第9話 腰抜け護衛と序列第1432位④

〈序列戦三日前〉

 中天にかかる太陽が、フィリピン海上に立つ夜白をギラギラと照らしていた。

 五月も始めだというのに、ここはうだるように暑い。けれど夜白は額を滑る汗を拭うことすらしない。四方八方、海が広がる視界に油断なく視線を這わしていた。

「――ッ!」

 夜白は動物的な反射神経で大きく横っ飛びした。今しがた夜白が立っていた場所に、巨大な水柱が立ち上がった。

『どうした。集中しなければ次は直撃だぞ』

 夜白が胸ポケットに入れていた式符から、憎らしい忠虎の声が聞こえてくる。

「集中って言ったって!」

 文句を言う夜白の後方でまたしても水柱が上がり、吹き上がった水が制服の生地を叩いた。

 初めての特訓。それは魔法式への理解と構築を上達させるため。詠唱による空間転移を身につけることだ。

 そして今、忠虎が放つ超々遠距離からの魔法を空間転移により躱す。それが本日の訓練内容だった。はっきり言って空間転移すらまともに習得していないのに、いつ放たれるかも分からない強力な魔法を避けるなど無理難題にも程がある。

 けれど忠虎は平気な声で続けた。

『もう一度復習だ。空間転移とは、全く別の三次元座標に同一の己を作り上げる魔法だ。この朧気な感覚を現実に成すためであれば、魔法式は――詠唱で口にする言葉は何だっていいのだ。魔法書からの引用でもいい、古代語によって呪を刻んでもかまわん、小難しく華美な文言でも問題ない。何なら何も口にしなくとも良いのだ。己が想像する魔法を創造できれば何だっていい』

 容易なようで難解な詠唱の真髄に、夜白は眉根を寄せた。

『夜白、分かるか?』

「――ッ」

 夜白は本能的に背後を振り返り、白光で身を守った。だがすでに眼前に迫っていた炎塊が激しく炸裂した。衝撃が夜白を大きく吹き飛ばした。

 背中から海中に飛び込んだ夜白の視界には、青く透き通った空があった。

『どうした。もう終わりか?』

 夜白は忠虎の問いに答えず、黙って立ち上がる。深く息を吐き、集中力を研ぎ澄ます。身体を巡る魔力の一つ一つに気を配る。

 別の場所に同一の己を想像し創造する。それを思い浮かべるのならば詠唱する内容は何でもいい。…………ダメだ。どうしたって同一の己というものが創造できない。

 夜白の戸惑いを感じ取ったのか、忠虎が救いの手を差し伸べる。

『一つ助言だ。同じ訓練の最中、師匠は夜夜にこう言っていた』

 苦笑と共に彼は言った。

『考えるな感じろ』

「お祖母様と一緒ってのが引っかかるけど――そっちの方がよっぽど分かりやすいわ」

『フフッ。……狙撃を再開する』

 夜白は固く瞳を閉じた。波の音と潮の香り。そしてほんの僅かに微かな飛来音が聞こえる。徐々にその音は近づいてくる。全く同じ自分を別の座標に……座標に、

 迫りくる魔法と、難解な空間転移。両方に四苦八苦していた夜白の耳に、笑いと共にその声が届いた。

『天才もその程度か?』

 瞬間。カッ、と夜白の中で怒りの火花が散った。

 夜白は本能的な動きで白光を振り抜いていた。すんでのところまで迫っていた炎塊に刃が触れると、バラバラと破片となり海に落ちた。

『ほぅ……空間転移ではないが、その紫炎・・は悪くない魔法だ』

 忠虎に言われた夜白はハッと目を開き、白光を見た。いつもは赤く巨大な炎に包まれる白刃が、刀身覆うように紫色の炎を纏っているのが見えたからだ。

『仮説だが今の貴様は至近に迫った魔法を破壊するために必要な魔法。それを構築する最適な魔法式を無意識に組んだのだろう』忠虎は感嘆を滲ませた口調で続けた。『白光に記録された赤い炎を成す魔法式に手を加え、魔力が凝縮した、軽量で硬度の高い紫炎を顕現させたのだ』

 これが魔法式への理解。ぼやけていた輪郭が、ようやく形を持ち始めた気がした。

『今貴様は何を思った?』

「アンタをぶっ飛ばそうと思ったわ」

『よろしい。今の感覚を大事にしろよ。さて実践あるのみだ。続けるぞ』

 驚きもせずに言った忠虎の声に、夜白は絞り出すように言った。

「……アンタわざと煽ったわね」

 忠虎は答えなかった。けれど沈黙が夜白の予想を確かなものにする。遠回りな優しさに気づくと同時に、夜白の怒りを現していた紫炎が消え去った。

『おい、どうした? なぜ火が消えた?』

「アタシにも……わか、分かんないわよ!!」

 夜白は頬を真っ赤に染める。魔法式への理解と同時に、得体の知れない何かの一端に触れた気がする夜白だった。

                   ※※※                  

〈序列戦二日前〉

 まるで夜空のように輝く緑色の光点が五つ、忠虎はその光に手を伸ばした。

「機械音痴のお爺ちゃんは触らないで」

 たしなめる夜白の声に忠虎は渋面を作った。忠虎は触れようとしていた四角い箱(夜白曰くぴーしー)の稼働を表す光から手を引っ込め、頭を掻いた。忠虎の全身の到るところに吸盤のようなもの(もーしょんなんとか)が貼り付けてあり、正面に設置された巨大な画面(こっちはもにたー)に自分を象った黒い人影が同じように頭を掻いていた。背後を見れば、壁の上半分が硝子張りになっていた。先ほどまで硝子の向こうには白衣の女性が数人いたのだが、夜白が追っ払ったせいで、今はガランとしていた。

 全体を白で統一した広い部屋――六星機女学園の設備の一つである訓練室に忠虎と夜白はいた。

「じゃあもう一度同じことをやってちょうだい」

 機械の箱の前に腰掛けた夜白が言う。

 今日は帝国海軍式の戦闘術を、夜白に手ほどきすることが目的だった。魔法との親和性が高く、より実践的な武術である戦闘術を覚えていて損はないという考えだったが、

 いざ訓練を始め、五分後に夜白がこう言った。

『アンタの説明超分かりにくい』

 そして今に至る。

 夜白には普段通りに技を繰り出せばいいと言われている。不可解ではあったが、考えてもしょうがなかった。夜白の合図に従い、一通りの技を繰り返していく。三〇分ほど経過し、全ての技を出し終える頃には、夜白も隣で忠虎の指導の元で技の練習をしていた。曰く我慢できなくなったらしい。

 額の汗を拭った夜白が言った。

「いいわね! これ! 凄い使いやすいわ!!」

「そうだろう?」爽やかな夜白の笑顔に、嬉しくなった忠虎もつられて笑う。「〈紫炎〉〈帝国海軍式戦闘術〉〈空間転移〉。膨大な魔力を持つ貴様がこの三つを身につけた時、この学園に敵はいなくなるだろう」

「アタシは三九郎じゃなくなる?」

 忠虎は目を細める。序列第一位も夢ではないという意味だったが、尋ねた夜白の声からは特定人物の顔が透けて見えた。

「あぁ、夜夜にも勝てるはずだ」

 そう、と夜白はそっけなく顔を逸らせ、機械の箱に向き直った。無表情からは何の感情も読み取れないが、ここで何も思わないほど大人しい女じゃないことは忠虎にも分かる。

 巨大な画面に映る黒い自分自身が見えた。棒立ちの黒い影からはやはり何の感情も読み取れない。

 だから忠虎は自らの胸に手を当てた。熱い。滾っている。自らの熱を持ち始めた心に驚き、心に火を付けた炎の化身のような少女を見て忠虎は苦笑を浮かべた。


〈序列戦前日〉

 比律賓の砂浜に月光が降り注いでいる。真夜中の静謐な海岸に刃と刃がぶつかる甲高い音が響いた。その中心にいるのは鍔迫り合いの格好となった忠虎と夜白。二人はもうかれこれ一時間ほど激しい剣戟を繰り広げていた。

 訓練最終日。序列戦を明日に控えた中で行われた、手合わせはここ数日の特訓の仕上げだった。結果は、

「まあギリギリ合格としよう」

 紫を纏い細く研ぎ澄まされた白光の刀身。その先にある意志に満ち満ちた鋭い双眸。その二つを携え、振るわれた上段斬り――帝国海軍式剣術〈龍尾〉は、今初めて忠虎に国崩しを抜かせた。

 ゼエゼエと夜白の荒い呼吸だけが辺りに響く。

 帝国海軍式戦闘術については、五〇ある内の五つを完璧にものにした。紫炎に関しては自在とはいかずともある程度は顕現させるようになった。空間転移はまだ一度も成功はしていないが、魔法式への理解という点では、当初に比べればかなり上達したと言える。

 驚嘆すべき才能であり、称賛すべき結果だった。だが忠虎がそれを告げる間もなく、夜白は崩れ落ちる。

 夜白を抱きとめた忠虎は彼女をゆっくりと地面に寝かせる。満身創痍の夜白は何とかこちらに首を向ける。疲れきった顔で、辿々しい声で、けれども力強い言葉を放った。

「……見たか。この、この大天才……夜白様の力、を」

 言い終えた夜白は、ぜんまいの切れた玩具のように力尽き、寝息を立て始める。

「あぁ。貴様は紛れもない天才だ」

 己の欠点に真正面から向き合う勇気と、努力を怠らない勤勉さを持ち合わせている。

 もはや天才という言葉では到底足りない。

「……負けたくないな」そんな言葉が思わず口を出た。

 神代夜白は誰よりも格好いい人間だ。素晴らしい魔法士だ。魅力ある女性だ。

 お綺麗な理想を追い求めるだけの、格好つけなんかよりずっと。

 けれどどうすればいいのだろうか。そう考える忠虎の頭によぎる言葉があった。

 それは、

『届かない現実』

 自分にとってのそれは何なのか。向き合い、立ち向かわなくてはいけない。

 いいや、違う。言葉を飾り立てるな。いけない《・・・・》、じゃない。

 ――立ち向かいたい。

 忠虎は意志を込めた瞳で空に架かる月を見上げた。


〈序列戦当日〉

 午前八時四十分。六星機女学園には三つの運動施設があり、ここ闘技場はその中の一つだ。野球場ほどの面積を誇り、施設の中でも最大の広さを持つ。その闘技場へと続く廊下を忠虎と夜白は歩いていた。残り二十分で序列戦〈相掛戦〉が始まるが、隣を歩く夜白に緊張はない。

 先を見ればこちらに歩いてくる二つの影があった。

「……げ」夜白が露骨に嫌な顔をする。

 近づいてきたのは夜夜と代戸だった。彼女たちは足を停めた。

「三九郎」

 と言った夜夜に夜白は黙って視線を返す。二人はしばらくそうしていたが、視線の交錯は唐突に終わる。先に目を逸らしたのは夜夜の方だった。

 夜白はため息を吐き、代戸の元へ行く。その背中はどこか寂しそうにも見えた。それを察してか代戸は明るい声で夜白に言った。

「お、お嬢様! その……あれですよ! あの…………実はご隠居様今日の〈相掛戦〉が心配で昨日は全然眠れてないですから!」

 夜白を励まそうとして何か気の利いた言葉を探した結果、実に真っ直ぐな言葉が出てきた。夜白は呆けた顔をし、夜夜は額を手で抑える。忠虎だけが笑った。いい判断だ代戸。

「ちょっと千翼。こっち」

 代戸を連れ、夜白が廊下の端へ寄ったのを見て、忠虎は夜夜に近寄った。

「今日はよく眠ることができるはずだ」

「喜ばせたいのか、からかいたいのか、どっちかにしてください」

 口を尖らせる夜夜に、忠虎は肩をすくめた。

「貴様こそどっちなのだ? 夜白に勝ってほしいのか、ほしくないのか」

「そんなの! ……決まっています」

 夜夜の心配そうな顔を見れば、それ以上を尋ねる意味はなかった。

「口にすればいい。言う機会もあっただろう」

 夜夜は口ごもる。祖母と孫の不器用な交流にもどかしさを覚えていた忠虎は言う。

「奴だっていつまでも三九郎子ども扱いと呼ばれれば腹も立つ。孫を可愛がるのもいいが、そろそろ一人立ちする頃だろう」

「戯言を。厳しく育てています。まだ足りないからこそ三九郎と呼んでいるまでのこと」

「母がいないことを奴は強さに変えている。貴様にもそれは分かるだろう」何か言いたそうに口を開きかけた夜夜を制し、忠虎は続ける。「奴はいつまでも可愛い可愛い三九郎ではない。神代夜白という一人の人間だということを、まず貴様から認めろ」

 夜夜はため息をつき、苦々しい表情をした。それはずっと見せていた忠虎の知らない表情ではなかった。自分が見慣れた同年代の顔だった。

「……先輩は五月蝿いなぁ」

「アッハッハッ! 年を重ね、出世したせいで丸くなったかと思えば、その顔も忘れてないではないか。大人ぶるなよ夜夜。頑固な正直者はどこへ行った?」

「あの子は私よりも正直者ですよ。いつだって真っ直ぐに突き進んで、全てを吹き飛ばす。先輩もメッキを剥がされないよう精々気をつけることですね」

「もう剥がされた。おかげで格好悪い自分と向き合わなくてはならん」

 夜夜は一本取ったと言わんばかりの笑みを浮かべる。ふと何かに気づいたように尋ねてくる。

「あの子が夜光……母親のことを喋ったのですか?」

「なぜ国崩しを求めるのか尋ねた時に、昏睡状態の母を助けると。それだけは聞いた」

「あの子が自分から夜光のことを……?」

 驚きに固まっていた夜夜が、不意に表情を綻ばせる。

「随分とあの子に好かれたようですね」

「私が?」忠虎は不思議そうな顔で尋ね返す。

「あなたが」

 夜夜は確信した声でそう言うが、忠虎には思い当たる節がない。母親のことだって無理やり聞き出したようなものだ。

「納得できていないようなので、教えてあげますが。あの子に夜光のことを尋ねて無事でいられた人間は先輩が初めてですよ」

 その言葉を反芻している内に夜夜は、代戸に手招きをする。「行きますよ、千翼。そろそろ序列戦が始まります」

「お、おい夜夜」

 結局真意を尋ねる暇もなく、夜夜と代戸はさっさと観客席へと繋がる階段に歩いていった。

 首をかしげていた忠虎だったが、今度は夜白が早く来いと手招きをする。忠虎は彼女に駆け寄った。再び二人は闘技場へ向かって歩く。

 夜白の横顔に気負うものはない。彼女の集中は最大限に研ぎ澄まされている。前回の序列戦のように驕った様子は一欠片もない。

 けれど僅かに右手が震えた。十全に整えられた身体と心の、ほんの微かなひずみがそうさせたのだろう。無視したって大勢に影響はない。それでも忠虎は動いた。

 すでに震えの消えていた夜白の右手を掴んだ。

 振り払われると思った。だが夜白は目を丸くするだけで何も言わなかった。静かな瞳でこちらを見ている。

「夜白。その……何だ。あれだ、あれ」言うべき言葉はすでに決まっていた。けれど16年で培ってきた価値観がそれを抗わせる。

「はっきり言いなさいよ気味悪いわね」

 忠虎は意を決した。

「いーじーに行け」

 夜白は一瞬驚いた顔をし、すぐに理解したのか吹き出した。

「敵性言語を使うな!!」と、満面の笑みで人の真似をする。

「初犯だ許せ」

「ふーん。初めてなんだ。なのに今、ここで言うんだ。……ふーん」

 繋がったままの手を無意味に揺らし、夜白は含みのある笑いを浮かべる。

「よし」

 やがて夜白は手を離し、空いた両手をおもむろに自らの顔の前に持ってくる。

「こんな方法で気合入れるなんて前時代的で非効率的だと思うけど、まあないよりはマシでしょ」

 夜白は思いっきり自らの頬を張る。もう絶対に痛いだろうと分かるような音が響き、赤くなった頬に涙目になりながらも、笑った。

「絶対に勝つわ」

「その意気だ。国崩しのために、叶えたい願いのために勝利しろ」

「え?」

 なぜか夜白が一瞬呆けた顔をする。まるで予想外のことを言われたような。まるっきり頭の中にない言葉を聞いたような。

 国崩しのことなど、どうでもいいかの如く。

「ああ! 国崩しね! 当たり前よ」

 もしそうだとすれば。夜白は、

「お別れを済ませときなさい」

 何のために勝ちたいと願うのだろうか。

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