続 ブルックリンの女
ジム・ツカゴシ
第1話
それから数年になる。品質管理の国際統一基準であるISOの認証が取引を伸ばす条件になり、その取得のために社内にチームが設けられた。そのチームのリーダーにはカイゼン活動で実績を積んだロレインが任命された。
チームは最短期間で認証を受けることに成功し、ロレインは再び社長表彰を受けることになった。壇上に並ぶチームの構成員だった十名ほどの社員を代表してロレインが社長から盾を受取る。
初回の時には、会場から驚きのどよめきが沸き起こったものだ。その同じ会場で社員たちがロレインに注ぐ視線は、もはや黒人に対するものは姿を消し、優秀な同僚に対するそれに代わっていた。
田崎はそれまでのロレインの働きぶりから、ニューヨーク事務所に勤務のままM&Aチームの一員に加えることにした。入社以来のおよそ五年間の実績からも当然の人事と思われたからだ。
「ロレイン、マサトだ」
「アラ、ボスが直接電話、なにごと?」
「君のこれまでの働きぶりから、君にM&Aのチームに参加してもらうことになった。それを伝えようと思ってね」
「ワー、M&Aチームは経営大学院の卒業生が大半を占めるエリート集団といわれているわ。夜間の大学卒でしかない私に務まるかしら」
「これまでと同じように振る舞っていれば十分務まる。自信を持って!」
ロレインはそっと涙を拭った。田崎の好意に報いなければ。
「ロレイン、それでは早速だが初仕事をして欲しい。サウスカロライナ州の港町チャールストンの郊外に小型モーターを製造する会社がある。買収の対象に選んで先方とコンタクトしたところ、交渉に応じるという回答があった。そこでとりあえず財務内容の概要を調べて欲しいんだ。先方にはM&Aチームからメンバーを送るとすでに伝えてある。資産の大半を占める売掛金と在庫のふたつを先ず調べ、大きな問題点が見当たらなければ次のステップに移ることになる」
「いつまでに結果を連絡すればよいの?」
「きょうは金曜日だ。来週の金曜日までに第一報を連絡して欲しい」
「承知したわ。日曜日にチャールストンに入るから、月曜日の朝一番から作業をするように先方に連絡してちょうだい」
大西洋に面したサウスカロライナ州のチャールストンは植民地時代から栄えた港町で、十九世紀には南部のプランテーションが産出する綿花や米などの農産物の東海岸では最大の積出港であった。そして、アフリカからの奴隷船が多くの奴隷を降ろした港でもあった。そのため奴隷が持ち込んだアフリカの文化や信仰の影響を受けた異国情緒に、プランテーション主の豪勢な屋敷が加わる特異な街となっている。
テンポの速いダンスである“チャールストン”はここで生まれ、ニューヨークで大流行して全米各地に広まった。チャールストンはハリウッド映画にも南部を象徴する街として頻繁に利用されてきた。南北戦争はこの港の沖にあった連邦軍の砦を州軍の大砲が襲撃したことで勃発した。
ロレインの訪問先はチャールストンから内陸に入った郊外にあった。ある多国籍企業の一部門で小型の汎用モーターを製造している。一部の製品は米国の電動工具メーカーにも納入されていた。
受付で訪問目的を告げると応接室に通された。やがてこの工場の責任者であるゼネラル・マネジャーがドアをノックして部屋に入ってきた。黒人であった。
そのゼネラル・マネジャーはロレインが白人でないことに驚いたようで、「私はここの責任者のウェンデル・ホールです。ロレインさんですね?」と告げるとロレインの顔をまじまじと見つめる。
「ロレインさん。初対面でたいへん無礼なことですが、てっきり白人の女性と思い込んでいましてね。少々、驚きました」
「受付の女性の方も同じように驚いたようでしたわ」
「日本企業は白人ばかりを採用するとこれまで聞いていました。社内で居心地が悪いことはありませんか?」
「幸い、素晴らしいボスに恵まれまして、楽しい毎日ですわ」
「それはよかった。人種を差別しない企業であれば、今回のM&Aのお話を進め易くなります」
ホールが危惧していたのは、仮に日本企業の傘下に入れば自分だけでなく社内に多い黒人社員が整理されるのではないか、ということだったのだ。
すっかり打ち解けたゼネラル・マネジャーの手配でロレインの作業はスムーズに進んだ。
売掛金に含まれる不安や不良債権の割合はロレインの社よりも低い程度と考えられた。在庫はメーカーであるために完成品にいたらない仕掛品や素材の在庫があり、その量がかなりの額に達していた。この分野は本格的なデューデリジェンスの際により精度の高い分析が必要だ。
完成品の在庫に含まれる不良品や販売に適さない旧型の量は特に留意する必要があるとは考えられなかったが、完成品の年間在庫回転率が一回で、一年間の販売に相当する在庫を抱えている。これは買収後に改善する必要がある。
木曜日の昼前には出張目的を達することができた。
ゼネラル・マネジャーのホールが近くのレストランで昼食を接待してくれた。
「ロレインさん、あなたのお住まいは?」
「ブルックリンです」
「マンハッタンの対岸ですね」
「そうです。ブルックリンで生まれて育ちました」
「祖先がどこから渡来したかご存知ですか?」
「亡くなった母から、祖母がハイチからの移住者と聞いていましたが、その先は母も知らなかったようです。ところが、最近は便利な方法が編み出されて、DNAを利用して先祖を特定する技法があるんですよ」
「それでロレインさんの祖先も明らかになりましたか?」
「ええ、ハイチにはアフリカ大陸ではなく、大陸の東側にあるマダガスカル島からだったことが分かりました。ついでに面白いことも分かりましたのよ。私にはアジア人の血が流れています。それはインド洋の潮流によってマダガスカル島にはアジア人が流されてきて、それでアジア人との混血が生まれたからなんです。びっくりしました」
「私の家系もはっきりしません。このチャールストンに長く住む家族だったのは確かなのですが。一度そのDNAなる方法を試みてみたいですね」
「大学も研究のために多くの事例を必要としているようです。ニューヨークに帰りましたら大学からコンタクトさせます」
「それは楽しみです。この数日のあなたの仕事ぶりを拝見していましたが、成果はありましたか?」
「現場のみなさまに親切に協力していただきましたので、予定よりも一日早く帰社できます」
「お若いのに重要な任務を独りで遂行するあなたに皆が感銘を受けたからですよ。最後になにか疑問点があればお答えしますよ」
「ホールさん、私どもの買収の引き合いに応じられたのはどのような事情からですか?」
「ロレインさん、ご承知の通り、この工場の親会社は多国籍企業です。インターネットが導入され、親会社は情報通信部門に経営資源を重点的に投入する戦略のようです。この工場は小型の汎用モーターでは業界でもトップクラスですが、将来の成長は限られていると判断したようですね」
「ホールさんは将来をどのように考えて居られるのですか?」
「小型モーターはこれから自動車に搭載される例が期待できます。車載モーターは今はワイパー用などに限られていますが、手で上げ下ろしをしている窓も、近い将来にはパワー・ウィンドーと呼ばれてボタンを押すだけで操作ができるように、いずれ自動車には多数の小型モーターが積載されます。行き着く先は電動自動車と考えられます。ただ、あらたなモーターの開発には追加の投資が必要で、親会社に毎年申請していますが退けられています。あなたの会社がそれらに投資をするお考えならば、将来は明るいと信じています。私もこの工場に四十年間お世話になりました。最後のご奉公にこの案件を成功させたいと考えているのですよ。そうなればあなたとは同僚になりますね。ところで、チャールストンの街を楽しむことができましたか?」
「美しい港に面したホテルでしたので夕食後に近辺を歩き、幽霊屋敷や怪しげな手相見を訪れたりしました。文化会館では、相手を模した藁人形に釘を打ち込んで恨み殺す呪いなど、アフリカから渡来した習慣が紹介されていました。亡くなった母から聞いたハイチの迷信とそっくりの解説もありましたわ。やはりアフリカから伝来したのですね」
「それは?」
「恋する男に肌を露にすると、瞬時にその男性の意識に刻まれて、後に恋が実るというものです。秘訣は、肌の露出が瞬く間でなければならないことですの。カメラのシャッターの要領ですね。長く露出すると光が入り込んで意識がぼやけてしまうからだそうです。カメラもなかった昔にどううしてそれが分かったのでしょうか。不思議な言い伝えですのよ」
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