匂蕃茉莉(ニオイバンマツリ)

 私がやっと書取りを終えて顔を上げると、鸚鵡おうむの発見者である画家が花の枝を持って立っていた。


 花の香りが、ふわっと私を包んだ。


 思いがけない彼の登場に、私は顔を輝かせた。

 彼は、鸚鵡を見つけた場所に咲いていた花を一枝手折って、私に持ってきてくれたのだ。

 でも、すぐに、私と画家の間に、彼の未来の妻である女家庭教師ガヴァネスが立ちはだかった。


 二人はすでに婚約中だった。でも、この時の私は、まだそれを知らなかった。

 知らなかったけれど、女家庭教師ガヴァネスの態度が画家には他の誰とも違っていたから、私は彼女が恋のライバルであることだけはわかっていた。


 そう、私は、画家に幼い恋をしていたのだ。 

 彼は、子どもの私から見れば、おとうさまと同じくらいの大人に見えた。

 でも、あの時の彼は、まだ若かった。

 まだ、とても若かったのだ。


 私は勝ち誇った気持ちで彼の持ってきた花の枝を、彼女にあてつけるように精一杯エレガントに受け取った。


 ジャスミンに似た香りの花は、不思議な花だった。

 一輪一輪の花の色が違い、一枝の中に白や薄紫や紫の花が色とりどりに咲き匂っていたのだ。


 女家庭教師ガヴァネスが私と画家の間に無遠慮に入ってきて、この花は匂蕃茉莉ニオイバンマツリといって、学名はBrunfelsia latifoliaというのだと知識をひけらかした。英語では、Yesterday-Today-and-Tomorrow。つまり、『昨日今日そして明日』だ。

 なぜ、そんな名前がついたのかというと、花の色が、日に日に紫から白へと変化するからだと、教科書を読むような、いつものツンとした冷たい口調で彼女は続けた。


 画家が彼女の後ろで私を見て、呆れたように眉を上げたから、私も同じように眉を上げた。

 女家庭教師ガヴァネスは振り返って画家をにらんだので、私は彼女の後頭部にあっかんべーをした。

 画家が笑いをこらえている。

 女家庭教師ガヴァネスは、キッと私に向き直った。

 私はあわてて、舌を引っ込めた。

 が、時すでに遅し。彼女は、あっかんべーを見逃さなかった。


「下品で身分に似つかわしくない態度」をとった罰として、彼女は書き取りを終えたばかりの私に、匂蕃茉莉ニオイバンマツリの学名Brunfelsia latifoliaを100回書くようにと命じた。


 画家は、彼女の後ろで、すまなそうな顔をした。

 私は、画家が私に花を持ってきたことで彼女が嫉妬していると思った。そう思うと、なんだか、また、誇らしくなった。

 だから、私は小さな女王のような威厳で背筋を伸ばし、Brunfelsia latifoliaの綴りを書いた。

 私が綴りを書いている間に、お付きの小間使いが花の枝を花瓶に入れて持ってきてくれた。

 

 その夜は夕食の後、花瓶を寝室に運ばせ、幼い私は花の香りの中で酔ったように眠った。

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