第2話

 一ヶ月ほど経ったある日、ロレインにホールから電話があった。

 「ロレインさん、M&Aはいよいよ大詰で来週にでも結論が出るでしょうが、きょうは別のことでお礼をと電話したんですよ」とホールがこの一ヶ月の出来事をロレインに告げた。

 ホールのDNAを分析したコロンビア大学の研究所によれば、ホールの先祖はアフリカ大陸の象牙海岸からの奴隷だったことが分かった。

 それを知ったホールの大学生の孫娘が、渡来した奴隷船を特定することに成功し、州のオフィスに出向いて過去の国勢調査の記録を繰った。

 「驚いたことに、私の何代か前と考えられる十九世紀はじめにチャールストンの郊外に住んでいたホールと名乗る男は、解放奴隷だったと国勢調査に記されていましてね。南北戦争中に出された奴隷解放宣言の半世紀以上も前に、私の祖先は自由人の黒人だったのですよ。それだけでなく、数人の奴隷を保有していたことも国勢調査の記録にありました。ロレインさん、あなたのおかげで我が家の秘密を知ることができました。奴隷主は白人ばかりだと思い込んでいましたが、よりによって私の先祖が黒人でありながら奴隷を保有していたんです。ものごとは鵜呑みにせず深く事実を探求しなければならない、という貴重な教訓です。これもあなたのおかげですよ」

 

 田崎が電動工具メーカーに転じてからおよそ十年になる。田崎はいくつかのM&Aに成功し、その功績によって日本本社の役員も兼任するようになった。

 その本社の経営方針に微妙な変化が出始めていた。数年前に若社長が引き抜いたある都市銀行の元部長が副社長に就任した。日本の土地バブルが破綻する前に投機で名を馳せたこの副社長は、社長の利益拡大路線に即効薬となる財テクを柱に据えることをしきりに進言するようになった。

 田崎がそれまでに手がけたM&Aは、グループ会社としてシナジー効果を期待したもので、短期間に売買することによって手にする差益を目的にするものではなかった。買収対象を製造業に絞っていたのもその目的があったからだ。必然的に買収先の企業がグループの収益増に貢献するまでに時間を要することになる。

 これでは資金効率が悪いというのが副社長の主張であった。就任するなり設けた投資対象のポートフォリオがその後に着実にキャピタルゲインを計上していた。先代の業績を凌駕することが当面の目標である二代目には、この副社長の進言は快い響きをともなっていた。

 財テクに注目したのはこの副社長だけではなかった。田崎が以前に勤めた商社でも、その半分近くの利益を財テクを扱う財務部門が稼ぎ出し、マスコミも一斉に財テクに走る企業を時代の寵児と持て囃していた。

 M&Aに対する資金が次第に副社長が率いる財テクグループに回されることになり、手がける案件が減る一方の米国では経営大学院卒の社員が他社に引き抜かれる例も出てきた。

 濡れ手に粟は、一転すれば制御が不可能な暗転を迎えることになる。財テクが生む利益が屋台骨をなす事業は、田崎には砂上の楼閣に思えてならなかった。

 田崎は役員として副社長と対立してでも自己の信念を通すか、そろそろ身を転じる節目に差しかかったのか、逡巡する日々を送ることになった。

 電動工具メーカーに転職に当って田崎が相談を持ちかけた辻は、その後合弁会社の社長を辞めて、公認会計士の資格を取ってケンタッキー州で会計事務所を経営していた。

 田崎は辻が終身雇用を投げ出してでも組織ではなく個人としてリスクを取ることも選択支だと告げたことを忘れることはなかった。電動工具メーカーではそれまで優遇されてきたが、組織が背後にあることでは商社時代と変わりがない。

 これまでM&Aを専門にしてきた田崎にとってのあらたな選択とは、ウォールストリートの投資銀行で米人のプロフェッショナルと肩を並べて競い合う競争社会に身を置くことではないのか?。


 ある日、田崎はロレインがチームリーダーを務めるM&A案件の社内会議に陪席した。田崎は案件ごとにその都度チームを編成し、そのリーダーには案件の内容に応じて最適の人材を当てていた。

 若い経営大学院卒の男女を前にテキパキと議事を進めるロレイン。入社以来およそ十年、三十歳半ばのロレインには初々しかった入社当時の面影に代わり、妖艶とも呼べる熟した女の雰囲気が漂っている。それは与えられた任務を遂行する自信に支えられたビジネスウーマンのそれでもあった。

 それまでの田崎は、ロレインが肌の色が異なるためだけで不当な扱いを受けることを避けようと、他の社員に対する以上の便宜を図ってきた。

 それには世間で呼ばれるセクハラの一歩手前の場面もあった。セクハラには異性に対する性的行為や発言だけでなく、周囲に差別感や嫉妬を生む、特定の異性の部下に対する上司の行為も含まれる。

 ロレインに対する田崎の言動がそのような疑いを生むと、それは上司である田崎への非難だけでなく、ロレインにも矛先が向けられ、彼女の言動の一部始終が周囲の批判の対象にされることになる。そのような事態にいたれば黒人であるだけに社に留まることができなくなる。

 田崎はロレインに対するなにかあらたな措置を取る際には、必ずそれに先立って社長秘書のナンシーの耳に入れることを心がけてきた。ナンシーが田崎の意図を社内に伝える拡声器の役割をはたすことを知っていたからだ。


 会議が終わって皆が退席し、田崎とロレインだけになった。

 「ロレイン、君のチームの経営大学院卒業生たちはどうかね?」

 「皆、アイビーリーグの大学院を出ただけあって優秀だわ。買収対象の企業が、グローバル経済の下で有望か否かのような大所高所の判断はさすがね。知識が豊富でMBAだけあるわ。でも」

 「なにか気がかりなことでも?」

 「マサトも承知の通り、私のチームの対象企業は中小の製造業だけど、機械化が進んだ製造現場でも、規模が小さいだけに最後は人の判断や思惑が働く泥臭い世界だわよね。教科書やケース・スタディーが説くような理論でスッキリ割り切れないことが多い。だから行間を読むことが必要だけど、その面では大学からそのまま大学院に進学した社員より、社会人の経験を積んだメンバーの方が力になるわ」

 「よく見ているね。それは他のチームでも指摘されていることだよ。あらたに社員を採用する時には考慮すべきだね」

 「ところで、マサト。行間を読む、だけど、日本の親会社の連結決算書を見たわ。有価証券の保有量が急激に増えているわね。それだけでなく、小さな活字で見逃してしまうけど、末尾の注記のフット・ノートには、高リスクのジャンクボンドが大半を占めているとあったわ。高利回りを狙って高リスクに投資する。これでは親会社は本業から離れたリスクを抱えることになるわね」

 「その通りだ。先日の日本での役員会で指摘したけど、今の日本は財テクでなければ褒められた経営でない、という風潮で役員たちは聞く耳を持たない。困ったものだ」

 ロレインは田崎の口調から、ひょっとして田崎は転身を考えているのではないかと直感した。改革を狙っているのなら、もう少し決意に満ちた発言をするのがロレインが知る田崎だからだ。

 もし田崎がそのような選択をするなら、自分も後を追うつもりになった。つい先日、ウォールストリートのある投資銀行からM&Aの一部門がマネジャーを探しているからどうか、と勧誘を受けていたのだ。


 ロレインの鋭い指摘を聞きながら田崎は別のことを考えていた。

 会議を取り仕切るロレインを目の前にして、田崎は黒人を庇護する以上の感情を以前からロレインに対して抱いている自分を見つめていた。テーブルの向こうに座っている女を愛おしく思う自身。それは否定しようのない事実であった。

 田崎はこれまでに女性と関係を持つことがなかったわけではない。今でも友人と呼ぶ女性は存在する。しかし一生を共にしては、という気持ちを抱いたのは目の前に座る女性がはじめてである。

 ロレインの自宅に泊まったあの夜に、入れ違いにシャワールームに滑り込んだふくよかな、そして、しなるような女体。垣間見たあの女体が目の前のビジネススーツの下に隠されている。女に対する思慕が募る。

 しかし、それを女に告げることはできない。越えてはならない、セクハラへの一線が横たわっているからだ。上司と部下の関係を維持する限り、この一線は女のためにも越えることはできない。


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