第九話 生死の狭間
* * *
ギュムベルトたち三人と一匹がサランドロ邸から帰宅した翌々日の夜――。
「本当に良かった……」
『パレス・セイレーネス』の一室で、劇団制作のニィハが安堵の声を漏らした。
イーリスが人狼に襲われ危うく失血死するところを、リーンエレが開いた『エルフの通り道』をギュムベルトが背負って通過した。
マナの潤沢な裏道を通ることで命をつなぎ留めつつ、延々と続く距離を若さに任せたむちゃを通して全力で走り続けた。
道中、心不全を起こして何度も気絶、いや、死んでもおかしくないくらいに少年は必死だった。
劇団の借家にたどり着くと、もつれた足でドアを蹴破り室内にダイブ、イーリスをかばって顔面から着地、そのまま冥府に旅立ちかけて団員たちを驚かせた。
イーリスは丸二日ものあいだ生死の境をさまよい、一命を取り留めることができたのは奇跡としか言いようがない。
「おれが看てますんで、ニィハさんは休んでください」
ニィハは祈るようにして、ベッドに寝かされたイーリスの手を握っている。
「ありがとうございます。でも、この人が目覚めるまではここにいたいのです」
ギュムの気遣いを彼女はやんわりと断った。
ニィハは治癒術師だ、イーリスの外傷はその魔術によって完治した。
しかし容体は悪くなる一方、獣人の爪に仕込まれていた毒によるものではないかと考えられた。
肉体の損傷を補完するのと毒を取り除くのとでは魔術が異なる。
特に解毒をするには種類の特定から始まり、対応した専門の魔術が必要になるなど難しい。
劇団は一時、パニック状態に陥ったが、マダム・セイレーンの人脈を頼ることで該当する解毒薬の調合書を入手することができた。
難解な書物を読み解くと劇団員たちは材料集めに奔走。どれも容易に入手することはできなかったが、総力を尽くしさきほどすべての治療を完了することができた。
その際にも一悶着あったのだが、それはまた別の話だ。
とにもかくにも、ニィハの広い知識がなかったら間に合っていなかったに違いない。
「――どうぞ、ギュムベルトさんこそお休みになってください。あなたが頑張ってくださったおかげでこの人を死なせずにすみました」
ニィハは心底から感謝の意をギュムに伝えた。
「お二人には返しきれないほどの恩があると思っているので、おれは先生とニィハさんのためならなんだってします」
ギュムもほとんど眠っていないが、ニィハにいたっては治癒魔術を酷使した上に二日間一睡もすることなくイーリスに張り付いている。
誰もがこの劇団の心臓部はイーリスであると思っているが、裏方のニィハこそが劇団の生命線であるとギュムは感じていた。
イーリスは喧嘩が強く演劇まで作ってしまう。一見して万能のように感じられるが、裏を返せばそれしかできない。
朝は起きられず夜は寝付けず、着替えも一人でまともにできなければ、その日の予定も覚えていない。
通い慣れた道で迷い、なにもないところで転び、馬鹿みたいにはしゃぎ、子供みたいな言い訳をする。
そんな彼女をニィハは起こし、寝かしつけ、着替えさせ、目的の場所へと誘導し、するべきことを指示する。
それこそ飼い犬を溺愛する飼い主のように、かいがいしく世話を焼くのだ。
「――ニィハさんはどうしてそこまでできるんですか?」
もはや同僚とか仲間などでは説明がつかない程度だが、過去については彼女たちが所々を濁してきたので、なんとなく追求できずにいた。
「わたくしたちは天涯孤独の身で、お互いが唯一の家族みたいなものなのです」
つまりは疑似家族ということらしいが、ギュムにはあまりピンとこない。
ひとくちに『家族』と言っても関係性は人それぞれ、良いものとも悪いものとも言いきれない。
親がいないことで人生の選択肢に差を感じるたび、それをねたむことがギュムにもあった。
それでも娘の前で自害した母親をもつユンナを思い返せば、足を引っ張られなかったぶん自分はマシな方なのだと納得できた。
「母娘や姉妹だって二人ほど仲良くはないですよ」
それゆえ、二人の絆を表現するのに『家族』という言葉では不十分に感じられた。
ニィハはしみじみとかみ締めるように言う。
「いろいろあったのです」
孤児ゆえに家族のありがたみがわからず、娼館で育ったがゆえに愛だの恋だのという言葉を薄ら寒く感じてしまう。
そんな人間が、どうすれば舞台上にそれを持ち込むことができるのか――。
ギュムはイーリスからのダメ出しを反芻した。
「それを、聞かせてもらうことはできますか?」
厚かましいかとも思った。けれど、自分にないものは人から学ぶしかない。
ギュムは弱点を克服する手掛かりにすべく思い人の過去を追求した。
――いや、果たしてそうだろうか……。
もしかすると自分は幼なじみの言った戯言を真に受けて、彼女の過去に『亡国の女王の影』を探そうとしているのではないだろうか。
あるいは、単に好意を寄せている女性との時間を堪能しようとしているだけなのかもしれない。
どちらにしても、それで良かった。
恋をする人間がなにを感じどんな行動に出るのか、抑え込んでしまってはもったいない。
知らない感情を呼び起こす機会になるなら、それを演劇に役立たせることができるのならば、逃す手はないと少年は考えた。
「いっとき、自らの死について考えていたことがあって……」
ニィハが語りだした。話してくれる気になったのだと、ギュムは姿勢を正す。
「わかります、若い頃にありがちなやつですね?」
「ちが、違います、自己愛性パーソナリティ障害の類ではありません。 以前にマナの循環不全を患って余命宣告を受けたことがあったのです!」
恥ずかしい誤解をとこうと、ニィハは必死になって否定した。
「マナ、じゅんかんふぜん……?」
『マナ』という概念は『戯曲・闇の三姉妹』に登場したので知っている、生物が大気から吸収する生命エネルギーの一種。
すべての生物がマナによる恩恵を受けているが、魔術を学んでいない者にとってはなじみのない知識だ。
マナの枯渇は生命の死滅を意味する――。
場合によってニィハは出会うまえに命を落としていたかもしれない、もしそうなっていたらギュムも役者側として演劇と関わることはなかっただろう。
いまは全快しているが、彼女の独特な髪の色はその後遺症によるものなのだと補足された。
ニィハの過去語りは続く。
「健康なときにはよく、いつ死んでもいい。なんて口にしていたくせに、いざ死ぬと知らされたら途端に怖くなって、一晩中、泣きました」
ギュムはひとこと一言にうなづいて耳を傾けた。
「――けれど数日もすると覚悟が決まったのか、それとも考えることに疲れてしまったのか、死ぬことにも納得ができたのです。
世の中にはもっと若くして亡くなった方たちが大勢いる。メソメソしていたら情けない、格好悪い、良いことだってたくさんあった人生だと」
――ニィハさんは奇麗だ。
話を聞きながらギュムはそれを再確認していた。
透き通った声、美しくも豊かで愛嬌にあふれた表情、身振り手ぶりの愛おしさ、なにより振る舞いが清廉だ。
それを眺めて居られるのなら、幾時間だろうと心地よく話を聞いていられる。
他の女性といるとき、いつも一方的に演劇論をまくし立てるだけのギュムがこうして大人しく聞き役に徹している。
彼女がいかに特別な相手であるかがそれだけで伺えるというものだ。
――いまの感情を覚えておこう。
恋をしている人間の姿勢やしぐさがいったいどうなっているのか、自分で確認する。
『闇の三姉妹』でラドルがリーンと接している場面に生かせるかもしれない。
「それで、どうなったんですか?」
ギュムは話の続きを促した。
「運命に逆らうことなく潔く、どうやって人生に幕を下ろそうかと考えながら身の回りの整理をはじめました。
そうなってやっと周りのことを考える余裕が生まれて、ふと身寄りのないイーリスのことが頭に浮かんだのです」
口にしただけで彼女の涙腺がゆるむ。
「――わたくしが死んだら、この人が一人ぼっちになってしまう」
――その体験もおれには足りない。
死について、少年は深く考えたことがない。
近しい人物が亡くなることはあれど、そのつど可哀想にと悼むことで完結させてきた。
いつかは自分も死ぬ、そんな当然のことに現実味を覚えたことすらない。
対照的にニィハとって死は切実なものだった。
「わたくしが死んだあと、この人がどのようにして過ごすのかと、くりかえし想像してみました。けれど、なにも思いつかないのです」
イーリスのことをよく知っているからこそ、自分のいない世界で笑っている姿が想像できなかった。
想像のなかのイーリスはただポツリと立っていて、ときおりしゃがみこむと膝を抱えて泣いてしまう。
手を差し伸べなくてはと願っても、それはかなわない。
「――自分が死んでしまうことより、この人を孤独にしてしまうことの方がずっと悲しくて、幾日と泣き続けても慣れることがなかったのです」
自らの死にはいつか諦めも着く。けれど、大切な人を残していくことへの未練だけは拭えない。
――そんな経験も、おれには足りてない。
言語化することはできても実感するにはいたらない。
もし、自分の演じる役がおなじ境遇だとしたら、想像で補うことで妥協点を探すしかない。
それっぽくごまかすことはできても、本当のところは実際にそうなってみないとわからない。
だからといって『物語』みたいな体験を誰しもができるわけもなく、そこは想像で演じるしかない。
だから観客にそう見えさえすれば正解ってことにして構わない、時間は有限で本番は待ってくれないのだ。
笑ったら機嫌が良いんだな、泣いたら悲しいんだな、それで十分に意図は伝わる。
けれど、イーリスは『泣こうとするな、人は泣くときはむしろ堪えようとするんだよ』と言った。
泣けば、喚けば、その必死さに人は感動する。けれど、堪えたところに生じる一瞬のゆらぎに奇跡を求めた。
ギュムはそのことに心を打たれたのだ。
言ってしまえば非効率だ。けれど、そこに命を燃やすことを無駄ではないと信じたかった。
それが例え疑似だとしても、何度も何度も稽古をして本当の感情に近づけていく努力をしたい。
――恋が敵わなくてもいい、人生をまっとうできなくてもかまわない、ただ完璧な役者になりたい。
「病気が治って良かったですね」
ギュムはニィハの『マナ循環不全』の回復を祝った。素直にそう思えたし、おかげでいまの自分がある。
「戦ったのです、この人と二人で」
だとしたら、二人の間には絆に足るだけの物語があったに違いない。
惜しむらくは、生死をかけたその戦場に自分が居合わせなかったことだ。
もしその場にいられたなら、ギュムはきっとイーリスに負けないくらいに全力を尽くしたに違いない。
――そうすれば、自分もこの人の特別になれていたのだろうか。
いまからスタートを切ったとしても、これまでに開いた差を埋められるとは到底思えない。
「あらためて、自分の生い立ちが恨めしいや……」
ギュムはそう言ってこの話を締めくくった。
その意味をニィハは理解できていない。けれど、素直にいまの彼に対する印象を口にする。
「最近のギュムベルトさんはとても充実しているように見えますよ?」
出会えたこと自体は幸運、それは確かだ。
ただ、もっと早くに出会っていたかった。誰よりも思い出話に花を咲かせられる相手でいたかった。
それはもう、決して叶えることのできない願いだ。
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