第3話
それから間もなくして、マンハッタンの金融機関が軒を連ねる街角を足早に歩む田崎の姿が見られるようになった。田崎の密かな希望を知ったヘッドハンターがウォールストリートに本社を持つある投資銀行への転職を斡旋したからだ。
それまでの実績を考慮したその銀行は田崎をパートナー並みに処遇することを条件に提示してきた。五十歳の田崎はこれで世界を股に活躍するバンカーたちと肩を並べたことになる。
田崎がウォールストリート特有の変化の激しい日々を送るようになってしばらくしたある日、元の職場のナンシーから電話があった。ニューヨーク事務所に引き続いて勤務していたロレインが、坂田の新職場とは道ひとつ隔てた別の投資銀行に採用されたことを知らせてきたのだ。
田崎は嬉しかった。ロレインの行間を読む鋭い感覚に賭けた田崎の狙いが見事に的中したからだ。
ロレインの机の上の受話器が鳴った。
「ロレイン?」
「そうです」と答えたロレインが、「ひょっとしてマサト?」
「そうだよ。君のことをナンシーから電話で知ったんだ。おめでとう」
「ありがとう。きょうが初出勤で、先ほどまでオリエンテーションを受けていたの。こちらから電話をしようとしていたところよ」
「今夜、時間がとれるかな? 夕食でもどう?」
「嬉しい。私の手料理では? 警部に昇進した姉は今夜は夜勤なの」
「それはありがとう。八時頃に君の自宅にうかがうよ。なにか買っていくものは?」
「ワインがあったらいいな」
「先週のニューヨーク・タイムズの日曜版にテキサス産のワインの記事が掲載されていた。品評会で授賞するほど優秀なピノ・ノワールがあるそうだ。それをお祝いに持参しよう」
玄関のドアーを開けたロレインはライトを背に立っていた。床までのロングドレスを透して、この部屋に泊まったあの夜に目を過ぎった、太腿の付け根から膝頭の曲線がくっきりと浮き上がっている。大きく開いた胸元からはふくらみの半分が露だ。職場では覆い隠されていた妖しげで艶やかな女がそこにいる。
田崎が持参したワインはテキサスの”ビッグベンド・ワイナリー”産のピノ・ノワールで、マンハッタンのレストランやバーでは話題の有機栽培のワインであった。
そのグラスをロレインに手渡しながら、「それでは、これからは商売敵になるが、お互いの健闘を祈念して乾杯!」
田崎に合わせてロレインもグラスをかかげる。
ロレインは田崎の好物であるオーブンで焼いた骨付きの羊肉を用意していた。田崎が持参したピノ・ノワールにぴったりだ。
十年前のマンハッタンやブルックリンは日中でも犯罪が横行し物騒だった。深夜にブルックリンをタクシーの運転手が敬遠したのも無理はない。しかしその後ニューヨークも落ち着きを取りもどして、ブルックリンでも夜でも独り歩きができるようになっていた。窓越しに前の歩道を散策する男女が見える。
食事を終えたふたりはソファーに移った。ロレインが田崎に寄りかかる。
「もうひとつ乾杯をする必要がある」と田崎はロレインの黒い瞳を見つめた。
「ロレイン、君と僕はもう部下とボスの関係ではない。ただの男と女だ」
ロレインが頷く。
「だから今まで胸に秘めていたことを告げることができる」
ひと呼吸置いた田崎が、「君を愛している。ずっと以前から愛してきたんだ。ブルックリンの女ではなく、ただの女のロレインを」
田崎を正面から見つめたロレインが、ワイングラスをテーブルに置くや両手で田崎の首に抱きついた。
唇が重なる。ロレインが待ち焦がれた一瞬がやってきたのだ。
「マサト、私がはじめてカイゼン賞を手にした時、私を見上げるあなたの目は、私をひとりの女として見てくれていたわね。涙が止まらなかった」
田崎はあの時の大粒の涙は社長表彰を受けた感激からとばかり思い込んでいた。田崎のロレインに対する密かな思いをこの女性はあの時にすでに感じ取っていたのか。
「マサト、白状することがあるの」
「なんだね?」
「あなたがここに泊まることになってしまったあの夜。覚えている?」
「覚えているよ。女性のベッドに寝たのは生まれてはじめてだったからね」
「初出勤の日以来、あなたは私に親切で優しかった。私は入社して間もなくあなたに恋してしまったの。でも日本人が黒人の女性に社員以上の好意を抱くのか分からなくて、いい出せなかった」
「僕も社内の反響が心配で、君に対する気持ちを打ち明けることができなかった」
「曇りガラスを透してシャワーを浴びるあなたを見て、ガラス戸を開けて飛び込みたかったのだけど、とっさに母から聞いたハイチの迷信を思い出してね。それを実行したのよ」
「迷信?」
「あなたが私を抱いてくれる日が必ずやってくる。そう信じて待ち続けてきたのよ。その言い伝えは間違いでなかったわ」
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