第3話 太平洋戦争の亡霊と囚人番号8番③
※※※
ふと誰かが呼んだ気がして、忠虎は目を開けた。
「……ん?」
眼の前には、あらゆる音と色が失われた静かな世界が広がっている。そこが海の底だと気づいた時には全てを思い出していた。自分は七篠シノに敗れ、海中に没し、こうして海の底に横になっていたのだと。
てっきりあのまま死んだものかと思ったが、何とか命を繋いだらしい。
「また生き延びたか」
死ぬ覚悟をしておきながら、生きていれば安堵する。未練がましい自らの心根から逃げるように忠虎は現状把握を再開しようと身体を動かした。
怪我の具合は……問題ない。シノとの戦いでは、かなりの大怪我を負った気がしたが。身体は万全だ。使い切ったはずの魔力も、充分に回復している。
「…………」
治癒魔法を使わずにあの大怪我が治るには、経験上少なくとも三ヶ月はかかるはずだった。戦争の最中、怪我を負ったことは一度や二度ではない。これは正確な見立てだ。そして勿論眠っていた自分は治癒魔法など使っていない。海の底にいることから、誰かに助けられたようでもない。
つまりシノとの戦いから、すでに三ヶ月は過ぎているということだ。
「――ッ!」
だとすれば急がなくては。一刻も早く戦線に復帰しなければならない。この国が戦争を継続する余力がないことは忠虎にも分かっている。敗けるであろうことも。そうだとしても、守るべき国が、人がいる以上、兵士たる自分は刃を振るい続けなくてはいけない。
その一心で忠虎は真っ直ぐに海面を見た。
忠虎を黒い靄が包む。それは系統外魔法〈空間転移〉の副次的な現象だった。
瞬間。忠虎は空中に姿を現す。視界は開け、広々とした海原が眼下に臨める。続けて空を見上げる。太陽の位置からして今は昼のようだ。
そこでようやく気づくものがあった。右手に握りしめていた朽ち果てたお守りだ。シノに破れ、海中へ没する時に伸ばした手はお守りを掴むことができたようだった。軍帽も外套も、胸にあった綺羅びやかな勲章もどこかへ消えてしまったが、それでもよかった。このお守りさえあれば他に何もいらなかった。
「……貴様が呼んだか」
先ほど夢で聞こえた声は夜夜だったようだ。少々品がなかったような気もするが。
とにかく彼女には会って礼を言わねばならないだろう。まずは詳細な状況を把握するため、本部に向かうべきだ。ここから最も近いのは当然、
「天防か」
目の前に広がる光景に、忠虎は呆然として立ち尽くしていた。
何やら面妖な服装をした人の群れ。思わず咳き込んでしまう汚れた空気。雑多な景色の数々は何もかもが目にしたことのないもので、まるで異国に紛れ込んだような不思議な感覚が身体を満たす。
「……いやそんなわけがない」
今日は何か祭りでもあるのだろう。空間転移により天防へと跳んできた忠虎は、自らに言い聞かせる。固まっていた足を、目的地である魔法省へ向けて無理矢理に動かす。
緩く折れ曲がった道、穏やかに流れる川。足を踏み出してみれば、心の中に仄かな安心感があった。不思議な光景から雑味を取り除くと、確信が心を満たした。
天防区。東京南東部に位置し、人口の九割が魔法士の、まさに魔法の街。ここには魔法に関するあらゆる教育機関、行政組織、関連企業が集中している。
不安が消え、忠虎の足取りも軽くなる。大通りに沿って道を進んでいくと、道路を挟んだ正面に、五階建ての緑色の建物が見える。魔法省だ。そこより視線を右に上げれば空高く伸びる赤い鉄塔があった。
この街の象徴的建物である『天防塔』だった。
天防塔に魔法省。馴染みのある建物を見て、忠虎は安堵の息を漏らす。
胸を撫で下ろし、忠虎は横断歩道を渡ろうと左右を見渡し、
『天防タワー 老朽化による解体工事のお知らせ』
「……なっ!?」呆けた声を出す。
すぐ右脇にそう書かれた看板が立っていた。意味を理解するより早く忠虎は天防塔に向かって駆け出していた。慌てて道路を渡ったため、車に警笛を鳴らされるが、気にしていられない。罵倒を背中に受けながら、たどり着いた塔周辺には柵が張り巡らされていた。その中では鉄帽を被った作業員が数多く作業をしている。
天防塔は完成したばかりだ。にもかかわらず解体工事とはどういうことだ。忠虎はほとんど飛びつくように、手近にいた作業員の襟元を掴んでいた。
「おい、貴様何をしている!?」
「え、えぇ! いきなり何だよ!」作業員がこちらを見て仰天する。
「解体とはどういうことだ! 天防塔は完成してまだ1年も経っていないじゃないか!」
「1年?」忠虎にとって当然の問いに、作業員はまるで異国の言葉でも聞いたかのように目を白黒させる。
そうして返ってきた答えは、今度は忠虎にとって異国の言葉だった。
「何言ってんだ兄ちゃん。72年の間違いだろ?」
確かにその時、呼吸が、止まった。忠虎はゾッ、と全身の毛が逆立つのを感じた。
「今年は2017年。天防タワーの竣工が1945年だから完成して72年。ちょうど太平洋戦争終戦の頃に建てられたんだな、そりゃあ劣化もするはずだ。……ん? おいどうした兄ちゃん。顔色悪いぞ?」
「ふざけるな!!」
忠虎は叫んでいた。
「な、何だよ……?」作業員が顔面を蒼白にしている。それを見て忠虎は我に返る。熱くなった思考を冷ますため作業員から離れ深呼吸。そして、
頬を思いっきり叩く。
「……落ち着け忠虎」
浮足立った心を痛みで引き戻した忠虎は、頬に大きな紅葉を作りながら、再度尋ねようと、背けていた顔を作業員の方へ向けた。
「監督こっちです! あそこに不審者が!」先ほどの作業員が仲間を連れ立って、こちらに来ていた。
「な、誰が不審者だ……!?」
そう言いながらも忠虎は天防塔に背を向け、全力で走り出していた。逃げる必要はないのだろうが、この状況で面倒を起こしている場合ではない。
忠虎は人の隙間を縫って、駆ける。このまま魔法省に飛び込もう。そう決めた忠虎だったが、またしても眼前に現れた光景に目を奪われる。
忠虎の視線の先にあった魔法省から出てきたのは、
「……師匠? 夜一師匠!!」
年の割に若々しい外見をした老女だ。彼女は神代夜一。夜夜の祖母であり、ただの糞餓鬼だった忠虎に魔法のみならず、人としての何たるかを教えてくれた恩人だった。
師匠は建物前の広場に停めた車に乗り込もうとしていた。彼女はこちらに気づく様子はなく、こちらも追いつける距離ではなかった。明らかに間に合わない。
忠虎は駆けながら小さく呟いた。それは詠唱。忠虎は口頭により魔法式を組み上げる。
その声は大気を震わせ、辺りに伝播する。異国の言葉のような不思議な音に、忠虎の周囲にいた通行人が足を止めた。
その視線が忠虎に向かう、より早く。
突然、通行人たちが一斉に倒れ伏した。
それが魔力を帯びた詠唱を聞いたからだということに、彼らが気づく暇はなかった。
忠虎の姿が黒い靄を残し、掻き消える。〈空間転移〉の発動だ。
次の瞬間、忠虎は建物前の広場に跳んでいた。唐突に現れた忠虎に周囲の人間がギョッとする。
眼の前には黒塗りの高級車と、目を丸くした師匠の姿がある。
忠虎は敬礼をし、覇気の篭った声で言う。
「東儀忠虎大尉帰還いたしました!」
軍人として現状で確認すべき事項はいくらでもあった。米英の大規模戦略魔法、各方面の戦況、新型暗号の進捗。けれど全てを吹き飛ばし、人間としての東儀忠虎が言った。
「夜夜は達者でしょうか!」
ふと、師匠の胸で揺れる白いお守りに気づく。忠虎はすぐさま懐から同じものを取り出す。今、手にしたものは朽ち果ててはいたが、師匠のものと同じものだった。
このお守りは世界にたった二つ存在する。一つは作った夜夜本人が。もう一つはシノ討伐に出陣する際に忠虎が夜夜からもらったもの。
「……っ。貴様まさか――」「あなたは――」
老女が目を見張る。二人は同時に到達した答えを口にしようとした。その時、
「っ! この不届き者どこから現れた!」
大声が忠虎の思考を切り裂く。声に視線を向ければ、魔法省内から長身の女が旋毛の如き速さで駆けてくるところだった。
忠虎の前髪を風が揺らしたかと思うと、いつの間にか拳を油断なく構えた女が老女を背にして立っていた。その鋭い美貌は激しい熱を帯びている。
年は二十歳を越えたくらいか。身を包む白い軍服は忠虎と同じく海軍のもの。大きな瞳は釣り上がり、桃色の唇は固く引き結ばれている。纏う鋭気は抜き身の刀のような印象だった。 そして最も特徴的なのは、女性ながらも百八十糎にも届こうかという長身だった。
女の長い手が忠虎との間合いを図るように伸びた。五米はあろうかという距離が半分は埋まったような錯覚を覚えるほどだ。
「いけない、手加減!!」老女が慌てて叫んだ。
答える声は二つ。
「無論のこと」「勿論です。ご隠居様!!」
忠虎と女。同じことを答えた二人は、同じく拳を握る。
剣呑な雰囲気に、周囲にいた通行人たちが一斉に逃げ出す。悲鳴が木霊する中、女は冷静な声で言った。
「賊、一つ言っておく。私は国魔取得者だ。怪我をしたくなければ、さっさと立ち去れ」
「国魔?」
聞き覚えのない単語に、忠虎は首を傾げた。
「そんなことも知らんとは、お前は山にでも篭っていたのか?」女が怪訝そうな瞳で続けた。「〈国家認定魔法士〉。国家魔法士上級甲種試験の合格者をそう呼ぶ。この日本において総勢二十数名しかいないウィザードのことだ」
やはり知らない言葉だ。だが警戒はすべきだった。難関な資格をくぐり抜けた魔法士だからではない。冷静な女からは一欠片の驕りも見えないからだ。
「で、どうするのだ?」女が問う。
言葉の代わりに、忠虎は強く地面を蹴っていた。ほんの僅かに遅れて女が動き出す。彼女の顔には少量の驚きが滲んでいた。だがそれを跳ね飛ばすように彼女は吼える。
互いの距離は一瞬で縮まる。だが忠虎の瞳は女の指一本の動きすらも、はっきりと捉えていた。
女の左拳が忠虎の腹部めがけて迫ってくる。自らを総勢二十数名の中の一人というだけあった。音速に至ろうかという拳は喰らえば、無傷では済まない威力をはらんでいた。女の貼り付けたような無表情が、勝利を確信したのか僅かに笑みへと変わった。
しかし、女の必殺の左拳はあっけなく空を切る。黒い靄を残し、姿をかき消した忠虎は、空間転移によって女の背後十米ほどの場所へ跳んでいた。
慌てて振り返った女は、驚きですでに開かれていた瞳をさらに見開く。
視線を受けた忠虎は魔法を発動させるため、詠唱をしていた。だが女のそのあまりの驚きように、僅かに違和感を覚えた。
「……詠唱は禁じられているはずじゃ――」
女が何かを呟く。だが強く地を蹴り、女に迫っていた忠虎には聞き取れなかった。一瞬で眼前に迫った女に向かって忠虎は蹴りを繰り出す。帝国海軍式武闘術〈隼廻〉。独楽のように鋭く横回転し、青い炎に包まれた踵が彼女の顎を撃ち抜いた。トン、と微かな打撃音が響く。
女の身体が糸の切れた人形のように体勢を崩す。膝から崩れ落ちる女は、驚愕に染まった表情で口を小さく動かす。
「……お、まえ。今の詠唱は……」
一撃で意識を刈り取るつもりだったが、まだ口を開く余力があるとは。だが言葉は倒れ際に言うほどのことでもなかった。誰でも使う詠唱が何だというのか。
意識を失うゆえの戯言だろうと結論づけた忠虎は、落ち着かせようと女に言った。
「手加減はした」
「手加減……? ご隠居が……言った、のは? 私、では……なく。お前、に……?」
「直に動けるようになるはずだ」忠虎は倒れ行く女を抱きとめた。そしてゆっくりと地面へ寝かせ、老女へ向き直る。「そうか。やはり……そういうことか」
魔法省前の広場。忠虎は老女の前まで歩み寄る。
向き合う二人の間を一陣の風が吹いた。もう回りには自分を邪魔する者はいない。心も驚くくらいに落ち着いている。そして目の前には忠虎の不可解を一刀の元に解決してくれるであろう人がいる。
それにもかかわらず、なぜか忠虎の口は鉛を含んだように動かなかった。
「忠虎先輩」
その声音は、その響きは。何よりこちらの恐れを解きほぐすためにかけられた言葉に、止まっていた忠虎の時間が動き出す。
「夜夜……なのだな?」
「先輩……なんですよね?」
長い時の隔たりが、二人に探り探りな疑問混じりの会話をさせる。
「長い時が経ったのか……?」
「はい……72年です」
72年という途方もない数字以上に、夜夜の様々な感情を含んだ表情が時の経過を感じさせた。既知の友でありながら、知らない人間のようで、そんな奇妙な感覚に忠虎は上手く声が出せなかった。
「お守りに」
けれど沈黙を壊すように夜夜が口を開く。
「先輩の身に何かあった際、生命活動を維持させる魔法を組み込んでいたんです」
唐突に挟まれたのは、忠虎が72年もの間無事に生きていた理由だった。
「そうか。礼を言う」
今度はしっかりと声が出せた。
それは命を永らえさせてくれたから。そのことに対する礼だから、だけではない。
72年経ったとしても未だに友だと、
夜夜が教えてくれたから。
「ありがとう」
「……いえ、いいんです。先輩が無事だっただけで」
白いお守りを一瞥した忠虎は、夜夜に向かって深く頭を下げる。
顔を上げ、見つめた老女は柔らかな笑いを浮かべた。忠虎が最も好ましいと思う彼女の表情だった。例え彼女がいくら年を取ったとしてもそれは変わらない。
神代夜夜。
忠虎と同じく帝国海軍第205特殊遊撃小隊の魔法士だ。あの戦争では共に各地を転戦した同僚であり、神代夜一に師事した兄弟弟子であり、同じ青春を過ごした友人でもあった。
一言で言えば、夜夜は天才だった。魔法士の名門神代家に産まれ、神代家の通字である『夜』の文字を二つ戴いた才人。名家の名に恥じぬ実力を持って戦地では輝かしい戦果を上げてきた。〈時空の魔女〉の異名を持ち、時間を操る特殊な魔法で勇猛に闘う姿は、劣勢に陥った日本軍に差す一筋の光でもあった。
「一つ質問させてください」
先ほどの笑顔から一転。夜夜の声は有無を言わせぬ強さを帯びていた。
「最初から死ぬつもりだったのでしょう」夜夜の言葉はどこまでも真っ直ぐだった。「1945年7月20日。先輩は私に哨戒任務と偽り出撃しました」
「……命令があった」
「『刺し違えてでも七篠シノを抹殺せよ』軍は幾度となく日本を救った万能の英雄を、碌に休養も取らせず、物資も与えず、増援もないまま送り出した。こんなものはただの死刑宣告です。聞く必要なんてなかったんです」
1945年7月の時点で、もはや日本に戦争を継続する余力はなかった。だからこそ、乾坤一擲の策として、日本にとって最大の敵であり、最大の脅威であった七篠シノ本人の抹殺を図ったのだ。
この時すでに高名な魔法士のほとんどが戦死していた。かろうじて戦力と言えたのが、自分と夜夜だ。
名家の美しき天才児と、運良く生き残った生まれも定かではない男。一か八かの策に投じる戦力として選ぶならば、勿論後者だ。
こうして東儀忠虎は単身七篠シノへ挑んだ。結果は当然のごとく敗れ、72年間海の底で眠ることとなった。
「兵は命令に従うものだ」
忠虎は表情を変えずに平然と言った。何か言い募ろうとした夜夜を制し、忠虎は無理やりに続けた。
「今度は私の番だ」忠虎はその先を続けることに強い嫌悪感を覚えた。それでも知らなくてはいけないことだった。「……添い遂げた相手がいたのだな?」
「…………はい」
夜夜の左薬指に指輪が光っている以上、問う意味はなかった。けれど夜夜の頷きは忠虎の心を千々に切り刻んだ。すでに伴侶には先立たれ、今は子が三人、孫が四人いるというところまでは話を聞けたが、伴侶がどのような男だったのかまでを知る勇気はなかった。
当然のように会話が途切れる。
忠虎は卑怯な自分に吐き気を感じながらも、沈黙を埋めるように空々しい問いをかけた。
「日本は敗けたのか?」
「……はい」そう頷き、夜夜は世界が辿った72年を語る。その優しさに忠虎は心の中で感謝した。
太平洋戦争で米国に敗れた日本は、米国による占領統治を受け、著しい戦後発展を遂げた。現在は中露の影響を受けながらも、米国の同盟国としてある程度の立ち位置を保っている。
そこまでを夜夜はかいつまんで説明する。敵国である米国の同盟国であるという部分では眉をひそめた忠虎だったが、夜夜の伴侶について知るよりかはよっぽどマシだった。
ただ一つだけ夜夜の説明で気になる点があった。戦後に魔法の使用を制限する条約が締結されたというものだ。
「夜夜。先ほどの……」
と、言いかけたところで忠虎は口をつぐむ。辺りを見回すと魔法省周辺に人が集まってきていた。
「少し場所を変えましょうか」同じく周囲を見回した夜夜が、黒塗りの高級車へ視線をやった。「運転は私が。先輩は千翼をお願いします」
倒れ伏している女の名は代戸千翼だと、夜夜が教えてくれる。運転席に乗り込んだ夜夜に続き、忠虎は後部座席の扉を開き、代戸を寝かせる。
忠虎が助手席に乗り込むと、夜夜が言った。
「先輩。危ないのでシートベルトをしてください」
「敵性言語を使うな!」
「うわ! 急にビックリした!」夜夜が驚いた顔でこちらを見る。「……敵性言語なんて、久しぶりに聞きましたよ」
戦時中、敵国の言葉――敵性言語を使うことは固く禁じられていた。反射的に言った忠虎だったが、ここは72年後の日本であり、敵性言語の使用に問題はないのだ。
だがそれでも、忠虎は米国の言葉を使うことには忌避感があった。
「えっとじゃあ…………それを、えっと安全帯を付けてください」夜夜は戸惑いつつも指で忠虎の肩口にあった帯を指す。
忠虎は言われたとおりに安全帯を装着する。三人を乗せた車は静かに走り出した。
「この子と……千翼と戦ってみてどう思いましたか?」
車は発進してすぐ赤信号に捕まった。停車した車中でかけられた問いに忠虎は答える。
「筋はある。だが……」
「だが?」
「弱くなっている。私たちの時代とは比べ物にならないくらいに」
忠虎はそっと後ろを振り返る。代戸はまだ眠っていた。視線を夜夜に戻す。
「千翼のせいではありません。〈ローザンヌ条約〉。軍用魔法、とりわけ〈詠唱〉を禁じた条約のために、現代の魔法士は魔法式を組むことができなくなっているのですよ」
「魔法式を組めないだと? ではどうやって魔法を起こすのだ」
忠虎が聞き返すと、夜夜は深刻そうに眉根を寄せた。
「霊装にあらかじめ魔法式を記録しておくんです。そこに魔力を通し、魔法を発動させる。それが今の魔法のやり方です。戦闘中に魔法式を組み上げていた昔とは違い、随分と簡素化したんですよ」
「……まあ理にはかなっている。だが、それでは魔法式への理解が疎かにならないか?」
「その通りです。現代のウィザード《・・・・・》は魔法式を理解することはせず、あらかじめウォンド《・・・・》に記録されたインスタントな魔法を振るう。個人が覇を競った時代は終わったのです」
夜夜の声には明らかな失望が滲んでいた。
信号が青になり、車が動き出す。夜夜は繕ったような明るい声音で言った。
「だから先輩もあまり衆目にさらされる場所で、詠唱を使うのは止めてくださいね」
忠虎が頷こうとした。その時後ろから大きな寝ぼけ声が聞こえた。
「お、お嬢様ぁ! 壊したこと黙っとけって、無理ですよぉ! …………んえ?」
忠虎が振り返ると、代戸が目を白黒させていた。状況を理解したのか、代戸は表情を引き締め言った。
「ご隠居様。〈九龍の魂魄〉は無事ですよ」
何のことかは分からないが、絶対壊してるだろう、と忠虎は内心思った。
「今後どうするおつもりですか?」
車が走り出し、十分ほどが経っていた。窓から見える景色が、都会の喧騒を抜け、色とりどりの草花が見え始めた頃に夜夜が言った。
「軍に戻る」
忠虎の言葉に、夜夜の眉がひそめられた。「軍はもうありませんよ」
「軍がない?」忠虎は振り返り、代戸が纏う白い軍服を見つめる。「ならば、貴様はどこに所属しているのだ?」
「海上自衛隊特別警備隊所属だ。というかお前こそ誰なんだ。ご隠居様に偉そうな口をきいているが」
「東儀忠虎大尉だ」
「大尉……? 今はそのような階級はないが…………ッ!」
代戸がギョッとした目で夜夜を見ると、彼女は運転しながら頷いた。どうやら説明を重ねる必要はなさそうだ。
代戸はしばらく固まったように動かなかったが、ふいにこう言った。
「私は三等海佐……少佐だ! 私の方が階級が上なのだから敬語を使え!」
「今重要かそれ……?」
「いえ、先輩は
「貴様は貴様でまだ本当は怒っているだろう……」
話が逸れてしまった。忠虎は気を取り直し、尋ねた。
「自衛隊とは何だ? 軍とは違うのか?」
忠虎の疑問に、車内の空気が凍る。この疑問を掘り下げると、ややこしいことになりそうだ。とにかく、軍隊のようなものがあるのならば問題ない。
「自衛隊に入る」
「太平洋戦争で数々の武勲を立てた〈二〇五小隊の東儀忠虎〉が周囲に与える影響は大きい。あなたが保有する情報、知識、技術を狙う者が必ず現れるでしょう」夜夜は真剣な声音で続ける。「利用されるだけならまだ良い方です。最悪排除しようとする者も現れるかもしれません」
「構わん。負ける気もせんし、死んだならばその程度だというまで」
間髪入れずに言葉を返すと、夜夜が表情を暗くする。しまったと思うが、もう遅い。
「私は軍人だ」
そんな風に後悔しながらも、言い足した自分は救えない愚か者だ。
「ご隠居様に謝れ!」代戸が声を怒りに震わせ、叫んだ。
車内に殺気が充満する。代戸の拳が、今この瞬間背後から忠虎を貫いてもおかしくはなかった。
それでも忠虎は振り返ることなく、窓の外を流れる景色に目をやった。
戦うことすら放棄した卑怯者に失望したのだろう。代戸が鼻を鳴らし、殺気を収めた。
忠虎は淡々とした態度で続けた。
「夜夜。何か考えがあるのだろう? 言ってみろ」
夜夜は大きなため息の後に答えた。
「戦死したと思われていた東儀忠虎がすでに失われかけている〈詠唱〉の技術を保持したままこの時代に現れた。それが知られれば日本のみならず世界各国があなたに接触しようとするでしょう」
夜夜が恐る恐るといった様子で、人差し指を立てた。
「……身分を偽り、私の元で働いてもらうというのは――」
「私は何をすればいい?」
振り返った忠虎は提案に即答する。夜夜が目を丸くした。
「……私に利用されているとは思わないのですか?」
「敗残兵に利用する価値はあるか?」
「敗残兵なんて……そんなの充分過ぎるほどにあります」
「なら使え。私は貴様の剣となろう」
「……口説き文句みたいですね」夜夜が優しげな笑いを浮かべるが、すぐに表情を引き締め続けた。「今度こそ捨てるような真似は止めてください」
「……善処する」
静かながらも強い声音に忠虎は思わず頷く。だがそれが本意ではないと彼女も気づいたのか、しばし沈黙があった。
「まあいいでしょう」沈黙を破り、夜夜が厳かな口調で言った。「最初の指令はとある要人の警護です」
「要人とは犯罪者か?」忠虎は間髪入れず答えた。
「……なぜ分かる?」怪訝そうな声で代戸が言った。
忠虎は外へ視線を向けた。いつしか車は左右に木々が生い茂る舗装道を走っていた。緑の並木道が高速で流れていく。忠虎の膝に落ちる影が唐突に途切れた。
海。
視界が開け、透き通るような青が忠虎の眼前に広がった。降り注ぐ陽光と、空と海の青が映る風景はここが島であることを教えていた。
「ここが監獄島である〈兄ヶ島〉だからだ」
恐らく夜夜は忠虎が力を貸すと確信して、最初から兄ヶ島へと向かっていたのだろう。空間転移を使い、無人島である兄ヶ島へ跳んだのだ。
「だがいつ跳んだのか気取らせない腕は、さすがのものだ夜夜」
言葉と共に車は停車した。二十米ほど先に建物が見える。装飾を一切削ぎ落とした簡素で無機質な装いをしていた。建物の周囲には多数の警備員が油断なく小銃を構えている。
夜夜がこちらに笑いを向ける。
「名は囚人番号8番。村一つを地図から消し去った凶悪犯です。本ッ当に気性が荒いですから。ねえ? 千翼」その笑みの奥には慈しみが垣間見えた。
「いや、あのえーと。ワタシからは非常に言いにくいことでして」
代戸がなぜか言い淀む。対象の要人は彼女たちに近しい人物なのかもしれない。
三人は車を降り、後ろの荷台へ向かった。
「ですのでこれを持っていってください」
代戸が荷台から布に包まれた長物を取り出し、差し出してくる。それに触れ、気づく。
「国崩し……貴様取り返してくれたのか」
忠虎は逸る手付きで布を開く。中からは白鞘の大太刀が出てくる。忠虎の霊装であり、シノに奪われた国崩しだった。
「ええ。朝飯前の任務でした」
「そうか……そうか。ありがとう」忠虎は深々と頭を下げる。
「……いえ、いいんです。それより先輩。国崩しだけじゃありませんよ」
夜夜に言われ、布を開けばもう一振り日本刀が出て来る。
「名は
忠虎は白光と呼ばれた刀を見つめる。飾りのない無骨な刀だ。各地を転戦してきたのだろう。ところどころに傷がある。鞘から抜く。刃は鋭い銀色を光らせている。充分に手入れが行き届いている証拠だった。
霊装は持ち主の性格を色濃く映す。
「白光の主人はかなり腕が立ちそうだな」
夜夜は忠虎の言葉に肩をすくめた。
忠虎は国崩しと白光を腰に差す。鼻をつく潮の香りと、遠くから聞こえる波のさざめきに、改めてここが島であることを思い出させる。
だが今は絶海の孤島より、白光の持ち主だ。この霊装を使う魔法士はどんな人物だろうか。
「入場手続きは済んでいますので、あちらの入口から――」
「あぁ。行ってくる」夜夜の言葉も半ばに、忠虎は息を吸うように空間転移を発動した。
「「あっ」」
虚空に消え行く忠虎の耳に二つ分の驚きの声と、警報によく似たけたたましい音が届いたような気がした。
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