第8話 腰抜け護衛と序列第1432位③

「おい夜白。夜白と言っている。貴様どこへ行く気だ?」

 忠虎の問いかけに、夜白は一切口を開くことはなかった。

 夕暮れの屋上。夜々たちは「頭を冷やしたのなら良いでしょう」と言い残しすでに去った。残されたのは惨めな二人の敗北者と、耐えきれないほどに苦い敗北の味だけ。夜白は肩を怒らせながらフェンスに向かって歩きだす。

「夜白」

 もう一度声がかけられる。けれどこれ以上一秒たりとも忠虎の顔を見たくなかった。

 カッコつけて、散り際を飾り立てるその姿勢が気に食わなかった。さっきの戦いだって、忠虎にはいくらでも打開策があったはずだ。どう頭を捻ったところで、魔力を絞り出したところで何も出てこない自分と違って。

 それなのに安易に負けを認めてしまった。

 東儀忠虎は誰よりも強いのに。ヒーローなのに。

 口が裂けたって言いたくないけれど。それは揺るぎない、確かな事実だ。

 だからこそさっきの降参は絶対に許せない所業だった。

 どうせ自分のような小娘の言うことなど、こいつは聞きはしないだろう。予想しよう。五秒後には「夜白。特訓がまだ残っているぞ」と言うに決まっている。

 夜白はひたすらにフェンスに向かって足を進める。階下へ続く扉に向かうには、忠虎の顔を見なければいけない。それは嫌だった。夜白はフェンスを乗り越える。

 強い風が夜白の黒髪を揺らした。そして五秒経つ。すぐ後ろから忠虎の気配がした。もう五秒だけ待ってみる。けれど言葉はなかった。

「…………何よ」

 夜白は地上に向かって飛び降りた。眼下にはグラウンドが広がっていた。瞬く間に地上が近づいてくる。

 特訓を急かす声はなかった。そのことに少しだけショックを受けている自分がいた。

「……バカみたい」

 忠虎のことか、それとも自分のことか。分からないまま言葉は宙に消えた。

                   ※※※                  

 夜白がつい今まで立っていた屋上の縁を、忠虎はただ見つめていた。

 なぜ声をかけられなかったのか。言うべき言葉はあった。関係性を考えれば「特訓がまだ残っている」と言うべきだった。それとも謝罪か。馬鹿な。自分のどこが悪いのか理解していないくせに上辺だけの言葉を口にしても、聡い夜白には即座に見抜かれるだろう。

 けれど、先ほどの自分に非があったことくらいは分かっている。それほどに夜白の言葉は真っ直ぐだった。

「……スカスカの命を対価にお綺麗な理想を手に、か……」

 的を射た言葉だと、忠虎本人が思っているのだ。あの時もそうだ。72年を眠るきっかけとなったシノとの戦い。シノと夜夜の二人からも言われた。

 ――死ぬつもりか?

 鈍い痛みが胸の中でうずいた。この痛みは負い目だ。口ではこの生き方に信念があると嘯きながらも、心のどこかで間違っていると分かっているのだ。

 忠虎は柵に背を預け、腰に佩いた国崩しに手をかけた。ついさっきまで夜白が握っていた柄は燃えるように熱い。

 確かな彼女の熱意がその温度に現れていた。それが例え完璧な正解ではないとしても、自分を信じぬいた想いには確かな熱量があった。

                   ※※※                  

 地に降りたった夜白は、足が赴くまま校舎に沿ってズンズン進む。すでに時刻は放課後。右手に広がるグラウンドには多くの生徒がいた。つい今しがた屋上から溢れ出した炎と、その後飛び降りた夜白を見た彼女たちは、こちらを見てひそひそと囁いていた。

 奇異の視線が鬱陶しくなった夜白は校舎の角を左に折れる。薄暗くなった校舎裏を歩く。しばらくすると十メートルほど先に花壇が見えた。煤でひどく汚れている。その周囲には

幼等部の制服を着た女の子たちが立っていた。

 少し歩みを進めると、彼女たちの表情が見えた。皆一様に暗い顔をしている。見過ごそうかと思ったが、なぜか夜白は足を止めてしまう。

 涙ぐむ子とそれを慰める子。

 彼女たちの視線の先には、恐らくは花であったであろう灰があった。夜白は慌てて反対側へ顔を向ける。校舎の壁には屋上から地上まで伸びる焦げたような跡があった。

「――ッ」

 夜白の中でバラバラだった何かが繋がる感覚があった。忠虎と夜々が下を気にしていたのは自分の放った炎が花壇を燃やしたからだったのだ。

 ――だからどうした?

 こっちは必死に戦っていたのだ。たかが花など気にしていられるか。

 夜白は涙ぐむ少女たちを鼻で笑い、花壇を過ぎ去る。

 堂々と一歩。平気な顔で二歩。しかし三歩目で足は止まり、

 四歩目は大きく踏み出していた。夜白は一目散に花壇から逃げ出していた。

 だからどうしたと、そう思えればどれだけ楽か。

 結局のところ自分は甘いのだ。正義だから、悪だから。全ては神代夜白の前に犠牲になれ。そんなことを言い切れるほど強くもなかった。

 どっちつかずの中途半端。

 ずっと自分で自分を知った気でいた。誰かを傷つけたとしてもそんなものは無視してきた……つもりだったのだ。今こうして誰かを傷つけたことで、自らが傷ついていた。そんな資格ないはずなのに。

 感情の赴くままに発動した魔法が、美しかったであろう花を、思い出や感情もろとも燃やし尽くす。無意識に悪意もなく。

 花はいずれ人となり、いつかは自分は誰かを殺すだろう。誰かにとっての大切な誰かを。

 夜白は立ちはだかる敵と、そびえたつ現実と戦ってきた。その全てを、振るう剣でなぎ倒してきた。

 たった独りで。

 夜白は足を止めた。歩きついた果ては行き止まりだった。ブロック積でできた壁はさほど高くはない。夜白であれば容易に飛び越えられる高さだ。何ならぶち壊したっていい。

 けれど夜白はただ薄汚れた壁を見つめた。周囲に人影はなく、水を打ったように静かだった。まるで世界に自分しかいないようで。それを証明するように自らの荒い呼吸だけが虚しく繰り返される。

 わがままな想いだと知っていながらも、無性に誰かに会いたかった。

 夜白の心に思い浮かぶ顔があった。けれど会えるわけがない。子どものように八つ当たりをし、自分勝手に拒絶した。どの面下げて会いたいなどと言え――

「夜白」

 忠虎の声がした。

 心臓が止まるかと想った。もしかすると本当に一瞬止まったかもしれない。それくらいに驚いた。ないまぜになった感情が吐きでそうになった。

 だがそんな顔だけは見せたくなかった。夜白は力づくで険しい表情を作り、振り返る。

「……何しに来たのよ?」

 拒絶感を全面に出した刺々しい声音。ここまで追いかけてきた人に対する態度ではない。

 そう思ったのだろう。忠虎は厳しい声で言った。

「まだ特訓が残っているぞ」

 やっぱり。言うと思った。

 甘い言葉を欠片でも期待した自分がバカだった。

 まあ振り返ったときに僅かに見えた安堵の表情と、それがバレていないと思っているであろう迂闊さで今は勘弁してやろう。

 夜白が心の中でほくそ笑んだ時だった。ふと忠虎の表情が変わる。張り詰めた雰囲気が緩まったような、年相応の顔に夜白は目を丸くした。

「届かない現実、と貴様は言ったな?」忠虎は丁寧に丁寧に言葉を紡いだ。「それを追いかける、と。……辛くはないのか?」

 必死に絞り出した声だった。だからこそ夜白も、同じ分の質量を持たせた言葉を返す。

「全く。これっぽっちも。だってそこに確かに存在するのよ? 現実は。手を伸ばさなきゃ届かないじゃない」

 辛いに決まっている。けれど手を伸ばさない限り、何も掴むことはできない。何もせずに後悔する方がずっと辛いはずだ。

「アタシからも質問」

 そう前置きしながらも、夜白は少しだけ迷った。だがここで口を閉ざすことが、たった今口にした自らの言葉を否定することに気づいた。

「何でアンタはお綺麗な理想を追いかけるの?」

 忠虎は怯んだ表情を見せた。けれど逃げることなく、ゆっくりと、輪郭のない何かを形にするように語りだす。

「……分からない。それが正しいことだと……強さだと、戦うことだと思っていたから。……済まない。そんな答えしか今の私には言えん」

 万能の英雄とまで呼ばれた名ウィザードが見せる、初めての弱さに夜白はすぐに言葉が出てこなかった。夜々が語ってくれた寝物語にも、弱音を吐くヒーローなどいなかった。

 今ここにいるのは東儀忠虎という一人の少年だった。

 しかし忠虎が弱さを見せたのは僅かな時間だった。少年の姿は靄と消え、代わりに万能の英雄が顔を出す。真っ直ぐな強い瞳がこちらを向いた。

「貴様は多くの間違いを犯している。けれど私に吼えた貴様は確かに強かった」

「アタシはいつだって強いわ」

 精一杯の虚勢に忠虎は微笑みながら肩をすくめた。

 二人は笑い合う。夜白はほんの少しだけ、忠虎と心の距離が近づいた気がした。気のせいかもしれない。でも気のせいではなければいいと、ちょっとだけ思った。

「特訓の続き……と行きたいところだが、少し疲れたな。夜白。気分転換をしないか?」

「……ちょ、え? ええ? 何よ!?」

 言葉と同時に忠虎に手を握られていた。強引に引っ張っていくゴツゴツとした男の手に、夜白は思わず妙な声を出してしまう。

「ついてこい。この街一番の景色を見せてやる」

                   ※※※                  

「この街一番って言わなかった? ねぇ、ねえ!」

 天防塔。その天辺で忠虎と夜白は柵に身体を預けていた。この街で最も高い場所から見る景色。それは筆舌に尽くしがたいはずだった。だが、目に映る風景は、

「ビルばっかで全然何も見えないんだけど! それともアリみたいな地上の人たちを見ろってこと!?」

 三六〇度全て馬鹿高い建物によりふさがれていた。沈みゆく夕日も、彼方に広がる雄大な稜線も。壮観だったはずの景色は72年の時を経てすっかり変わってしまっていた。そんなことも頭から抜け、意気揚々とここまで連れてきた手前、忠虎は苦し紛れに言う。

「見ろ! 抜けるような空じゃないか!」

 忠虎は空を見上げ、風に負けないよう大声で叫ぶ。

「そんなの学園でも見れるじゃない! ていうかそろそろ夕方よ!」相変わらずの辛辣な言葉だが、夜白の声は思ったよりも楽しげだった。

 忠虎は隣を見る。年相応の明るい笑みはこちらの気持ちも楽しくさせる。こうして改めて夜白と向き合うと嫌でも気づく。夜白は黙っていればそれだけで絵になるほどに美しい。

 見つめる視線に気づいたのか、夜白がわざとらしく作った神妙な顔で言った。

「街一番の景色はどうかしらぁ?」

「素晴らしいな。口を塞いでいてくれるとなおいいが」

「塞いでみる?」夜白が不敵に笑いながら、形のいい唇を指で差す。

「よしておこう。噛み殺されたくないからな」

 忠虎は吸い込まれそうな美貌から無理矢理に視線を逸らす。

 夕日が完全に沈みゆこうとしていた。言葉が途切れ沈黙が満ちる。それは不思議と嫌な静けさではなかった。隣の彼女もそう思っていればいいと、少しだけ思った。

 二人は黙って街を見下ろす。

 橙から黒へ。空が色を変え、街に夜の帳が降りる。街全体が闇に閉ざされたかと思うと、

 パッと咲き乱れる光の花。

 隣の夜白が感嘆の息を漏らす。天防の至るところで輝く灯りが、街を美しく彩っていた。

「あれは街の各所に設置された魔力に反応する灯り。数打級霊装〈祈灯〉だ。いわばこの街が起こす魔法と言ったところか。……まあ貴様ならば知っているだろうが」

 礼灯は古くは平安の世からあったとされている。勿論灯り自体は時代ごとに進化しているのだが、ここから見える景色は昔から何ら変わりない。

「知ってる。天防産まれ天防育ちよアタシ。それにしても〈礼灯〉をナンパで使う男なんて数十年以上前に絶滅したって聞いてたけど……ブフッ」

「違う! 違うぞ!! そういう意味でこの景色を見せたわけではない!」

 浮足立った忠虎が必死に言い訳をするが、夜白は追撃の手を緩めない。

「2017年にこのアタシを、こんな古臭い手で口説くなんて! ハハッ、可笑しい!」

 けれど彼女の視線は、決して光の花から逸らされることはなかった。

 時折あれを見ろ、こちらはこうだ、と人の肩を無遠慮に叩きながら天防の街を見渡す。

「で、あれが二神原学院で大っ嫌いなアタシのいとこが通ってるのよ」まるで寺院のような建物がこの街に六つある魔法士育成学校の一つであると説明してくれる。いとこを嫌いだと言いつつもその顔は楽しそうだった。この街には多くの思い出があるのだろう。

「この街が好きか?」

「別に」夜白はそっけなく言うが、視線は街から逸らされない。

「私は好きだぞ。……この景色だけは何も変わらん」街を見た忠虎はポツリと言う。内に秘めていたはずの1945年への未練がそう言わせた。横顔に夜白の視線を感じた。

 忠虎はごまかすように続けた。

「変わるとすればこの世から魔法が消えたときだけだ」

 光は住民が無意識に発散した魔力が、魔法式が刻まれた〈礼灯〉に反応することで起こるものだ。そこに人の意志は介入しない。ゆえに天防が起こす魔法と呼ばれている。

「……美女とこの景色を見てるのよ。もっとロマンチックな言葉はないわけ?」

「夜夜にも昔同じことを言われたな」

「……ふーん」夜白の纏う空気が急に刺々しくなる。「そういうこと。だからアタシの護衛引き受けたわけ?」

「は? 何を言っている」

「アタシが。アンタが昔好きだったお祖母様に似てるから。護衛を受けたんでしょ?」

 話に脈絡がなさすぎる気もしたが、夜白の表情は真剣だった。だが夜白の問いはてんで的外れなものだった。

「貴様は神代夜白だ。多少夜夜に見てくれが似ていようと、中身は全く別の人間だ。そして私は納得ずくで神代夜白の護衛になった」

 忠虎が真摯に答えると、夜白が目を見張った。

「それに夜夜は貴様と違ってもう少しお淑やかで、礼儀正しかったぞ。奴に似ているなどとあまり図々しいことを言うな」

「図々しいって何よ!」と叫びながらも言葉が続かない。思い当たる節があるのだろう。困った夜白は別方向から攻撃してくる。「……というか、好きって方は否定しないのね」

 忠虎は何も言わず肩をすくめた。いくら事実だろうと口にすることでもない。忠虎もまた疑問に思っていたことを尋ねる。

「なぜ貴様は国崩しを望む。……違うな。叶えたい願いとは何なのだ」

 国崩し、バベルの図書館。願いを叶える類の霊装をこれほどまでに望む理由は何なのか。忠虎はずっと気になっていた。

 夜白は顔を蒼白にした。その反応を見た忠虎は己の軽率さを恥じる。恐らくこれは夜白にとって根源的な問いだ。自分のようなものがしていい問いではなかった。

「済まなかった夜白。今の質問は撤回しよう――」

「昏睡状態のお母様を助けるため」

 忠虎は目を見張った。告げられた言葉もそうだが、それを言った夜白の様子に驚いた。

 夜白の視線は頼りなさげに逸らされ、声音もどこか弱々しい。幾度となく困難に挑み、同じ数だけ跳ね返された末の、絞り出すような言葉に聞こえた。そんならしくない姿に、忠虎は、

「私にも手伝わせてくれ」

 頭で考えるより早く心が叫んでいた。

 夜白が俯きかけた顔を上げる。大きな瞳から微かに雫が飛ぶ――いや気のせいだ。

 なぜならばその顔にあったのは、悲しみとはほど遠い感情。自信に満ち満ちた不敵な笑みだったからだ。

「当然よ。お母様にはアンタのこと、生意気な護衛だって紹介してやるんだから」

 生きろ、と憎まれ口の向こうで夜白はそう言っていた。何と温かい言葉だろうか。

「いいだろう。御母堂には貴様の悪事全てを暴露してやる。だがこれは……」忠虎は国崩しに手をやる。「簡単にはやらんぞ」

「言われなくても。こいつ《・・・》はアタシのものよ」

 夜白はどこかで聞いたようなことを言った。独居房で初めて出会った時、騙り、国崩しを掠め取ろうとした彼女にしては何とも清々しい笑みだった。

                   ※※※                  

 夜白たちは空間転移により天防タワーを降りた。本来ならば工事中のため立入禁止なので、こっそりと大通りへ出る。この辺りは『一ノ蔵』という地名であり、すぐ近くには天防駅がある。一ノ蔵は天防区きっての繁華街であり、昼夜を通し人が絶えることがない。そんな通りを二人は歩きだすが、なかなか前に進まない。

「おい待て夜白」

「いや、待てって言われても……アンタこそどこ行くのよ」

 忠虎は人混みに流されていく。上手く流れに乗って進まなくてはいけないのだが……あっ、忠虎がオジサンに絡まれている。

 夜白は忠虎の元に駆け寄る。忠虎の腕をとって路地裏に避ける。人気のないその場所では忠虎の声はよく響いた。

「私たちの時代はもっと皆大らかに生きていた。些細なことで怒ったりしなかった」

「老害みたいなこと言うわね」

 肩がぶつかって文句でも言われたのだろう。まあ東京で生活していればよくあることだ。

 東京都の人口過密問題に嘆く忠虎を尻目に、夜白は考える。空間転移で学園に戻るとするか。しかし、これだけの人がいる中で詠唱を使ったら、本当に逮捕されるかもしれない。

 そんなことを考えていると、ふと視線を感じた。

「…………(じー)」

 夜白の目の前に三、四歳くらいの小さな女の子がいた。こちらを無言で見つめていた。

「げ……」夜白は子どもが苦手だった。夜白が戸惑っていると、

「迷子か?」忠虎が身を屈め、女の子と同じ目線でそう尋ねる。「家族とはぐれたか?」

 自分に使う十倍は柔らかい声音だった。女の子にもそれが伝わったか、彼女は無邪気な笑顔を浮かべた。……何だろうか。なぜか今の笑顔が引っかかる。どこかで見たような……夜白が違和感の正体を探っていると、女の子が言った。

「みーがいなくなった」

「それは大変だったな」忠虎がくしゃくしゃと女の子の頭を撫でると、くすぐったそうに笑う。「ほらこうすれば見えるだろう」

 忠虎は女の子を抱き上げ、自らの肩に乗せる。

「すっごーい! たかいたかい! キャハハハハハ!」

「これはどうだ!」忠虎が肩車をしながら回転すると女の子が楽しそうに笑う。一気に打ち解けてしまった。和気あいあいな雰囲気だ。

 それがなんとなーく気に食わなくて夜白は、忠虎の脇腹を突っついた。

「ロリコン」

「知らない言葉だが褒めていないことだけは分かるぞ」忠虎が小声で言い返してくる。

 女の子が不思議そう顔でこちらを見下ろした。

「……けんか?」

「違う違う」忠虎は慌てて付け加える。「お兄さんたちもはぐれないようにしないとなーって話してるだけだぞ」

「そんな話してないんだけど」

「方便だろう!!」

 バカなやり取りをする自分たちをよそに、女の子ははぐれない、という言葉を咀嚼するように、大きな目をパチクリとさせた。

「おててつなげば?」

 二人は女の子の言葉に、呆けた顔を突き合わせた。

「そしたらはぐれないよ?」

 なぜ思いつかなかったのか不思議なくらい単純明快な答えだった。手を取り合えば容易に人混みも抜けられるだろう。

 いいや違う。人混みだけではなく――

「おーい! しーちゃん!! どこっすかー!?」

 夜白が重大な答えに至ろうかというところで、大きな声が思考を遮った。聞き覚えのある底抜けに明るい声。夜白は女の子に覚えた違和感の正体が分かった。

「みーだ!」女の子が群衆に向けて手を振る。人混みをかき分け、二人の前に現れたのは六星機女学園の制服に身を包んだ長身の女子生徒――鯉川だった。

 女の子……鯉川の妹は忠虎の背中から器用に飛び降り、鯉川に駆け寄った。

「しーちゃん! ここにいたんすね! どうもありがとうございま……あれ? トラタさんと」鯉川はあやすような声で続けた。「……しーちゃんのおともだちかなー?」

「おねーちゃんもあそぼうよー」夜白は笑顔で白光に手をかけた。

「おい、落ち着け夜白。鯉川も止めろ」忠虎は夜白と鯉川の間に割って入る。夜白を背にし、鯉川に声をかけた。「成程。貴様の妹だったか」

「はい。この子が末っ子の詩空しあちゃんっす」鯉川が女の子――詩空を紹介し、妹に険しい顔を向ける。「しーちゃん。勝手に離れたらダメっていつも言ってるじゃないっすか。知らない人に連れて行かれたらどうするっすか?」

「たおす」詩空の答えに鯉川がだらしなく相好を崩す。「トラ」詩空は得意げに忠虎を指差す。「ともだち」

「そうだな。友だちだな。詩空、こっちは夜白――」

「トラタさんと!」鯉川があからさまに忠虎の声を遮った。「知り合いになるとか、しーちゃんもやるっすね! うりうりうりー」

 姉に優しく撫でられ詩空はくすぐったそうに目を細めた。それを見た忠虎も微笑む。詩空を間に挟み、忠虎と鯉川が親しげに言葉を交わすのをただ見つめる夜白は、まるっきり蚊帳の外だった。疎外感で夜白の胸が僅かに疼いた。

「『みー』は美々美から来ているのか」

「家族にはそう呼ばれてるっす」鯉川が続けるであろうその先の言葉に、夜白は強烈な嫌悪感を覚えた。「トラタさんもそう呼んで――」

「――ッ」

 夜白は考えるより早く動いていた。胸に抱き寄せるように忠虎の腕を強引に引っ張った。

「じゃあさようなら。アタシたちこれから用があるから」

 胸の中の忠虎は何も言わない。それを良いことに夜白は平気で嘘をついた。

「夜白さん」

「忠告しとく。これ以上は止めといた方がいいわ。お互いに」

 感情の伺えない平坦な声の応酬。嵐の前の静けさにしておけばいい。しかし鯉川は止まらない。

「どうもありがとうございましたっす」鯉川の丁寧な口調の裏に僅かに怒りが滲んだ。

「妹の礼ならコイツに言いなさい」

「いえ、違うっす。三年前の件っす」

 身に覚えのない感謝に夜白は眉根を寄せた。いつもの笑みすら消し、こちらの反応を待っていた鯉川だったが、いくら考えてみても夜白は鯉川から感謝される理由が見当たらなかった。

 鯉川とは序列戦で初めて会ったはずだ。それ以外に接点などない。妹の件での感謝ではないとしたら……ダメだ。分からない。

「……全く覚えてないって顔っすね。アハハハ! さすがっす。それでこそ神代夜白っす」鯉川は乾いた声で笑った。「三年前。あなたは六星機女学園の入学を断ったすね?」

 確かに自分は三年前に六星機女学園の入学を断っている。

「あの年、六女の入試を受け、補欠合格していた人間がいたんすよ。でも天下の六星機女学園っす。補欠合格なんて不合格と変わらない。けど、奇跡的に一人分の欠員が出たっす」

 夜白の中で全てが繋がる感覚があった。三年前、自分が蹴った六女の合格枠に、鯉川が収まったのだ。

「それはもう嬉しかったっすよ。才能のない私が六女でやっていけるかなんて心配が吹き飛ぶくらいに喜んだっす。でも同時に何で欠員が出たのか不思議に思ったっす。そんな時私はある一つの記事を見たっす」

 夜白の頭に火花が散った。ようやく鯉川が言わんとすることを思い出したのだ。

「六女に通うなんて奴はゴミ以下。本当に才能があるウィザードは学校で学ぶ必要なんかない。あなたは三年前、記者に向かってそう言い放ったっす」

 三年前。夜白は六女の入学を断り、その話は世間に流れた。過熱する報道陣の中でも特に執拗に追いかけてくる記者が一人いた。面倒くさくなった夜白は、確かに吐き捨てるようにそう言った。相手は三流ゴシップ誌だった。本心を答えたわけではない。

 だが一切そう思ったことがないと言えば嘘だ。

「あなたがゴミ同然に放り捨てたものは、私にとって這いつくばってでも欲しかったものだった。あなたのおかげで私は六女に入れた。これで礼を言わずしてどうするっすか」

 鯉川が乾いた笑顔で告げる感謝は、どんな罵詈雑言よりも冷たい響きをしていた。

「そう。多大なる感謝受け取っておくわ」けれど夜白は表情一つ変えずに言い放つ。

「鯉川。それ以上は止めろ――」

 ずっと押し黙っていた忠虎が、鯉川を止めようと胸から抜け出した。けれど満面の笑みで呪詛を吐く鯉川を誰も止められない。


「ゴミだと……いやそれ以下の、存在すら認識していなかった人間に負ける気持ちってどんなものっすか?」


 夜白は脳でその言葉の意味を理解するより早く、白光を掴んでいた。

 気持ち? いいだろう。知りたいのならば教えてやろう。その身に刻みつけてやる。夜白が白光に魔力を送り込もうとした時、

 フッと、校舎裏で無残な灰となった花壇が頭をよぎった。

「……夜白?」動きを止めた夜白の手を忠虎が掴んだ。

「離して」

 気がつけば夜白は白光から手を離していた。炎を起こすための魔力は行き場を失い、宙に発散される。滞留した膨大な魔力は、街の至るところに設置された礼灯に向かった。

 礼灯は真昼のように眩い光を放ち、夜白の美貌を明るく照らした。

 それは明確な才能の発露だった。鯉川が礼灯を見て歯噛みをするのが見えた。

「話はそれだけ? 終わったんならアタシたちは失礼するわ」

 夜白は大通りに向かって歩きだす。消化されきれなかった怒りの炎は身体を巡り巡り、固く握りしめた右手にまで達した。

 大通りを目の前にし、立ち止まった夜白は耐えきれず右手を振り上げた。それを見た忠虎が心配そうに言った。

「……夜白」

「黙ってて、たかが護衛が今のアタシに話しかけないで」

 ことさらに明確な拒絶をしたはずだった。踏み込んでくるなと、悪意ある言葉ではねのけたはずだった。

 それでも忠虎は名を呼ぶ。もう一度。さっきよりもずっと強い声音で。まるで『たかが護衛』を踏み越えるように。

「夜白!」

 忠虎は振り上げていた夜白の右手を掴んだ。夜白は忠虎を睨みつけるが、彼は優しげに笑い、夜白の右手を自らの頬に持っていく。

「私を殴って気が晴れるならやれ。どうせ貴様の拳など私に効きはせん」

 からかうような言葉とは裏腹に柔らかな声音だった。彼の優しい笑みを目にして、夜白の中にあった怒りの炎が急速に萎んでいった。

「……行くわよ」

 結局夜白は忠虎を殴ることなく、人混みに向かって歩き出した。しっかりと彼の手を握り、夜白は大通りに入る。相変わらず混雑しているが、先ほどよりも、ずっと歩きやすかった。どちらかが人とぶつかりそうになっても、互いに手を引き、庇い、前に進む。

「このおかげだな」

 忠虎は繋いだ手を掲げながら、ずっと先に視線を向ける。夜白は黙って、忠虎の独り言のような声を聞いていた。

「ゆっくりとだが、ようやく前に進み始めたな」

 それは今踏み出したこの右足か。それとも他の何かを表しているのか。夜白は確かめることはしなかった。

 代わりに夜白と忠虎は同時に左足を踏み出した。

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