第3章 七夕の日に

第 3 章 七夕の日に


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 夕暮れの日が、学校の廊下を照らす。オレンジ色の光が窓から差し込み、眺めがいいなと思いながら階段を下りる。

 今日一日、本当に何もなかったな。いつも通り授業を受けて、いつも通り友達とお喋りして、いつも通り帰宅する。でもそれが、楽しいと感じるのだ————という妄想はさておき、今日もまた一段と疲れた。主に精神的に。

 大体さあ、おかしいと思うんだよね。みんなして私に押し付けてさ。

 夜野先生がこの学校を去って、当然宮原先生もそうなのかな、とか思ったのに。宮原先生は今も尚、理科の先生を続けている。別にここまではいいよ。何の問題もない。まあちょっと『何で妖怪として目的は達成したのに、教師続けてるんだろ』とか不思議に思ったけど。

 そう。残念な事に、私は未だ現在理科の教材を運ぶやら何やらの手伝いをしなくてはならないのだ。……うん、意味分かんないよね。ほんと。

 でも仕方がないのだ。たとえ嫌だと思っても、同じクラスの人が言った事で、今更取り消しなんて"いい子"を演じてる私に、許される筈がない。

 という訳で、私は今学校の理科室にいる。

 「雨水、ありがとね。今日も手伝ってくれて」

 クラスの人数分集めた理科ノートを宮原先生に渡し、お礼を言われる。

 「いえいえ。……一ついいですか?」

 「なんだい?」

 「何で私が…………み、宮原先生は、何で教師を続けてるんですか?」

 本音が出そうになり、何とか質問を変えて笑顔を取り繕った。無理があったとか思ってない。

 「何で、かい? そうだねえ。少しだけ、この"仕事"を気に入ったからかな。安心しな、もうあの空間に閉じ込めたりなんかしないから」

 いや別にそこはもう気にしてないです、はい。

 「それは安心です。もう他に手伝う事はありませんか?」

 「ああ、もうないよ」

 「そうですか。じゃあ私、帰りますね」

 「気をつけるんだよ。今の時刻は、色々危険だから」

 「はい。分かりました」

 理科室を出て廊下に置いてあるランドセルを背負い、靴箱に向かう。

 ふと、思い出した。

 この前、あの変な空間に閉じ込められた時の事を。気を失う直前の、宮原先生のあの申し訳なさそうな顔を。

 あれはどういう意味でその表情になったんだろう。

 宮原先生が言うには、私はただ巻き込まれただけ。先生は巻き込まれただけの私に、同情しただけなのだろうか。だから、申し訳なさそうな顔をしたのかな?

 あれこれ考えてるうちに、靴箱に着く。靴箱には私以外の外靴が一つもなく、それがもう学校に残ってるのは私だけなのだと物語っていた。

 「はあ……」

 慣れている。慣れているが、思わずため息がこぼれた。

 どうしても何で私がって思ってしまう。たとえそれが、自分が蒔いた種だとしても。

 「——お疲れさま」

 「あ……。居たんですか、死神さん。もう居ないと思ってました」

 「酷いなあ。ボクは出来る限り、キミの近くに居れるようにと思ってるだけなのに」

 「それ、一歩間違えれば犯罪者のセリフですよ」

 「なら間違えなくて良かったね」

 「そうですね」

 他愛のない会話をしつつ、歩き始める。

 「そういえば、明日七夕ですね」

 「七夕?」

 「知らないんですか……?」

 「ううん、知ってるけど……。急にどうしたのかなって」

 「いえ、特に深い理由はないですよ」

 不思議がる死神さんに、私は笑みを浮かべそう言った。

 七夕の日は、笹に短冊を結ばず、お願い事を心の中で呟く。誰に、なのかは自分でも分からない。そうしたところで、その願いは叶わないと悟っているから、正式な手順を踏んでまで願い事はしない。これは私なりの七夕のルールだ。

 今年も私は去年と同じ事を願うだろう。死神さんに叶えてもらうのとは訳が違う、願いを。

 「キミは何か願い事があるの?」

 「ありますよ。もちろん!」

 「どんな願い事?」

 「それは秘密です」

 胸の前で人差し指を重ね、小さな×を作る。

 すると死神さんはそれは仕方ないね、と穏やかに笑った。

 そういえば、と私はまた話を変える。

 「この前、言いましたよね。私が誰かに似てるって」

 「言ったよ。あ、誰か分かった?」

 「いえ……。でもそれって、死神さんが関わった人間の事……ですよね?」

 「そうだよ。……今はキミがそこまで理解出来ていればいいよ。だからもう答え合わせは終了」

 「え?! 早くないですか」

 「まあ、また今度同じような問題出すから、それを楽しみに待っておいてよ」

 何だかよく分からないが、死神さんからの課題は終了し、また死神さんから別の課題が出されるようだ。そういう遊びなのかな。だとしたらちょっと楽しい。

 死神さんの事が知れて、尚且つ無駄な雑念を振り切る事が出来るんだ。しかも遊びなら、死神さんが飽きるまで、という事だろうし。

 最近気付いたが、どうやら私は何かに対してじっくり考え、答えを予想するのが好きらしい。

 一時期それで自らの首を絞めてしまった事もあったが、今ではそうならないよう気をつけているから、学校の事で深く考え過ぎてしんどくなるというのはなくなった。

 そう考えると私は、以前より少しだけ進歩しているのかもしれない。

 あの時のように人の感情に振り回されるのは、もう御免だと思っているからだろうか。


   * * *


 「あ"ーーもう腹立つ!!」

 「まあまあ、落ち着いて下さい」

 いつも通りになってしまった家であった出来事を思い出し、いつも居る公園のブランコに座って愚痴る。傍らには悪魔のルカが。

 「大体おかしいだろ。昨日は髪伸ばせって言ってたんだぞ。それなのに今日は髪を切れだって? ふざけんなクソが! 何で学校から帰ったばっかりなのに文句言われなきゃいけねえんだよ! 俺は人形じゃねえんだよ!」

 まだまだ文句が言い足りない。でもそれを止めたのはルカだ。

 「波瑠さん、誰か来ました」

 ここで「親を悪く言うんじゃない」とか言わない辺り、好感が持てる。というか誰か来たって誰だろう。ここはあまり人が近寄らない公園なのだが……。

 「え、ここどこ」

 戸惑いの声が聞こえた。

 「おっかしいなぁ。この変に図書館があるって言ってたのに」

 どうやら迷子のようだ。

 「どうします?」

 「……ほっとく」

 「え……放って置くんですか。本当に?」

 「本当に」

 ルカは悪魔で普通の人間には見えないから堂々と喋っているが、俺は普通に人間だから小声で喋っている。

 「誰か居ませんかー?」

 焦っているよりは、逆にのんびりしているような声音。放って置いても大丈夫だろ。

 そう判断したから、俺はブランコから離れて茂みに隠れようとした。

 「あっ! 何だ人いるじゃん」

 そう言いながら駆け寄って来たのは、リュックサックを背負った男の子。背は俺より十センチ以上低いし、年下だろう。

 「あのーすいません。この図書館って、どこにあるか分かります?」

 そう言って小さな紙切れを見せてくる。

 "ときの図書館"と、ただそれだけが書いてあった。

 「ときの図書館なら、直ぐそこにあるぞ?」

 「ほんと!?」

 連れてってとでも言いたげな視線に、俺は首を横に振る事が出来なかった。

 「……分かった。連れてってやるよ」

 「ありがとう!」

 ちょっと偉そうに言ってみたが、俺の方が年上だし少しくらいは許されるよな?

 「おねーさんどこの学校? 名前はなんていうの?」

 「藜野あかざの小学校。名前は佐々木波瑠だ。……そっちは?」

 「ぼくも藜野小学校だ。一緒だね! あとぼくの名前は、——月森。月森浩太っていうんだ」

 よろしく! と純粋な目を向けられ、俺は少しその顔が誰かに似ていると気付いた。

 「よろしく」

 月森浩太ってもしかして、あの月森一翔の弟か? そしたら似てるって事にも頷ける。

 「月森さんの弟でしょうか……? 苗字が同じですし、似ていますね」

 ルカも俺が思ったのと同じことを呟いていた。

 まあでも、俺がこの子をときの図書館に案内する事は変わらない。

 俺は月森浩太と一緒に、ときの図書館へと歩を進めた。


   ☆ ☆ ☆


 学校から帰宅し、自分の部屋に入るとそこには、奇妙な光景が広がっていた。

 「は……?」

 何で、と口に出すも、返事はこない。

 認めたくない。認めたくない、が……僕は認めざるを得ないようだ。

 僕の部屋で仲良くトランプをしている、二つの人ならざる者の姿を——。

 「——やっりぃ! お前の負けだな」

 「くそっ。……次は勝つからな!」

 「えェ? 次もオレが勝つんだろォ?」

 「そう言ってさっき負けたのを忘れたのか」

 「うっ……痛えとこ突くなァ。流石お前」

 「褒め言葉として受け取ろう」

 会話からすると訪問者は、僕が学校に居る間に部屋へと入ったのだろう。どおりで戒里が今日学校に来なかったわけだ。戒里が僕の部屋に通したのだろう、と簡単に予想がつく。

 その時ちょうど、訪問者——夜野先生と目が合った。

 「おお、月森じゃないか。どうしたんだ?」

 「……え、いや、は? どうしたんだってそれ、あなたの言うセリフじゃないですよね?」

 「? 何か問題でもあるのか」

 「いやいや、問題しかねーよ?!」

 思わず大声を出してしまい、はっと口を閉ざす。

 落ち着こう。冷静になってまず、何で夜野先生が僕の部屋に居るのかを聞こうじゃないか。

 「あっテメっ、それはねェだろォ!」

 「許容範囲内だ。問題はないだろう、戒里?」

 「……ちっ」

 ババ抜きをしていた。さっき僕と目が合い言葉を交わした夜野先生も、今ではどうも話をする隙がない。

 「あっ戒里お前っ!」

 「はっ! 許容範囲内だぜ。問題ねェだろォ?」

 「……ちっ」

 そりゃ二人ババ抜きなんだから、どちらかが負けるのはお互いに分かるだろう。って違う。そうじゃない。

 「夜野先生!」

 「ん? なんだ月森」

 「ちょっと質問いいですか」

 そう訊くと、夜野先生は少し考えるような仕草をし、こう言った。

 「じゃあ月森も一緒に、"ばば抜き"とやらをやろうじゃないか!」

 笑顔で言われ、元学校の先生であり妖怪だから、僕は断る事が出来なかった。



 カチ、カチ、と時計の音が響く。

 僕の手にある、戒里の妖力により絵柄が変化したトランプを引こうと、戒里が手を伸ばした。戒里が触れたのはジョーカー。そのまま引いてしまえと念じながら、僕は口を開いた。

 「夜野先生、さっきの事なんですけど」

 「ん、なんだ? というかその"先生"というのは止めてくれ。オレはもう教師じゃない」

 「くっそまた引いちまった!」

 まんまとジョーカーを引き悔しがる戒里を横目に、夜野先生に質問する。

 「じゃあ夜野さんで。なんで居るんですか?」

 「戒里がここでトランプをしたいと言うのでな。だがどうも戒里はルールを知らないらしい。だから今教えていたところなんだ」

 だからって何で僕の部屋なんだ。

 「一翔、こいつに訊きてェ事あんなら、今のうちだぜ? 五時になりゃ用事があって帰るんだとよ」

 「そうなんだ。ならちょうどいいな。気になってた事があるんだ」

 「それも質問か?」

 「そうですね。早速ですけど質問します」

 こう話してる間も、手を動かす。

 「夜野さんは戒里と家族だそうですね。だったら夜野さんも鬼ですか?」

 僕の手札が多くなり、それを戒里に引かれてまた少なくなる。

 「いいや、違うな」

 戒里の手札を引き、否定する。

 「家族だって言っても、同じ鬼ではない。血の繋がりなんぞ皆無だ」

 「だったらなんで……」

 「月森。そもそも君は、家族とは一体どういったものだと思う?」

 「そんなの血の繋がりがある大切な人、じゃないですか」

 「まあ、一般論で言うとそうなのかもな。だがいつでも血の繋がりがある者だけが、家族とは限らない」

 ? 言ってる意味が分からない。

 血の繋がりがないなら、それは赤の他人だ。名前を知っていても、家族のように親しくても。それは、"家族"ではないんじゃないのか。

 「分からないか? 月森なら、分かると思ったんだがな」

 「……血の繋がりがないのに、なんで家族なんだ?」

 「一翔、そこまで難しい事じゃねェだろォ? たとえ血が繋がっていなくても、家族のように接し、その存在を家族みたいに大切な人と認識すれば、"家族"ってもんになるんじゃねェか」

 「そう……なるのか?」

 「あァ。それが本物じゃなくていいんだ。偽物でも家族だと思ったら、もうそれは"家族"なんだよ」

 「…………」

 だから戒里は、夜野さんを家族だと言ったんだ。そして夜野さんも宮原先生もきっと同じ考えなんだ。

 『偽物でも家族だと思ったら、もうそれは"家族"なんだ』

 ……結構かっこいい事言うな。戒里のくせに。

 「ま、そう難しく考えるな。戒里が言った事は分からなくて当然だ。戒里は説明が出来ないやつだからな」

 「はあっ? 別に出来ねェわけじゃねェよ! オレだってやれば……」

 「出来ないだろ?」

 「…………ちっ。ンな事よりさっさと続きやるぞ」

 拗ねたような顔をする戒里。さっきかっこいいと思った僕は、何だったんだろう。とんだ恥だな。

 それを誤魔化すように、僕は夜野さんの手札を一枚引く。その際に夜野さんが一言。

 「月森。オレは鬼じゃなく、烏天狗だ。それに名も人間の姿の時とは違ってだな」

 夜野おさむというのが、人間の姿の時の名前? 妖怪としての名、つまり本名が知れるって事か?

 「オレの名は夜雨よさめだ。出来るなら人がいない場所では、そう呼んで欲しい。よろしく頼む」

 烏天狗ってどんな妖怪だろうという疑問は置いといて、

 「はい。僕も出来るならよろしくしたくないですが、よろしくお願いします」

 「君、最早清々しいな」

 「褒め言葉として受け取ります」

 時計の針は、四時四十五分を示していた。


 2

   * * *


 「ここがときの図書館か〜。波瑠ちゃんありがとう!」

 「どういたし……"波瑠ちゃん"?」

 「うん。ぼくのことは浩太って呼んでよ。ね?」

 「え、っと、分かった……?」

 波瑠ちゃんって呼ばれるのは慣れてないんだが、年下だしそんな事言えない。

 「帰る時も迷いそうだからお願いしていい? ダメ?」

 「別にいいけど、もう迷わないんじゃないか?」

 「いやいや、万が一って事があるでしょ!」

 じゃ、行こう。

 そう言って図書館へ入る浩太に俺は、方向音痴なのか、と些細な疑問を抱いた。

 浩太は図書館に入ると直ぐに、本棚を見回り始めた。流石に図書館の中で迷う事はないだろうと踏んで、俺は俺で自由に行動することに。

 「あの子は書物が好きなんですね……」

 ルカがぐったりとしているのは、浩太が俺に話した内容のせいだ。機関銃のように本について延々と語っていたのだから、ルカも疲れたのだろう。浩太に見えていないとは言え、聞いてるだけでもぐったりとなってしまった辺りを思うと、ルカは本がそこまで好きじゃないのかもしれない。

 「……気持ちは、分からなくはないな」

 「ですよね。波瑠さんも書物は苦手ですか?」

 「まあ、な。読めない訳じゃないし嫌いって訳でもないが、進んで読もうとはしないかな」

 「分かりますよその気持ち! 全くもって同意見です!」

 「そ、そうか」

 俺が引き気味に答えたのも気付かないまま、ルカは浩太に苦手意識を持ったようだった。

 「あれ、佐々木さんじゃん! 何してんの?」

 その時、ひょこっと本棚の陰から出てきたのは、稲葉春樹だった。

 「いや、別に何もしてないけど」

 急に現れたからびっくりした。その言葉は吞み込み、違う言葉で返答した。

 「えー? 佐々木さんってそんな本好きだったっけ?」

 「好きじゃないな。嫌いでもないが」

 「だよな。趣味変わったのかと思った」

 何で普通に会話してるのだろうか。ルカも気を利かせてか、稲葉が来た瞬間どっか行ったし。そんな気は使わなくていいのに。

 「俺は宿題なんだよなあ。ほら、三組の担任ってメンドクセー宿題出すから。ありがた迷惑だっつの!」

 「それにしては、ちゃんと調べようとしてるじゃないか」

 稲葉の手には生物図鑑が握られていた。

 「え、だってそりゃ宿題だしな。メンドクセーって思っても、宿題はやらなきゃだろ?」

 「まあ、うん。そうだな」

 稲葉が真面目に宿題するなんて思ってなかった、とは言えないよな。そんな風に思ってごめん稲葉。

 「佐々木さんは? 何か調べもの?」

 「違うよ。何ていうか……付き添い?」

 「いや、俺に聞かれても分かんねーよ」

 ケラケラと笑うその表情は、馬鹿にするでもない、優しいものだった。

 「あ、波瑠ちゃんいた」

 聞こえた声に振り向くと、浩太が本を何冊か手にし、立っていた。

 「そこに居るのってもしかして稲葉?」

 「"さん"を付けろ"さん"を」

 「やっぱり稲葉だ。波瑠ちゃん、稲葉と仲良いの?」

 「オイこら。スルーすんじゃねーよ」

 稲葉と浩太は知り合いか。

 「いや、仲良いって程のものじゃない」

 「え、ひどくね? なあ佐々木さん。俺達仲良いだろ?」

 「そっか〜。まあ別にどうでもいいけど」

 「どうでもいいなら聞くなよ!」

 すると浩太が稲葉に静かに、と諭した。

 「ちょっと。ここ図書館なんだけど」

 「浩太てめえ……っ!」

 稲葉は浩太に良くいじられるのだろうか、と思ったが、よく見れば二人とも口元が緩んでいる。挨拶みたいなものなのか?

 「まあそれは置いといて。——んで? 何で二人が一緒に居るんだよ。そっちこそ仲良かったっけ?」

 「浩太が迷子になってたから、図書館まで案内しただけの仲だ」

 「そうそう。とくに深い理由はないよ」

 「ふーん。じゃあ、俺も一緒に行こうか? どうせ帰りも、家まで連れてってもらおうと思ってたんだろ、浩太」

 その言葉に浩太は目を泳がせ、やがて認めた。

 「あはは……まあね」



 借りた本をリュックサックに入れると、浩太は俺に「さ、行こう」と声をかけた。その傍らには、生物図鑑を肩掛けバッグに入れている稲葉が。

 図書館を出ると、すっかり日が暮れて辺りが夕陽のオレンジ色に染まっているのがはっきりと分かった。

 「そういえば、明日は七夕だよな〜。二人は何か願い事でもする?」

 「それはずばり、今年も物語をいっぱい知れますように! だよ。それか、一翔兄をぼくたち弟から解放……て言うのかな? まあ、そんな感じの事を願うつもりだよ」

 「解放、な」

 にっこりと笑顔の浩太に対し、稲葉は真面目な顔で呟いた。

 "一翔兄"というのは、やはり月森一翔の事を指すのだろう。だが、"解放"というのが少々分からない。

 だから、聞いてみる事にした。

 「解放ってどういう意味だ?」

 二人は気まずそうな顔をするでもなく、俺を見た。

 「そっか。佐々木さんは、知らないんだったな。一翔にあったこと」

 「波瑠ちゃんは一翔兄と仲良いんじゃないの? 稲葉がいつも波瑠ちゃんのこと……」

 「バッカ、言うんじゃねーよ! 浩太!」

 顔を真っ赤にして浩太の声を遮る稲葉。

 何を見せられているのかは分からないが、稲葉が俺の事を話してるのだろうと、予想はつく。稲葉は流風兄さんと仲が良かったんだし、話に俺が出てくるのも別におかしくないだろう。

 「……まあ、そのだな。一翔は三年生の時に、誰かに襲われたんだ。その時一緒にいた浩太も、輝汐っていうもう一人の弟も、襲われた」

 「襲われた……?」

 浩太は喋らない。

 「そっ。一翔はこの事を後ろめたく思ってるだろうから、本人には俺が話したって黙っといてくれ。出来れば、聞かなかった事にしてくれると助かるかな。……俺も一翔の母さんに聞いただけで、その場にいた訳じゃないんだけど」

 そう言うと稲葉は、おもむろに話し始めた。

 「一翔が三年生の時、浩太と輝汐とで、公園に行ったんだ。最初は普通に遊んでただけだった。だけど急に、一翔が誰かに襲われた。後ろから突然だったってさ。後ろから攻撃されて、それで倒れない人なんて少数じゃん? それにまだ子供だ。呆気なく一翔は地面に倒れ込んだ。その後すぐに、輝汐と浩太が襲われた。姿は見えなかったらしい。気が付いたら二人は腕や足に切り傷ができていた。……だよな?」

 「うん。輝汐兄は、おでこ辺りに切り傷が出来たけどね。今でもその痕は残ってるよ。……見る?」

 「いや、いい」

 そっか、と言うと、再び視線を地面に向けた。

 「それからというもの、一翔は今まで以上に弟優先な性格になった。オーバーなほどな。……トラウマなのかもって考えたことあんだよ。一翔は襲われた時、後から分かったけど骨折してたんだって。だから体の激痛に耐えることしか出来なかった。目の前で怪我して泣いてる弟を、見てることしか出来なかった……ってさ。それが今でも頭にあるから、弟を守ろうとするのかもしれねー」

 いつも笑顔のはずの稲葉の顔が、悲しそうに歪んでいる。その目は暗い色をしていた。

 月森の事をよく考えてるんだな、稲葉は。兄さんの時もそうだったのだろうか。

 「……こう言うと何だけど、ぼくたち弟はさ、一翔兄を縛ってるんだ。あの時から、一翔兄はずっと自分のしたい事は後回しで、ぼくたちを優先してた。——そうだっ。波瑠ちゃんは弟とか妹とか居る? 居たら、一翔兄の気持ちを理解できるかもしれないよね!」

 ガバッと俯いてた顔を上げ、俺の目を見る。

 「残念ながら、弟も妹も居ないな」

 素直にそう返すと、浩太は顔を上げたまま力なく笑った。

 「そっかあ……そりゃそうだよね。波瑠ちゃんは一翔兄じゃないもん。ごめんね、一翔兄の気持ちを理解できるだなんて、変なこと言って」

 その場に、必然的とも言える沈黙が出来た。

 途中まで送ろうと思っていたが、もうすぐ着くらしい。俺たちの話の中心だった、月森の家に。俺は本人を相手に、普通に接することが出来るだろうか。


   ☆ ☆ ☆


 「それじゃあオレは時間だから。月森も戒里も、仲良くな」

 そう言って窓から出る夜野さん、もとい夜雨さん。

 「へーい」

 戒里が返事をした後に僕が窓の外を覗くと、もう夜雨さんの姿はなかった。

 色々聞きたい事がまだあったが、途中から戒里がババ抜きに夢中になってしまい僕の質問を遮られたため、聞けなかった。夜雨さんは五時に用事があると言っていたし、引き止める訳にはいかなかっただろう。

 「なあ一翔ゥ。これ、結構いい柄してると思わねェ?」

 そう言って僕の物だったトランプを見せる。そのトランプは普通のとは違い、模様が大幅に変化したトランプだ。

 ハート、スペード、ダイヤ、クローバー。一般的にはこの模様だが、戒里が僕の部屋に住み着くようになった日、妖力がなんたらで模様を変えてしまったのだ。故意ではないらしい。

 そして変わってしまった模様は鬼火らしき絵、雪の結晶のような絵、葉っぱの絵、白い花の絵、ざっと言うとこんな感じ。

 さらに数字が赤と青に光って、浮かび上ったりしているのだ。

 その柄を、今まさに戒里が「いい柄だと思わねェ?」と訊いてきている。

 「いい柄かどうかなんて知らない。つか、それを僕に言うか? 訊く相手間違えてると思う」

 「ンじゃ、誰に訊けって?」

 「さっき夜雨さんがいたじゃんか」

 「確かにそうだけど、今は居ねェだろ? それと一翔、何で彼奴の事は"さん"付けで、オレは呼び捨てなんだ?」

 純粋な疑問だと言うように、首を傾げる。

 それ、なんだけどな。夜雨さんには威厳みたいなものがある。対して戒里は、威厳のようなものは感じられない。それと、性格が稲葉に似てるし。どうにも敬語が使えないのだ。

 戒里がそんな事に気を留めるなんて、全く考えなかったな。

 「呼び捨てでいいだろ? 僕と戒里の仲じゃないか」

 「一翔と、オレの……? そう、だなァ! そっか、そうだよなァ……」

 「そうだよ」

 本当にこうやって適当に言葉を並べただけで、簡単に誤魔化せれるから楽だなあ、としみじみ思う。

 さて。そろそろ浩太が図書館から帰ってくるはずだ。輝汐は部屋で宿題かゲームをしているだろうし、研人と空羽は母さんと一緒に居たから心配いらない。

 もう五時まわってるし、これで帰ってこなかったら捜すしか……と、その時。玄関の方から声が聞こえた。その「ただいま」と言う声の主が浩太だとすぐに分かった僕は戒里に、弟が帰ってきたからちょっと行ってくると軽く説明して部屋を出た。

 階段を下りる前、ふと僕は気付く。その声は浩太だけのものではなかったと。言葉は違えども確かに聞こえた。「お邪魔しまーす」とと言う学校でいつも聞いている稲葉の声が。

 玄関の所まで行くと、僕の耳は正しかったと思える人物が居た。言うまでもなく、浩太と稲葉だ。だが予想出来なかった人物も居た。

 思い返してみれば、もう一つの声があったかもしれない。

 玄関に居たのは、浩太と稲葉。そして、佐々木だった。

 「……なんで?」

 無抵抗に零した声に、浩太が反応した。

 「ときの図書館の場所が分からなくて、道を教えてもらったんだ。稲葉はときの図書館に居て、ついでだからって送ってもらった」

 靴を脱ぎながら説明する。

 そう言えば稲葉、下校中図書館に行くって言ってたな。

 「波瑠ちゃんがいるのはぼくがお願いしたからだよ。帰りも道を教えてくれないかって。ほんとは途中までにするつもりだったけど、話してたら家についちゃったんだ」

 とりあえず理解した。

 「いやー、つい話に夢中になってさあ 」

 稲葉にしては珍しい苦笑いを、顔に表す。

 「大丈夫だ。俺はもう帰るから」

 佐々木は稲葉と違って礼儀正しいな。男女の差か? まあいい。

 「そうか。途中まで送るよ、二人ともな」

 「え、いや……別に大丈夫だ」

 「聞きたい事があるから。佐々木にも、稲葉にも」

 「え! なになに、何の話?」

 「聞きたい事……?」

 稲葉と佐々木の声が重なる。

 「そう。——浩太、こういう訳だから、母さんにも一応言っといてくれ。勝手について来んなよ。じゃ、よろしく」

 「ちょっ、一翔兄っ!」

 強引に会話を終了させ、二人を外に連れ出す。その直後、仕方ないという風なため息が背後から微かに聞こえた。……悪いな、浩太。稲葉が余計な事を話してないか確認したいだけだから。

 心の中でそう呟き、少し困惑した様子の二人に歩くよう促す。

 「強引で悪いな。聞きたい事があるんだ」

 すると二人が同時にこちらを見る。

 「なんだ?」

 「なになに?」

 不安げな佐々木に対して、稲葉はわくわく顔。

 「浩太に変なこと、吹き込まなかったよな? 稲葉」

 「はっ?」

 予想と反した言葉だったのか、稲葉が声を上げる。

 「先に言っとくが、佐々木もいるし、言い逃れは出来ないぞ」

 「いやいや! 何も吹き込んでねーよ?!」

 「あれ、違ったのか。それは悪かった」

 「……ったく、ほんと弟のことばっかだな。俺の言った通りだろ?」

 佐々木に笑ってみせる稲葉に、佐々木は『あーあ』という表情を見せた。少なくとも稲葉は僕の事を色々話したみたいだ。少し、だったらいいが念のため。

 「何を話したんだ? 何が、"言った通り"だって?」

 「あっ……」

 自分の発言の失敗に気づいたようだ。

 「い、いや、ほら! か、一翔が弟優先の性格だってこと、言っただけだよ。だよなあ? 佐々木さん」

 「ああ。そうだ」

 何回も噛んでいる稲葉を見れば、他の事も話したと白状しているようなものだ。だけど佐々木も隠そうとする……ああ、なんとなく分かってしまった。

 「三年生の時あった事、話したのか……」

 あれは、誰にやられたのか分からないままだ。でもその"誰か"は、人間じゃないモノの仕業。探しようがない。だからそれを話したところで、別に怒らないんだが。ただ僕が言わないだけで、絶対秘密って訳じゃないし。

 「ごめん、一翔」

 「悪かった月森。知られたくなかったんだよな」

 「いや? 別に知られても構わないんだ。稲葉は母さんから"隠したいと思ってる"とか聞いたんだろうけど、別に隠してるって訳じゃない。ただ言わないだけだ」

 「同じじゃないのか?」

 開き直ったのか稲葉は、堂々と聞いてくる。

 「違う違う。ほら、よく考えてみろよ。三年の時それで目立っただろ? なら自分で言う必要なんてないと思うんだ。だから言わない。……まあでも、あの時は隠したかったなあ、色々と」

 普通では見えないはずのモノが見えるとか、襲ってきたのは妖怪だったとか、そういうのは信じてもらえないから。

 僕は必死に、隠そうとした。

 「そうか……。月森は、大変だったんだな」

 「そう言う佐々木だって、大変、だろ?」

 佐々木は答えず、困ったような笑みを浮かべるだけ。

 そんな湿っぽい空気を変えるように、明るい声で稲葉が口を開いた。

 「そういえば一翔はさ、七夕でなんか願い事でもする?」

 流石稲葉。話題を変えて気を逸らそうって訳か。

 「まあな。何かは秘密だ」

 「えー秘密って……しょうがないなあ。じゃあ佐々木さんは?」

 「あるけど、同じく秘密だ」

 「うっそだろ? 二人とも秘密とか……しょうがねー! なら俺の願い事を話そうじゃないかあ!」

 急に稲葉のテンションが高くなったところで、佐々木が足を止めた。

 歩いてきた道も入れると、四つの分かれ道がある場所だ。その角まで来た時「ここまででいい」と佐々木が言った。家まであと少しだそうだ。

 「えっ待って。それアリ?」

 「「アリだ」」

 じゃあ、とぎこちなく手を振る佐々木に、僕と稲葉も同じ動作を返す。

 佐々木はそのまま真っ直ぐ歩いて行き、声が届かないような距離になっていった。

 だから僕は、稲葉に声をかけた。

 「稲葉。佐々木ってその、……双子の兄を、亡くしたんだよな」

 聞きにくい事ではあったが、ずっと気になっていたんだ。

 なんで稲葉は、佐々木と少し距離を置くのか。それは多分、双子の兄——佐々木流風に関係しているだろう。

 「……うん」

 僕はそんなに関わりを持っていなかった。ずっとクラス違ったし。でも稲葉は、一年の時から仲が良かったらしい。

 「お前さ、僕の家に遊びに来た時、いっつも佐々木の話してるよな。でも学校じゃ、話してるところとか、一緒に居るところなんて見かけたことない。って事はさ、仲が良かったんだよな? 佐々木流風と同様に」

 前は、「佐々木さん」じゃなく「波瑠ちゃん」だったような気がする。

 「どうだろうなあ……。俺は仲が良かったと思うけど、あっちはそう思ってないかもしれない。兄の友達。その程度かもしれない。——流風とは仲が良かったぜ。今の俺達の関係みたいに。学校でクラスのやつと喧嘩しても、流風は愚痴を聞いてくれたし、俺も流風からの愚痴を聞いた。親友だと、思ってた」

 どんどん涙声になっていくが、表情は変わらないまま。

 「でもあの日、居なくなった。もう存在しないんだ、どこにも。流風の家に遊びに行ったら、いつも波瑠ちゃんがいて、それまでは笑顔をよく見せてたけど、その日から、あんまり見せなくなったんだ。なんでか……分かるよな。一翔なら」

 「……ああ。分かる」

 「そこから気まずくなってさ。七不思議調べをした時、久しぶりに話せたんだ。口調も一人称ってやつも変わっててびっくりしたけど、もともと双子だし、それが流風に似てたから、泣きそうになった。でもやっぱり、波瑠ちゃんは波瑠ちゃんだって思った。それで今……」

 また、前みたいに仲良くなりたいって思ってる。

 そう呟くように言った稲葉は、「じゃあな」と手を振り、逃げるように右の角を曲がった。

 一人取り残された僕は、

 「……聞いちゃ、まずかったかもな……」

 聞かなければ良かったと、後悔した。

 踵を返して、家に向かう。

 ……あっ。そういえば戒里の事、放ったらかしのままだった。


   * * *


 月森は「別に隠してる訳じゃない」と言ったが、当時は隠し通そうとしたはずだ。俺だって兄さんが居なくなって、気を使われるようになったが、それが煩わしくて元気に振る舞うようにしてるんだ。月森だって、同じはず。

 それに月森は妖怪が見える人だし、それが生まれつきなら「色々隠したいと思ってた」という意味が察せる。

 ——そう言う佐々木だって、大変、だろ?

 あれはどの意味が含まれているんだろう。

 兄さんを失った事か、両親に嫌われてる事か、他人から気を使われる事か、今は悪魔と一緒に居る事か、それとも、全部か。

 何にしろ、どれも大変だが。

 「波瑠さん」

 聞こえた声に、立ち止まる。

 「あ……どこに居たんだ? 急に居なくなったから、びっくりしたぞ」

 「稲葉さんが居たので」

 「そうか」

 再び歩き始める。

 「そういえば波瑠さん。私、雨水さんと死神さんに会ったんですよ」

 「へえ。図書館から居なくなった時か?」

 「はい、多分それくらいの時刻だったかと」

 「何かあったのか? ただ会っただけなら、わざわざ俺に話さないだろ」

 「……。ええ」

 少しの沈黙の後、肯定した。だが"何を"なのかは言い淀んで、口に出してくれない。

 「ルカ、話してくれないと分からないんだ。雨水さんと死神さんに、何があったのか。教えて」

 「ですが……波瑠さんには関係のない事かもしれないんですよ?」

 「いいから。な、教えてくれ」

 すると、言いにくそうにしながらも、ルカはようやく口を開いた。

 「雨水さんが死神さんと、一方的に喧嘩してしまったようなんです」

 ……んん?


 3


 「雨水さんってさ、調子乗ってると思わない?」

 それは放課後の事だった。

 忘れ物を取りに、教室のドアを開けようと手を伸ばした時、唐突にその言葉が耳に入り込んでしまったのだ。

 「わかる! いっつも無表情で、うちらのこと見下してる感じだよね」

 「それそれ。あたしも腹立つわ〜て思ってた」

 「女子と男子がケンカしても、"私には関係ない"みたいな態度!」

 「そうそう。いい加減にして欲しいよねえ」

 別に何とも思わない。陰口を言われるのは慣れてるから。

 「まあまあ。落ち着いて聞いて」

 だけどこの日は、少し嫌な予感がした。

 「わたし、考えたの。もういっそ、クラスみんなで無視したらいいんじゃないのって」

 「あっ、それいいね。流石〇〇!!」

 「じゃあ早速、明日クラスのみんなに広めよ」

 「手伝ってよ、××、**。ざまーみろって、今度は、わたし達が見下してやるんだから」

 私の何を知って、見下してると? ……そう言って笑い飛ばせるくらい、私が強かったら。

 もう名前すら思い出したくない、前のクラスメイトの声は、未だに私の耳に木霊する。

 私の心がもっともっと強かったらと、何度、そう思っただろうか。

 想いだけじゃ、現実は変わらないのに。


   # # #


 ガバッと体を起こした。

 汗はかいていないものの、心臓は運動した後のようにドクドクと脈打っている。

 カーテンの隙間から、朝日の光が差し込んでいるのが目に映る。

 ——……また、この夢か。

 前にもこの夢を見た。あの時は、妖怪が創った異空間だったか。

 同じ夢を見るなんて最悪過ぎるな。これも全部、死神さんのせいだ。

 昨日の下校中、死神さんは私に言った。「今の学校は、前の学校よりも楽しいの?」と。

 五年生になった夏の終わり、私は藜野小学校へ転校して来た。それは小学校の六年生なら誰でも知ってる情報だ。だけどそれを何故、死神さんが知っているのか。死神さんと会ったのは六年生になってからの、五月二十九日だった。つまり最近。私が転校して来たという事を知っているには、おかしい時期だ。

 それだけじゃない。

 私が言葉に詰まっていると、死神さんは続けてこう言ったのだ。

 「やっぱり、いじめの的は辛かった?」

 なんで知ってるの、とまた同じ疑問が浮かんだと同時に、腹が立った。

 人には、何かしら触れて欲しくない部分というものがあるのだ。

 死神さんは、私にとって触れて欲しくなかったところを、いとも容易く触れて来た。——それに腹が立ったのだ。

 そうとも知らず死神さんは私の顔を覗き込む。

 なんで知ってるんですか?

 そう問いかけると、死神さんは当たり前だ、と言わんばかりに、「そりゃあ、死神としてキミの事は把握してるし」と一言。

 死神として把握してる。まあそれは仕方ない。調べたりかなんかしたのだろう。でも、だからってこれはない。

 知られたくないのに、思い出したくないのに、死神さんはそれをわざわざ知らせ、思い出させたんだ。

 それから私が一方的に怒って……そう言えば、その時ちょうど悪魔のルカさんと会ったな。近くに佐々木さんは居なかったから良かったものの、ルカさんには聞かれたかもしれない。

 「でも……死神さんが悪い」

 玄関にはいつものように居るんだろうなあ。あー会いたくない。

 気が重いまま、顔を洗うため洗面所に足を運ぶ。



 「いただきまーす」

 呟くように言ってから、食パンをかじる。

 今日は土曜日で、七夕。私の願い事は、今までよりもっとお母さん達と過ごす時間が増えて欲しい、だ。無理だと分かっていても、願わずにはいられない。家に一人って、正直寂しいしな。

 でも、お母さん達にはバレないよう、心の中で終わらすのだ。私の事で、迷惑かけちゃいけない。

 死神さんが居たらその寂しさも減るけど、昨日の事があるし会いたくない。

 「……どうしよ」

 今日は何をして暇を潰そう。図書館にでも行こうかな。この際だから『死神』について調べる? いやでも玄関に死神さん居るだろうし、いやでも……。

 迷ったけど、結局行くことにした。

 カバンに水筒を入れたし、図書館カードも入れたし、一応メモ帳と筆記用具も入れた。これで準備は完璧だ。あとは死神さんと会う勇気だけど……うん、他人の事なんて知るかって話だしね。自由に行動させてもらおう。一々死神さんに有無を訊く必要もないんだから。

 私はそう思う事にして、外へ出た。そこにはやはり死神さんが居る。

 「おはよう。何処行くの?」

 「…………」

 なんで済ました顔で居んの、意味分かんないんだけど。

 そのまま返事をせず、図書館の方向に歩き出す。

 「ねえ、どうしたの? 何時もはちゃんと挨拶返してくれるのに。昨日も一人でさっさと帰っちゃうしさ。何で怒ったの?」

 ほらこれだ。どうせそうだろうとは思ってたよ。死神さんは私がなんで怒ったのか全くもって分かっていない。

 「もしかして、昨日の事でまだ怒ってるから? だから話してくれないの? キミも意外と頑固なんだね」

 "まだ"? "頑固"? 何言ってるんだよ。

 静かに反論しようと立ち止まる。

 「また無視?」

 だが呆れたというような声で言われ、思わず振り返り感情的になってしまった。

 「死神さんは……死神さんは、何も分かってない! 何で分からないの? 昨日もそうだった! 踏み込んで欲しくないところに、土足でずけずけ踏み込んできて……っ。思い出したくないのに、思い出させてっ! 何がしたいんですか……? そうやって人を傷つけて、楽しいですか?」

 「え……」

 驚いて固まる死神さんに、それでも私は怒りが抑えきれず——

 「死神さんに、私の気持ちなんて分からないでしょ?! 人間じゃないんだからっ!」

 つい、そう言ってしまった。

 言った直後は特に後悔も何もなかった。だけど、私がその言葉を放った時の死神さんの表情が——何故か、傷ついたように顔を歪ませていたのだ。

 瞬時に悟った。

 私もまた、死神さんにとって言われたくない言葉を言ってしまったのだと。

 「……っ、」

 その場に居るのもたまらなくなり、行き先なんて関係ないまま、逃げるように駆け出した。


   ☆ ☆ ☆


 「兄ちゃん?」

 靴を履いていた時ちょうど、輝汐に呼び止められた。

 「ごめん、輝汐。今日は用事があって、早く行かないといけないんだ」

 「えっ、ちょ、兄ちゃん!?」

 そう聞こえた声を聞こえなかったふりをして、僕は外に出た。罪悪感はあるものの、仕方ないと割り切ろう。

 家から少し歩き、昨日稲葉と佐々木を送った所で足を止めた。

 気配を感じて右側の道に視線を向けると、戒里が壁にもたれて目を瞑っていた。寝てるのか?

 「おい、戒里。お前が言ったから来たんだぞ」

 そう声をかけるも、返事はなく。

 なんか前にもこんな事があったような気がする。絶対気のせいじゃない。断言できる。

 「……ったく」

 僕も同じようにして、壁にもたれる。戒里以外にもあと二人来るって言ってたしなあ。……うん、待つか。昨日僕が早く帰ってさえ居れば、ここに来なくても良かったんだけど。今更嘆いたってもう遅いな。

 昨日、僕は"ちょっと行ってくる"とだけ言ったけど、実際は"ちょっと"を超えるほど戒里を待たせてしまったのだ。だから急いで帰ると、戒里は遅いと文句を垂らしながらこう言ったのだ。

 「じゃあ明日、オレに付き合え。そうしたら許してやる」

 理由を尋ねた所、手伝いをして欲しいとの事。

 まあ、本来僕はそれのために戒里と一緒に居るのだから、その何とも言えない誘いに乗るしか選択はなかった訳だ。というか断るとあとが怖かった。

 そしてその手伝いに夜雨さんと、宮原先生も関わっていると。ただ宮原先生の場合、先生をしているから来れるかどうかはまだ分からないらしい。

 「……ん」

 「あ、起きた」

 「……ここは?」

 まだ少し寝ぼけている様子。

 「戒里が言ったんだろ? ここで集合って。なら分かるはずだけど」

 「……あァ、言ったな。悪ィ、寝惚けてたわ。彼奴らは?」

 「まだ来てない。でも多分もうすぐ来ると思うぞ」

 僕がそう言った直後、バサバサと何か大きなモノが飛んでいるような音が聞こえた。

 「すまん。遅れた」

 謝罪と共に現れた夜雨さんの姿は、黒い羽に山装束、そして頭に兜巾ときん、手には錫杖しゃくじょうが握られているという普通とは言い難い格好だった。

 夜雨さんが烏天狗だと知ってから僕なりに少し調べたお陰で、頭についている物の名前も、手に持ってる物の名前もまだ記憶に新しい。調べた甲斐があったと思う。

 「急ぎの用事が入ってしまったものでな。片付けるのに時間を要してしまった」

 「いえ、僕もさっき来たばかりなので、お気になさらず」

 「そうか」

 「彼奴は? 来ねェのか」

 完全に起きた戒里が訊く。あいつというのは宮原先生の事だろう。

 「ああ。来れないと、一言だけ書き置きして行った」

 「やっぱり大変なんかねェ、人としての仕事が」

 「まあ、こちら側の仕事と両立だからな。いずれ辞める事になるだろう」

 ついていけない話は目の前でしないで欲しい。

 「あの! 今日は何をするんですか!」

 無理矢理会話を断ち切った。

 「そんな怒るなよ、一翔」

 別に怒ってねーよ。

 「今日はなァ、……えと、何だった?」

 何て頼りない事だろう。

 「手伝いって言われて来たんですけど、違うんですか?」

 戒里は無視し夜雨さんに訊く。

 「いいや、今日はこれからについて色々話し合おうという話だったが」

 「あァ、それそれ」

 「……嘘ついたな戒里!」

 「はあ。これだからお子様は。いいか? オレは嘘ついた覚えはねェ。だからお前がオレを責める権利はない訳だ。理解出来たか?」

 すっごい腹立つ顔で煽られ、ふっと冷静になる。

 確かに嘘は言ってない。だって『手伝いをして欲しい』は話し合いが目的だった戒里にとって、僕が行くだけで『手伝い』になる訳で。そう考えるとただ僕が勘違いしただけだというのか。なるほど。

 「嵌めたな戒里っ!」

 「人聞きの悪ィ。オレは何も悪くねェよ?」

 戒里と言い合いが始まりそうになったのを夜雨さんに止められる。

 「まあ二人とも落ち着け。月森からしてみれば、確かに戒里に嵌められたと思うかもしれんが、戒里が素直に言わなかったのは、そうしないと君が来ないと考えたからじゃないかとオレは思う。だからお互い様だ。な?」

 まあその通りですけども。正論だな、うん。

 「とりあえず場所を変えよう。このままだと月森が一人で喋っているという絵が出来てしまうしな」

 「そうですね。どこに行きますか?」

 「人気の少ねェ場所がいいしなァ」

 そう三人で悩んでいた時だった。

 「戒クンに夜野おさむと月森クン、だよね。何してるの? こんな所で」

 「あ? ——おお、かみくんじゃねェか。お前こそどうしたんだ? あの子供と一緒にいねェのか」

 「あー……ちょっと諸事情でね」

 苦笑気味に戒里に返事をする死神さん。その表情はどこか元気がないように思えた。

 だが敢えて何かあったのか、などと口には出さない。……と、考えたんだけどなぁ。

 「死神だったか? ……何かあったのか?」

 意外にも夜雨さんがそれを言ったのだ。死神さんとは関わりがあまりない夜雨さんが、だ。

 目を見開いて固まっている僕の事はお構いなしで、話は進む。

 「別に何でもないよ。ちょっと最近死神としての仕事が多いなーってくらいで」

 僕はそれを信じた。『死神としての仕事』なんてものは知らんが、死神さんの表情、口調、仕草が、どれも自然だったから。

 しかし。

 「嘘はいい。……まさかとは思うが、あの少女を殺し……」

 夜雨さんがそれを否定したのだ。何やら物騒な単語と共に。

 「そんな訳ないでしょ!?」

 「冗談だ」

 はあ、と死神さんがため息を吐く。

 「まあ嘘を吐いた分には謝るよ。だけどキミ達には関係のない事だから。ね?」

 気にするなという事だろう。

 「話くらい聞くぜ? 遠慮なんてすんなよ」

 「いやお構いなく。これはボクだけで解決するから」

 「ンなこと言うなよォ。なァ、何があったんだ?」

 「だから関係ないって言ったよね? ねえ?」

 ぽんぽんと流れるような会話を、僕はただただ眺めていた。

 戒里は当初の目的を忘れてるんじゃないかと思う。それにこの間会ったばかりのはずの死神さんのお節介を焼くなんて、思ってもみなかった。

 「あーもう! 分かったよ! 話せばいいんでしょ、話せば!」

 しつこい戒里に痺れを切らした死神さんは、物凄く簡潔に事情を話した。

 「喧嘩しちゃったんだよ。あの子……沙夜と」

 目を逸らして言うのは、きっと申し訳ないと思っているからだろう。

 「謝ればいいじゃないですか。すぐに」

 「それは……。確かに、月森クンの言う通りだね。あの子にとっての地雷を踏んじゃったのは、本当に悪い事したと思ってるし、その言葉を今更取り消すなんて出来るはずもない。……分かってるよ、それくらい」

 なら何で謝らない?

 その疑問に答えるように、死神さんが口を開く。

 「怖いんだ。変だと思うかもしれないけど、ボクだって人間と同じように感情がある。だからまた傷つけるような事言って拒絶されたらって思うと、どうしても……顔を合わせられない」

 次第に声が小さくなっていく。その姿を見ていると、つい思った事が口に出てしまった。

 「死神さんは、『死神』っぽくないですね。怖くても、悪い事をしたという自覚があるなら、謝るべきだと思います」

 すると死神さんは、はっとしたように顔を上げる。

 「一翔の言う通りだなァ。素直に謝ってから悩むのも、遅くはねェと思うぞ? ほら、"当たって砕けろ"なんていう言葉があるくらいなんだからよ」

 「同意見だな。知っているだろう、オレと戒里だってこの前仲直りしたようなものだ。オレだって怖かったさ。親しい人からの拒絶は、何よりも恐ろしいと感じるからな。だがその先に行かないと、さらに関係が悪化するんじゃないかと思ったから、オレは一歩を踏み出したんだ。お前も、そうしてみたらどうだ?」

 戒里と夜雨さんの言葉が、僕にも刺さった。

 あの異空間に閉じ込められた時、夜雨さんも宮原先生も戒里からの拒絶を恐れていた。そして戒里も、二人からの拒絶を恐れていた。

 それはきっと『家族』だからなのだろうと、少しだけ昨日言っていた戒里の言葉が今、分かったような気がした。

 「——……そうだね。まだ謝ってもいないのに悩むなんて、馬鹿みたいだ。ボクらしくない」

 呟くような声。

 「ありがとう。この借りはいつか返すから」

 「おう!」

 元気良く返事をした戒里。

 「じゃあ、頑張って下さい」

 「仲直り出来るといいな」

 「うん、ボクもそう思うよ。……行ってくる」

 そう言った死神さんが風に攫われていくように消え、僕は数秒だけ呆然としてしまった。

 死神さんは何も使ってなかったぞ、おい。戒里は移動の時、道具使ってんのに。戒里は大した奴ではないということか。

 「月森、とりあえず近くにある人気のない公園でも探すか? そこで色々話し合おう」

 あ、忘れてなかったんだ。

 「はい。それが手っ取り早いですよね」

 「賛成! ンで、どこにそんな公園が?」

 「「…………」」

 そこでまた僕達は悩む事となった。


   * * *


 雨水さんが死神さんに一方的に喧嘩をしているとルカに言われ、俺はどうすべきなのか迷っていた。

 友達なら話を聞きに行くという方法があるが、俺はそこまで仲良くなっていないから、その方法は使えない。そもそも雨水さんの家を知らないという現時点で、何をすればいいのだろうか。

 いつも居る公園のブランコに腰掛け、少し考える。

 俺に出来る事は、話を聞く事くらいか。

 「波瑠さん。雨水さんの事で悩んでいるんですか」

 悩んでる、か。

 まだ涼しい風を受けながら、ルカに言葉を返す。

 「別に、悩んでるってほどじゃない。たださ、何か雨水さんが心配なんだ。何でだろうな」

 見上げる空の色は、澄んだ青。

 ふと思った。雨水さんは死神さんといつから共に居るんだろうと。

 死神のイメージと死神さんは見た目は違ったが、する事が同じなのだとしたら雨水さんが危ない。だけどそんな素振りは一つもなく、それどころかこの前の異空間に閉じ込められた時、守ろうとまでしているようだった。

 「じゃあ……」

 じゃあ、何で死神さんは雨水さんと一緒にいるんだ?

 俺とルカは契約したから共に行動してる。だったら雨水さんは死神さんと契約したのか。だが相手は『死神』だ。

 月森もそうだ。妖怪の戒里さんと何か契約的なものをしたのだろうか。

 俺は二人がどうして人外と共に過ごしているのか知らない。だからと言って気にかける必要もない。なのに何故俺は、雨水さんと月森を心配しているのだろうか。いや、そもそもこれは心配というべきものなのか。

 分からない。人の事を気にするほど、俺には余裕はないってのに。

 「心配するのは悪い事ではありませんよ、波瑠さん」

 悪魔だというのに意外な言葉を放ったルカ。俺は急に何だと問い返した。

 「いえ、少し悩んでいる様子でしたので、助言をと思いまして」

 「助言なんて別にいい。俺はそこまで悩んでなんか」

 「私には、とてもそうは見えませんでしたから。よく聞いて下さい。貴女が誰を心配しようと、それは自由なんですよ。その気持ちを抑える必要なんてないんです。まあ度が過ぎると、抑えなければなりませんが」

 少し笑って、風で飛ばされそうになったシルクハットに手を添えた。

 「……ルカ。一つだけ聞かせてくれ。雨水さんと死神さんが喧嘩したって時、何が原因だったんだ?」

 「死神さんの、ある一言によるものが原因です」

 あのヒトの手助けのようで言うのは癪ですが、と顔を顰めた後、こう言った。

 「"今の学校は、前の学校よりも楽しいの?"」

 ——ああ、なるほど。そういう事か。

 そう言われた雨水さんの気持ちを想像して、俺は少し経ってから気付いた。

 噂があった。雨水さんが藜野小学校に転校して来た頃、ある噂が流れていた。……そしてその噂は、本当だったんだ。

 「なあ、雨水さんの居場所は分かるか?」

 そう切り出した後、念を押すように付け加えた。

 「これは『願い』じゃないからな」


 4

   # # #


 勝手に喧嘩して勝手に逃げ出して勝手に道に迷うとか、洒落になんないよね。でも現実だ。

 あーあ。馬鹿みたいだ、私。

 死神さん一人の言葉に振り回されるなんて、今までならそんな言葉、簡単に受け流せてたはずなのに。なに動揺してんだろ。

 でも、私も酷いこと言ったんだよね? じゃなきゃあんな傷ついたような顔するはずないし。

 私は言われたくない言葉を言われた。だけどそれは私も同じ。

 そこまで考え、自分が放った言葉を思い出す。

 死神さんに私の気持ちなんて分からないでしょ、か。当たり前だ。いくら『死神』でも、人の心が読めるわけないだろう。だけど私は期待していたんだ。本音も過去も知っていて、死神さんが私の気持ちも分かってるものだと、当然のように思っていた。……そんな事はないのに。

 「っていうか、本当にここどこ」

 住宅街の中だとは思うけど、周りを見渡すにも、見覚えない建物ばかり。それに人が数える程度しか居ない。道を聞くのも方法としてはいいけど、気持ち的には嫌だな。今は誰とも話したくない。

 適当に歩いてたら見覚えのある場所に行けるかな。

 そう考え、時間も気になりつつ再び歩き始める。

 「——雨水さん!」

 突然の事に思わず足を止める。振り返ってみるとそこには見知った顔が。

 「佐々木さん……? なんで」

 そこまで言って気付いた。ルカさんだ。ルカさんが言ったんだ。だったら……!

 「ちょっと話があるんだが、」

 その先は聞きたくない。

 「待って!」

 逃げ出そうとした私の腕を、佐々木さんがしっかりと掴む。

 「話があるんだ。聞いてくれるか?」

 どうやら、逃してはくれないようだ。

 「…………うん」

 断る理由が咄嗟に思いつかず、渋々頷いた。

 「場所を変えよう。ここだと変に目立つ」

 言われて、近くを歩いている人がチラチラとこちらを怪訝な顔で見ている事に気付いた。

 「大丈夫。人気の少ない良い場所、知ってるから」

 そのまま手を引かれて、良い場所とやらに向かう事となった。

 ……そういえば、何でルカさんは居ないんだろう。

 しかし、そんな些細な疑問はこれからのことを思う不安に覆い被さり、忘れていったのだった。


   * * *


 雨水さんを見つけ話が聞けるというものの、時間は限られている。

 とりあえず人が少ない場所の方がいいだろうと移動するが、果たして話してくれるだろうか。

 「ねえ。何で私の居場所が分かったのか、教えてくれない」

 「ルカに頼んだ。ルカから聞いたから。雨水さんが死神さんと喧嘩したって」

 「やっぱそうなんだ。じゃあいいよ。喧嘩の理由とか、話す」

 意外とあっさりだな。話してくれるのは幸いだが、変に踏み入って良かったのかと、今更後悔に似た不安が押し寄せてきた。

 本当に、今更だな。

 「死神さんと喧嘩した理由は、私が知られたくない事を言ったから。本当に、普通に訊いてきた」

 それが、ルカが言っていたものか。

 「"今の学校は、前の学校より楽しいの?" って。だけど個人情報だし、知ってるはずないのに知ってるんだよ。なんか怖くない?」

 「怖いな」

 即答だった。

 「でしょ。それが普通の感覚だと思う。だけど死神さんには、その"普通"が通じない。だから腹が立ったの。何で言わなくてもいい事を、わざわざ口にして来たのかって。佐々木さんはない? そういう経験」

 「ある。俺もそういう時、同じ事を考えたな。何で言うんだろう、別に言わなくてもいいだろって」

 そこで、目的地の場所——いつも俺が愚痴に来る公園に到着した。

 「雨水さん。ここが"人気の少ない良い場所"だ」

 一旦話を中断させ、公園の中に入る。その際に手を離した。もう逃げられないだろうと思ったからだ。

 「へえ。こんな所に公園なんかあったんだ」

 「うん。結構ボロいけど、綺麗にしたらそれなりに過ごしやすい公園だと思わないか? まあ一回掃除しようかと思った事もあるんだが、一人じゃ無理があるし、勝手に綺麗にして良いのか不安だったから止めたけど」

 「まあ、これだけボロいとなあ。一人じゃきついと思うよ。でも綺麗にしたら、確かに過ごしやすそうだ」

 学校での完璧な女の子口調とは少し違う、女の子らしさが溢れているような、それでいてどこか男の子らしさもある口調。これが雨水さんの素……なのだろうか。

 公園の中を歩いて見て回ったりし始めた後ろ姿を眺める。

 さっきの話は多分本当の事と嘘を混ぜたのだろうなあ。

 嘘をつく時は少しだけ真実を混ぜるといい、とどこかで聞いた事がある。多分雨水さんはそれを実行した。だから死神さんと喧嘩した理由は、"個人情報を言ったから''みたいになっている。

 全部否定するつもりはないが、それが理由なら何故俺から逃げようとしたのか説明がつかない。だって言いたくないって顔してた。ということは、そう簡単に話したくない内容だって事だろう?

 死神さんと一緒にいる。それは何故か。

 死神さんの発言に腹が立った。それは何故か。

 俺から逃げようとした。何故言いたくなかったのか。

 雨水さんが転校して来た時、ある噂が流れていた。それが本当だとしたら。

 「——……いじめられていたのか、雨水さんは」

 ぽつりと呟いた。だが聞こえていたようで、雨水さんが引き攣ったような笑みでこちらを見た。

 「何、言ってるの、佐々木さん」

 図星のようだった。隠してきた事がバレて、動揺しているという風に。

 「何でもない。それより、質問していいか」

 「……いいよ」

 敢えて話を逸らした俺に、雨水さんは怪訝な視線を向けて来る。

 構わず口を開く。

 「じゃあまず、何で死神さんの言葉で腹が立ったんだ? 悪いが、さっき言ってた事はどうも本当に聞こえない。だって、"個人情報を言ったから''が理由じゃ、俺から逃げようとする理由はないはずだ。それに、隠そうとする理由も」

 「それは、びっくりしただけだよ。知らない人に声かけられたと思って、思わず逃げ出しちゃっただけ。別に隠そうとしてた訳じゃない」

 「その割には、俺の顔しっかり見てたようだけど?」

 煽ってみるが、さっきのような動揺は伺えない。

 「気のせいじゃないかな? ほら、もう直ぐお昼でしょ。だからお腹が空いてぼーっとしてたんだよね」

 「……そうか」

 中々隙を見せない相手に、どうしたものかと考える。

 「じゃあ、何で死神さんの発言に腹が立ったんだ?」

 「それ、さっき言ったじゃん。個人情報だから言われたくないって」

 「でも個人情報だから、なんて転校して来たのは学校の人も知ってるんだし、別に知られても良くないか?」

 そこで少しだけ雨水さんが狼狽えた。

 「それ、は……。えと、死神さんと会ったのはつい最近で、知ってるはずがないからだよ。私は言ってないし」

 「噂で聞いたとかは?」

 「それもないと思うよ。死神さんって学校に着いた途端どっか行くから、噂なんて耳に入らないでしょ」

 ふーん、と相槌を打つ。

 「で、知ってたから腹が立ったと。俺はルカから聞いただけだからその後のことは知らないが、何か言われたか。今の学校は、前の学校よりも楽しいの……だっけ。それが原因だってルカは言ってた。原因って事は、それからちょっとだけでもやり取りは続いたんだろ?」

 「まあね」

 「それだけの情報で、何で俺が雨水さんがいじめられていたっていう結論に至ったか、分かるか」

 その疑問符が付いていない問いに、雨水さんは分からないと答えた。

 「ヒント。噂だよ」

 「噂……?」

 呟いて、さっと顔色を変えた。

 「まさか、私がいじめられてたっていう……?」

 「そう。雨水さんが転校して来て数日間、その噂が流れてたんだ。まあ誰かが勝手に言い出したんだろうが、的を得ていたな」

 俯いてしまった雨水さんに、俺は一歩近寄る。

 そして前々から気になっていた事を口にした。

 「そう言えば、なんだけど。死神さんと一緒に居るのは、どんな理由があるんだ?」

 「……え?」

 突然話を変えた事に驚いたのか、はたまた話の内容に驚いたのか。

 俺の言葉を聞いた雨水さんは、しばらくの間、呆然としていた。

 ——りん。

 その時、どこかで鈴が鳴っているような、そんな音が耳に入る。それを聞いた俺は、辺りに目をやった。

 そろそろ、時間か。


   ☆ ☆ ☆


 喉が渇いた。

 僕がそうぽつりと呟くと、戒里と夜雨さんが立ち止まった。

 「疲れたか? まァ、気持ちは分からなくもねェが」

 「そうか。月森は人の子だからな。すまない、配慮が足りなかった」

 妖怪に心配される僕って……と思いながらも、やはり心配される分には少し嬉しいような気持ちになる。

 「どこかで休憩しよう。確かさっき日陰があったはず」

 「水でも飲むか。オレは持ってねェけど、一翔は用意してんだろ?」

 してない、と首を振る。

 「マジか」

 覚えたての言葉を初めて口にするかのように、戒里が言った。

 「マジだよ。だって言われてねーもん」

 自動販売機とかあったよな。それで買うか。

 「あっ、おい! 勝手に動くんじゃねェ!」

 「戒里はそこで待ってて、夜雨さんと一緒に!」

 さっき見かけた自動販売機のところへ駈け出した僕の後ろで、「はあ!?」と不満な声を上げる戒里。それを無視し、僕は早く水が飲みたい一心で足を動かす。

 「あった……!」

 やっぱり見間違えじゃなかった、と鞄から財布を取り出す。お金を入れて、ペットボトルの水が表示されてるボタンを押す。するとがしゃんと音がして、ペットボトルを手に取ると、冷たい水滴が手についた。

 思えば、もう夏か。

 季節が流れるように過ぎて行く中で、僕は夏が一番遅く終わるんじゃないかと思う。まあ、これと言った理由はないが。

 今年は戒里が居るから、いつも以上に騒がしい夏になるかもな。

 「……だ……ら……いてって……るでしょ……」

 「……です……頼まれ…………貴方……訳にいかな……」

 どこからか二つの声が聞こえた。何やら言い争っているようだ。

 好奇心が疼き、その声の出所を探すためきょろきょろと辺りを見渡す。とそこで後ろから頭をガシッと掴まれた。

 「いだぃ……っ、離せ!」

 「お仕置きだ、馬鹿が」

 くそっ。戒里め。

 頭を掴まれたまま振り返り、戒里を睨む。

 「戒里、そこまでにしておけ」

 「分かってらァ。……ったく。勝手に行動するからだぜ、一翔」

 「悪かったな、勝手で。戒里のバーカ」

 「てめっ、懲りてねェなァ!?」

 また頭を掴まれそうになった瞬間、何かが上から降って来た。

 「これは……」

 シルクハット?

 恐らくその場に居た三人が今日初めて、同じ事を思っただろう。

 そう。何かと思えばシルクハット。何故かシルクハットだったのだ。それも、前に見た事があるやつ。

 僕はある可能性に、口を開いた。

 「くまさんのじゃないか、これ?」

 「だよなァ。オレもそう思う」

 戒里が同意した時、夜雨さんがシルクハットを摘むようにして手に取る。

 「だとしたら何故こんな場所にある……?」

 その独り言に近い言葉に、それぞれが思案する。

 死神さんには会ったけど、くまさんには会っていない。という事は、これから会うかもしれないというフラグか……?

 そう考えていた瞬間だった。

 「——……また、」

 また聞こえたのだ。二つの、言い争うような声が。

 誰だろう。再びきょろきょろと辺りを見渡すも、やはり肝心の相手は見つからない。

 「……ンだよ、さっきから。喧嘩か」

 「さあな。だが、どこかで聞いたような声だな……死神か?」

 「え」

 死神さんとは少し前に会ったばっかりじゃないか。

 「あァ? まだ謝ってねェのか、かみくんの野郎」

 「いいや。謝りたいが謝れない状況になってしまったらしい。もう一つの声が、悪魔だからな」

 見事にフラグ回収。

 「——キミには何の得もないはずだよ。何、人間に情でも湧いた? この悪魔が」

 「——頼まれたからには、放棄する訳にいきません。それに貴方も他人の事を言える立場だと? この死神が」

 はっきりと聞こえたその二つの声が誰なのかを物語っていた。やがてその声がどこから聞こえて来るのかが分かり、僕達はそこに足を運んだ。

 「へえ。言うようになったねえ。悪魔ってもっと賢いと思ってたけど、キミは違うみたいだ」

 「ほう。それはそれはとても興味深い言葉ですね。死神だって私——悪魔から奪われる側だと言うのに」

 そこは住宅街の中で最も目立たない、路地裏の通路だった。

 こっそりと覗くが、二人はこちらに気付かない。お互い無表情に近い顔で、淡々と吐く言葉には毒がある。

 「奪った事に対して誇りを持ってるの? だとしたら笑い話だね。悪魔はそれしか出来ないのかい。ボクよりずっと低脳だ」

 「低脳はどちらでしょうか。貴方が人間と共に居る時点で、死神としての誇りを失ったも同然。死神の恥ではないですか?」

 つらつらと並べ立てられる毒に、僕は呆然としていた。戒里も夜雨さんも口を挟まない。それどころか、どこまで口喧嘩が続くのかという点に興味をそそられているようだ。

 「うるさいなあ。キミだって同じだろ。人間の頼みを聞く悪魔なんて、悪魔として恥じゃないの。それとも何? 自分は違う、特別だとでも? 馬鹿げた考えだ」

 「うるさいのはそちらもそうでしょう。そう仰る貴方も同類なのでは? 自分を棚に上げて文句を言うなど、さらに馬鹿げた考えです」

 何この空間。

 「……キミ本当に何なの? ボクを邪魔する意見ばっかり。ボクは早くあの子に謝りに行きたいんだ。そこ、退いて」

 「邪魔する事が今回の目的なので。言うなれば時間稼ぎですよ。それとですね。貴方ならば、私が退かなくても通れるでしょう。何故そこまで穏便に済まそうと思うのですか?」

 そう言えば前も喧嘩してた。何なんだろう。死神さんとくまさんは顔を合わせたら、一度は口喧嘩に発展する、なんて習性があるのか。

 そう僕がぼんやりし始めた頃。りん、と鈴が鳴ったような音が聞こえた。

 何だ、と音が聞こえた所——くまさんの方を見た。

 「……盗み聞きですか。月森さん。それに戒さんと夜野さんも」

 そこに死神さんは居なかった。

 小さな鈴を持ったくまさんが僕達に近づく。

 「気付いてたのか。すまん、それは悪い事をしたな。少し興味が湧いてしまったんだ」

 「いえ、問題ありません。というかその格好……やはり、烏天狗だったのですね、夜野さん」

 やはり?

 「知ってたのかァ?」

 「ええ、まあ。どちらにしろ、その格好は色々と目立ちますよ」

 「急いできたからな。まあ別に化けてもいいんだが」

 そう笑った夜雨さんの体が、煙のようなものに隠される。そしてそれが消えた時、夜雨さんは夜野先生と言われていた姿に変わっていた。

 妖怪が人間に化ける所は初めて見た……。こんな感じなんだ。

 「そうです! 貴方がたも来ませんか? きっと面白いものが見れますよ」

 夜雨さんの変化には触れず、くまさんが明るい笑顔でそう言った。どう見ても、その笑顔には裏があるように感じられる。それに死神さんが居なくなったって事にも関係してそうだ。

 思わず警戒してしまう僕と不信な目を向ける夜雨さんだが、戒里は違った。

 面白いもの、と聞いて僕達の目的など忘れたかのように、くまさんの誘いに乗ったのだ。

 「面白いもん、見に行こうぜ!」

 ……キメ顔で言われても、腹立つだけなんだが。まあどうせ今日は話し合いなんて出来ないだろうし、ついて行くか。

 「全く……。自由過ぎるな、戒里は」

 呆れた顔で呟いた夜雨さんに、密かに同意した。

 「では皆さん、来るという事でよろしいですね?」

 「あ、ちょっと待って下さい。夜雨さん、アレ」

 「……アレ?」

 通じなかったか。

 困惑した様子を見せる夜雨さんに、手に持っている物は何かと指して伝える。すると、ああ、と納得した表情になり、何故か僕に渡そうとして来た。

 「え……」

 そこは僕じゃなくて持っていた人が渡すべきじゃないか? と非難の目を向ける。

 気付いた人が渡せばいいだろうと、目線で訴えられた。

 仕方ない。

 僕は夜雨さんからシルクハットを受け取り、くまさんにそれを渡した。

 「ありがとうございます。何処にあったのですか? 死神さんに投げられて探さないと、と思っていたんです。助かりました」

 投げられてって……一体どうすれば投げられる所まで口喧嘩が発展するんだよ。

 「いや、直ぐそこに落ちてました。正確には落ちて来た、ですけど」

 「そうでしたか。——……なるほど。そろそろ行きましょうか。もう既に始まっているかもしれません」

 何が? 何について"なるほど"? 何が始まってるかも、なんだ?

 その幾つかの疑問が凄い早さで解けるとは、僕は思いもしなかった。

 「目は瞑らなくていいですが、その代わり目的地への到着の際は、お気を付けて」

 一方的にそう告げると、貼り付けたような笑みで、くまさんがパチンと指を鳴らした。すると、一気に強い風が僕らの周りを竜巻のように囲む。

 急な事で硬直した体が、ふわりと宙に浮く。

 更に戸惑い、混乱し、声を出そうとする。だが風があまりにも強くて口を開く事が出来ない。

 なら、と必死に戒里と夜雨さんの状況を確認しようと目を開けようとするが、それも風のせいで無理だった。

 「大丈夫ですよ。人間には多少負担がかかるかもしれませんが、妖怪や悪魔には何の負担もありませんから。まあ端的に言えば、月森さん以外そこまでダメージを負っていませんね」

 何だそれずるくないか!?

 「大丈夫か? 月森」

 「……大丈夫だろォ? だって、一翔だぜ」

 その理論はおかしい。

 くそっ。何でいつもこうやって巻き込まれるんだ。ふざけるなよ。こんな移動の仕方なら、ついて行くだとか思わなければ良かった。

 半開きでふと見えた風の隙間。人は少ないが、通る人全員が誰も僕の姿に見向きもせず、そんな僕を囲っている風にも目線を向ける事をしない。

 まさか、見えてないのか?

 「もう一度言いますが、到着の際はお気を付けて。では参りましょうか。面白いものを観るために」

 体がさっきよりもっと高く浮く。しかもただ浮いているだけじゃない。移動もしているのだ。

 周りの風のせいで目がしっかりと開けられない以上、どこに向かって移動しているのか全く見当もつかない。

 悔しさや怒り、そんな感情が混じった心境の僕の耳に、悠長な会話が入る。

 「面白いもんって何だろうなァ、夜雨」

 「さあ、オレにも分からんな。だが少し楽しみだ」

 「きっと気に入ってくれると思いますよ。妖怪にとっていい展開かもしれませんし」

 とりあえず、戒里だけは絶対許さない。

 どこか冷静な自分が、そう心に誓った瞬間だった。


 5

   ☆ ☆ ☆


 「着きましたよ」

 その声と共に周りを囲っている風が止んだかと思えば、浮いていた事で不自由になっていた体が地面に思い切り強打した。二メール程の高さを後ろから落ちて行ったのだ。咄嗟に手をついたとは言え、僕はしばらく腰に来る激痛に悶えた。それに掌も少しだけ痛い。

 「お前何やってんだ……っ」

 流石妖怪と言うべきか。見事な着地をした戒里は、堪える事なく腹を抱えてゲラゲラ笑う。

 「月森、大丈夫か?」

 夜雨さんも綺麗に着地したようだ。僕を見て心配そうにしながらも、やはり笑っている。

 「だから言ったでしょう? 到着の際はお気を付けて、と」

 当事者は涼しい顔でそう言った。わざとらしく、笑いを隠すため口元に手をやる。

 確かに二回言われたけど、こうなるとは予想もつかなかったんだよ。未だ痛む腰をさすり、笑っている三人を睨みつける。だが三人は表情を変えない。

 悔しがる僕に戒里が声をかける。

 「おいおい、一翔ゥ。ンなとこで転がってたら、通行人に変な目で見られるぜ?」

 はっと辺りを見回す。まだ人は通っていない。けど声は聞こえるし、車の通る音も聞こえる。ならばもう直ぐでここに通りかかる人が居るという事だ。

 ぎっくり腰ってこんな感じだろうかと思いながら、腰に手を置いたまま急いで立つ。が、恐らくのそのそと立つようにしか見えなかっただろう。

 「ふう…………痛い」

 立ち上がりそう呟くと、戒里がまたゲラゲラ笑い出す。全くもって失礼なやつだ。

 前方から二人組の女性が歩いて来る。

 妖怪が見えない人にとって僕は、挙動不審な態度を取ると迷子と勘違いされるのはお約束だろう。だから出来るだけ普通に散歩してる小学生を装う。幸い手にはまだ口をつけてないペットボトルがある。戒里に邪魔されて飲めなかったし、今の内に飲もう。すると偶然、散歩中に休憩してる小学生、という絵が出来上がる訳だ。

 横を通りかかる女性二人組と、側でまだ笑いこけている戒里と、微笑と苦笑を浮かべているくまさんと夜雨さん。自然と目が行くのは、やはり殺意が湧く戒里だ。

 「ねえ。あの男の子、迷子かな? 一人だし」

 「えー? 私は散歩とかだと思うけどなあ。水飲んでるし、休憩中なんじゃない?」

 「あー、なるほどねえ。なら心配いらないか」

 僕の横を通り過ぎて行った後の会話が聞こえ、思惑通りいったと心の中だけで喜んだ。

 で、ここどこだ。

 行き先も告げられていないまま、くまさんに連れて来られたんだ。僕の知ってる場所とは限らない。だが住宅街の中なのは確かだろう。さほど風景に劇的な変化は見られない。

 「戒里、ここがどこだか分かる?」

 「さァ? オレに訊くな」

 訊く相手を間違えた。ここは連れて来た本人に尋ねよう。

 「くまさん、ここはど」

 「静かに。私について来て下さい。そうしたら分かりますよ」

 僕の疑問などどうって事ないとでも言いたげに遮られた。何を警戒しているのだろうか。

 でもくまさんが歩き出したから、僕は仕方なく口を閉ざして後を追う。

 「…………」

 人が横を通り過ぎた時、必ずちらりとだけでも視線を向けられる。何も珍しい事はない筈なのにと、居心地の悪さを感じて知らず知らず顔を顰めた。

 ずっと前を歩いているくまさんが足を止めた。どうやら目的地に着いたようだ。

 そこで僕は思わず絶句した。五分くらいで着いた事にじゃない。あまりにもボロい公園だった事に、だ。

 一見地味でよく見れば所々落書きされてて、フェンスの内側に木がずらりと並んでいるその公園。何の理由でこんな場所に? そう思わずにはいられなかった。

 しかし、くまさんは公園へ足を踏み入れなかった。僕としては嬉しい限りだが、目的地はここじゃなかったのかと小首を傾げる。

 再び歩き出したくまさんの後ろをついて行くと、微かな喋り声が耳に入った。公園からだ。フェンスと木々の隙間を覗こうと歩みを止める僕に、夜雨さんが「どうした?」と小声で問う。

 声が聞こえたんだ。そう返答すると、夜雨さんより先にくまさんが反応した。

 「それは公園から聞こえたのですか? するとどの辺りからです? 死神さんの声でしたか?」

 何故死神さんが出て来るのかなんて疑問も浮かばないほど、早口な質問をされた。

 戸惑いながら全ての質問に答える。

 「公園からで、確かその辺……誰の声かは分かりませんでした」

 指をさした場所は適当だったが、その場所には偶然人が居た。

 「これが面白いもんかァ……」

 釈然としない様子で呟く戒里に、はいとくまさんが頷く。

 「面白いでしょう?」

 その問いに答える者は居なかった。

 公園には、謝りに行くと言っていた死神さんと現在進行形で謝られている雨水、そしてそれを静観している佐々木が伺えた。三人以外、人っ子一人居ない。

 くまさんは死神さんの頭を下げている姿を「面白いもの」と言った。だけど僕はそうは思えない。やはり、人間と妖怪は勿論、人間と悪魔も決して相容れぬモノなのだろう。

 そう思うとやり切れない気持ちが胸に広がる。だがここへ連れられる直前のくまさんの意味深な言葉が今、分かった。それで充分と思う事にしよう。

 僕以外がそれぞれ木の隙間を覗いて会話を盗み聞きし始めた。

 見つかった場合の言い訳は作っておいた方が得策だろう——そう思い、あらかじめ持って来ていたメモ帳に鉛筆で言い訳を書き込んだ。


 言い訳1:戒里がどうしてもって言うから仕方なく。

 言い訳2:死神さんがちゃんと謝ったのか気になった。


 恐らく言い訳として使うのは1の方だろう。戒里は許さないと心に誓ったのだから、この際に盗み聞きで何か言われそうだったら戒里のせいにしよう。

 そうして僕は、側にあった電柱に寄りかかった。木の隙間からじゃなく、この体勢でも会話を聞き取れるよう、しっかり耳を澄まして。



 出来れば、許してほしい。

 僕が一番最初に微かに聞いたのは、多分こんな言葉だったのだろう。許してほしいと言われたなら、許すしかないですね。雨水のこの言葉で予想がついた。

 この時点で僕は、何だもう終わりかと落胆しかけたのだが、雨水の言葉には続きがあったと分かり再び耳を傾けた。

 雨水はこう言った。ただし、条件があります、と。

 「条件?」

 死神さんが眉を潜めた事が、声から伝わった。

 「はい。死神さんが私に課題として出した人物は誰か、教えてほしいんです。簡単な事ですよね?」

 「簡単って……教えないと、許してくれないの?」

 「はい」

 話の内容は分からないが、完全に雨水の方が死神さんを押している。謝るって言ってたけど、条件付きは厳しいのか? でも雨水は簡単な事って言ってるし……。

 「……どうしても教えてほしいの? 面白い名前とかじゃないよ?」

 「え、名前まで教えてくれるんですか!? 性格とかだけで良かったんですけど。でも死神さんが良いなら是非!」

 うわ、すげー煽ってる。

 「い、言いたくはないかな。性格だけで勘弁して」

 「目を逸らしても駄目です。まあ、本当の本当に嫌だってんなら、性格だけで勘弁してあげますけど」

 「……ありがとう、沙夜」

 苦笑いの死神さんが目に浮かぶ。だがやはり話の内容は分からないな。分からなくていいんだろうけど。

 その時ふと視界に入った、知った顔のおばあさん。相手は僕に気付かず通り過ぎて行ったから声はかけなかったが、挨拶ぐらいしておけば良かったかな。

 そんな事をぼんやり考えていると、左からある呟きが聞こえた。

 「あの人……」

 夜雨さんがポツリと零したのはたったそれだけ。しかし何故だか夜雨さんの視線は、未だに通り過ぎたおばあさんに注がれている。

 「夜雨さん、知ってるんですか?」

 おばあさんから僕に視線が移る。誰と言わなくても伝わったようだ。

 「知ってるが、相手はオレを知らない」

 そう言って目を逸らす。

 「…………。そうですか」

 面倒なことになったら嫌だ。その一心で、この件にはもう触れないでおこうと決めた。

 いつの間にか雨水達の会話が進んでいて、なんとか話の流れを理解しようと僕は集中した、が。

 「聞きたい事は聞けたので、死神さんを許します」

 もう終わってしまっていた。

 「うん。助かるよ」

 心なしか元気のない声をしている死神さん。

 「終わったかァ。で、くまくんはどうすんの?」

 「そうですねえ。死神さんに嫌味でも言いに行きましょうか。まあどちらにしろ、私は波瑠さんの元に戻らねばなりませんので、行きますが」

 ちらりと視線が夜雨さんに向く。

 「貴方はどうなさるのです。盗み聞きをしたとはいえ、まだあちらにはバレていない。見た所、貴方が決めれば戒さんも月森さんも従うでしょう」

 うん? くまさん今なんて? 思わずくまさんを凝視してしまった。

 「さあな。戒里に任せる」

 見事な責任放棄。

 「オレは行くぜ?」

 平然と答えたやつの顔は、期待に満ちていた。何に期待しているのかは分からない。

 「おい、一翔も行くだろォ。逃げようとすんじゃねェぞ」

 「何で僕まで。行く理由はないんだけど? それに夜雨さんも本気ですか。こんなやつに任せて、本当にいいんですか?」

 「こんなやつだと!? お子様がオレ様にそんな口利いていいと思ってんのか!?」

 横で騒ぐ戒里を適当にあしらい、返答を待つ。

 「まあ良いじゃないか。面白そうだろう? それと月森。これ以上ここで口を開くと、独り言が多い子供って認識されるぞ。オレは今人間の姿で居るが、普通の人には視えないようにしているからな」

 それを聞いて、渋々僕は口を閉ざした。

 結局戒里と一緒で、「面白そう」が本音じゃないか。こっちは——住宅街の中だとしても——来たことない場所に連れられて、一人では帰れないって言うのに。普段外に出ないのが、こんな所で裏目にでるとは。

 己の行いを思い返して、知らず知らずため息をついた。

 「………………分かった」

 こうして僕らは、公園の中に足を運んだ。

 いち早く気付いたのは流石と言うべきか、死神さんだ。

 「キミ達、何で居るの?」

 不愉快だとでも言いたげに眉を寄せ、その視線はくまさんを捉えている。キミ達、と言っておきながら、まるでくまさん以外に目を向けない死神さんの態度に、ありがとうと言いたい。

 良かった。死神さんという危険人物に、ここに居る理由を聞かれなくて。死神さんは怒ると怖いヒトだろうからな。だが、そこでほっとしたのは間違いだった。

 死神さんと距離を置いた日陰の場所に僕が移動すると、雨水と佐々木がやって来た。

 「月森君。聞いてたでしょ」

 反応しそうになり、直ぐさま身を固めた。ゆっくり雨水を見る。

 「何を?」

 本当は見ていたが、ここでバラすのはあまり良くない。そう考えての言葉だ。

 すると、雨水にじーっと探るように見つめられる。よし。バラそう。

 「悪かった。戒里がどうしてもって言うし、くまさんが死神さんの謝ってる姿が見たいって言うから」

 降参のポーズで僕は悪くないと伝える。

 「でも聞いたのは死神さんが謝った後、条件付きで許すって言った所くらいだし。別に聞かれてもいい内容だっただろ?」

 「うん。ごめんね、問い詰めようとした訳じゃなかったんだけど」

 申し訳なさそうに眉を下げて笑う雨水に、佐々木が話しかける。

 「雨水さん、俺もごめん。心配だからって押し付けな世話焼いて。無理に事情聞いたのも、ごめん。お節介が行き過ぎたよな」

 「ううん。むしろ助かったかな。佐々木さんと話さなかったら、死神さんを許すなんて、まだ出来なかっただろうし」

 「そうか? ……それなら良かった」

 その時、佐々木の手にきらりと光るものが見えた。あれは……指輪か? 今まで気付かなかったな。でも学校で「佐々木が指輪をしてる」なんて噂はなかった。あったら稲葉が不安そうに僕に話すだろう。一応アクセサリーとかは校則違反だから。

 じゃあ今日だけ付けたのだろうか。いや、きっとそうだ。だから変に勘ぐるのは止めよう。雨水の腕輪が見えなかったからと言って、佐々木までそうだとは限らないだろ。

 何を馬鹿な事、と自分に呆れていると言い争っている声が二つ、耳に飛び込んで来た。

 「だから、何でそんな不愉快な事ばっかりするの? いい加減にしてくれないかな」

 「だから、私にとっては不愉快ではなく愉快な事なんです。いい加減にするも何も、これは悪魔のたしなみと言っても過言ではありません」

 またか。あの戒里と夜雨さんも呆れた顔になって、目を合わせる。

 「それがボクは不愉快だって言ってるんだよ。何? やっぱり悪魔って低脳なの? これだけ言っても理解しないとか……嘆かわしいね」

 「貴方だって理解しないでしょう。やはり真の低脳は違いますね。人間に頭を下げている所なんて、まさしく滑稽でしたよ。死神の名がすたるのでは?」

 挑発に挑発で返すその姿勢に僕はビビるよ。

 しかし、これは本日二度目の出来事。一度目よりかは衝撃が少ない。の話だ。

 「え。し、死神さん……?」

 「ルカ……だよな?」

 死神さんとくまさんは初対面の時もちょっとした言い合いになっていたが、今回のレベルアップ版は雨水も佐々木も初めて見たのだろう。かなり動揺している。

 僕はそんな二人に声をかけた。

 「あのヒトら、まだあんな風に喧嘩が続くと思うけど。お前らは止めないの? あの二人とそれぞれ一緒に居るんだろ、雨水も佐々木も。それなら止めてよ。見てて冷や冷やする」

 死神さんとくまさんの周りは険悪な雰囲気に包まれており、近付けば巻き込まれるかもしれない。それを承知の上で他人任せな僕は、最低だろうか。

 少し後ろめたさが湧いた。その気を紛らわすために視線を泳がし、最終的には空へと落ち着く。

 晴天だった。雲は多少あるものの、澄んだ青空が彼方まで広がっている。

 「うん、止めてくる」

 「ああ、止めてくる」

 同時に発した言葉に、お互いが笑い合う。

 僕は空を見るのを止め、喧嘩の仲裁に行った二人を見送りながら、手に持つペットボトルの蓋を静かに開けた。


   # # #


 私は月森君から離れ、佐々木さんと一緒に喧嘩している二人に近寄った。

 佐々木さんのお陰で死神さんと仲直りが出来た。だと言うのに、その死神さんは月森君たちが来た途端、私の事はお構いなしで悪魔のルカさんと罵り合っている。

 「死神さん、それぐらいにしときましょうよ」

 そうやめるよう言うと、子供が拗ねたみたいに横を向いた。

 「別にキミには関係ないでしょ。これはボクと悪魔の問題だから」

 「……。前から不思議に思ってたんですけど、どうしてルカさんを毛嫌いするんですか? それこそ二人の間に、特に問題なんてなかったじゃないですか」

 初めて会った時以外にも、死神さんはルカさんに対して嫌悪感を露わにしていた。一体何が死神さんをそうしているのだろう。私の知る限りでは、これといった問題はなかった。

 だったら、何故。

 「あるんだよ。キミは知らない問題がね。悪魔はボクら死神にとって、最も警戒しなくちゃいけない、天敵とも言える存在なんだ。魂を管理する立場としては、勝手に喰らう悪魔が許せない」

 魂を管理する立場? 勝手に喰らう悪魔? ちょっと待って分かんない。

 慌てて死神さんを止める。

 「ちょ、ちょっと待って下さい! そもそもですね、私は死神さんの仕事と言いますか、そういうものを知らないんです。だからそれ関係で何か言われても、理解が出来ないというか、追いつかないというか。私から訊いたのに申し訳ないんですけど、えと、一から説明してほしいです!」

 言い切った感が私の中に残った。それを聞いた死神さんは、私に丁寧に教えてくれる。

 「死神っていうのは、命や魂を奪う者じゃなくて、それを管理する者の事なんだ。例えば死神って聞いて、キミはまず何を思い浮かべた?」

 「死神さん」

 ………………。暫し沈黙が訪れた。冗談なのに。

 「コホン。気を取り直して、もう一度言うよ。死神って聞いて何を思い浮かべた? 簡単でいいから想像してみて」

 言われた通り、想像してみた。

 真夜中。ある丘にお墓が沢山並べられている、どう見ても何かが出て来そうな場所。私は懐中電灯を持っていて、ふと気配を感じその場所を照らす。が、何もいない。

 遠くでバサバサと音を鳴らし、コウモリが夜空へ飛び立つ。ざわざわと胸騒ぎが治らない。その時、視界の端に、キラリと光るものが映った。

 私は振り返る。そこにいたのは——

 「——黒いローブに鎌を持ってる骸骨、ですかね」

 「ま、大方その想像をするだろうね」

 うんうんと頷く。

 「でもそれは違うと?」

 「そう。キミはボクが死神だって名乗った時、半信半疑だったでしょ。けどボクは死神だ。この時点で分かったことはあるかな」

 疑問符の付いていない問いかけに、私は首を縦にふった。

 「人のイメージだけで創り出された『死神』は、人のイメージでしかない。だから、命を奪うと言われている事も、人のイメージだけで創り出されたもの。そういう事ですよね」

 すると死神さんが微笑んだ。

 「上出来だね。じゃ、それを前提で考えてみて。命や魂を奪う訳でもない死神が、どうして人の寿命を知っているのか」

 あー、確かに私の寿命知ってたもんなあ。死神だから、で片付けれそうな気もするけど、それは駄目なんだよね。どうして、どうして、どうして……。

 しばらくして、一つの答えが頭に浮かび上がった。それを読み上げるように口にする。

 「魂を、管理しているから」

 自信はなかった。私は今、未知なモノの存在意義を聞いているのだから。けれど死神さんの言動を振り返ってみると、それしか答えが出せなかった。

 「賢い子は嫌いじゃないよ」

 合っていたみたいだ。死神さんはそれから思い出したように声を上げた。

 「あ、そうだ。今から言う事は、覚えておいた方が良い。いつか役に立つかも。死神は冥府ってところに住んでるんだ。古くから死を司る神って言われてるけど、所謂神々の『汚れ役』だね。だっていつの時代も、『悪役』なんだからさ」

 また複雑な事を言い始めた。命と魂の違いさえ分からない私に、死神さんは次々と知識を吹き込んで来る。

 だが、死神さんの表情があまりにも哀しげだったから、文句は心にしまった。

 ——何で死神さんは、時々哀しそうに目を伏せるのだろう。

 「あのー、死神さん? 話が脱線しているような気がします」

 「え? ——ああ。そう言えば最初に聞いてきたね。ボクがどうして悪魔を嫌うのかって」

 そう言った後、死神さんは顔を顰めた。吐き捨てるように続きを口にする。

 「悪魔は人の命を、魂ごと食糧にするんだよ。人間と違ってそこまでお腹は空かない筈なんだけど。だから嫌いなの。勝手に人間の生を奪って行くんだから。人間は魂を悪魔に喰べられたら、もう二度と、この世に生まれる事なんて出来ないのにさ」

 ゾッとした。背筋が凍って、冷や汗がどっと溢れて。何が何だか分からないまま、私は思わずその場で立ち尽くした。

 だって——だって、佐々木さんはその悪魔のルカさんと、今も一緒に居るんだよ。もしかすると、自分の命を狙ってるのかもしれないのに。怖いって、嫌だって思わないの? それとも何も知らないのか、佐々木さんは。

 私と無関係ならば、他人がどうなったってどうでもいい。でも今回助けてもらって、死神さんと仲直りする事が出来たんだ。その恩を仇で返すような真似はしたくない。借りはきちんと返さないと、いつか後悔する。そんな事態になる前に、何か手を打たねば。

 「どうしたの。気分でも悪い?」

 黙りこくった私に、死神さんが心配そうに声をかける。

 「……いえ」

 何でもないです、と首を横に振る。しかし私の思考は、佐々木さんとルカさんの事でいっぱいだった。

 改めて考えると、佐々木さんがルカさんと一緒に居る理由は何なのだろうか。見たところ友達関係でもなさそうだし、かと言って全く関係がない訳でもないだろうし。

 考えられるのは四つ。一つは、そういう家系だから。二つは、どちらかがどちらかを助けたから。三つは、ルカさんに——悪い意味で——目をつけられてしまったから。四つは、私と死神さんみたいに、ルカさんと契約したから。

 この中に正解があるかどうかなんて、本人じゃない限り分かるはずもない。だけど、ルカさんと一緒に居る理由も、それがどういう意味を含んでいるのかも、佐々木さん本人に訊けば分かる事だ。

 私はそっと、いつの間にか離れた場所に移動して会話している二人に目を向ける。

 生憎時計は見当たらないが、きっともう昼だろう。お金を持って来ている訳じゃないから、一旦帰るしかない。また後で会う約束でもしたら話せるだろうか。

 そう考えた私は、とりあえず佐々木さんとルカさんの会話が終了するのを待つ事にした。……ただ、佐々木さんと話し合うなら、ルカさんが居ると厄介だなあ。

 どうすれば遠ざけれるのだろう。


   * * *


 「何でそう死神さんを煽るんだ」

 俺は月森から離れ、雨水さんと一緒に喧嘩している二人に近寄った。

 雨水さんと少し話すためにルカには死神さんの足止めを頼んだ。まあまあ話せた時に鳴った鈴の音は「もう足止めは出来ない」というルカからの合図だ。でもまさか、月森達も一緒に来るとは。鈴が鳴って死神さんがすぐ来たわりには、妙に遅いなと思っていたんだ。

 「何故と言われましても……それが悪魔というものですし。愉しいですよ? 波瑠さんもしてみたらどうです」

 ルカは死神さんから離れるためか、五メートル程距離を置きながらそう言った。

 「遠慮するよ。ルカは悪魔だから『愉しい』って思うかも知れないが、俺は人間だ。それ以外の感情を抱く」

 「そうですか……。残念です」

 とても残念がっているようには見えないのだが。ともあれ、足止めをしてくれた事に関してはお礼を言おう。

 「ルカ、死神さんを足止めしてくれてありがとう」

 「いえ、礼には及びませんよ。むしろこちらが感謝したいくらいです。なんせ、あの"噂"の死神と一対一で話せたんですから。ほとんど煽り合いでしたが、貴重な経験です」

 ペラペラと喋り出すルカ。だが『噂の死神』『貴重』って、どういう意味だ?

 訳が分からず首を傾げる俺に、どうしました、とルカが声をかける。

 「噂の死神って何だ? それが関係してるから死神さんを煽るのか」

 「ええ、そうですよ」

 誤魔化そうともせず、はっきりと認めた。

 「波瑠さんが知る必要はありませんが、これもまた一興です。私は愉しいのが好きでして。これからどうなるかとそわそわしてしまいます」

 恍惚な表情を浮かべ、ルカは一度空を仰ぐ。俺には一切見せなかった表情だ。という事は、死神さんには何か悪魔が貴重というほどの秘密がある。そういう認識をしてもおかしくはないのだろう。

 それにしても今のルカはちょっと気持ち悪かったな。

 「何か失礼な事を考えませんでした?」

 ずばりと言い当てられ、反射的に答えそうになる。

 「変態みた、……なんでもない」

 慌てて目を逸らすが、やはり聞こえていたのだろう。無言で居住まいを正し、にこりと微笑んだ。

 「噂の死神について知りたいのですよね。今から説明しますので、難しいところがあれば聞いてください」

 あっ、なかった事にする感じ?

 ならばと俺も同じようになかった事にして、ルカの説明に耳を傾ける。

 「噂は色々ありますが、私が興味を持った事だけお話します。——ある神のお気に入りは、掟破り。死神の中で一人だけ、数百年経つと容姿が変わる者が居る。それと、銀髪の死神は人間であった」

 顎に手を当てながら、こんなものでしょうか、と呟く。

 「聞きたいんだが、いいか」

 学校で授業を受けているみたいに、俺は控え目に手を挙げた。

 「はい。何でしょう」

 ルカは一旦考えるのを止め、俺に視線を向ける。

 「全部良くわからないから、一つ一つ教えてほしい」

 「それは『願い』と受け取っても?」

 「いいや、『頼み』だ」

 ——ずるいだろうか。

 『願い』ではなく『頼み』と言うのは、卑怯か? 願いを叶えてもらえる事ができる回数は限られている。だからと、ほとんどの出来事を『頼み』と言ってその回数を減らさないようにしている。俺は、ずるい手を使っているのだろうか。

 心にもやもやとしたものが広がる。

 「分かりました。まず、掟破りの話ですね。これは最近の話だと記憶しています。確か人間の感覚で言うと……」

 十年前だった。ある神に気に入られている死神は、ある人間と出会う。何かを感じたのか死神は何度もその人間に会いに行き、やがて友情というやつが芽生えてしまった。だがその人間は病気で寿命がもう一年程度しかなく、明るい未来なんて待っていなかった。

 死神は考える。どうすればもっと話せるだろうと。

 そこで閃いた。否、閃いてしまった。死神にとって重要である掟の内、最も禁忌とされている行為をすれば、その人間は死ななくて済むと。

 そうして掟を破ったものの、死神は人間を死なせない事に失敗した。人間はきちんと寿命で亡くなり、死神は少しの間だけ鉄格子の檻に閉じ込められた。

 「……その掟って何なんだ?」

 バッドエンドな噂だな、と思いながら問う。

 「寿命を延ばす事を禁じる、みたいなものだったと思います」

 うろ憶えじゃないか。まあ噂だし別に良いけど。

 「次は、数百年経つと容姿が変わる死神の話ですね。ですがこれは先と違い、そう囁かれているだけの噂ですしね。そのままの意味を理解するだけでいいかと」

 「分かった」こくんと頷く。

 「最後は銀髪の死神が人間だった話ですが、これは色々な説がありまして。全部聞きますか?」

 「ううん。ルカが一番、あり得ると思うやつだけで良い」

 するとルカの笑みが深くなった。俺が何だ? と思う間もなく話し出す。

 「死神が銀髪というのは、そもそも珍しいんです。大抵は黒か白で、それ以外の髪色はないはず。だと言うのに、現に銀髪の死神は存在しています」

 そう言って死神さんを一瞥する。

 なるほど。確かに死神さんは銀髪だな。黒いスーツに真っ黒な目で、髪色だけが異質に思える。

 ——何故、銀なのか。

 「私の頭にある考えが浮かびました。数百年経つと容姿が変わる死神は、彼ではないかと。いえ、そうだとしたら、辻褄が合うんです」

 一息ついて、再度声を発する。

 「容姿が変わるのは、特定の姿を印象に残さないため。掟破りの話が真実なら、"人間と出会い何かを感じた"というのは、前世関連だと想像出来ます」

 突然知らない単語が飛び出して、俺は戸惑った。

 「前世って、何だ」

 耳にした事はある。たまにクラスの女子が、前世がわかる占いとか何とかで話していた。会話に参加していない俺は前世が何なのかはよく分からなかったが。

 「前世とは、この世に生まれ出る前の世の事です。言い方を変えると、『自分』の前の人生。分かりました?」

 「あー……っと。なんとなく……?」

 「なんとなく、で結構ですよ。人間には前世の記憶がありませんから、想像しにくいのでしょう。無理に理解する必要はありません」

 微笑みと共に言われたのは、優しいようで優しくない言葉。

 つまりはあれだろ。俺は理解出来ないから、無理に理解しようとするなと、そういう事だろう? 笑ってるけど、そう顔が物語っている。

 少しだけむっとした。

 「あっそ。で? 何で前世関連だって思ったんだ」

 考えるよりも先に素っ気なく返してしまった俺に、ルカは不思議そうにしながらも口を開く。

 「彼を元人間だと例えたからです。何かの理由で死神となった彼は、人間だった頃仲が良かった者と再会したかった。けれどその者は生まれ変わっている可能性が高く、それ故容姿も変わっているとなれば、捜すのも困難でしょう」

 そしてある日見つけたのだとルカは言った。

 「それが掟破りの噂話と繋がるって言うのか……。それにしてもさ、姿が変わる死神っていう噂とも繋がったし、上手く出来すぎてないか? そんな繋がりまくった噂ってあるのかよ」

 「まあ、一部私の解釈や考えが盛り込まれていますからね。それが本当の噂とは限りません。最も、誰も何が『本当』なのか分かりやしないでしょうが」

 確かに、と呟いた。

 本当かどうか分からない不明瞭な話を、噂って言うしな。

 「ん……?」

 ルカとの会話を思い返していると、ふとした違和感を覚えた。ただ明確には分からないから、それをルカに伝える気にはならない。

 黙っていようと決めた俺は、思考を切り替えるようにして話す事に集中する。

 「大体分かった。ルカが何で死神さんを煽るのかっていう理由は。けど死神さんが噂の死神だって思ったのは、やっぱり銀髪だから? そんな簡単な理由なのか。もし違ったらどうするんだ?」

 質問ばかりになってしまったが、分からない事が多いのだから仕方ないだろう。良く担任も言ってるぞ、「分からない事があったら何でも大人に聞け」って。人じゃないけど、『大人』の部類には入るだろ、ルカも。

 「…………」

 ルカの顔から笑みが消え、そのまま何も言わずに視線を地面に向けた。

 ぽんぽんっと会話が進んでいたのに、この変化は何なのだろうか。怪訝に思い、ルカの顔を覗き込もうとする。

 「——まさか、人間如きに……」

 ルカを覗き込もうとする手前で、そう掠れた声で呟くのが聞こえた。思わず体が固まる。

 耳を疑った。

 いつも丁寧な口調で優しい笑みを浮かべる、高くも低くもない声色のルカ。それなのに今聞いたのは、丁寧な口調には変わりないが、その表情は優しい笑みではなく冷たいもので、声だって掠れはしていたが普段より低かった。

 俺は何か訊いてはいけない事でも口走ったのか? だが訊いたのは、死神さんが銀髪だから噂の死神だと思ったのか、本当にそんな簡単な理由なのか、という事だけだ。別におかしな事は口にしていない。

 てっきり普通に答えをくれると思っていた俺は、ルカの変化に驚き、当然ながらも狼狽えた。けれどルカは未だに反応しない。目を閉じたかと思えば、ずっとそのままだ。

 俺はその隙に一歩後退る。恐怖を感じたからだ。

 「波瑠さん」

 静かに名を呼ばれる。

 「どうしたんですか、そんな青い顔をして」

 心配そうに眉を下げ、優しく語りかける。先程の表情と声色は面影すら残していない。

 「……なんでもない。お腹すいたなあって思っただけだ」

 そう誤魔化すしか他はなく、俺はいつも通りを装った。

 「そうでしたか」

 ルカがそれ以上尋ねて来る事はなかった。しかし俺の問いにも答えてはくれない。

 それからもう暫く待ったが、ルカと俺の間にあるのは未だに沈黙だけ。これ以上は時間の無駄か。そんな考えが過ぎった瞬間、焦った戒里さんの声が耳に飛び込んで来た。ただならぬ気配を感じ、声がする方へと顔を向ける。

 そこは日陰になっていて、いつ見ても大きく丈夫な木の下で。俺と雨水さんもちょっと前まで話していた場所だった。

 戒里さんと夜野先生らしき人が焦った表情でその人の名を呼んでいた。

 「流風……?」

 ぽつりと呟いた俺の声が、まるで水の中に居るようにぼんやりと聞こえて、訳の分からない感情に襲われる。

 違う、流風じゃない、別人だ。あの人は違うんだ。流風は、兄さんはもう居ない。ここには居ない。

 酷く混乱している頭を、感情をなんとか整理する。

 大きな木の幹に寄りかかって、苦しそうに空気を求めて呼吸する月森と、あの時の状況があまりにも『そっくり』だったから、思い出してしまったのだ。……ただ、それだけだから。

 はっと我に返った時にはもう、月森が耐えきれないといった風に地面に倒れこんだのと同時だった。

 「月森!」

 慌てて俺は駆け寄った。

 別人でも、今度は助けたい。あの時のように、何も出来ないままなんて嫌だから。

 「悪魔のあれが原因か?」

 「さァ。とりあえず此奴を連れて帰るぞ。人間には負担が大きかったのかもなァ」

 すぐ横でそう言った戒里さんは、真剣な表情だった。

 「戒里さん、月森は大丈夫だよな?」

 「あァ? ——佐々木波瑠、だったよな、お前。大丈夫だと思うぜ。一翔はそんなヤワな奴じゃねェだろうしよ」

 「……そうか」

 ほっと胸を撫で下ろした。

 「まァ、これからどう体調が変化するか分かんねェが。心配なら来るか? そこの……雨水沙夜だっけか。お前もどうだ?」

 こちらの様子を伺う視線を向けていた雨水さんに、戒里さんはそう提案した。

 雨水さんは一度か迷う素振りを見せたものの、行く事にしたようだ。

 「俺も行く」

 よし、と戒里さんが頷く。

 「じゃ、夜雨。お前が一翔を背負え」

 「ああ。移動するのは戒里、お前の持っている『あれ』でいいな」

 「そうだなァ」

 にやりと不敵な笑みを浮かべ、着物の袖に手を入れる。

 ……ところで、ヨサメって誰の事だ?

 雨水さんも同じような事を思ったらしく、俺に近寄り、こそっと耳打ちする。

 「ヨサメって、誰の事?」

 「さあ……? 会話からしてあの人だろうけど」

 「でもあの人、夜野先生だよね? 何で月森君と一緒に居るのかって触れて来なかったけど……」

 俺も触れて来なかったな。というか、触れる前にルカと死神さんが喧嘩したし。

 「実は別人? そっくりさんとか?」

 俺は思い付いた事を口にした。

 「うっそ。そっくり過ぎだろ」

 「雨水さん、口調口調」

 「あっ。……忘れて」

 こそこそと内緒話を続けていると、準備が整ったらしい。話の中心である夜野先生らしき人に声をかけられる。

 「準備が整ったぞ。とりあえず移動するんだが、君たちは死神と悪魔と共に行動をお願いしたい。いいか?」

 首を傾げる俺に代わり、雨水さんが質問する。

 「それって『あれ』に人数制限があるかもしれないからですよね」

 「そうだ」

 短く肯定する。

 「分かりました」

 雨水さんはそう言って「行こう」と俺の手を引こうとするが、互いに行動するのは違うヒトとだ。はっと手を引っ込め、また後で、と小さく言って死神さんの元に歩いて行った。

 行き先は共通して月森の家だ。場所は戒里さんから聞いたらしく、ルカも死神さんも既に知っていた。

 「では私達も行きましょうか」

 まず初めに、戒里さんたちが青い光る糸のようなものに囲まれ、姿を消した。続いて雨水さんと死神さんが眩い光に包まれて消えて行く。

 「ちょっと待ってくれ」

 最後に俺とルカが残った。

 「どうしたんですか?」

 今日半日で、俺はどれくらいルカに質問しただろうか。

 だが移動する前に聞いて置きたかったのだ。ルカは月森達と一緒にこの公園にやって来た。そして夜野先生らしき人の「悪魔のあれが原因か」という言葉。

 それらから考えるに、

 「月森が倒れたのはルカのせいか?」

 可能性としてはあり得る。

 俺は月森が倒れた原因が知りたいんだ。ルカを責めるつもりなんてない。

 そんな思いで返事を待つ俺にルカは、ああ、と今思い出したかのように声を漏らした。

 「恐らくこの場所に来るまでの移動方法に問題があったかと。波瑠さんには危険だと思い使った事がありませんが、彼は大丈夫だと思ったもので」

 何故大丈夫だと思ったのだろうか。気になる。

 その疑問を察してか、ルカは言葉を続けた。

 「月森さんは物心ついた時から、私達のような人ならざる者の姿が視えていたそうです。現に戒さんとの関係は『契約した』ではなく、ただの『手伝い』。それ故、てっきり慣れているのかと勘違いしてしまい、強引な移動方法を使ってしまいました」

 「えっ」俺は思わず声を上げた。「月森と戒里さんは契約してた訳じゃなかったのか」

 てっきり月森も俺とルカのように、契約関係であると思っていた。それがただの『手伝い』だとは……。

 それにしても、『手伝い』って一体何の手伝いなのだろうか。

 まだまだ疑問は尽きないが、でも、原因は知れた。これから月森の家に行くのだから、本人に聞く機会は幾らでもある筈だ。だから、もう移動しよう。

 「教えてくれてありがとう、ルカ」

 「いえ、これは私の失態です。お礼など言わなくて結構ですよ。——それでは、行きましょうか」

 「ああ」

 そう返事をした後、視界いっぱいに眩しい光が襲ってきた。


 6

   # # #


 目を開くとそこは、先ほどまで居た古い公園とは違い、小綺麗な二階建ての一軒家が視界いっぱいに広がっていた。

 「ちょうど人が居なくて良かったね」

 しみじみとした様子で呟く死神さんに、私も同調する。

 この町の住宅街は多く人が住んでいるにも拘らず、あまり人と遭遇する事がないのだ。『寂れた住宅街』と言われるほどに。公園も数少ない上に手入れがされていなかったりするから、子供も満足に外で遊べない。それに今はスマホとかあるし、尚更。

 「とりあえずあれが一翔の家だ。あとの二人を待つんなら、この辺に居とけ。いいなァ?」

 戒里さんが指差したのは、私が居る位置から斜め右にある家だった。家の表札には、確かに『月森』と書かれている。

 私は佐々木さんを待ちたいから、戒里さんの言葉には素直に頷いた。

 「夜雨。人間として一翔を部屋に運んでくれよ。オレは元教師でも何でもねェから、お前が行った方が得策だろうォ」

 「そうだな。オレが行こう」

 あっさりと承諾したヨサメさんは、月森君の家のチャイムを鳴らした。インターフォンから女の人の声が聞こえてくる。

 私はそれを聞き流しながら、死神さんとの会話を思い出していた。

 『——彼は一言で表すと、哀しい人だったよ』

 『哀しい人?』

 私は死神さんに聞き返した。

 『そう。穏やかで優しくて、でも、どこか冷酷で。無表情で居る事が多いくせに、人が好きとか言ってたしさ。どうしようもない馬鹿だよ、呆れて物が言えなくなる』

 そう言いつつも死神さんは、懐かしいものを思い出すかのように目を細めている。

 だが、そんな人と私が本当に似ているのだろうか。死神さんの勘違いじゃないのか。

 そう伝えると、

 『いいや。似てるよ、本当に』

 首を横に振る。

 『でも、そうだなあ。性格と言うよりも、考え方が似てる』

 『考え方?』

 また聞き返してしまった。

 『うん。世の中に対しての考えが、びっくりするほどそっくりだよ』

 どこがとは、はっきり言わない。曖昧な言い方をするのも、何か理由があるのだろうか。

 死神さんと過ごしていると疑問が尽きないな、と思う。でもそれもまた知りたいと欲が出てくるのだ。いつか全ての疑問が解決出来る日が来るだろうか。

 『聞きたい事は聞けたので、死神さんを許します』

 笑顔を浮かべながらそう言うと、

 『うん、助かるよ』

 死神さんは心なしか元気のない声をしていた。

 ——誰かの足音が派手に聞こえた所で、私はふっと我に返った。音の出所に目を向けると、月森君の家のドアが勢いよく開く。

 思わず何事かと目を丸くした。

 「兄ちゃん!!」「一翔兄っ!」

 慌てたように月森君の名を呼ぶ男の子の声が二つ。

 「兄ちゃんは大丈夫か? なあ!?」

 「怪我してないよね? ねえ!?」

 交互に月森君の容態を気にするその二人は、確実と言っていいほど周りが見えていない。ヨサメさんも詰め寄られて困惑しているようで、ただただ男の子たちに圧倒されていた。

 「うちの子が倒れたって本当ですか!?」

 そこに一足遅れてドアから一人の女性が現れる。恐らく月森君のお母さんだろう。

 「はい。見つけたのはこの子なんですが、偶然通りかかったもので。家まで運ばせてもらいました」

 この子、と言うのは私の事か。ヨサメさんが私に視線を投げかけたことで、月森君の容態を気にしていた男の子二人がこちらに気付く。

 「女の人だ……」

 「誰だろ……?」

 それぞれが呟いた。

 「こんにちは、雨水です」

 私はそんな二人に向かって簡潔に自分の名前を述べ、挨拶をした。

 「ありがとうございます。一翔も無事で良かったわ。ここではなんですし、どうぞ上がって下さい」

 登場した時の慌てっぷりがまるでなかったかのようだ。月森君のお母さんは丁寧にヨサメさんにそう言うと、私にも声をかける。

 「あなたもどうかしら。親御さんには連絡するから、お昼でも食べて行かない? お礼がしたいの。それとも、もう食べたのかしら」

 その言葉に私は目を見開いた。

 「いえ、まだですけど……」

 戸惑いながらも正直に答える。

 初めてだった。お礼がしたいという理由で、何かを誘われるのは。それが、友達なのかどうかも分からない微妙な距離の人の母親だとしても。

 不意にいつか夢見た光景が、私の頭の中にちらりと現れた。

 友達の家に招かれたりなんてほとんどなかった私は、ずっと憧れていた。いつか私も、『友達』と一緒に笑いあったりして、遊べたら……って。結局、前の学校でそれが叶う事はなかったが。

 だから、もう良いやと諦めて無関心でいたのに。思いの外嬉しいという感情が溢れてしまい、そんな慣れない感情に戸惑った。

 「……えっと、昼ご飯は自分の家で食べます。そこまでお世話になるのも、逆に申し訳ないというか」

 だが、戸惑いはしてもそう簡単に人の誘いに乗るのは遠慮したい。それは誰が相手でも関係ないのだ。

 因みに、死神さんは別だ。良い条件だったから。

 「そう……」

 月森君のお母さんが残念そうにする。

 「また月森君の様子を見に来ていいですか?」

 私がそう言うと、

 「ええ、もちろん。大歓迎よ」

 そう優しく笑った。



 「あ、雨水さん!」

 あの後私は、ヨサメさんと周りには見えていない戒里さんが月森君の家に入って行ったのを見送った。そして男の子二人と月森君のお母さんも玄関に足を入れて完全に扉が閉まったのを確認すると、私は踵を返し死神さんの方に歩み寄った。とそこで、急に目の前が明るくなって思わず目を瞑る。光が収まった頃に目を開けると、そこには佐々木さんとルカさんが立っていた。

 「遅くなってごめん。どうなった?」

 「昼ご飯食べてから、また来ることになったよ」

 「そうか。じゃあ俺もそうする」

 それだけ会話して、後は無言だった。強いて言えば、死神さんとルカさんがずっと笑顔で睨み合っていた事が怖かった事くらいだ。

 歩いてから十分くらいが経っただろうか。私達は来た道も含め、四つの別れ道がある地点に到着した。

 「雨水さんは道わかるか? ここまでなら俺がついて来れたけど……」

 佐々木さんは自分の家への道がちゃんと分かるようだ。対して私は、佐々木さんについて行ったようなもの。死神さんが何も言わないから道的に合ってるんだろうけど、この別れ道を目にするとそんな運任せ、やってられない。来たことないからなあ。学校帰りに寄り道なんてしないし、何かと一人で帰るようにしてるため、どの道に何があるのかさっぱり分からない。

 「正直に言うと分かんない。実はまだ覚えきれてないんだよね、この住宅街の敷地」

 苦笑気味に答えると、佐々木さんは「えっ」と声を上げる。心底驚いている、という感じだ。

 「まあでも、死神さんが居るし何とかなるかな〜、って……」

 「えっ、ボク?」

 今度は死神さんが声を上げた。私が死神さんを頼るとは思ってもいなかったようだ。……まあ、今日ちょっと気まずかったし、驚かれるのもおかしくはない。

 「それなら安心だな」

 「……。そうだね」

 死神相手に『安心』なんて言葉、普通なら使わないだろうな。逆に言えば、私は『普通』じゃなくなったのか。

 「じゃあまた後で」

 「ああ、また」

 佐々木さんはルカさんと共に、真っ直ぐの道を歩いて行った。

 ふと右側に気配を感じた。視線を送ると、そこには半歩下がっていた死神さんが。

 ちょっと気まずい。

 「死神、さん。ええと。急ですみません。そういう訳で、道案内を頼みたいんですけど……」

 図々しいかもしれない。

 そんな考えが頭を過ぎったが、死神さんはただ「いいよ」と一言だけ。

 了承してくれる可能性は低いと思っていたから、思いの外返事が軽くて安心する。

 四つの別れ道の内、佐々木さんは真っ直ぐ行ったが死神さんはその角を左に曲がった。私は置いて行かれないようにと、その跡をついて歩く。

 死神さんと私の間に沈黙が広がり、まだ気まずさを残したままなのだから、心なしか空気が重い。

 何か話そう。

 そう思っても中々話す事が思いつかない。いや、気になる事は沢山あるのだ。

 私に課題として出した人と死神さんはどういう関係なのかとか、死神や悪魔、妖怪についても詳しく知りたいだとか。他にも、私が学校に居る間一体どこに行っているのか。夜から朝までどこに姿を消しているのか、とか。

 疑問は尽きない。だが、今聞いて良いのかという不安に見舞われ、結局喉まで出かかった言葉は、最後まで声となって口から出ることはなかった。

 まるで沈黙が私の不安を掻き立てているようだ。

 諦めて、道のりを記憶する事に専念した。

 「——道は、覚えれた?」

 自分の家の近くに来たと感じた時、不意に死神さんが問うてきた。

 急な事で答えに詰まったが、道のりを頭の中で振り返って頷いた。

 「はい。なんとか」

 「そう。キミの記憶に残りやすいように黙ってたんだけど、無駄にならなくて良かった」

 そう言って微笑む死神さんの言葉に、気まずさを感じていたのは私だけだったと思い知らされた。

 何だか申し訳ない気分だ。だが……

 「ボクは外で待ってるよ。ボクが居ると気を使うでしょ?」

 図星だった。

 「よく、分かりましたね」

 「分かるよ。言ったでしょ、キミは彼に似てるって」

 私が『彼』に似てるから、なんて理由で分かるのも凄いと思うけど。心の中で呟いた。

 「じゃあ待っててください。出来るだけ急ぐので!」

 返事を待たずに、もう足先にある自宅へと駆け込む。

 鍵を開けて家の中に入ってから、まず洗面所に行って手を洗う。図書館に行く予定が大幅に狂ったため、カバンに入れていた図書館カードもメモ帳も筆記用具も、ただの荷物となってしまっていた。

 カバンをリビングのソファの上に置いて、冷蔵庫に足を向ける。確か、昼ご飯用にとお母さんが買い置きしていたお弁当があったはず。

 私の記憶は正しかったようで、「昼に食べてね!」とメモ付きのお弁当が、冷蔵庫の一部を陣取っていた。それを手に、今度は電子レンジに体を寄せる。

 温めている数分の間に、カバンから取り出した水筒やお箸を食卓に並べ、椅子に座って一息ついた。

 「疲れるなー……」

 しーんと静まり返った部屋では、よく声が通る。

 佐々木さんが心配。月森君が心配。だけどそれが本心なのか分からない。自分の気持ちが分からない。その状態でよく『様子を見に来ていいですか?』なんて言えたなあ。

 佐々木さんの事だって、私が動かなくても誰かが行動してくれるんじゃないのか。……ああ、それは駄目なのか。

 担任が言っていた。今の社会には、自主性のある人間が必要とされていると。だけど私達はまだ子供だよ? まだ大人じゃない。もう少し自由でいいじゃないか。

 十一歳、十二歳。それくらいになってやっと、世界を知り、理解し始める。だから理解した上での考えは、まだ先でいいじゃないか。

 チンっと音がした。聞こえて来たのは電子レンジの方。

 椅子から立ち上がり、温まったお弁当を取り出して、また椅子に座る。死神さんを待たせているから、出来るだけ急いで食べ物を口に入れた。

 食べ終わったのはだいたい十分くらいが経った頃だった。私は使い捨て容器を捨てて、お箸を洗う。そしてまた外に出る用意をするため、ソファに置いていたカバンを持って二階に上がった。

 自分の部屋に入り、カバンから図書館カードのみ取り出す。それを机の引き出しに入れた。

 メモ帳と筆記用具は、迷ったが持って行くことにした。

 全ての準備を終えた頃の時刻は一時十八分。帰ってきてから今までの時間を計算すると、約二十分がかかっていた。だが、頑張った方だと思う。

 階段を下り靴を履いて外へ出る。ちゃんとドアに鍵を閉めた事を確認すると、死神さんがいる方向に向き直った。

 「あれ、意外と早かったね。もうちょっと遅くなるかと思った」

 私に気付いた死神さんが、いつかのように声をかける。

 「そりゃあ急ぎましたから。頑張った方だと思いません?」

 「確かにそうだね。じゃ、行こうか」

 「あ、その事ですけど……」

 自然に、大丈夫。私は『いつも』を演じれる。死神さんも普段通りなんだから、私だけが変に意識する必要はない。

 「私が道を覚えているかどうか、確認してほしいんです。間違った道に行った時、違うって言うだけでいいですから」

 気まずさはもう感じない。なかった事にするんだ。きっとその方が、心を軽くしてくれる。

 「いいよ、それくらい。確か、あの場所までだよね」

 「はい。あそこで佐々木さんと待ち合わせしてるので」

 「まるで遊びに行くみたいだねえ」

 「……確かに」

 いつものように人が居ない所で他愛のない会話を交わしながら、私達は目的地へと歩を進めた。


   ☆ ☆ ☆


 弟の悲鳴が、何者とも知れない耳をつんざくおぞましい声と共に、あたりに木霊した。

 『く……て………る』

 そいつはぶつぶつと呪文のように口を動かし、その手は弟を苦しめるため忙しない。

 離せ、やめろ、嫌だ、痛い、助けて、兄ちゃん——そう抵抗し続ける輝汐。だがあいつは更に強く輝汐の腕を握り締める。

 嫌だ、痛い、やめて、助けて、誰か、一翔兄——そう、手も足も出なくて泣き叫ぶ浩太。しかしあいつは更に強く浩太の体に切り傷をつける。

 『喰ろ……て……る』

 不意に、必死に抵抗する声も泣き叫ぶ声も、ピタリと止んだ。輝汐と浩太が気を失ったのだ。

 それを確かめたあいつの口角が徐々に上がっていく。そして最後はニタリ、と不気味な笑みを作った。

 あいつはそのまま弟達に向けて、大きく口を開いた。



 人の子、人の子。

 美味そうな匂い。嗚呼、腹が空く。

 駄目だ、我慢出来ない。



 『喰ろうてやる』



 喜ぶが良い。主らは妾のかてとなるのだ。

 存分に、味わせておくれ————



 ガバッと勢いよく体を起こす。

 動悸が治まらず、ズキズキと波打つように頭が痛い。汗もかいていたようだ。服が肌に張り付いていて気持ちが悪い。

 僕は胸を押さえ、また寝転んだ。ぼふっとふかふかの布団に体が沈む。

 何度目か知れない夢。これには二つパターンがある。

 一つは、あの時の現実を、第三者目線で見ているパターン。もう一つは、あの時の妖怪と思わしき人物の声が、映像のように頭へ流れ込んでくるパターン。

 どちらにせよ悪夢に違いはないが、今日のは後者だったか。堪らずため息を吐いた。

 気分は先と変わらず悪いまま。頭だってまだズキズキと痛むし、治るまでこの体勢でいよう。

 「んゥ……」

 ……ただそれはそうと、床でぐーすか寝てる戒里が目の端にちらついて、リラックス出来ないな。本当に何で寝てるんだろう。僕を家に連れ帰ったのは戒里だろうが、普通倒れた人の部屋に入って寝るか? あり得ないだろ。そこは気を使ってほしかったよ切実に。

 「し……なよ……いきて……れ」

 寝言まで言うか。呆れてものが言えなくなる。これじゃあ休むことも出来やしない。

 僕は再び体を起こした。ずるずると掛け布団から抜け出し、戒里を前に座り込む。

 戒里に目を覚ましてもらって、僕の体調が良くなるまで部屋の出入りは禁止にしよう。

 そう思って戒里の体を揺さぶろうと手を伸ばした時、僕は思わずギョッとして手を引っ込めた。

 「戒里……?」

 閉ざされた目から、涙が一筋零れ落ちる。

 戒里は、泣いていた。

 呆然とする僕に追い打ちをかけるが如く、戒里は更なる寝言を漏らす。

 「死ぬな……オレは、まだ……」

 一瞬、起きているのかと疑った。もしかして僕をからかっているだけじゃないかと。だがその可能性は低いと考えられる。

 何故なら確かめたからだ。

 決して気持ち良くは寝ていないが、ちゃんと寝息も聞こえるし、起きているかどうかを確認するため顔の前で鬱陶しい程に手を振った。

 まだだ。それだけでは駄目だと、更に戒里の顔の前で変顔をした。慣れていないから変顔と言うよりは微妙な顔になっただろうが、それで戒里が笑わないというなら、本当に寝ているという事だ。

 約一ヶ月間(嫌々)共に過ごし、こいつの大体の人となりはもう承知している。だから僕の中では『笑わない=寝ている』の式が容易に成り立つのだ。

 戒里の事情に深入りするつもりはないという気持ちは、今も尚存在している。だからこれ以上の行動は控えたほうがいい。僕だってあの夢から覚めた時の姿は見られたくない。戒里だってそうな筈だ。

 いつの間にか頭痛は治り、辛かった呼吸も安定してきた。僕は床からベッドへ移動し、ヘッドボードに背中を預けた。

 下の階から、賑やかな声が聞こえる。

 輝汐の声。浩太の声。研人や空羽、母さんの声。そして何故か夜雨さんの声まで。

 「…………」

 だけど何だろうか。耳に余韻が残る楽しげな声を聞くと、僕だけが別世界に居るような、一人取り残されたような錯覚に陥る。これも、あの悪夢を見始めた頃から時々感じるものだ。

 こういうの、何ていうのかな。

 頭を抑え、考える。

 「……あ。疎外感だっけ」

 そうだ、疎外感って言うんだ。間違いない。思い出せた事にすっきりしていると、床で寝ていた戒里がもぞもぞと体を起こした。

 「あァ? オレ、…………っ!?」

 言いながら気付いたようだ。自身の頬に流れる滴の存在を。そしてそれを無言で見ている僕の存在も。

 「は、え、一翔? 見てないよなァ? なァ!?」

 可笑しいくらいに取り乱す。

 「何が? それより静かにしてくれないか。頭に響く」

 軽く笑いながらそう言ってやると、戒里は「あ、悪ィ」と気まずそうに謝った。

 「それよりさ、僕が倒れた原因って何か分かる? あと、運んでくれてありがとう」

 「運んだのはオレじゃなくて夜雨だ。倒れた原因は、まだ断定はしてねェけど、くまくんだと思うぜ」

 僕が普通にしているからか、戒里もいつも通りに接する。その目元は少し赤い。

 「じゃあ公園に移動する時のアレが原因って事か……」

 確かに、人間の僕には負担が多いとか何とか言っていた気がする。

 「瘴気しょうきに当てられたんだろォ。くまくんは魔力が凄まじいしなァ」

 「……瘴気?」

 耳慣れない言葉に、首を傾げる。

 「瘴気ってのは簡単に言うと、人にとって良くない"気"の事だァ。それに当てられた人間は、体に異変が現れる。お前はオレと一緒に居るから比較的マシな『体調不良』になったけどよォ、人でない者と一緒に居ない、最初から視えない奴は、場合によっては自我が崩壊してこちら側に来ちまう。つまり、悪い方の妖ものになる」

 話を聞き終えて、思わず身震いした。

 戒里のおかげで、僕は人でない者となる道を阻止出来たのだ。

 「妖怪にならなくて良かったー……」

 ほっとしてつい、本音が出る。

 「まァ、結果的に良かったんじゃねェ?」

 「そうだな」

 「というか一翔、気付かないのかァ」

 言葉の意図がつかめず、頭に?マークを浮かべた僕を横目に、戒里は鋭く長い爪を持つ自身の人差し指を、トントンと下に向けた。

 「客が来たらしいぞ」

 その直後、階段を上る足音が聞こえて来て、咄嗟に身だしなみをチェックする。

 大丈夫だ、別におかしい所はない。普通の格好で、髪だってボサボサになってなくて、倒れる前と同じだ。鏡がないから、絶対とは言い切れないが。

 ドアの取っ手が動く。空気を押し込んで開いたドアの先には、母さんが居た。

 「母さん」

 張り詰めていた緊張が途端に緩む。

 「起きてたの。体調はどう? 下で輝汐たちはそうめんを食べてるけど、食べれそうかしら」

 「いや、お腹空いてないからいいよ。あ、でも残して置いてくれたら嬉しい。お腹空いたら食べる」

 「分かったわ。一応、熱をはかってちょうだい」

 渡された体温計で、言われるがままに熱をはかる。そんな時、母さんが爆弾を落とした。

 「そういえば一翔、女の子の友達が居たのねえ。心配して来てくれたのよ」

 「はっ!?」

 女子と友達? 心配して来た? 相手誰だよ。

 ピピッと機械音が鳴る。僕は表示された数字を確認しながら、その『友達』の名前を尋ねる。

 「誰が来たの? 女子に友達なんて居ないんだけど」

 「恥ずかしがらなくて良いのよ、何たって二人来たんだから! 名前は、雨水さんと佐々木さんって子。下の名前は言わなかったんだけど、何ていうの?」

 恥ずかしがってなんかない。本音だ。つか雨水と佐々木かよ、びっくりしたな。

 「確か雨水沙夜と佐々木波瑠って名前だったと思う」

 言いながら、体温計を母さんに渡した。

 「ああ、これなら大丈夫そうね」

 数字を見た母さんが安心したように微笑む。どうやら心配をかけたようだ。

 「母さん、僕も下に行くよ。今年も町内会で笹を貰ってきたんだろ。稲葉も来るってさ。準備しよう」

 ベッドから腰を上げようとすると、それを母さんが手で制す。

 「準備はあの子たちに任せて、一翔は雨水さんと佐々木さんとお話ししたら? 何か話したいことがあるそうよ」

 今度はおちゃらけて言わなかった。あの二人が僕に話したいことがあるのは本当らしい。大体予想はつく。聞かれたら困る内容だろう。

 「……うん、じゃあ輝汐たちによろしく。二人は僕の部屋に連れて来て。ここで話すよ」

 「それがいいわ」

 呼んでくると言ってドアの取っ手に手をかけた母さんが、あっと声を上げて振り向いた。

 「そうそう。夜野先生にちゃんとお礼を言っておくのよ。あんたをわざわざ運んでくれたのは先生なんだから」

 夜野先生=夜雨さん。それを把握するのに数秒かかった。

 「分かった。話し終わったら言う。どうせあいつらに捕まってるんだろ」

 あいつらというのは僕の弟の事だ。夜雨さんは優しそうだし、多分弟達の遊びに付き合ってくれているのだろう。

 「それじゃあ呼んでくるわね」

 そう言い残して母さんは僕の部屋を出て行った。次いで、戒里が立ち上がる。

 「ンじゃ、オレも出て行くわ。オレが居たら話し難いだろォ。夜雨んとこ居るから、何かあったらオレの名前を呼べ。多分すぐ来る」

 「多分かよ」

 思わず突っ込んだ。

 戒里はそんな僕に返事もなく、ひらひらと手を振ってドアをすり抜けた。それを見て驚かなくなったのも、慣れたからなのだろう。

 時刻は十四時前。

 片付けるほど散らかって居ない部屋に一人きり。僕は一つ大きな欠伸をした。

 ドアの向こうからは足音と女子だけの話し声がして、やがて部屋の前くらいでピシャリとその音が止まる。

 ガチャリ、とドアが開いた。

 部屋に入って来たのは、二人。雨水と佐々木だ。母さんも居たが、お茶を持ってくると言って足を踏みれる事はなかった。

 「お邪魔します」

 それぞれのタイミングで二人は僕に断りを入れる。

 「そこら辺に座ってもらう事になるけど、いい?」

 言いながら、ベッドからカーペットが敷いてある床に移動して、すっと腰を下ろした。

 「いいよ。ごめんね、もう体調は大丈夫?」

 「ああ、大丈夫だ」

 「それなら良かった」

 ほっと胸を撫で下ろす雨水に、佐々木が同意するかのように頷いた。

 「ルカが原因だって聞いた。悪いことをしたって、謝りたがってた」

 申し訳なさそうに眉を下げる。

 「まあ原因といえばそうだけど、こんなの慣れてるし別に謝られる程の事じゃないから」

 何故か僕がそれを言った時、空気が凍りついた。

 「……結構、大したことだと思うんだが……」

 『謝られる程の事じゃない』という言葉が、気になったらしい。

 「いいだろ、この話は。それより僕に話したい事って何?」

 ようやく腰を下ろしてくれた雨水と佐々木に、僕は問いかけた。

 「ああ、それね。戒里さんとの事とか、色々聞きたくて」

 「……え。今?」

 「うん、今」

 「俺も気になってたし、雨水さんと死神さんについても知りたいと思ってたんだ。月森は体調が良くなった矢先で申し訳ないけど、いい機会かなと思って」

 畳み掛けるように、佐々木が言う。

 妖怪が見える事は今まで隠して来た。けれど雨水は死神と、佐々木は悪魔と一緒に居る。何故一緒に居るのかは分からないけど、一応僕と同じで見える人なのだろう。

 僕は少し考えたが、まあいいかと開き直った。見える人なら、話してもいいだろう。

 「分かった。話すよ」

 二人がほとんど同時にほっとした顔を見せた。

 似ていないようで似ているな。

 そんな感想を抱いたところに、ちょうどドアの向こうで僕を呼ぶ声がした。それが母さんだと分かった僕は、ドアを開けるため立ち上がる。

 開いたドアには、三人分の麦茶と市販のクッキーがお洒落な皿に乗せてあるトレーを持つ母さんが。

 「それじゃあ、ごゆっくり」

 僕の勉強机にトレーを置き、そそくさと去って行った。

 「悪い。机はこれしかないんだ」

 話し合うには少々遠い場所に置かれたから、素直に詫びた。すると雨水は大丈夫と口にし、佐々木はその言葉に同意した。

 本当に似てないようで似てる。バレないように苦笑した。

 僕は元いた位置にもう一度座り込む。

 誰から話し出すかでじゃんけんをして、勝った人から話すことに。

 全員の掛け声と同時に前に出した手の形を見ると、チョキが一人、パーが二人だった。

 チョキを出した僕は戒里との出会いより先に、自分の体質から語ることにして、二人に向けて言葉を放った。

 「僕は物心ついた時から、見えるんだ」

 賛同する声が上がるかと思いきや、上がったのは「え」という戸惑いの響きを帯びた一文字。

 僕は予想外の反応に眉を寄せたが、とりあえず最後まで話し切ろうと、再び口を開いた。

 戒里との出会いのこと。『手伝い』をするために戒里と居ること。戒里は弟や母さん父さんには見えないこと——そんな事を喋った。ついでに夜野先生と宮原先生は戒里と家族同然であるという事や、先生には妖怪としての名があるという事も話した。

 そういえば宮原先生の本名は知らないな。

 ふと気付き、どんな名前なのだろうという疑問を持った。

 「思ったより強引な出会い方だったんだね。手伝いっていうのは何をするの?」

 「それが未だに教えてくれないんだ。手伝いのために居候させる決断したのに、いつも何の手伝いをすればいいか聞くと、はぐらかされる」

 歯切れ悪く返事をする戒里を思い出して、僕は顔を顰めた。

 「戒里さんの腕の傷はまだ治ってないのか」

 「包帯は巻いてあるのはよく見るけどな。手伝いもしてないからまだ治ってないのかなとは思うが、直で傷を見た事はないから何とも。本当の所どうなのかは全く分からねー」

 「そうか……。因みに夜野先生の本名? が、ヨサメっていうのか?」

 ああそうか。夜雨さんの事はまだ話してないんだっけ。

 「そうそう。夜に雨って書いて夜雨らしい。妖怪の種族的には烏天狗っていう妖怪なんだってさ。修行を終えて人間に似た身体を手に入れたって言ってた」

 昨日トランプをしながら雑談に入り、その時夜雨さんが言っていたような気がする。あの時は結局全然質問できなかったんだよな。また機会があったら訊くか。

 「へえ。修行前はどんな姿だったんだろう」

 純粋な疑問だと言うように目を見開いて驚いてみせる雨水。

 「そういえば月森は見える人だったのか? 俺は見えないはずなのに、ルカと会った時ははっきり見えてたんだ。でも幽霊とかは見えない」

 「人間なのかどうか区別つかないくらいには見える。でも幽霊は僕も数える程度しか見た事ないぞ。多いのはやっぱり妖怪だ」

 妖怪。そう呟いた佐々木はどんな妖怪を想像しただろうか。

 「大体僕の話はこれで終わりだ。もう気になる事とかないなら、次いこう。時間も限られてるだろ? 時計回りでいいか」

 「いいよ。っていう事は私か」

 「最後が俺か」

 じゃあ、と雨水は話し始めた。

 「私が死神さんと出会ったのは、五月二十九日。放課後ちょっとした事で学校に残ってたら、死神さんが急に窓の外に現れたの」

 僕のように見えていないのに、雨水はそこまで驚かなかったという。

 「言ってもいいのか分からないけど、私、来年の春に死ぬらしい」

 あっけらかんと言うその表情に変化はなく、ただ普通に世間話をするように淡々と言葉を吐いた。僕は予想もしていなかった発言に目を見開いたまま固まる。

 「契約したんだ。私が死ぬ前に、いくつかの願いを叶えてくれるって死神さんが言ったから。……願いを叶えてほしかった私は、迷わずその話にのった」

 そんなに簡単にのっていい話じゃないと思う。僕は、まあ怖かったというのが本音だ。だが雨水はどうだ? 僕の『怖い』とは違う恐怖を抱くはず。

 僕は慣れている故の恐怖を抱く。雨水はきっと慣れていないが故の恐怖を抱くだろう。それなのに、あっさりと契約してしまっていいのか。

 「——という事で私は死神さんと一緒にいるんだ」

 話し終えた雨水が一息つく。そんな様子を目に、僕は遠慮がちに声をかけた。

 「なあ雨水。怖くないのか? いきなり現れた男が死神で、余命宣告されたようなものなんだろ」

 すると少し困り顔になって笑った。

 「確かに死神さんが怖いって思う事もあるけど、基本的には話ができるお兄さん、みたいな感じなんだよね。死ぬ事に関しても、実感が湧かないから何とも言えない」

 釈然としない気持ちのまま、僕は引き下がった。しつこく尋ねるのも億劫だろうと思ったからだ。

 「雨水さんは何の願いを叶えてほしかったんだ?」

 ふとした疑問だと、首を傾げた。

 「……逆に、佐々木さんは何だと思う? 佐々木さんなら分かると思うけど」

 そう言った雨水の表情は、まるで笑顔を貼り付けたかのようだ。作り物めいたその笑みに、僕は陰ながら薄気味悪いと思ってしまった。

 時々思う。学校で見かけた時の雨水は笑顔でいる事が多く常に明るく振る舞っているが、その目はどこか冷め切っているようで、嘘で塗り固められたモノを必死に守ろうと取り繕っているように見えると。

 全てが僕の主観で、決してそれが正解という事ではないのだが。

 「俺なら分かる? ——もしかして」

 佐々木はそこで言葉を止めた。ちらっと僕を伺うような視線を向けてくる。

 「なんだよ」

 その意味を掴みかねて眉を寄せる。

 何か僕の前では言えないような事でもあるのか。

 「言わないでくれたら嬉しい。だから月森君、ごめんね」

 僕には教えないという事か。別にそこまで聞きたかったわけじゃないからいいけど、なんだか空気が悪くなったか? 男子と女子が話し合うなんて、元より壁があるんだから『言えない』『言いたくない』と思うのは必然的だと思うが、佐々木と雨水は負い目を感じたようだ。

 僕はそんな空気を切り替えるため、雨水に質問した。

 「そういや死神さんって高校生なのか? 死神に『高校生』とかあるんだな。そういう概念はないのかと思ってた」

 狙い通り空気が切り替わったのを感じ取った。

 「それは私も思ったよ。死神にもそういう義務教育みたいなものがあるんだなあって。これじゃあ人間と同じようなものだよね。感情もあるし、言葉も通じるし。違いといえば、死神には能力的なものがあるって事とか、お腹が空かないって事くらいかな」

 「それはルカも同じだ。出会った日に言ってたのを覚えてる。悪魔は人間が食べる食料を口にしないんだって。感情も言葉も能力的なものが使えるっていうのも共通なのに、死神とは違うらしいぞ」

 それを聞いて、僕は密かに納得した。

 妖怪も死神も悪魔も、ひとくちに言うと『化け物』と云われるものの類だ。それでも生まれ方が違ったり、存在意義が違ったりと、それぞれ相違な部分がある。

 それを誤まってしまえば、『あちら側に存在する者』は怒り狂うだろう。一緒にするな——と。

 「——悪魔は人間の魂を喰べる」

 深刻な表情で、ゆっくりと噛みしめるように物騒な言葉を放った雨水は、

 「それって本当なの?」

 ある方向を見て、問う。

 「佐々木さん」

 名を呼ばれた佐々木は、怯んだように息を呑んだ。その顔には疑問の色が伺える。

 「雨水? なにいって——」

 そんな僕の声を遮って、雨水はさらに言葉を重ねた。

 「急に訊くのはどうかと思ってたけど、どうしても知りたいんだ。悪魔が人の命や魂を食糧にするって、知ってたの? 佐々木さん」

 「……それについては、今から話す」

 僕は佐々木の顔を見る。雨水の言葉でなんとなくだが察した。佐々木はそれを知った上で、悪魔のくまさんと一緒に居るんだと。

 「俺も五月二十九日だった。ルカと出会ったのは。知ってるかもしれないが、俺の両親は少し荒い人なんだ。俺と双子の兄が交通事故で死んでしまってから、ずっと八つ当たりみたいな事をされている。その日はまだマシだっだけど、そんな両親が居る家に居たくなくて、家を飛び出した」

 訊きたいことが沢山あるだろう雨水も、黙って佐々木の話に耳を傾ける。

 「月森が倒れた公園、あるだろ。あそこは俺たち兄妹の溜まり場でもあったんだ。だから家を飛び出したあと、俺はあの公園に自然と足が動いてた。そこでルカに話しかけられたんだ」

 ——私と、契約しませんか?

 そいつは自分が悪魔だと告げたあと、そう言った。

 「契約内容は、願いを叶える代わりに俺の命を喰う。そんな内容だった。ちょっと怖さもあったがその話を受け入れることにして、この指輪を貰った。契約の証なんだそうだ。これは見える人にしか見えないらしい。あ、それと『ルカ』っていう名前は俺がつけた。これも契約するための儀式? みたいな感じのものだって」

 どうして雨水も佐々木も、怖いのに契約するという話にノるのだろう。願いを叶えてほしいと言ったって、結末は死しか待っていねーだろ。

 そこまでして叶えたい願いがあったのか?

 「じゃあ、知ってたんだね」

 「ああ。俺は俺のために、ルカと契約した。確かにたまに後悔したりっていうのもあるけど、選んだからもう戻れないだろ? 引き返せない事態を招いたのも、全部俺だ。だから、心配しなくていいぞ」

 よく笑えるな。僕だったらそんな状況下で笑うなんて出来ない。

 それは女は強いと思った瞬間だった。

 それから休憩時間という事で、僕達はそれぞれお茶を飲んだりクッキーを食べたりと、のんびり過ごした。

 心なしかさっきより空気が随分と軽くなって、僕はほっと胸を撫で下ろす。

 時折僕の部屋についての質問があった。三人で世間話もした。全員が無言の時間だってあった。

 それでも何故か無言を苦痛に感じる事はなかった。

 そろそろと太陽が暮れ始め、窓から見える景色の色がオレンジ色に煌めく。僕の机の上に置かれたトレーには、空のコップとお菓子のカスが残っているお洒落なお皿だけが乗っけてある。

 「あれ。もうこんな時間? 早いね」

 なんだかんだと雑談が続いていた空間に、時間を知らせる雨水の声が妙に大きく響いた。

 「もう四時か……。二人は帰るのか? 僕ん家で小規模すぎる七夕祭りするんだけど、一緒にやるか。短冊あるぞ」

 「月森の家では七夕祭りなんてするのか!? 楽しそうだな」

 目を輝かせて僕を見る佐々木に、一つの疑問を抱く。

 「したことないのか、佐々木。町内会で毎年笹が貰えるんだよ。無料じゃないが。その笹をもらった家では短冊をくくりつけたりして、天の川が見える位置に笹を飾る。そうすると短冊に書いた願いが叶うって話だ」

 この町で語り継がれている行事でもあるらしい。参加するもしないも自由。ただし、願いが叶わなかったからと言って文句は言わない事。そんな緩いルールさえあるが、佐々木は聞いただけで経験した事はないそうだ。

 「そんな行事があるの?」

 だが佐々木だけじゃなく、雨水も知らなかったようで。

 「雨水は去年の夏の終わりくらいに転校して来ただろ? だから、まだ知らないのかもしれない」

 「あー。なるほど」

 僕はベッドに腰掛けたまま、どうするのか返事を待つ。

 「そうだなあ。ちょっとしてみたい気持ちがあるし、参加させてもらおうかな。お母さんに連絡しないといけないから、電話借りていい? スマホとかまだ持ってないんだよね」

 「分かった。佐々木は?」

 「俺もしたい! こういうの憧れてたんだ。いつかやってみたいって思ってたし、友達と出来るなら嬉しい」

 キャラ変わってね? そんな言葉は呑み込んで僕は頷いた。

 「じゃあ一階に行こう。弟が準備し終わって待ってるはずだから」

 机に置かれたトレーを両手で持つ。

 手が塞がってる僕に気を使って部屋を出る前、佐々木が電気を消してくれたり、雨水がドアを開けたりしてくれた。

 今日の朝会ったときよりは、お互いに打ち解けた方だと思う。二人共僕が苦手なうるさい系女子じゃない事が幸いして、普通に話せただろう。

 階段を下りながら、内容を聞かれないように小声で喋る。

 「雨水さんのその腕輪、綺麗だな。契約してから一度も外してないのか?」

 「うん。佐々木さんもそうでしょ。そっちの指輪も綺麗だよね。月森君はそういうのないの?」

 「ないよ。だって僕は契約じゃなくて手伝いだから。口約束だけなんだ」

 へえ、と控えめに驚いてみせる雨水と佐々木を横目に、僕はリビングへと足を運んだ。

 「母さん」

 ドア越しに母さんを呼ぶと、開いたリビングのドアの先には母さんじゃなくて弟の浩太が居た。

 「一翔兄! 見て! ぼくたちだけで準備したんだよ!」

 片方の手は僕の服を掴み、もう片方はある一点を指さしている。

 それは鮮やかな色を纏った笹だった。七月七日に見る恒例の景色だが、浩太のドヤ顔でそんな事は吹き飛んだ。

 「すごいなあ、浩太。僕が居なくてもここまで出来るなんて。流石僕の弟だ」

 そう褒めてやると、浩太が嬉しそうに声を弾ませた。

 「でしょでしょ〜。輝汐兄に負けず劣らずで、頑張ったんだ!」

 その輝汐はどこに居るんだと目で探る。

 すると夜雨さんと遊んでいる研人と空羽が真っ先に目に入った。笹と離れた位置にあるテレビとソファとの間できゃっきゃと楽しそうに戯れている。戒里の姿もあった。夜雨さんが慣れない幼児に振り回されている事が面白いようで、ソファの上でゲラゲラと腹を抱えて笑っている。

 母さんは台所で晩ご飯の下準備を行っているが、その側に輝汐は見当たらない。

 「浩太、輝汐はどこだ?」

 嫌な考えが頭に浮かび、居ても立っても居られなくなった僕は、すぐさま手に持つトレーを食卓の机に置いた。

 「部屋に居るはずだよ。昨日宿題してなかったんだって。ぼくが呼んでくるよ」

 「そ、……そうか。じゃあよろしく」

 僕の横をすり抜けた小さな背中を見て、安堵の息を吐く。

 杞憂だったようだ。あの夢を見たからか少し警戒心が残っていたんだ。

 馬鹿だな。妖怪に攫われたのかもしれないと思うなんて。思わず自嘲の笑みが零れた。

 「月森?」

 どうしたんだ、と気遣う声になんでもないと返す。

 僕は雨水が電話をかけれるように台所に居る母さんに事情を話した。佐々木は自宅への連絡を拒否したが、母さんに親が心配するんじゃないかと言われ、渋々電話をかけると決めてテレビと正反対の位置にある電話機に近付いた。

 二人が交代で電話をかけている間、僕は夜雨さんにお礼を言うため近くに寄った。

 「あ! かけうにい!」

 「にいちゃ、じぇんち?」

 舌足らずな弟は我が家に二人いる。一人は僕の名を呼んだ研人。もう一人は僕の心配をした空羽だ。どちらも首を傾げるような動作をするがその表情はバラバラで、研人は無邪気に笑い、空羽は眉を八の字にする。

 「いまね、このひととあちょんでたんだよ! かけうにいもあちょぶ?」

 「う〜ん。どうしようかなあ」

 悩む素振りを見せながら、夜雨さんを前にしてカーペットの上に静かに座った。

 「ごめんな、お兄ちゃんお腹空いて元気ないんだ。だから今日は遊べそうにないよ」

 せめてもの思いで研人の頭を撫でると、研人は残念そうに首を縦に降った。分かった、と言いたいのだろう。容易に想像がつく。

 「月森、もう大丈夫なのか。頭が痛いとか気分が悪いとか思ったら言ってくれ。何とかするから」

 「お前に何とか出来る力なんてあるのかァ? 弱っちい烏だろォ」

 夜雨さんは挑発する戒里を無視して、僕に目を向けた。

 「弟に好かれているな。吃驚びっくりしたぞ。十分おきに大丈夫なのかと質問を受けた。まあ大丈夫と分かったあとは、安心して作業に没頭していたが」

 研人と空羽が母さんの元に駆けて行った。なにやら一生懸命に口を動かしている。それを横目に、僕は軽く笑った。

 「僕の性格がうつったんだろうなって何度も思った事があるくらいには、心配性だと思う。でもそれだけなんです。好かれていても、好いていても、お互いが心配なだけ。だって誰かが欠けたら、それは壊れてしまうから」

 少なくとも僕はそう思っている。同じ親から産まれた兄弟。喧嘩をすることはあっても、長引くようならさっさと謝る。そうしないと『家族』という関係にひびが入って……壊れるのは一瞬だ。

 妖怪が見える僕は、その中で異端な存在なのだ。先祖の誰かが見える人だったから僕に受け継がれたのだろうが、父も母も見えない人だから、当然輝汐も浩太も研人も空羽も、誰も見える"目"を持っていない。

 「確かに、壊したくないものは誰しも存在する。だからそう悲観的にならなくてもいいんだ。心配するだけだと言っても、『心配』はどうでもいい奴にしないだろう? それが君の出した答えだ。咎める馬鹿は居ないさ」

 言われてみればそうだ。心配をするのは家族や友達で、知らない人の心配なんて僕はした事がない。

 するとソファで胡座をかき踏ん反り返っている戒里が、ふんっと鼻を鳴らした。

 「人間は考え過ぎなんだよ。簡単に考えればいいものを難しく考えて、解決しないなら自分は駄目な奴だ、って嘆く。そんな事考える暇があんならよォ、自分の大事なもののために動けばどうだァ?」

 大事なもの。僕にとってそれは家族だ。だったら戒里の言う通り考えるより先に行動すれば、守れるのだろうか。

 「……お気楽なお前には、分かんねーよ」

 そう悪態を吐くも、実際は感謝していた。最近あの時の夢をよく見るものだから、精神的に弱っていたのだ。そのせいで僕は、家族の中で価値の無い要らない存在だったらどうしようなどとネガティヴに考え込んでしまった。それを見抜いての言葉なのか、ただの人間に対する不満なのかはさっぱり分からないが、戒里が前者の意味でそう言ってくれたなら素直に礼を告げたい。だが僕が戒里に『ありがとう』なんて、なんだか照れくさい。だからこれくらいがちょうどいいんだ。

 「あァ、はいはい。お子様はそれくれェの態度しか出来ねェもんなァ。ちゃんと感謝しろよォ、一翔」

 そして、きっと戒里はそれを分かった上で煽り口調になってくれる。子供な僕に対してそう接するのは、戒里なりの優しさなのだろうなと思った。

 「——あ、」

 すっかり忘れていた。

 「夜雨さ、……夜野先生。僕を家に運んでくれてありがとうございました。おかげで体調は良くなりました」

 「そうか。それなら良かった」

 ふわりと微笑んだ。

 「にいちゃ、にいちゃ!」

 「もうちゅぐごはんでちるよ!」

 その時、空羽と研人が僕に突進して来た。どんっと横から抱きつかれ、僕は倒れ込まないように腹に力を入れた。

 すると電話をかけ終えた雨水と佐々木が、母さんに何か言ったあと僕の元に歩み寄る。

 「いいって言われたよ」

 「俺は留守電だけ」

 母さんに話した内容は、七夕祭りに参加してもいいかという許可をもらおうとしたらしい。そうして二人とも参加する事が決定され、十八、十九時くらいに帰るつもりだと言う。

 まあ遅くなったとしても二人には強力な味方が居るんだから、時間に関しては問題ないだろう。

 リビングの奥、狭い廊下から二人分の足音がする。輝汐と浩太が来たのだろう。あとは稲葉だけだが……もうすぐ来るか。「四時半には行く!」って張り切ってたし、こういう時来れないなんて事にはならないのが稲葉だ。

 僕はベランダから見える景色に視線を向けた。

 そこから見える空はまだ明るく、オレンジ色に染まっている。だが夜になれば輝く数多の星が川をつくり、幻想的な光景へと変わるだろう。

 そして、奴らもうごめき始める。

 僕は最悪な事態を想定して深く息を吸い込んだ。


 7

   * * *


 「あ、波瑠ちゃんだ!」

 雨水さんと雑談していると、突然背後で声がした。振り向くと、昨日会った月森の弟の浩太が居た。

 「一翔兄に客が来てるって聞いてたけど、波瑠ちゃんとそこの女の人のことだったんだね。ぼく、びっくりしちゃった」

 そう言ってはにかむ浩太と相反して、隣の男の子が困惑した様子で首を傾げた。

 「あー……と。誰か分かんねーんだけど?」

 「波瑠ちゃんだよ、輝汐兄。昨日ぼくが話したでしょ? もう忘れたの」

 呆れた声を出す。

 「え、ああいや。……そう言えばそんな名前聞いたっけな。おれ、月森輝汐って言います。兄ちゃんの友達……ですよね」

 やんちゃな見た目の割に礼儀正しく、軽く会釈をしながら自分の名を名乗った。

 「俺は佐々木波瑠。敬語じゃなくていいぞ」

 「えーと、じゃあお言葉に甘えて」

 『俺』に引っかかりを覚えたのか、またしても首を傾げた。すると浩太が何故か腕をさする。

 「輝汐兄の敬語とか気持ち悪いんだけど! やめてよー、ぞわって来た」

 「うるっせ。おれだって敬語くらい使えるし!」

 そう軽口を叩く二人に、月森が声をかける。

 「おい、客の前だぞ。雨水と佐々木は僕の同級生だからいいけど、"先生"だって居るんだからな」

 「いや月森、オレの事は気にしなくていいんだぞ?」

 夜雨さん——今は夜野先生と称すべきか——は、月森の弟、研人くんと空羽くんの相手をしながらそう言った。

 「あ」

 忘れていた、という二人の反応に、月森が困った顔になる。俺はその一連を目にし、知らず笑みを浮かべていた。

 「なァお二人さん。かみくんとくまくんはどこに居るんだァ? 全然見当たらねェけど」

 テレビ前のソファから首だけをこちらに向けて戒里さんが訊く。一瞬誰のことだと不可解に思ったが、それが死神さんとルカを指していることに気付いた。

 月森が気を利かせて浩太たちと俺や雨水さんの距離を遠くした。

 「そう言えば母さんがデザートを用意してくれたんだって。お前らは見たのか?」

 「え!? デザートあんのか!?」

 「何それ聞いてないんだけど! どんなのなの、母さん!」

 デザートとという言葉に目を輝かせ、その話に食いついている隙に、戒里さんの元へ寄った。研人くんと空羽くんは近くで遊んだままだが、夜野先生が気を引いている間はこちらの会話に気付かないだろう。

 雨水さんがまず死神さんの状況を簡単に話した。

 「死神さんは話の邪魔にならないようにって、外に居ます」

 「あ、一緒だ。ルカも俺達の話の邪魔にならないように、外で待ってるって」

 「へェ……」

 何か気になることがあるのか、戒里さんは眉を潜めた。……角の生えたヒトが眉を寄せると、途端に怖く感じなかったものも怖く感じるな。

 目を瞑って思案したあと、戒里さんが軽く頭を掻いた。それはまさかな、という気持ちの表れだった事を理解するのは、次の言葉を耳にした直後だ。

 「あー、一応聞くけどよォ。その二人、喧嘩とかしてねェよなァ……?」

 不安げに尋ねたその内容に、俺と雨水さんはほぼ同時にはっとした。そして共にベランダに目を向ける。争う声は聞こえない。が、既にどちらかが手を出していたら……。

 俺は玄関の方に足を向けた。

 月森がまたもや気を利かせ、俺と雨水さんが玄関に向かった事を誤魔化す声が後手に聞こえる。

 「喧嘩してたらどうする? いや、喧嘩した後の方が大変かも」

 「ああ、口喧嘩で留めていてくれたら良いんだが……」

 不安要素を口にし、扉を開く。

 「あれ」

 雨水さんが戸惑ったように辺りを見渡す。

 「どこにも居ない……?」

 俺も眉を潜めた。理由は、ルカと死神さんの争う声はおろか、姿すら見当たらないからだ。……と思ったが、数秒経ってから声が聞こえてきた。何を言っているのかは聞き取れなかったが、やはり居たんだと分かり、俺は不可解なほど動揺してしまった気持ちを落ち着かせる。

 「佐々木さん、ここは私に任せて。月森君が誤魔化せるのも時間の問題でしょ。不思議に思った弟君たちが来る前に、どちらかが戻って説明すれば時間が稼げて、その間にもう一人が死神さんとルカさんを離した上でどこかに連れて行く。この方法を試した方がよっぽど賢い選択じゃない?」

 「そうだな。じゃあここは頼む」

 雨水さんの提案に賛同して、俺は月森の家に再び入った。するとそこには月森が。様子を伺いに来たのだろう。

 「佐々木! どうだった」

 咄嗟に周りに人が居ないか目を彷徨わせた。

 「ん? どうした?」

 「あ、いや……聞かれてないよなと思って」

 「ああ、そういう事。大丈夫だぞ。ちゃんと母さんにも協力してもらって、輝汐たちが来ないように足止めしてくれてるから」

 安心して俺は今さっき雨水さんに言われた事を話した。すると月森は「じゃあ言う通りに僕達は戻って雨水を待とう」と言った。

 「ああ、そうした方がいいと俺も思う」

 何故だか雨水さんなら大丈夫だと、そう思えたから。

 リビングに足を運び入れると、浩太が俺達に気付いた。

 「一翔兄と波瑠ちゃんどこ行ってたの? あの女の人も居ないし」

 「"あの女の人"じゃなくて雨水沙夜な」

 「じゃあ沙夜ちゃんって呼ぼ。いいよね一翔兄?」

 「僕じゃなくて雨水に直接聞けばいいだろ。もう時期戻って来ると思うし」

 そう言えば月森はどんな誤魔化し方をしたんだろう。忘れ物を取りに行ったとか、そこら辺の事か?

 「………………。それもそうだね」

 やたら長い沈黙に不信感を覚えたが、まあいいかと深くは考えないようにした。

 「輝汐兄ぃ、ぼくにイチゴちょうだいよぉ」

 ふいっと輝汐くんに顔を向けた浩太が、甘えるような声を出す。けれど輝汐くんはそれをばっさりと断った。

 「嫌に決まってんだろ。このイチゴはおれんだ! だいたい浩太はもう食べたじゃん。おれはまだ食べてねーの。だからあげない、分かりましたあ?」

 「ちぇっ。輝汐兄のいじわる……」

 その様子を眺めていると、脳裏に流風と過ごした日々が断片的に浮かび上がった。

 「…………っ、」

 だが俺はそれをすぐさま振り払って、現実に意識を戻す。思い出に浸るのは今じゃない。

 「悪い、佐々木。ちょっと研人達の相手してくれないか。夜野先生が大変そうだから」

 「ああ、分かった」

 月森に頼まれた通り、研人くん達が遊んでいるテレビの前に歩み寄った。

 「どうだったァ?」

 戒里さんがソファに胡座を掻きながら聞いてきた。ルカと死神さんの事を言っているのだろう。俺は無言で首を振った。

 戒里さんは一瞬怪訝の顔をしたが、ああ、と納得したような顔つきになって最終的に「そうかァ」とだけ口にした。

 俺が首を振った事と、雨水さんが居ないという事から何か導き出したようだ。

 「研人くん、空羽くん。初めまして」

 戒里さんに背を向けて二人と目線を合わす。立ったままでは話しにくいため、カーペットに腰を下ろした。

 自分より年下の子とは、遊んだことはおろか話したことさえ数える程度しかない。だから接し方に戸惑ってしまう。

 「俺は波瑠。……俺も一緒に遊んでいいか?」

 怖がられないように笑顔を浮かべた。こんな感じで願い出て大丈夫だったのだろうか。そんな疑問は心の底に押し込んで、二人の反応を伺う。

 二人はそれぞれ反応が違った。

 研人くんはめいいっぱいに手を広げ、顔を綻ばせる。瞳がキラキラと輝いていて今にも飛び上がりそうな印象を抱いた。空羽くんは大人しく、目をまんまるにさせてじっとしていた。しかしその数秒後。パッと表情が華やいだ。

 「いいよー! いっちょにあちょぼ!!」

 元気よく研人くんが了承する。続いて、空羽くんがコクンと小さく頷いた。

 そうして遊び始めた俺達を前に戒里さんが優しい顔つきになっていたことは、背を向けていた俺には分からない出来事であった。


   # # #


 時は遡り数十分前。

 「月森クンが倒れる事を分かってたでしょ」

 私は不穏な言葉が聞こえて、辺りを見渡した。しかし声の主と思わしき人物は見つからない。

 何となく佐々木さんに聞かせたら駄目な内容だと思い、声に気付いていない佐々木さんを月森君の家に入っておく事を勧めた。

 そうして家の外に居るのは私一人となり、盗み聞きだと分かっていながらもどこからか聞こえてくる声にそっと耳を澄ました。

 「どうしてそう思うのですか、死神さん」

 「動じなかったからだよ。表情も変化なくて、まるで倒れる事が分かってたみたいだったし」

 昼間のように険悪な雰囲気じゃないものの、お互い少し棘がある。

 「そんな風に見えましたか?」

 「逆にそれ以外見えたものなんてないよ。というかいい加減猫被るのやめたら? 人間が大好きですっていうアピールが鳥肌立つんだよ。思ってもないくせに」

 「……やはりバレていましたか。まあだからと言って止めるつもりはありませんが」

 はあ、と心底呆れたようなため息が聞こえた。恐らく死神さんだろう。

 「ま、ボクだって強制はしないよ。気味が悪いけど、キミには何か考えがあるようだし」

 「……それはそれは。有難いお言葉です。しかし何故そのような考えに?」

 「簡単だよ。元よりボクは死神に成った出来損ないだからさ。死神と悪魔のいざこざは知ってるし、無視する訳にもいかない。だけど、それを装うフリで充分だ。……ボクの邪魔をしなければ、見逃してあげるよ。あの少女には申し訳ないけどね」

 へえ、と低く呟く声が微かに聞こえた。これはルカさんだろう。

 しかしあの少女というのは、一体誰のことだろう? もしかして佐々木さん……な訳ないか。そうだよ。だって死神さんはまるで見捨てるかのように言ったんだ。だったら私は兎も角佐々木さんのはずが……。

 嫌な汗が頬を伝った。

 「目的の為なら手段は選ばないと? 私と同じ考えじゃないですか」

 嘲笑を含むその声に、もう一つの冷たい声がこう切り返す。

 「一緒にしないでよ。キミとボクは違う。キミはボクよりよっぽど残虐非道でしょ」

 「さあ、それはどうでしょう」

 そこで会話が途切れた。話し声はもうしなくて、代わりにザザーと風が耳元を吹き抜けるだけ。

 『あの少女には申し訳ない』。その少女というのが佐々木さんの事だとしたら、私が首を突っ込む必要はないか? 本人も死を受け入れている節があるし、自分で望んだから心配しなくて良いとそう言っていた。私がお節介を焼く必要性も感じないし、時間が解決してくれるかな。

 そんな薄情なことを考えて、私が死神さんを呼ぼうとしたとき。

 「沙夜。盗み聞きは良くないんじゃないの」

 すっと上から降ってくるように現れた死神さんは、綺麗に足を地面につける。

 「い、今、どこから……?」

 突然の出来事に目を丸くする私。そんな私の姿を見て死神さんはしてやったり顔に。しかし、いつもならそれに続く「驚いた?」という弾む言葉があるのに、今日はただ私の目を見るだけだ。怖いくらい無感情な目を、じっと。

 数秒ももたずに目の圧力に負けてさっと視線を地面にずらした。

 いや、無理だから。あの目怖いんだよ。心の奥底を見透かすような黒い瞳。只ならぬ恐怖心を抱いても仕方ないだろう。

 心の中で目を逸らした言い訳をしていると、黙っていた死神さんが口を開いた。

 「誰にも言わないって約束してくれる?」

 「します。約束します」

 即答だった。

 「そっか。なら良いよ。それでキミは何の用で盗み聞きしたの? ボクに用事でもあったのかな」

 死神さんはもう怒っていない。それなのに責められているような気持ちになるのは、後ろめたい事をしたと少なからず自覚しているからか。

 「いえ、戒里さんに死神さんとルカさんはどこに居るのかって聞かれただけで、用事という用事はないんです。強いて言えば、ルカさんと喧嘩してないかの確認ですね」

 素直に話した。

 「へえ。それは無駄な心配をかけさせちゃったね。今あの悪魔は居ないよ。でも直ぐに戻ってくるだろうから、佐々木さんにそれを伝えておいて欲しいって言ってた」

 「分かりました、伝えておきます」

 「よろしく」

 そろそろ戻った方が良いだろうか。

 「死神さんはどうします? 私達は月森君の家で七夕祭りをしようって話になったんですけど。話し相手は戒里さんとか夜野先生とか居ますし、退屈にはならないと思いますよ」

 そう提案してみる。

 すると死神さんは目を見開いて、驚いたという顔になった。

 「……? どうしたんですか」

 訳が分からなくて、小首を傾げた。

 「いや。キミが余りにもいつも通りだったから、びっくりしただけだよ」

 「私がいつも通りでびっくりした……?」

 戸惑っていたからか同じ言葉を繰り返す私。

 「そう。ボク達、喧嘩したのにね」

 そう言って軽やかに笑う死神さんとは裏腹に、私は「あ」という声を漏らした。

 昼間は、一応は和解出来たが気まずさがまだ残っていた。だと言うのに、夕方の今は七夕祭りの事で死神さんへの気まずさが欠片ほどなかった。というか喧嘩したこと自体忘れかけていた。

 もしかして死神さんは気にしていた……?

 「あ、そうだ。盗み聞きしたのは感心しないけど、時間稼ぎにはなったかな? キミ、佐々木さんと話したそうにしてたから。あの悪魔を遠ざけといたんだ」

 「えっ」

 今度は私が驚くほうだった。さっきまでの思考は吹き飛び、新たな思考が創られていく。

 確かにルカさんを遠ざけないととは考えていた。そうしないと佐々木さんと話が出来ないから。そしてルカさんは幸いにも佐々木さんから離れ、外に居た。私はそれが偶然だと思っていたのに、実は死神さんが手を引いていたとは。思いがけない事実だ。

 どうしてこうも突然なんだろう、このヒトは。

 『どうしたの?』と言わんばかりの死神さんの態度を前に、そんな事を思った。きっと私がなんで驚いたのか分かっていないんだろうなあ。……そう。言っても理解できないと考えるに違いない。

 それは少し、寂しいような気がする。私は人間で、死神さんは人間じゃない。互いが互いを理解し認め合うには、それなりの時間が必要だ。しかし私達はまだ出会って半年にも満ちていない。だから完璧に理解し合えるなんて馬鹿なことは、考えてもいないことだ。

 だがそれでも、やっぱり寂しいと思う。

 「——あれ。雨水と死神じゃないか」

 突然空から声がした。

 私と死神さんは揃って上を見上げる。そして目が点になった。

 「勝手に入るのは気が引けるから、悪いけど月森か戒里を呼んで来て欲しいんだ。いいかい?」

 堂々とした威厳ある雰囲気で家の屋根に居る"それ"は、頼み事を口にする。

 いや…………いやいや! おかしくない!? 確かに人間じゃないんだろうなとは思ったけど……!

 「何で"狐"……!?」

 恐らく私の表情は今年一番の驚愕の色に染まっているだろう。

 黄金色のもふもふとした毛並みに、その礼儀を重んじるかのような佇まい。それはどこか高貴さを思わせる、狐であった。そして異様なのは、その狐の尾が一つではなく九つあるということと、大型犬のようにとても体が大きいことだ。普通の狐ならば、尾は一つでもう少し体が小さい。しかし予想外過ぎて驚くことしか出来ない私は、それに気付いたところで変わる事もなく唖然とその狐に目を見開くばかりだ。

 狐はそんな私を見て不思議そうに声を出した。

 「狐はあたしの本来の姿さ。人間にも化けられるんだが、やっぱりこの姿で居る時間が長かったものだから、化けている間は少し窮屈でね。雨水はもう戒里とあいつと仲が良くなって来ているだろう? だからあたしも隠すのはいいかと思ったんだ」

 話が読めない。だが狐は私の名を知っている。ということは過去に一度は会っているということ。そして、人外であるということ。

 思い当たる節を探して頭を悩ますと——ふと、思い浮かんだ名前があった。

 もしかしてこの狐は。否、まさかそんな。

 自分が出した結論に自信が持てず、半信半疑なまま私は狐に問いかける。

 「あの。もしかして宮原先生ですか?」

 ちらりと横から視線を感じた。死神さんだ。何言ってんだという目で見られているように思えて、視線に気付かないふりをした。

 「なんだ。気付かなかったのかい? あたしはてっきり戒里あたりから聞いたんじゃないかと思ってたんだけど。雨水がその様子じゃあ、月森も知らなさそうだね」

 それは肯定の言葉だった。狐は宮原先生なのだと、本人が認めた。ならばあの、『戒里とあいつと仲が良くなって来ている』の『あいつ』は、夜野先生のことか。

 なるほど、と一人冷静になって納得した。

 「ねえ」

 不意に死神さんが平坦な声を出した。その目の先は狐の姿の宮原先生が。

 「昔、ボクと会ったことない? その狐の姿で」

 困惑した私を他所に、死神さんは宮原先生の返事を待つ。

 「………………」

 思い出そうとしているのか宮原先生の顔——と言っても狐だが——は険しくなる。そしてとうとう宮原先生はこう言った。

 「会ったことはないと思うよ。少なくともあたしは銀髪で黒い目の男なんて覚えていない」

 「……じゃあ、白髪で紅い目をした気味の悪い子供は? 会わなかった?」

 必死、というようには見えない。どちらかと言うと普段のままだ。けれどどこか上の空で、何かに縋っているようにすら感じた。

 「誰の事を言っているのか分からないけど、そんな子供にも会ったことはないと思うよ」

 心の底から分からないと言いたげな宮原先生に、死神さんは「そう」とあくまでも平坦な声で呟いた。

 「人違いかな。言われてみればあの時の狐はもう一回り小さかったし、大きくなっていてももう居ないか。……随分昔の事だし」

 言いながら、さっと地面に視線を落とした。

 「死神さん……?」

 いつもとは違う雰囲気を感じ取った私は、控えめに声をかけた。

 「なんでもないよ。気にしないで」

 帰ってきたのは優しい言葉。それが拒絶のように思えて、それ以上何かを聞くのは躊躇われた。だから聞かなかった。

 そんな私の気持ちなんかお構いなしに死神さんはいつも通りの笑みを浮かべる。

 「ごめんね。余計な時間を取らせちゃった。——それで、宮原里緒が頼みたいことって月森クンを呼んでくることだよね?」

 「あ、ああ。そうだよ」

 死神さんが私に視線を向ける。どうするかと訊かれているのだと察した私は首を縦にふる。

 「じゃあ呼んでくるよ」

 そう言って私を連れて月森君の家に入ろうとする。

 「頼んだよ。死神、雨水」

 玄関の扉が完全に閉まる前、宮原先生がそう言った。



 まず月森君に宮原先生のことを伝えるため、玄関に続く廊下で話すことになった。わざわざリビングに居たのにどうして廊下に移動するのかと疑問に思っていると、月森君が家族に話を聞かれないためだと教えてくれた。

 「死神さんが居るって事は喧嘩はおさまったみたいだな」

 本人が居るというのに遠慮しないその物言いは、幼少期から人ならざる者が見えていたからか、死神さんに対する恐れが薄かった。

 「月森クン、ちょっと言い方を考えようか」

 ゴホン、と態とらしく咳をする。

 「あー……すいません?」

 それを聞いた死神さんは、今度はなんとも言えないような表情になって、最終的には「まあいいよ」と私に話を促した。

 私は簡潔に宮原先生が外で待っていると伝えた。しかし宮原先生が狐の姿だった事を言う前に月森君が慌てて玄関扉を開けるものだから、屋根から地面に降り立った狐を見た月森君は目をまん丸にさせて固まってしまった。

 そんな月森君を他所に、宮原先生はお礼を述べる。

 「ありがとう雨水。それに死神も。助かったよ」

 「いえ。大したことじゃないので」

 死神さんもうんうんと頷いている。

 「み、宮原先生デスカ……?」

 月森君は戸惑っているからか、語尾が片言になってる。思わずふっと笑みが溢れた。

 「ああ、あたしだよ、月森。宮原里緒っていうのは人形ひとがたの時の名だけどね。それよりお邪魔してもいいかい?」

 「えっと、いいですけど。その姿は……」

 「……そうだね。変化へんげしたほうが都合がいいかな」

 そう言った途端、家の周りをざわざわと風が騒ぎ出したと思えば、それが狐の宮原先生を隠すように囲む。

 風がパッタリとやんだ時には、宮原先生は人の姿に変わっていた。ただし、頭には二つのもふもふとした獣耳と背後にはふさふさの九つの尾がゆらゆら揺れていた。色は勿論、黄金色。衣服は藤色の着物だ。

 九つの尾を持つ狐……。宮原先生は"九尾"っていう妖怪なのかな。

 「その姿だと見えないんですよね?」

 「視えないようにしてるから、心配は要らないよ」

 そう言って微笑む。その表情に私は照れかけたが、月森君はまるで『厄介な事になった』とでも言いたげな表情のまま動じなかった。

 「じゃあどうぞ。良かったら戒里が余計な事しないように、夜雨さんと見張っててくれれば嬉しいです」

 心の底から出た言葉だろう。それに気付いた宮原先生が苦笑する。

 「ここはもう良さそうだから、悪魔クンのこと伝えに行こう」

 こそっと死神さんが耳打ちする。

 「はい」

 短く返事をしてから月森君に一言断りを入れて、私達は佐々木さんの元へ。


   ☆ ☆ ☆


 僕と雨水と佐々木以外の人には見えない姿になった宮原先生を連れてリビングに戻る。

 時計を確認すると四時二十四分で、あと六分で稲葉が来る時間だ。きっとぴったり四時半で来るのだろうなと思った。

 「お。来れたんだなァ」

 ひらひらと気怠げに戒里が宮原先生に手を振った。そうして宮原先生が戒里の元へ行くと、入れ違いで夜雨さんが僕に歩み寄る。

 「月森。オレも人形ひとがたで居るのは疲れるんだが……」

 つまり変化へんげしたいと。

 「母さん、夜野先生がそろそろ帰るって。だから玄関のところまで送って来る」

 「あらそうなの? じゃあ私も一緒に」

 「いいよ。母さんはこいつらの事見といてよ」

 「お邪魔しました。とても楽しい時間でした」

 ……『先生』の台詞せりふっぽくねーな。

 そんな事をぼんやりと思いながら夜雨さんと一緒にリビングを出ようとする。

 「あれ、夜野先生帰っちゃうのか?」

 輝汐。僕は気付かないでいて欲しかったよ。

 デザート(アイス)を食べ終わったばかりの輝汐を始めとし、浩太も研人も空羽も反応する。だが幸いにも研人と空羽は佐々木と雨水が一緒に相手をしていたから、すぐに気が逸れたみたいだ。そう言えば雨水は佐々木に伝えたいことがあるって言ってたけど、もう済んだのだろうか。いやだからこそ一緒に弟達の相手をしてくれてるのか。

 「夜野先生帰るの? ぼくも送りに行く〜」

 「おれもおれも!」

 はいはいっと手を上げて主張する。今は要らないよその積極性。

 どうしよう。断る理由が中々見つからない。

 「こら。あんた達は大人しくしときなさい。一翔が一人で行くって言ってるんだから」

 「母さん」

 僕が夜雨さんに何か話したい事があるんだと思って言ってくれてるんだろう。でも違うんだよなあ。ただ単に夜雨さんが変化するために、他の人には見られないようにしようって思ってるだけなんだ。

 しかし輝汐と浩太はそれで納得したのか、あっさりと身を引いた。

 「じゃあ先生、さようなら。ありがとうございました」

 礼儀正しくする輝汐を真似て、浩太もありがとうございましたと口にした。いつもは浩太に舐められている輝汐だが、やっぱり兄と弟だなと思ったのはここだけの秘密。

 再び廊下に身を潜める僕と夜雨さん。

 宮原先生と同じように変化した夜雨さんの姿は、背中に大きな黒い羽を生やしていた。それ以外にも服が山伏装束になったりした事で、より一層威厳のある風格になった。

 「助かった。流石に長時間人形ひとがたで居るのはきついからな。あといつになったら敬語じゃなくなるんだ?」

 「そこは今気にするとこじゃないです」

 「戒里が仲良くしている相手なんだ。家族としては、それは喜ばしい事だから。オレも、恐らく彼奴も仲良くなりたいと思っている」

 いや——ちょっと待て。あいつって誰だよ。

 しんみりするところなんだろうけど、僕はそれがどうしても気になってしまった。

 「君はきっと戒里を救ってくれる。そして君も…………」

 夜雨さんの瞳が切なげに揺らいだ。

 救う? 僕が戒里を……妖怪を?

 「意味がわからない」

 あっと口元を抑える。本音が漏れてしまった。

 「そう、だな。意味の分からない話をしてしまった。気にしないでくれ。それと戒里にも言わないでくれ」

 「……分かりました。ところで聞きたい事があるんですが」

 「なんだ?」

 気まずくなった僕は、さっき気になっていたことを夜雨さんに尋ねた。

 「あいつって誰の事ですか?」

 一瞬怪訝な顔をした夜雨さんだったが、自分の発言を思い出して「ああ」と声を出した。

 「宮原先生の事だ。と言っても、人に化けている時の名だが。あいつの真名まなは直接本人に聞いてくれ」

 「はあ」

 生返事になってしまったが夜雨さんは特に気にした様子はなかった。安心してまたリビングに戻ろうとした時、ピンポーンと客の知らせが耳に届いた。



 「よ、一翔! カメラ持ってきたんだぜ」

 夜雨さんに「先に戻っておいて下さい」と告げた後、僕は玄関扉を開けた。母さんからも「稲葉くんが来たわよ」とリビングのドア越しに言われたから、客は誰なのか直ぐに分かった。

 「写真撮るのか? お前カメラ使えるの?」

 「失礼な! 俺だってカメラぐらい使えます〜」

 口を尖らせて抗議する稲葉を家に入れながら、そういえばあの事を言ってなかったなと口を開いた。

 「雨水と佐々木も来てるんだ。稲葉が帰る時間とほとんど同じだから、」

 一緒に送ろう。女子だけだと危ないから。そう言おうとしたのに、続く言葉は稲葉に遮られた。

 「はあっ?!」

 こんな言葉にならない悲鳴に似た声に。

 「うるせーな。なんだよ急に」

 「いやいやいや、なんで二人がいんの!? 聞いてねーんだけど!!」

 「言い忘れてたからな。それに今日偶然会って流れで一緒に七夕祭りしようって話になっただけだし。稲葉には来た時に言おうと思って」

 「なんっで来た時なんだよ! もうちょっと早めに言えよ。俺にも心の準備ってのが……」

 ごにょごにょと文句を言う稲葉が落ち着くまで、僕は黙ることにした。そしていつの間にか、佐々木が居るからこんな反応するんだろうなあ、と遠い目になる。

 「〜〜っとにかく! 一翔はこういう事があった時、ちゃんと、早めに、報告すること!」

 「あー。分かった分かった」

 騒がしいやつだな。

 「「あ、稲葉だ」」

 リビングに入った途端、稲葉を見て開口一番に輝汐と浩太が声を揃えた。

 「よっ。昨日ぶり!」

 パーカーのポケットに片手を突っ込みながら元気よく挨拶をする。

 「いらっしゃい。春樹君はご飯食べていくの?」

 「そうするって母ちゃんに言っちゃった。おばさん、いい?」

 「いいわよ。親にちゃんと言ってあるなら問題ないわね」

 「よっしゃあああ」

 喜んでいるところに僕は声をかけた。

 「稲葉、そろそろ短冊を書こう」

 四時半は早いと思われがちだが、毎年わいわいと騒ぎながらゆっくり書いていくからこれぐらい早い方がいい。

 「そうだな!」

 あらかじめ用意していた七人掛けの卓をスペースのあるところに置く。勿論僕と稲葉で運んだ。

 輝汐と浩太が座ったら、研人がそれに気付いてこちらに来ようとする。さらにそれに気付いた空羽も、てとてととゆっくり来る。それを見守りながら雨水と佐々木も空いている場所に腰を下ろした。

 僕はそこへ長方形の箱に入った短冊を卓の上にトンと置く。

 「はいこれ。何色でも使っていいよ。でも一人一枚は書くようにしてくれ」

 「「はーい」」

 弟達が一斉に了解の意を示す。

 それぞれ青色の短冊、水色の短冊、黄色の短冊、赤色の短冊、緑色の短冊の中から好きなように取っていく。

 雨水と佐々木も最初こそ遠慮していたが、おずおずと短冊に手を伸ばしていた。

 僕と稲葉も卓を囲むように座る。人数的にはこの卓はちょうどいいサイズだった。

 「稲葉はなにを書くんだ?」

 「俺は夏休みが二ヶ月になりますようにって書く」

 「絶対あり得ない」

 「言うな。現実に目を向けたくないんだ。自由研究……プリントの山……テキスト……。あんな宿題があったら、夏休みなんて遊べねーよ!」

 しくしくと泣き真似をする。

 「ま、気持ちは分からなくはない」

 「だろ〜?」

 瞬間で切り替えた稲葉は丁寧に書こうと意気込み、鉛筆を握りしめた。

 …………僕は何を書こう。昨日稲葉に聞かれた時は秘密だと言って誤魔化したが、本当に願いたいことなんて公にできない。

 だって僕の願いは『妖怪を見えなくすること』だ。毎年毎年この願いを書こうとして、結局は止める。見られたらきっと白い目で見られるから。だから今日も何かしら願いを考えなくてはならない。

 その時ふと目に映った、ソファで談笑している鬼と烏天狗と九尾(多分)。あの三人は仲が良い、と思う。『家族』だからなのだろうか。

 「輝汐兄は何書くの? ぼくはやっぱり『今年も物語をいっぱい知れますように』!」

 「おれは『バスケが上手くなりますように』って書く。中学入ったらレギュラー取れるようにするんだ!」

 「中学って……まだ先じゃん。もうちょっとのんびりしようよー。将来のこととかよくわかんない」

 「おれもわかんねー」

 二人は赤色と水色の短冊に文字を綴る。

 「にいちゃ、あおあぶ?」

 「くうちゃんはなにかきちゃい? けんとがかいたげる!!」

 「うー。にいちゃといっちょがいい!」

 二人は黄色と緑色の短冊を前にきゃっきゃとはしゃいでいる。正直とても和む。

 「願い事って難しいね。いざ書こうってすると迷っちゃう」

 「確かに。俺も決めてたはずなのにどうしようって悩んでる」

 「決めてるならそれを書けばいいでしょ。一番にこれだって思ったからその願いに決めたんじゃないの? それとも見られたくないならボクが隠してあげようか」

 いつの間にか雨水の側で壁に寄りかかっている死神さんが、二人に助言した。はっとした雨水と佐々木は短冊と一緒に箱にあった鉛筆に手を伸ばした。二人の手元には既に青色と水色の短冊が。

 「………………」

 そうか。願い事だから、何でもいいんだ。見られたくないなら"それ"は書かなくていい。それならば僕は、家族のことを書こうか。

 箱から適当に短冊を一枚、鉛筆を一本手に取る。紙面にさらさらと滑るように言葉を書き記し——やがて静かに鉛筆を置いた。

 「なあ一翔。今年は一人何枚書けると思う? 賭けようぜ」

 「何を賭けるかによるぞ」

 僕の言葉に稲葉は悩む素振りを見せた。

 「あ! アイス奢るのはどうだ?!」

 「却下」

 「即答ぅ!? 嘘だろ、アイスだぞアイス。欲しくないのか」

 信じられないという顔でこちらを凝視する。

 「小学生は賭けにお金を使うのは駄目だって、この前先生に言われなかったか? それに僕にはもう食後にあるからな。アイスというデザートが」

 そう言ってやると稲葉は、ちーんと効果音がつきそうなくらいに落ち込んだ。

 そんなにアイスが食べたかったのか。

 「月森君、短冊書けたら次はどうするの?」

 「雨水は一枚だけでいいのか。一応もう一枚くらいは書けると思うけど……」

 「いいよ。私は一枚だけで」

 「そうか? なら笹に結ぼう。僕も書けたから分からないことがあったら言ってくれ」

 僕と雨水は弟達が飾り付けした笹に近付いた。上の方に結ぶか、下の方に結ぶか……雨水も同じことを迷ったようで、死神さんにこそっと意見を聞いていた。

 僕は適当に上の方に短冊を結ぶことにした。

 「よし……」

 呟く声が聞こえて出所に目を向ける。どうやら雨水は下の方の目立たないところに結んだようだ。

 「あとは何すればいいの?」

 立ち上がった雨水が僕に尋ねる。

 「準備はこれだけだぞ。あとは外が暗くなったら、ベランダのところから星を眺めるっていうだけ。……小さい七夕祭りで拍子抜けしたか?」

 でも僕はちゃんと言った。小規模な七夕祭りだって。

 「ううん。星は綺麗だから、眺めるだけでも満足だよ。ありがとう、誘ってくれて」

 「あ、ああ。どういたしまして。楽しんでくれてるなら良かった」

 お礼を言われるとは思ってもいなかった。

 「——月森君は優しいよね」

 脈絡もない唐突な言葉だった。

 「僕が優しい? まさか」

 否定してみせると、「優しいよ」ともう一度。一体どこを見てそう感じたのだろう。

 「人に冷たいように見えるけど、基本的に悪口なんて吐かないところとか。嫌だと思ってもその人を頭ごなしに否定しないところとか。そんなところが優しいなって思った」

 「それを言うなら雨水だって。学校でいつも誰かに頼りにされてるところとか、先生の手伝いだってしてるだろ。僕よりずっと優しいし凄いじゃないか」

 「凄くなんかないよ。優しくもない。……私は、違うから」

 一瞬泣いているかのように錯覚したその声。しかし雨水の表情は泣き顔ではなく、いつも学校で見かける笑顔だった。

 僕はそれに違和感を覚えた。

 「ま、ほとんどの人は優しいよね。佐々木さんも稲葉君も、月森君も弟君も」

 そう言って、これで話は終わりだと言うように雨水は佐々木の元へ戻っていった。

 見て欲しくないから目立たないところに結んだであろう雨水の短冊を、ちらりと盗み見る。笹の葉で見え隠れする文字をなんとか読み切り、僕は僅かに目を見開いた。

 そこに書いてある願い事は、『一人になりませんように』というものだった。


   * * *


 外が暗くなってきたのはついさっきで、短冊を書き始めた時刻から約一時間が経った頃だった。

 その間に俺は短冊を笹に結び終えて雨水さんと稲葉と月森と雑談していた。月森の弟達は揃ってまだ余った短冊に願い事を書いている。時には目を輝かせ、時には悩み、時には百面相をするその四人の姿は、見ていて面白く思えた。

 「そういや、三人は知ってる? あの開かずの扉のことなんだけどさ、実はあれ、ただの資料室なんだと」

 夏休みの話から切り替えて稲葉が新情報を告げた。

 だがそれにリアクションをとる前に、『開かずの扉』と聞いて夜野先生と宮原先生の正体を知った衝撃と、戒里さんの過去話を思い出した。人間だと思っていた人が実は妖怪だったなんて出来事、忘れようにも忘れられない。それに戒里さんの過去は俺が知っていいものじゃない。だから後味が悪い気分になったのを、とても印象に残っている。

 雨水さんも月森も何かしら思い出してなんとも言えない表情になっていて、話を振った稲葉は怪訝な顔になった。

 「なんだよ。俺別に変なこと言ってないよな」

 「うん、変なことは言ってないから安心しろ。……ちょっと色々と思い出しただけだから」

 月森が一番巻き込まれたもんな。少し疲れたような表情を見せた月森に、俺は内心で同情した。

 「? 意味わかんねー。ま、いいや。あそこの扉、いっつも鍵かかってんじゃん。開かずの扉だからって理由で誰も触れようとは思わなかったらしいけど、俺は先生に聞いた」

 聞いたんだ。

 「で、帰ってきた言葉がなんだと思う? はい、雨水さん!」

 「え!? ええっと。じ、児童は入ったら駄目だからーとか……?」

 自信なさげに答える雨水さん。稲葉はそんな雨水さんに向かって「正解!」と声を上げる。

 「つまんねーって思ったよ正直。がっかりした。でも現実的に考えたらその通りだなーとも思った」

 「確かにそうだな。基本的に教室は先生が閉めることになってるし、図書室のあの扉が鍵かかっててもおかしくない」

 素直に思ったことを口にすると、 三人とも俺の言葉に頷く。

 「ん、じゃあ開かずの扉って七不思議は、ただ児童が噂しただけ?」

 「だな。僕は七不思議なんて知らなかったけど」

 「私もだよ」

 「俺も」

 逆に稲葉は何故七不思議の詳しい内容まで知っているんだろう。

 「——あ。そろそろ星が見える暗さかも」

 月森の言葉に皆が反応する。

 輝汐君を始めとした月森の弟達は短冊を放ってベランダの窓ガラスに顔を近付けた。俺と雨水さんも立ち上がって窓ガラスから空を覗き込む。

 黒に近い空の色。その中に幾つも連なった星が輝きを放っていた。

 「綺麗だね」

 「ああ。天の川ってこんな感じなんだな」

 「本当に川みたい」

 ずっと眺めていられる。けれど天の川ができるのは年に一度、この日だけ。俺は忘れまいと夜空を目に焼き付けた。

 「一翔。あんた、そうめんどうするの」

 「あ。……忘れてたよ、母さん」

 ガラスにリビングの様子が映る。

 「なんだよ一翔。そうめん食べたいのか」

 「いや、昼ご飯の残り。僕食べてないから」

 「食べてない?」

 「うん。まあちょっと色々あって」

 その色々は倒れたことか、その後俺と雨水さんが押しかけてしまったことか。どちらにしろ申し訳なく思った。

 そういや、ルカはどこに行ったのだろう。後で来ると雨水さんに言伝をしておいてまったく戻ってくる気配がしない。

 ガサガサッ。

 「…………?」

 草の擦れる音がして俺は塀の上に視線を動かした。そこには猫のような影がゆらゆらと揺れており、何かがおかしいと気付く。

 「ねえ、あそこに猫みたいなの居ない?」

 雨水さんも気付いたようだ。

 「居る。でも猫みたいな形だけど、どこかおかしいような気がする」

 二人揃ってじっと影を見つめた。耳が二つ。手足も二つで尻尾も二つ…………ん? "耳も手足も尻尾も二つ"? 何を言ってるんだ俺は。普通の猫の尻尾は一つしかないのに。

 ごしごしと目を擦ってみる。だが見間違いじゃない。

 「う、雨水さん。あの猫、尻尾が二つある」

 "それ"が普通の猫じゃないのは明白だった。

 「……妖怪なのかもしれない」

 雨水さんが小声でそう言った。

 「猫又っていう妖怪いたよね。猫の姿をしてて尻尾が二つあるっていう、妖怪。詳しいわけじゃないからあくまで可能性の話だけど、それっぽくない?」

 言われてみればそうだ。

 「確かに……似てるな」

 「ま、それがなんだって話だけど。……見なかったってことにしようよ。厄介な事に巻き込まれるのはもう嫌だ」

 少し口調が砕けた。俺には素を見せても大丈夫と判断したからなのか、とにかく余所余所しさはあまり感じられない。

 「雨水、佐々木! ちょっと来てくれないか」

 月森の呼びかけで俺達は窓ガラスから離れた。

 猫又かもしれないという影は未だにゆらゆらと揺れているが、襲ってくるわけでもなさそうなのだ。放っておいても恐らく害はないだろうと思い、月森には言わなかった。

 「猫又、ねェ……」

 だから、いつの間にかソファに座っている戒里さんが睨みつけるような目で影を見ていた事に、俺と雨水さんは気付かなかったのだ。

 「これいるか? 毎年七夕祭りにはキーホルダーの飾りがあって、一つ持って帰っていいってなってるんだけど。好きなの選んで」

 月森の元へ行くとそう言われた。

 棚の上に並べられた四つのキーホルダーには、大きさは違えど、どれもこれも星の形が施されている。その中から俺は一つ、特別目を惹くものを手にとった。それは星型を枠にして作られた七夕の絵。詳しく言えば、天の川や短冊、笹が描かれているものだ。

 「佐々木さんはそれにしたんだ」

 「ああ。雨水さんはどれにした?」

 「これ」

 雨水さんの掌の上に、丸型の枠のキーホルダーがある。枠の近くに大きく星があって、笹と天の川が描かれていた。

 「いいな。きれいだ」

 「そっちのもね」

 「あっ。一翔、それって俺のもある?!」

 「あるよ。仲間外れとかにはしないから安心しろ」

 残る二つは正方形の枠のものと、綿雲の形をした枠のもので、どちらも絵柄は七夕関連である。

 稲葉はじっとその二つを見つめた。

 「こっち、もらっていい?」

 手に取ったのは綿雲の形をした枠のほう。

 「いいよ。じゃあ残ってるのは僕のってことで」

 月森がさり気なく正方形の枠のキーホルダーに手を伸ばした。

 「雨水と佐々木もご飯食べていくだろ。人数的にベランダで食べることはできると思うけど、嫌だったら短冊書いた卓で食べてくれ」

 そう言われるのと共に、家の中に食欲を誘う香りが漂う。

 「私はそこの卓で食べるよ」

 「ええー。雨水さんベランダで食べないのか。佐々木さんは?」

 「俺は……」

 悩む。

 ベランダだと天の川を見ながら食べれるし、景色的にはとても良い。しかし雨水さんとは話せない。今日で結構仲良くなっただろうし、迷惑じゃなければもっと色々話したいと思うのだが……。こういう時、流風ならどうするのだろう。視点を変えてみる。

 兄さんなら、友達か景色か、どちらを選ぶだろうか。

 そう考えると景色かもしれないという思いが過る。あいつは友達が大事だと言っていたが、一回しか見れないものがあるなら欲に負けてそちらを選ぶ。そういうやつだ。

 だったら俺も。

 「俺はベランダで食べようかな。天の川をもっと見ていたいから」

 「はーい俺も〜! もちベランダ!」

 無邪気に手を上げて主張する稲葉。なんだかその動作が懐かしく感じる。

 「僕は母さんの手伝いをしなくちゃいけないから、卓だな」

 残念がる月森に稲葉は肩をぽんと叩いて慰めの言葉を口にした。



 そうしていよいよ七夕祭りが始まった。

 月森のお母さんが食卓に一つの大きな鍋を置き、それを食べようと輝汐くんと浩太がお碗を手にした頃、鍋の蓋が開かれた。漂う匂いに誘われ、稲葉がぐうぅとお腹を鳴らす。

 「今日は団子汁だって。結構な量を作ったらしいし、おかわりありだ。良かったな稲葉」

 「マジ!? おばさんありがとうー!」

 「いいのよ、これくらい。いっぱい食べてね。ほら一翔、お友達の分を入れてあげなさい」

 「言われなくても分かってるよ、母さん」

 俺が月森から団子汁がつがれたお碗を受け取ると、既にベランダの外に移動していた浩太に呼ばれた。

 「波瑠ちゃん一緒に食べよう。ほら、隣座って」

 「あ、ああ」

 戸惑いながらも用意された長椅子に腰を下ろした。ふと何かの視線を感じて塀を見上げる。そして直ぐに目を逸らした。そこに猫又らしき影が、まだ在ったのだ。雨水さんはこの事を考えて家の中を選んだのだろうか。

 「——波瑠ちゃんはさ、一翔兄が何か隠してるとか、思った事ない?」

 「浩太、それは……っ!」

 輝汐くんが焦ったように浩太の口を塞ごうとする。しかしお碗を持っているため、実行出来ない。

 「輝汐兄だって聞きたいとは思ってたでしょ。なら聞こうよ。波瑠ちゃんは悪い人じゃない」

 「おれも悪い人だとは思ってねーよ……。でも、兄ちゃんの事を聞いたってどうにもならないだろ。困らせるだけだ」

 二人の間に沈黙が宿った。

 俺はどうしたらいいのか分からず、ただただ沈黙が終わるのを待つ。……とそこで、稲葉がやって来た。正直助かったと思った。心なしか、空気が少し軽くなったような気もする。

 「佐々木さん、ここ座っていい? 俺も天の川見て食べたいんだ」

 「いいぞ。でも、月森と一緒じゃなくていいのか?」

 「あー。うん、あいつ忙しそうだから。多分雨水さんと同じ卓で、研人の世話をしながら食べると思うぜ」

 そうか。月森は長男だったな。"兄"というのは大変なはずだが、それをこなしているのか。

 「稲葉が来たから聞けないじゃん……輝汐兄のバカ」

 口を尖らせて浩太がふいっとそっぽを向く。

 「おれのせいかよ。……えーと、佐々木、さん。浩太が変なこと言ったけど気にしなくていいから」

 「分かった。気にしないでおくよ」

 それを聞いて明らさまに安心したという表情を見せた。

 「あ。そうだ、佐々木さん」ふと思い出したかのように声を上げる。「別におれのことはくん付けしなくていいぜ。浩太のこともくん付けてないんだからさ」

 「そうか? なら遠慮なくそうさせてもらおうかな」

 一旦そこで会話を止め、ベランダに居るみんながみんな、一斉に団子汁を食べ始める。

 天の川は変わらず綺麗に輝いていた。この光景を見たのは久しぶりだ。うんと幼い頃、家族四人でこんな風に眺めた。今は最早思い出すのも困難なほど、過去の話になってしまったが。

 ……あの頃はまだ、平等に愛情を注いでもらっていたのに。次第に両親は俺を疎むようになっていった。その理由さえ、未だに教えてくれないまま。

 「——おお、此処に居ったか、猫又よ。あの方が探していたぞ。一体何をしたというのだ? まさか任務に背いた訳ではあるまいな」

 突然高い声と共に、猫又らしい影の横にもう一つ影が現れた。形からして……イタチ、だろうか? だが異様に爪が鋭く長い。恐らく妖怪だ。

 目を背けたものの、会話は聞こえくる。

 「馬鹿なことを言うな、鎌鼬かまいたち。我々はあの方のために存在しているのだ。任務に背く事などあり得ぬ。きっと下準備を始める頃なのだろう。私は行く。ある程度情報は掴めたからな」

 「そうかい。ならば俺はまだこの街を徘徊するとしよう。地形は覚えておいて損はない」

 「容易に事を起こさぬように。あの方はそれを望んでいる。呉々も気をつけるのだ」

 「あい分かった」

 二つの影は暗闇に紛れて消えていった。それを目にした俺はほっと安堵の息をこぼしたが、何やら企んでいる様子の会話だったため、再び不安が募った。

 月森がまた何かに巻き込まれそうになっているのか、それとも俺や雨水さんが狙いなのか——どちらにせよ警戒するに越したことはない。後で二人にこの事を伝えよう。

 俺はお椀に入っている最後の団子を口に入れた。


 8

   # # #


 卓に置いた丸型のキーホルダーをぼんやり眺める。

 まさか貰えるとは思わなかったな。私はただ七夕祭りっていうのを経験してみようと思って参加しただけなのに。天の川は……まあ、綺麗だったけど。

 「かけうにい、あちょぼ!!」

 「ちょっと待って、研人。遊ぶ前にご飯だ。今食べないとご飯はなしだぞ」

 卓を挟んだ向かい側に、月森君と研人君が居る。

 「う、うっ。ひっく」

 「ちょ、ちょっちょっ。泣いても駄目!」

 月森君大変そうだなあ、と私は傍観を決め込む。

 「……キミ、助けてあげようって思わないの」

 死神さんが不思議そうな顔をして、いつの間にか隣に座っていた。

 しかし死神さんを見えない人が居るため、答えることが出来ない。幸い死神さんもそれを承知しているようで、無視されていると誤解されなくて済んだ。

 この状況だと会話をすることもままならないな。

 そう考えて持って来ていたメモ帳と鉛筆を取り出す。そこに自分の思った事を書き、死神さんにこそっと見せた。

 『年下の相手は得意じゃないので』

 すると死神さんが苦く笑う。

 「キミらしいね。でも、"雨水沙夜"はどう動くかな。キミはまだ見せてないでしょ。本当の自分を」

 相変わらず痛いところを突く。私がいい子なら、傍観するだけというのは確かにあり得ない。"雨水沙夜"はきっと手伝おうとする筈だ。

 面倒だが、仕方ない。

 『死神さんはずるいです』

 捨て台詞のようにメモ帳に書き出し、死神さんに見えるように卓の下に置いた。

 返事を待つより先に、私は研人君のそばに座り込む。団子汁もまだ残っていたが、時間はまだある。あとでいただくとしよう。

 「ひく、ひっく。うぐ、うええぇぇん……っ」

 「研人ー。ごめんって。な?」

 困り果てた月森君に合図して、私は口を開く。

 「研人君。どうして食べるのが嫌なのかな?」

 出来る限り優しく。そして目線を合わせて、そっと頭を撫でた。

 一瞬、研人君の表情が和らぐ。この接し方は正解だったらしい。

 「言ってくれないと、研人君のお兄ちゃんが困るよ? 遊ぶのは楽しいし、嬉しいよね。でもお兄ちゃん、お腹空いてると思うなあ。……きっと、元気になってから遊びたいんじゃないかな」

 責められてると思われないように大分気を遣った。

 それに月森君がお腹を空かせているのは本当だろう。倒れてから直ぐに私達が押しかけちゃったし。申し訳ない。

 「…………っ」

 私の言葉が効いたのか、研人君がごしごしと目元を擦る。泣き声はもう上げなくなった。

 「あっ。こら、研人。擦っちゃ駄目だって前も言っただろ」

 素早く月森君がハンカチを出す。それを見た私は撫でていた手を離した。

 「ありがとう、雨水」

 「ううん。対した事じゃないよ」

 研人君はその後大人しく、けれど楽しそうに団子汁を食べ始めた。

 「凄いね。年下相手は苦手って嘘だったの?」

 死神さんが戻って来た私にからかい半分で聞く。

 『嘘じゃないです。あの接し方で良かったのかって不安が残ってますし』

 実際そうだった。正解だったと思ったものの、後から考えると本当に正解だったのかと不安が拭いきれない。

 「まあ、結果的に良かったからね。そこまで気にする事じゃないと、ボクは思うよ」

 さいですか。

 私も一息つくために、卓に置いていたお椀を手に取った。そのままお箸で具を掴み、口に入れる。

 「………………」

 やっぱり冷めちゃったじゃん。そっとため息をついた。

 「ねえ、沙夜」

 あっという間に食べ終わった研人君が月森君におかわりをねだる。そうして食卓の方へと席を外した隙に、死神さんが私を見ずに言葉を続けた。

 「ボクと契約してから願った事はまだ一つだけ。残り三つあるわけだけど、そもそもキミは何を叶えて欲しくてボクの話を受け入れたの?」

 それを訊かれるとは思わなかった。

 目を見開く私を他所に、死神さんは穏やかな声ではっきりと言った。

 「まさか、復讐しようだなんて思ってないよね?」

 背筋に嫌な汗が伝うような感覚に陥る。

 「いや、復讐するっていう事自体は、生命に害が及ばないならいいんだ。多分ね。たださ、これからのあるべき未来を、自分の手で変えてしまう覚悟はあるのかって事が知りたいんだよ。ボクとキミが出会う事も、ある意味決まっていた。でも人が願った事柄のせいで生まれるはずだった生命が生まれなかったり、逆に死ぬはずだった未来も覆って長い時を生き永らえたり。そんな風に、『あるべき人生』が無理矢理捻じ曲げられる事だってあるんだ。……キミはそれをして、後悔しないって言い切れるほどの覚悟はある?」

 ある。とは言い切れない。

 佐々木さんも察したようだが、私が死神さんに願いたい事は、大袈裟に言えば復讐で合っている。

 前のクラスメイトにされた数々の嫌がらせを、一人一人に返して。最後にそれに関する記憶を全て消し去りたい。そう思って契約したのだ。

 どうせ死ぬなら、それくらいしていいだろう。死ねと言っているわけではない。ただ、仕返しをするだけ。

 しかし改めて言われると、後悔しないかどうかが分からない。その覚悟が自分にあるのかも。

 「まあ、どれを選んでもいいけどね。結果的に自分が寿命より早く死ぬことになってもさ。『それ』がキミの望む結末なら、世界の理を捻じ曲げてでもボクは叶えるようにするから」

 何故、そこまで? 契約者だからと言って甘すぎないか。

 「あ。そろそろボクは行かないと。呼び出されてるんだよね、お偉い死神に」

 「へ?」

 よいしょっと立ち上がった死神さんが私の目を見る。

 「帰り道は大丈夫だよね。なんなら願い事としてボクを呼んでもいいよ。飛んで来るから」

 ひらひらと手を振って音もなく姿を消した。それはもうあっさりとしたものだったので、私はしばらく呆然とする。最後の言葉は本音か冗談か……言い逃げのようで、とにかく死神さんらしいなと思った。

 だがもう少し自分が望む結末について悩むべきだと思い知らされた。復讐をする覚悟があるかどうか。ギリギリまで考えて私なりの答えを出せと、そう言われているかのように。



 ただ一つ、昨日までの自分に訂正を。

 私は答えを予想するのは好きと思っていたが、そうではないかもしれないのだ。実際には、未知なものを知るのが好きなのだろう。だから答えを予想するのも、死神さんの話も、不安は拭いきれないものの、楽しいと思う自分が居る。

 いや、そもそも『死神』という存在自体が未知だから、一緒にいてもそこまで恐怖を感じないのかもしれない。出会った時の恐怖心もすでに無くなっているし。

 何だか死神さんと居ると頭が良くなりそうだな、などとどうでもいいことを考え、私はお椀に残る汁を啜った。


   ☆ ☆ ☆


 研人のお椀におかわりを入れようとおたまを手に取った時、ゾッとするような視線を感じた。ベランダの方からだ。

 目を向けると、塀の上に二つの影が蠢いている。奴ら——妖怪だろう。こうした街で賑わうような日は度々現れる。今日は七夕祭りで外に出て空を眺める人も多い。住宅街の近くに河川敷があるし、そこに集まる人も大勢いる。だから妖怪も様々な目的でいつもの数倍は見かける。人と一緒に楽しむためか物珍しさか、はたまた人を襲うためか。三つ目に関しては一番あり得ないでいてほしいが。

 だが今日はちょこまかとベランダに侵入して勝手に宴のようなものを始める小さくて無害な妖怪は居ない。家の中に大きい妖怪が三人も居座っているからだろうか。

 「かけうにい! おだんご!!」

 研人が手をめいいっぱい広げ、主張する。

 「あ、ああ。ごめん。今から入れるよ」

 慌てておたまを持った手を動かす。

 中身が入ったお椀を卓に運ぶと、研人が口を大きく開けて食べ始めた。

 ちらりと横目でベランダの塀を見た。しかしそこにはもう何も無く、最悪な事態にはならなかったとほっとする。

 そして目の前にある団子汁と昼の残りのそうめんを目にし、思う。

 僕もやっと腹を満たすことが出来るのかと。



 時間の流れは早いもので、現在十八時四十五分。

 食卓に置かれた鍋の中身はもうほとんどない。各々がベランダで天の川を見たり、夜ご飯をたらふく食べたり、家の中で談笑し、遊んだり。そんな風に過ごして、そろそろお開きにしようという雰囲気になる。

 「稲葉」

 輝汐と浩太は既に家の中だ。研人は客人と遊んで満足したのかご飯を食べてから寝てしまい、空羽はご飯を食べる前からうとうとしていた事もあり、今ではぐっすり母さんの腕の中。戒里達妖怪どもは僕の部屋でトランプをすると言ってソファを退いた。

 まあ最近仲直りしたばかりだし、まだ色々と話足りないのだろう。ずっと会話が続いていたし、僕はちょっかいをかけられなかったから、戒里も二人と一緒に居たいのだと思う。だから僕は『何で僕の部屋でトランプ?』とは口にせず、そっと見送った。

 雨水と佐々木は卓で何か話している。女子トークに巻き込まれるのは勘弁だから、僕はベランダに一人でいる稲葉に声をかけた。

 「んあ? 一翔か。見ろよこの空!」

 夜空に左手の人差し指を向ける。右手には持参のカメラがあった。

 長椅子に座ったまま稲葉はカメラのレンズを天に向け、焦点を合わせる。僕はその隣に腰を下ろした。

 今日、夜空をしっかり目に映したのは初めてだ。

 「綺麗だよな〜。こういうの何つーんだっけ。まぼろし……そう……的?」

 「……それを言うなら幻想的だ、馬鹿」

 「そうそう、それ! てかバカって言ったほうがバカですぅ」

 どこかで聞いたやりとりだ。知らず知らず口角が上がる。

 「まあでも、確かに幻想的だな」

 散りばめられた赤い星、青い星、緑の星、黄の星、白い星。どれもこれも大きさは違うのに、『ここに居る』と言うように光り輝く。

 「言わないほうがいいかなって思ったけど、俺は口が軽いんだ」

 撮った写真を確認しながら、稲葉が悪戯な笑みを浮かべる。

 「『兄ちゃんがもっと自由に過ごせますように』、『一翔兄をぼくたち弟から解放できますように』。いい弟だな、一翔」

 「は、……急に何だ?」

 「見てねーだろ。あいつらの短冊。最初に言ったのは輝汐ので、次は浩太のだ。何枚も書いていいって言ってたから、二枚目には迷いなくそれを書いてたぜ」

 「…………。はあ!?」

 驚いて声を上げた。家の中に居るみんなが訝しげにこちらに視線を向けたが、僕は唖然とするばかり。

 輝汐と浩太がそんな事を書いていたなんて知らなかった。稲葉の言う通り短冊を見ていなかったからだ。

 次第に僕と稲葉に向けられた視線が減っていく。

 「悪い、取り乱した。それっていつの事だ?」

 「一翔が自分の短冊結びに卓から離れたとき」

 あの時かっ! 心の中で叫んだ。

 思い出してみると確かに。雨水は関わっていないだろうが、話している間に偶然にも輝汐達の時間稼ぎになってしまったようだ。

 「一翔はあの時襲われて、そっからブラコンになったじゃん」

 「ブラコンって何だよ。別に僕はそんなんじゃない」

 思わず顔を顰めた。

 「嘘つけ。クラスのやつに遊びに誘われてもいっつも断るくせに。理由聞いたら毎回弟が〜〜……だろ?」

 「そんな筈は…………あったな」

 自分の行動を思い返せば、言い訳ができないほど言っている。

 事実だからこそブラコンと言われるのか。

 「でもそれだけだぞ」

 「いや、それだけじゃねーよ。お前結構学校でも輝汐たちの話してるからな? 一昨日輝汐が、昨日浩太が、今日の朝研人が、今日の放課後は空羽のお迎えがって」

 心当たりが無いわけでもないから、言葉に詰まった。

 「別に一翔がブラコンでも俺は気にしない。でもさ、明らかに弟を守らなきゃって気を張るようになったのは、あの事件があったからだ。だからクラスのやつだってからかったりしねーんだよ」

 写真の確認が終わったようで、もう一度カメラに星を写す。

 「兄が弟を守ろうとするのは悪い事じゃねーよ。ただ一翔なら分かると思うけど、弟の意思も聞かないとじゃん。輝汐も浩太も、お前を心配してる」

 妖怪から家族を守るために。なんて思ってはいるが、結局のところ僕は人間の子供で、自分の力だけじゃ何も出来ない生き物だ。支え合おうにも見えない人ばかりで頼る事も出来ない。

 だから僕の身を犠牲にする方法しか考えが及ばなかったのだ。きっとあの時僕達兄弟を殺そうとしたやつはまた現れる。そうなった時、家族を、弟達を守れるのは、見える僕だけなんだ。盾にはなれる。交渉して、僕を食べていいからって見逃してもらうようにする。

 それくらいはしないといけないって思ってた。

 ——『心配』はどうでもいい奴にしないだろう?

 ふと夜雨さんの言葉が頭に過る。

 「……僕はあいつらのこと、ちゃんと見れてなかったんだな。見ていたつもりが、いつの間にか自分の事ばっかりになってた」

 守ろうとする者の気持ちも考えないで、家族が欠けると嫌だからそれっぽい理由をつけていただけ。

 「本当に馬鹿なのは僕だったな」

 稲葉がすっと僕を見る。そして笑顔でこう言い放った。

 「俺にバカって言ったからだ、バーカ」

 「ブーメランだぞ、それ」

 ………………。沈黙が流れた末に、稲葉が何事もなかったかのように、カメラのシャッターを押した。

 「輝汐と浩太の二つ目の願いは、お前が叶えるんだぜ」

 空気を変えて稲葉が言う。

 「頑張るよ。あ、そうだ。稲葉の願いは叶うんじゃないか?」

 「ああ、夏休みのやつなー。叶えてくれるかなあ、織姫様と彦星様」

 「いや違くて。短冊じゃない、もう一つの」

 昨日言っていた、佐々木と仲良くなりたいっていうやつ。そう囁くと稲葉の顔に熱が集まるのが伺えた。

 やっぱり分かりやすいなこいつ。

 「う、うるせー! そろそろ帰るかな」

 写真を撮るのを止めて長椅子から立ち上がる。

 「そんな焦らなくてもいいだろ」

 笑いながら僕も立ち上がり、ベランダを後にする。

 因みに七夕祭りの片付けは毎年父さんの役目だから、用意された長椅子は置いたままでも問題ない。

 僕は飾られた笹に目を向けた。

 『バスケが上手くなりますように』『今年も物語がいっぱい知れますように』『夏休みが二ヶ月になりますように』…………。もう何枚も結んである短冊にはそれぞれの願い事が書いてある。

 僕も悩みに悩んだが、結局書いた願い事は『今年も家族と仲良く過ごせますように』という当たり障りもないものだった。


   * * *


 「じゃあね、波瑠ちゃん! 沙夜ちゃん!」

 玄関で靴を履き終えると、月森のお母さんと輝汐と浩太が見送りに来た。研人くんと空羽くんは寝たままで、リビングに居る。

 「また来てね、いつでも大歓迎よ」

 ふわりと微笑む月森のお母さん。その後ろで黙っていた輝汐が、ニカッと笑みを浮かべこちらに手を振った。

 「お邪魔しました」

 雨水さんに続き、俺も同じ言葉を口にした。

 「じゃあなー輝汐と浩太。おばさんもありがと、お邪魔しました!」

 「ええ。……でも心配ね、私も一緒だったら良かったのだけど」

 頬に手を当て、眉を下げる。

 外は暗くて子供だけで出歩くのは危険だ。だから不安なのだろう。

 「母さん、大丈夫だぞ。父さんがもう帰ってくるんだし、送ってくれるんだろ。車で」

 心配し過ぎ、と月森が零した。

 「気をつけて」

 「うん。じゃ、行ってくるよ」

 雨水さんは既に外に出ていて、俺も慌てて家を出る。長居は良くないからな。

 「見て、佐々木さん」

 そう言って控え目に家の屋根を指す。

 そこに居たのは、こちらを見守るような視線を向ける、戒里さん、夜雨さん、宮原先生。人の形をしていながら、一部分は決して人ではない者の証がはっきりと分かる。

 その時、塀に居た二つの影を思い出した。

 「雨水さん、あの猫又の事なんだけどな」

 俺はそう切り出して、鎌鼬が現れた事とその際に聞こえた会話を話した。

 雨水さんは話を聞き終わると少し考える素振りを見せ、やがて口を開いた。

 「狙われてるのが誰か分からないけど、猫又と鎌鼬はあの場に居たその誰かの情報を得ようとした。で、悪魔でも死神でもなく、妖怪。だったら予想は出来る」

 月森が狙われていると言いたいのだろう。しかしそれは稲葉が話に入って来たことで口にはしなかった。

 「何の話してんの? 俺も入れて!」

 「えー。稲葉君は男の子だからなあ」

 そう言って笑った顔は、俺と会話した時より少し引き攣って見える。無理しているのがなんとなく分かった。

 「そこを何とかー! 一翔が全っ然話してくんねーんだよ。ぼうっとして空見ててさ。この待つ時間ひま」

 稲葉が一点を指差して不満を口にする。指を向けられた月森はそれに気づく事なく、目を見開いて上を見上げていた。視線を辿ると、そこには雨水さんが教えてくれた三妖怪が。

 戒里さんのしてやったり顔を見て俺は、これは確かに稲葉の相手をする暇がないな、と苦笑い。きっと月森はどうやって戒里さんを怒ろうか考えているだろう。

 「稲葉。そんなに暇なら、驚かしたりしないのか? 前みたいに」

 前、とは約一年前の公園で一緒に遊んだ時の事だ。あの時稲葉は流風を驚かして暇を潰していた。そして俺も流風も逆に驚かしてやろうと計画を立てて、見事成功したんだったな。

 懐かしく思っていると、稲葉がはっとしたように「そうだな」と言った。

 月森はどんな反応をするだろうか。

 雨水さんが稲葉が離れた隙に心配気な声を出す。

 「いいの、あれ? 絶対怒ると思うよ。佐々木さんがそんな提案するなんて意外だけど」

 「そうか? 俺だって悪戯心はあるぞ。それに月森は怒る前に呆然としそうだ」

 「……確かに」

 その様子を想像したのか、酷く平坦な声で呟いた。



 稲葉に驚かされた月森は案の定呆然とした顔で尻餅をついた。倒れるまで突進されて、けしかけたのは俺だが少々可哀想だと思った。屋根の上で戒里さんがお腹を押さえたまま、声を上げて笑っていたからというのもある。

 その後、雨水さんが最初に言った通り、稲葉は月森に怒られた。

 「——何してるのかな、君達」

 そう声をかけられたのは月森と稲葉が軽口を叩くようになった時。家の前に一台の車が止まったのだ。

 運転席から顔を覗かせているのは優しそうな顔つきの男。月森はその男を「父さん」と呼んだ。

 「遅い」

 「ごめん、一翔。仕事が長引いてしまったんだ。ほら、乗って。君達も」

 月森が後頭座席のドアを開け、俺達に入るよう促す。月森は助手席に座った。

 他愛のない会話をしていたらいつの間にか俺の家の近くまで来ていて、月森のお父さんに道を聞かれる度、俺は「こっち」と指を差しながら方向を答えた。

 「ここで合ってるかい?」

 「はい、合ってます」

 車から降りて、振り返る。雨水さんと稲葉と月森にバイバイと言われて俺もひらひら手を振った。そして来た道を引き返し段々小さくなる車を見送り、俺はようやく手を下ろす。

 「波瑠さん」

 「うわあ!」

 突然名を呼ばれ、可愛げのない悲鳴をあげた。

 表札の前に音もなく現れたのはルカ。数時間会っていなかったから、黒ばかりの暑苦しい格好が久しぶりのように感じる。

 「びっくりさせないでくれ。心臓に悪い……」

 「すみません。今度からは鈴の音でも鳴らしましょうか」

 「いや、いい。それより何してたんだ? すぐ戻るって言ってたわりには遅かったし」

 微笑んだままルカは答えない。

 まあ、最初から期待はしていないが。

 玄関扉のドアノブを捻る。思いの外あっさりと開けれたことに対し、嫌な予感がして身体が強張った。そっと家に足を踏み入れる。

 家の中は薄暗く、リビングから漏れ出る明かりが、そこに人がいる事を知らせる。

 「……友達の家は楽しかったか」

 リビングには父さんが居た。テレビの前のソファに座って低く唸るような声で尋ねる父の手には、一本の煙草。目の前のテーブルの上には灰皿がある。

 「た……楽しかった」

 「そうか。何をしたんだ」

 父さんが俺の事を気にかけるなんて。思わず目を丸くしたが、今までそんなことあり得なかったのだ。少し嬉しく思い、素直に話した。七夕祭りをした事、女子の友達が出来た事。その他にも、キーホルダーを貰った事を。

 「キーホルダー?」

 訝しげに俺に視線を向ける。反射的にびくっと肩が揺れた。

 「…………」

 ズボンのポケットに入れていた星型のキーホルダーを掲げた。瞬間、太い腕が目の前を過る。

 「そうか。……波瑠、お前にこれは要らないよなあ」

 派手な音を立ててキーホルダーが二つの割れる。

 「何するっ、……?!」

 反射的に取り返そうと父さんに手を伸ばすと、逆に強く腕を掴まれ、身動きが取れなくなった。

 「お前にこんなモン必要ねえだろ。祭り? 友達? 馬鹿馬鹿しい。——お前は兄を殺したんだ。殺人犯は大人しく檻の中で死ね」

 咥えていた煙草を俺の腕に押し付ける。ジュウ……と皮膚が焼ける音がして、堪らず声を上げた。

 「死ね、死んで償え。お前が居なければ流風は! お前さえ……!!」

 痛い痛い離して。聞きたくない。言わないで。

 感情的になった父さんの耳には、逃れようとする俺の声は届かない。

 追い打ちを掛けるように脳裏に蘇るのは、幼い頃の家族で笑い合った幸せな日々で。まだ夢を見ている自分が居ることに吐き気を覚える。

 「お前さえ居なければ!!」

 ——俺さえ居なければ、流風は居なくならずに済んだのだろうか。

 乱暴に床に突き飛ばされ、脇腹辺りに鋭い衝撃が走る。蹴られたのだと、そう認識するのに時間は掛からなかった。

 「出来損ないの分際でッ! お前が流風の代わりに死ねばよかったんだ!」

 鈍い音がリビングに響き渡る。お腹を庇うようにして体を丸めても、関係ないと言うように父の暴力が降り続いた。

 ごめんなさい。生きててごめんなさい。そう口で繰り返し大人しくしていれば、やがて父さんは気が収まって退室する。だからそれまで耐えないと。

 「波瑠さん。どうして抵抗しないのですか? どうしてこんな男に謝罪するのですか。貴女は何も悪くないでしょう。私に頼めばどうとでも出来ますよ」

 ルカが俺に語りかける。

 「さあ言って下さい。貴女の頼みを——いえ、願いを」

 それは、悪魔の囁きだった。

 俺は繰り返していた言葉を止めた。父さんの怒りが収まりそうにないのを肌で感じ取って、呻き声を押し殺し、覚悟を決めてある言葉を紡ぐ。

 『助けて』と。

 瞬間、テレビが一人でに砂嵐を起こした。電球が点滅し、キッチンカウンターの向こうで食器棚のガラスが派手に割れる。かと思えば、ソファに置いてある二つのクッションやテーブルの上の灰皿、床に放置されたままの新聞、雑誌、広告などが浮遊した。所謂ポルターガイストだ。しかし引き起こしたのは幽霊ではなく悪魔。

 父さんはその異常事態に俺を蹴る足を止めて、大きな体を強張らせる。

 「なっ、何だ!」

 誰もいない宙に忙しなく視線を張り巡らせ、一歩後退る。

 「波瑠さんの願い、聞き入れました」

 いつの間にか俺を庇うようにして立ちはだかったルカは、狼狽する父さんに向かって何かを言い放った。俺の耳には届かなかったが、父さんには聞こえるようにしたのか。

 ぼんやりする意識の中で、恐怖の色を露わにする父の顔が頭にこびりついて離れなかった。

 気を失った父さんを指先だけで動かし、ソファに寝かしたルカは俺に尋ねる。

 「痛みますか?」

 支えられて体を起こす。その際に蹴られた箇所が悲鳴を上げた。

 「……いたい」

 「治しましょう。放っておくのは得策と思えませんし、これだと生活に支障をきたします」

 ルカが俺に向けて手を翳すと微かな光がその手に宿った。次第に体が楽になっていくのを感じながら、俺はお礼を口にする。

 「ありがとう。助けてくれて」

 ルカが何故か驚いたように目を見開いた。

 「い、いえ。願いでしたので……」

 気付けば部屋は元通りになっていた。浮遊する物も点滅していた電球も割れた食器棚のガラスも、父さんの吸っていた煙草も灰皿にある。まるで何事もなかったようだ。

 床に転がった二つに割れたキーホルダーが目に留まる。手を伸ばせば届く距離で、容易にそれを掴むことが出来た。

 「あーあ……壊れたじゃねえか」

 掌に乗せたキーホルダーを眺める。

 忘れそうになっていた。自分が自分を俺と言うようになった理由を。

 「まあ仕方ねえか。浮かれてた俺が悪いんだ。これから俺が浮かれそうになったら注意してくれよ、ルカ」

 立ち上がって兄と同じ名前を呼ぶ。

 何故『ルカ』と名付けたのか。別人だから良いなんて馬鹿なことを考えたものだ。本当は、流風を死なせてしまった罪悪感を忘れないようにするためなのに。

 「"要らなくなった物は捨てる"……それが間違いなわけないんだ」

 部屋の角にあるゴミ箱に歩み寄る。

 「波瑠さん? そのキーホルダーは貰ったものなのではないのですか」

 背後でルカが怪訝な声を出した。だが俺はお構いなしで、掌に乗る星型だったキーホルダーをゴミ箱に落とす。

こと……と小さな音が耳に入った。

 「今日はもう寝る。疲れたし」

 振り返って声をかけると、ルカが呆然とした様子で俺を見ていることに気付く。

 「どうした? いつもみたいに出かけていいぞ?」

 「……口調が戻ってるな、と思ったもので」

 それだけじゃないと思うが、言う気がないなら問い詰める必要もないだろう。

 「戻ってるも何も、俺は会った時からこうだったよ。別に変じゃねえだろ」

 「そう、ですか。貴女がそれを選ぶなら、私は何も言いません」

 理解はしてもらえたようだ。

 「では私はこれで。また明日、会いましょう」

 「ああ」

 俺が返事をした後、ルカは静かに姿を消した。

 物音一つしなくなったリビングから離れ、自室へ入る。カーテンが閉められていない小窓からは星明かりが差し込んで、電気を点けなくても目が見えた。

 ベッドに身を預け、天井を仰ぐ。次第に視界が滲んで前が見えなくなって、俺は涙が溢れないように右腕で目元を覆った。

 ——要らなくなった物は捨てる。

 そう教えられてきた。そうしないと殴られた。それがこの家のルールで、逆らうと罰がある。

 本当は手放したくなかったが、見つかれば殴られ、蹴られて、暴言を吐かれる。だから壊されたキーホルダーを捨てた。

 「…………」

 どうすれば良かったのだろう。他に方法が分からないんだ。

 俺はそんな方法しか知らないから、

 要らないと否定された自分ももう捨ててしまった。

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