第06話 ノアの方舟へようこそ
旧約聖書、創世記。ノアの方舟物語は第六章から第九章にかけて登場する。
そんな洪水神話の舞台に降り立ったわたしが最初に抱いた感想は「なにもない」だった。
「シショー、この辺緑もなにもないッスね。のどかな牧草地を期待していたのに、とんだ荒原ッス」
「そうだな……。草木も枯れてるし、土色の大地も剥き出しだ。まだ洪水が起きる前の世界にやってきたと思うんだけど、もしかして既に洪水が引き起こされた後だったりするんだろうか……」
「洪水って、いつ起こったンスか?」
「一応信憑性のある話だと、紀元前二三〇〇年頃かもしくは紀元前三〇〇〇年頃と言われているよ。聖書に日付は書かれているけど、年代までは書かれていないんだ」
振り返ってマナちゃんの方を見る。……おっと、そういえば服装が変わっていたことをすっかり忘れていた。
黒に近い濃いめのノースリーブのインナーシャツに下は色の薄いショートパンツ、緑色と灰色の混ざったような少し丈の長めのフード付きパーカーが彼女の物語に出かけるときのスタイルだ。奇抜すぎずどんな時代、場所でも違和感がなく、案外その格好についてとやかく言われることは少ない。フードを被ったり脱いだり、またパーカーの紐を引っ張ったりと手持ち無沙汰になっても退屈しないからと、このパーカーはお気に入りらしい。
全体的に少し露出が高いこともあり、さらにパーカーの丈が中途半端すぎて後ろから見ると何も穿いていないように見えてしまい目のやり場に困る。だが前に一度指摘すると「安心してください、穿いてますよ」と言いながら何故か下着を見せてこようとしたので、それ以来思っても口にしないように心がけている。
「カレンダーとかどこかに落ちてたりしないッスかねぇ」
流石に紀元前のカレンダーは見たことがない。
しかし何か手がかりはないかと二人であちこちを歩き回っていると、遠方に草の生い茂る不思議な空間を見つけた。
「マナちゃん、とりあえずあそこに行ってみよう。何か手がかりが得られるかもしれない」
「おおーっ、何なんスかアレ、植物で溢れかえってるじゃないッスか。もしかして植物園ッスか!? 入園料とか必要ならどうしようもないッスね」
「うーん、貨幣経済はまだ始まっていないんじゃないかな」
まず最初に思うことが入園料なのか……。
とにかくその植物園、じゃない森林地帯のような場所に向かって歩いていく。
砂を踏む度に砂利のぶつかる音が響き渡る。マナちゃんは分厚いサンダルを履いて身長を嵩増ししているのだが、むしろ子供が必死に背伸びしているような印象を受けてしまい逆に子供っぽく見えてしまう。
ちなみに、興味はないだろうがわたしの格好は物語の中身に合わせて勝手に変化――はしないのだが、マナちゃんがどこからか衣装を取り出してくる。そして早着替えにより自然とその物語に合わせた格好で冒険に出かけられるのだ。
全身を麻布で覆い、皮革の外套を身に纏えば、ごく一般的な現地住民の出来上がりである。
ご都合主義? 何をいまさら。
周囲は岩肌むき出しの荒れ地の中、不自然なほどに樹木や植物で生い茂っている空間に入っていく。
人喰い植物でも居て食べられるんじゃないかという不安もあったが、一応外からでも中の様子がわかるくらいの低木林が多く、その多くは実をつけているため、どうもここにあるのは果樹ばかりらしい。
「美味しそうッス。これだけたくさんあれば一つくらい食べちゃっても……だいじょーぶッスね? そもそも食べられるんスかこれ?」
「うーん。これだけ大規模に作られているとなると多分果樹園というか、造園みたいな感じだな。誰かが育てていると思うから食べられないってわけじゃないだろうけど、勝手に食べるのはどうかな」
「モグモグ……え?」
目にもとまらぬ早業!
ちょっと目を離したスキにあちこちの樹から手当たり次第に果実を取って口に運んでいる。リスがどんぐりを頬張っているように見えて可愛らしいのだが、冷静に考えるとただの畑泥棒である。
果実と一口にいってもその種類は様々で、真っ赤な林檎もあれば、ひょうたん型のイチジクのようなものもあるし、緑色の楕円形の果実もあった。
「んぐっ!……これは、ちょっと苦くて食べられないッス……。種もいっぱいあってちょっと……」
マナちゃんの口から白い果汁が滴り落ちる。眉をひそめながら口を拭うその仕草を見ていると、なぜか背徳感を抱いてしまう。決してさっき口に入れた緑色の果実が野生のバナナだからってわけじゃないかんだからね!
「そういえばリンゴって楽園の果実でしたっけ。聖書に登場した知恵の実ってやつッスね」
「それに関しては諸説あるんだけど、もうすっかり林檎が知恵の樹の実のモチーフとして用いられているんだよなあ。禁断の果実は林檎であるってことが創作の中では定説って認識で良いんじゃないかなぁ」
「つまりここは禁忌の果樹園ッスね。禁断の果実取り放題ッス!」
「……なんでそんなにテンション高いの?」
「いやいや、だってシショーと一緒に物語を冒険できるんだからテンションは最高潮ッスよ」
「書斎では割と大人しめなのにね。もっと絡んできたら良いのに」
「そりゃあ書斎ではシショーとセンパイとのやり取りの邪魔をしないように心がけてるからッス。書斎ではセンパイのターン、物語の中じゃマナちゃんのターンッス」
なんだろう、その紳士協定みたいな感じ。この場合は乙女協定とでもいうのか。
「とりあえず、もう少し奥まで進んでみようか」
摩訶不思議な空間の、樹木スペースの向こう、区画取りされた畑のように見える箇所に向かって歩いていく。
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