理矢理にこちらを向かせた。いいだろう。隠している秘密があるのはこちらも同じだ。

「アタシは14歳の時に、この手でお母様を斬ったわ。大怪我を負ったお母様は、それ以来ずっと昏睡状態よ。だからアタシはお母様を目覚めさせるために、願いを叶えるウォンドを探してる」

 言葉を重ねる度に、苦い自嘲が胸を傷つけていく。それでも夜白は淀みなく全てをさらけ出した。

 神代家では当主の座が変わる際に、代替わりの儀式として、現当主と次期当主が戦うこと。本来は当主の交代を、内外にアピールするだけの儀式となっており、本気で戦うことはなかったこと。だが自分とお母様は本当に斬り合ったこと。それは憎み合ってのことではなく、我が子の成長を見ようとする親心から来るものだったこと。その結果お母様は昏睡状態に、自分は『親殺し』などと揶揄されながらも現当主となったこと。全てを夜白は告げた。

 忠虎は黙って聞いていた。だが表情は話が佳境に入るに連れ、曇っていった。まるで自らのことのように、悲しげな顔をする忠虎は、話を聞き終えると一度深く俯いた。

 顔を上げた忠虎は全てを包み込むような優しい顔をしていた。その表情を見た瞬間、堪えていた悲しみの堰が決壊するように、夜白の視界が歪んだ。このままでは涙が溢れてしまう。そんな姿を忠虎に見られたくなかった。

 夜白は口を開きかけた忠虎を制する。

「言わなくていい、何も。大丈夫、大丈夫……だから」

 それ以上を貰うことは今の自分には贅沢すぎた。誰にも話せなかった胸の内を聞いてくれただけで、その表情を見れただけで、充分だった。

 夜白は涙声をごまかすように大声で言った。

「さぁ! アンタの番よ!」

 忠虎は一度強く目をつむった。それはまるで遠い過去を思い出すかのようだった。開いた瞳からは迷いは消えていた。

「シノは私の元同僚で、断罪すべき宿敵で――同じ村で育った幼馴染だ」

「幼馴染……?」

 七篠シノが旧日本軍。それも忠虎と同じく205小隊にに所属していたことは有名だ。だが太平洋戦争途上、七篠は突如としてアメリカへと寝返った。その後、七篠は忠虎や夜々と数々の死闘を繰り広げたことは有名だ。

 夜々の口から昔の話はよく聞かされてきたが、七篠が忠虎と幼馴染だったことは聞き及んでいなかった。

 だがそれだけで夜々があんな顔で『あなたに会いに来る』とは言わないだろう。

「……恋人だったんでしょ?」

 そう見るのが普通だ。だが忠虎は首を横に振る。しっかりと、はっきりと、そこに嘘はないような気がした。

「死の間際に自らの気持ちに気づくような人間に、恋人などできるわけもない」

 その言葉の向こう側に踏み込もうか、僅かに迷った。けれど踏み込まないことが忠虎への優しさではなく、自らが抱く恐れだと気づいたときには口にしていた。

「やっぱりお祖母様のことが好きだったのね」

 忠虎は力なく首を縦に振った。

「才能もないくせに愚かにもシノに挑み、敗れた。72年を経て目が覚めた時には、好いた女はすでに他の男のもの。……72年も寝こけていた敗北者にふさわしい末路だろう」

 忠虎の儚げな表情が、夜白の心を熱く焦がす。胸の中にいくつもの言葉が浮かんだ。

 アンタの努力は知ってる。才能のない人間が万能の英雄と呼ばれるには、膨大な努力が必要だっただろう。アンタは頑張った。頑張ったのよ。だから凡人だなんて、敗北者だなんて自分を卑下しないで。

 東儀忠虎は、十六歳の少年であり、万能の英雄でもある。

 だから、

 胸を張っていいのよ、とそう告げたかった。けれど忠虎は優しげな顔で首を横に振った。

「それ以上はいい。いいんだ。ありがとう、夜白」

 互いに言葉にはできなかった。けれど言葉にするより、ずっと伝わった気がした。

 二人して泣きそうな顔で笑った。それが何よりも幸せで、これ以上この雰囲気に身を任せていたら、とてつもないことを言ってしまいそうだった。夜白は慌てて言葉を継いだ。

「ほら、ついでに何か言いにくそうにしてた話もしなさい」

 こうなればヤケだ。夜白が勢いでそう続けると、忠虎は観念したように言う。

「貴様の御母堂のことだが」

 さっきも話したように、夜白の母である夜光は長く昏睡している。そんな母親を目覚めさせるために、夜白は願いを叶える類のウォンドを探してきた。

 そして夜白は国崩しを求めた。

「救いたいと言った。この国崩しの力を持ってして」

 忠虎がテーブルの上に国崩しを置いた。

「持っていくのは構わない。今の貴様ならば使えるはずだ」

「え?」

 唐突にそう言われ夜白の思考が追いつかない。白鞘の大太刀を見つめ、徐々に現実感が追いついてくる。

 願いを叶えるウォンドが手を伸ばせば届く距離にある。けれど同時に思う。この刀は忠虎にとっても大事なもののはずだ。死地を共に生き抜いた愛刀を手放すことは、己の心を切り離すことと同義だ。そして何よりも重要なのは、

「アンタには叶えたい願いはないの?」

「ない」

 忠虎はきっぱりと首を横に振った。それが真意かは分からない。けれど手放そうとしていることは事実だった。誰もが羨む奇跡のウォンドの価値を正確に理解しながら、何の見返りもなく差し出そうと言う。渡せと言った夜白でさえ首を傾げるほどの自己犠牲の精神。

 打算も姦計もなく、純粋な好意で言ってるのだろう。だからこそ質が悪い。だからこそ心に響く。

「いらない」

 だからこそ夜白は頑然と言い切った。

 国崩しをいらないわけではない。今だって喉から手が伸びるほどに思い焦がれている。

 けれど、彼の優しさに甘えるだけではいけない。自らを認めさせるまでは、国崩しを手にする資格はない。

「……分かった」

 忠虎が国崩しを腰に差す。最後まで何か言いたげだったが、結局口にはしなかった。

「ちょっと風に当たってくる」

 熱で火照った頭を冷ましたかった。夜白は立ち上がる。気を利かせたのか忠虎は、座ったまま携帯の入った胸ポケットを叩いた。

「何かあったらすぐに連絡しろ」

「出られないくせによく言うわね」夜白はクスリと笑い、立ち上がった。学食の外へ向かって歩き出した。


 昇降口から外へ出た夜白は暗闇が広がる空を見上げた。いつの間にか日が落ちていたようだ。校門へと続く道へ視線をやる。薄暗く、先はぼんやりとしか見えない。穏やかな風が吹き、木々が揺れる音がした。少し肌寒い。けれど頭を冷やすにはちょうどいい。

 夜白は校門に向かって歩き出した。

 まだ頭と心に熱が残っている。忠虎と互いに踏み込んだ話をしたゆえの熱さだ。へこんだことも、嬉しかったことも、驚いたこともあった。

 気持ちも考えもまだ纏まらない。だがそれでもよかった。まだ彼と過ごせる時間はいくらでもあるのだから。少しずつ進めていけばいい。

 そう結論付けると心が軽くなった。

「さて帰ろうかしら」校門の辺りまで来ていた夜白は、振り返り校舎に身体を向けた。

 次は何の話をしようか、何を尋ねようか。夜白は忠虎の顔を思い浮かべ


「え……?」


 不意に強烈な違和感が夜白を襲った。

 夜白は校舎に設置された大時計を見上げた。針は午後八時を指している。まだ人が休むには早い時間帯だ。それなのに辺りはすっかりと静まり返っている。夜白が今いる場所は校舎へと繋がる最も大きな道であり、この時間は部活動やバイト、トレーニングなどを目的とした生徒が多数行き交っているはずだ。

 だが、さっきから誰ともすれ違わない。それどころか周囲には人っ子一人いない。

 校舎を見上げるが、どの教室にも灯りが点いていない。誰もいない昇降口だけが不気味に輝いている。異様な不自然。

「――結界魔法を張ってるからね」

 どこからともなく声がした。夜白の身体を怖気が走る。理屈より先に身体が動いていた。

 夜白は靴のまま昇降口に飛び込んだ。眼の前にあった階段を一気に跳躍し、二階に上がる。なぜか照明の消えた廊下をひた走る。

 扉の空いていた教室に飛び込む。やはり人はいなかった。光もなく、ただ月明かりだけが差し込み、薄暗い。

 座り、壁に背を預ける。流れ出る額の汗を拭った。ひとまずここで落ち着こうとした時、遠くから足音が聞こえてきた。徐々に近づいてきている。

「!?」

 夜白は口に右手を当て、荒い呼吸を必死に抑える。

 左手でスマホを取り出した夜白は震える指で電話をかける。

「出て出て出て出て出て出て」

 願うように小さく呟く。だが無情にも電話は留守電に繋がる。舌打ちをした夜白はスマホを壁に投げつけようと手を振り上げた。けれどそれをすることすら叶わない。

 足音はすぐ側から。夜白は扉の外を見た。だが、

「干渉系統魔法〈無月〉。今この学園にいる誰もボクたちを認識できない」

 声は部屋の中からした。ようやく明かされた違和感の正体など、もうどうでもよかった。

 夜白は恐る恐る視線を前に向ける。ソイツはいつの間にか同じ部屋にいた。

 月光に照らされ、長い黒髪の女が机の上に座っていた。音も気配もなく忽然と。夜白がたった一度瞬きした瞬間に。眼の前のソイツが誰か、夜白は一瞬で理解できた。

 七篠シノ。

 長く艶やかな黒髪と、美しく鮮やかなブルーの瞳。身を包むのはここ数日で見慣れた真っ白な帝国海軍の軍服。そして腰に下げた大太刀は、漆黒の鞘に収まり、異様な雰囲気を放っていた。

 彼女を照らす幻想的な光も相まって、どこか別世界の生き物のように見えた。

 思考を切り替える。夜白は立ち上がり白光に手をかけ、グッと身を屈めた。

「夜夜。久しぶりの再会だ。逃げることないじゃないか」

 七篠は自分を『神代夜々』だと思っている。だったらその勘違いを活かせ。隙を突け。

 ――踏み込む!

 夜白は板張りの床をぶち壊すほどに踏み込み、七篠に斬りかかる。一息で懐に入り込んだ夜白は上段斬りを放つ。威力は充分、必中かつ必殺の一撃だったはずだ。

 だが、

 白光は七篠に迫る僅か数センチのところで動きを止めていた。まるで透明な何かが受け止めているような。それがいかなる魔法なのか夜白には見当もつかない。

「夜夜にしては随分とい《・》斬撃だね」七篠がニィっと笑った。「あぁ、キミは孫の方かい?」

 その笑みに気圧された夜白は、大きく後方に飛び退った。

「確か名前は、あぁそうだ、夜白だったね」

 七篠は嘲りを滲ませながら夜白の名を口にした。

 このまま策もなく打ち込んだところで無駄だ。夜白は打開策を探すために七篠を見つめる。見た目だけであれば同年代の少女にしか見えない。

 七篠が面白そうに手を叩いて笑った。

「夜白だったかい。いろいろと派手な噂は聞いてるよ。にしても……あの夜夜にそっくりだ。72年前に戻ったかと思ったよ」

 夜白の動物的な勘が早く逃げろと告げている。これまで夜白は未知の魔法を使うウィザードと、幾度となく刃を交え、退けてきた。けれど眼の前の少女からは、ソイツらよりずっと濃密な死の匂いが漂っていた。

 夜白は自分でも知らぬ内に後じさりながら、尋ねていた。

「なんで――」

「――トラを殺しにね。キミはそのついでだ」

 その言葉を聞いた瞬間、夜白の心から恐れが霧散していた。緊張で固まった身体を無理矢理に動かし、退いた倍の歩数だけ七篠に近寄った。

 七篠の貼り付けたような冷たい笑みが僅かに歪んだ。けれどそれも一瞬のことで、すぐに笑みを浮かべた。

「さてそろそろ終わりにしようか」

 唐突な終焉の宣言。けれど夜白は驚きもせずに白光を握り直した。最強を謳われる〈終焉の魔女〉が二つ名通りに、神代夜白を終わらせると告げても平然と刃を構えていた。

「驚かないのかい?」

「理由なら山ほどある。覚悟ならとっくにしてる。納得はしてないけど」

「いいね、お嬢様は実に肝が座っている」

「忠虎はアタシのものよ」

「キミのもの、ねぇ」

 今度は唐突にではない。この話の本題はずっと彼のことだ。七篠もそれを理解しているのか、顔色一つ変えることなく答えた。

「あまり彼に期待しない方がいい。キミが通るその道は、ボクと夜夜が72年前に過ぎ去った道だ」

 その言葉は嫉妬と諦観と疑問を混ぜ合わせたような、奇妙な響きをしていた。

 忠虎は七篠のことを幼馴染と言っていた。だが話は随分と違うじゃないか。七篠の言葉からは諦め、けれど忘れられなかった恋心が溢れ出している。

 自分の知らない72年前に、様々なドラマがあったのだろう。そして何一つ実ることはなかったのだ。それゆえの七篠の言葉なのだろう。

 けれど自分は違う。

 困難な道かもしれない。迷うかもしれない。だが夜白が止まることはない。

 夜白はポケットからスマホを取り出す。

「アタシは迷わない」

「グーグルマップにナビしてもらうかい?」

 夜白の視線が真っ向から七篠を射抜く。固い意志を湛えた龍の瞳は、七篠の侮蔑を真っ直ぐに貫いた。

「想いを言葉にし、手を取り合って歩くのよ」

 夜白はスマホを操作する。発信履歴。名前を発見。タップ。コール音。

「どうせ出ない。ボクがかけても一度も出なかったからね」

 七篠が刀を抜いた。

 タン、と七篠が地を蹴る。彼我の距離はせいぜい五メートル。一瞬で縮まる死への距離。スマホを耳に当てた夜白の目前に刃が迫る、その時だった。


 ――ふとどこかからかチープな軍歌が鳴り響いた。


 夜白は言った。

「早く来て」

『もう着く』

 それを証明するかの如く黒い靄と共に、忠虎の背中が夜白の目の前に現れる。

 両手で大太刀を振るう姿が見えた時には、刃と刃がぶつかる音が響いた。寸前にまで迫っていた七篠の刃が、忠虎の国崩しによって止められていた。

「遅くなったな」

「通話ボタンの押し方は理解できたみたいね」

 呻きにも似た笑い声が刃の向こうから聞こえた。忠虎の姿を見た七篠が引きつるような笑いを浮かべていた。その青い瞳は忠虎しか映していなかった。

「71年と292日9時間39分2秒。寝過ぎだよトラ」

「貴様こそさっさと目を覚ませ。世界を滅ぼすなどという下らない夢からな」

 忠虎に手を取られる。ついで浮遊感。空間転移の兆候だ、と気づく頃には身体は虚空に消えていた。

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