大賢者の叡智

湯野正

大賢者の叡智

 北の海に浮かぶ孤島にひっそりと建つ塔があった。

 そこは、大賢者の塔。

 大陸中の民から大賢者と呼ばれ慕われている老人が住んでいる塔だ。

 朝、小鳥の鳴く声で大賢者は目覚めた。

 穏やかな朝だ。

 こんな朝が続いて欲しいと大賢者は心から願っていた。叶わぬことと知りながら。


 大賢者が朝ごはんを食べ終えた頃、こんこんと扉を叩く音がした。

 大賢者は小さくため息をついた。

 始まるのだ。

 お便りの時間が。


「おはようございます、こちらが今日の分のお便りです」

「今日も、多いね」

「2497通、平均くらいかと」

「そうだね、平均が多いからね」

 そう言って大賢者の机に大量の紙の束を置いたのは、いかにも出来る女といった感じの女性だった。

 彼女は近隣の王国から毎日民の書いた手紙を届けに来ている。

「これ、もうちょっと減らせないかな?」

「どんな民の疑問にも貴賎はない、全て答える。と仰ってこれを始めたのは大賢者様だったかと。ボケましたか?」

「いや、ボケてないし貴賎はないのも本当だけど、ワシの処理能力にも限界があるからさ。なんとかふるいにかけられない?」

「無理です。大賢者様がふるいにかけるならまだしも、我々が選別してしまうと支持率が下がりますから。それとこの話は毎日していると記憶していますが、ボケましたか?」

「いや、ボケてないけど、毎日多いからねぇ」

「ではさっさとやりましょう。大賢者様が素晴らしい場所に塔を建てていただいたお陰で、昼過ぎには終わらないと定時に家に帰れないので」

 大賢者の塔は通勤に不便だった。

「ごめん、本当」

「ではいきます」

 出来る女は紙を一枚手に取った。

「『ドラウンボアに畑を荒らされて困っています。大賢者の叡智をお貸しください』とのことです」

「こういうのだよ!」

 大賢者は年甲斐もなく手を打って喜んだ。

 大賢者はこういうのを求めて手紙を受け付け始めたのだ。

「よかったですね」

「素っ気ないね」

「あと2496通ありますから、早く返事を」

 大賢者はドラウンボアが苦手な匂いのする草のことやいくつかの罠の製法、仕掛け方を語り、出来る女が文字に起こし書いた。

 大賢者の手首はすでにボロボロだったからだ。

「では、次です。『パナマジ社製の魔導ランプのボタン魔池は2A規格となっていますが、家には3B規格しかありません。やはり2A規格を買うべきでしょうか?大賢者の叡智をお貸しください』だそうです」

「そんなの魔導ショップ店員に聞いてよ!」

「では魔導ショップ店員に聞け、と?」

 大賢者は渋々2A規格のボタン魔池を買うようにと答えた。

「やっぱりふるいにかけたい」

「次です」

「無視!?」

「『先日新しい家族が生まれました。夜空のように艶やかな黒い髪と、吸い込まれるようなまんまるの瞳が特徴の女の子です。どうか大賢者様にお名前を授けていただけないでしょうか』とのことです」

「ボタン魔池の次に命名って落差が激しいよ。まだボタン魔池ショックが抜けてないよ」

「じゃあボタン魔池でいいですか?」

「ダメだよ!」

 大賢者は少し考え、別の大陸で夜の女神の異名を持つ黒い花の名を与えた。

「いい名前をもらいましたね、ボタン魔池」

「その子の名前はボタン魔池じゃないから!」

「いきます」

「君からふったのに無視!?」

「『3Mの魔抵抗に可変魔源を直列に繋いだ時、魔力と魔放出の変化を表すグラフを作成しなさい。大賢者の叡智をお貸しください』」

「どっかの課題だよね!?」

「この手紙、方眼用紙がついてますね」

「ワシに書けと!?」

「私、自慢ではありませんが魔力学は卒業と同時に忘れました」

「本当に自慢じゃないね…」

 大賢者は痛む手首に鞭打ってグラフを作成した。そして余白に次からは自分で課題をやるようにと付け足した。

「グラフよれよれですね」

「もうワシ歳だし」

「『王×騎士団長と王×宰相、次の夏ギミの新刊はどちらがいいでしょうか?大賢者の叡智をお貸しください』って、これどういう意味でしょうか?」

「執事長×王」

 大賢者は王受け派だった。

 こうしてこの日も殆どまともではない疑問に昼過ぎまで答え続けた。


 あれから一週間が経った。


「はぁ…」

 大賢者は朝のコーヒーを飲みながらため息をついた。

 最近はもう、どうやめようかしか考えていない。

 そろそろ扉が叩かれ、また始まってしまう。

「どうも、今日は3011通です。ベスト記録ですね」

「ノックくらいしてよ…」

 お便りの時間が。


「それではいきます。『先日大賢者様の叡智をお貸りした村の者です。大賢者様のお陰でドラウンボアによる畑の被害がなくなり、助かりました。本当にありがとうございました』とのことです」

 大賢者の頬に何か温かいものが伝った。

 続けていてよかった、これからももう少し頑張ろう。素直にそう思えた。

「突然泣いて、ボケましたか?」

「感動に水を差さないでよ…」

「今日はベスト記録なんですよ、3010通残ってるんですよ。さっさといかないと」

「うん、頑張るよ」

 大賢者はお便りの時間を始めたばかりのように気合を入れて耳を傾けた。

「では、『どうしても2A規格じゃないとダメでしょうか?大きさは同じくらいですし近くのスーパーには2Aは売っていません。大賢者の叡智をお貸しください』」

「ボタン魔池!?」

「ボタン魔池ですね」

 大賢者の心は折れかけた。

 落差が酷かったのだ。

「早く、さあ早く答えを大賢者様」

「うん…うん…」

 大賢者は絞り出すように規格以外の魔池を使う危険性、事故の実例を語った。

 出来る女はポケットから魔導ライトを取り出し、ボタン魔池を抜いた。

「規格以外の使ってたの?」

「次いきます」

「ねえ?」

「3009」

「うんごめん」

「『先日大賢者様の叡智をお貸りしたものです』」

「おお?」

「『グラフがよれよれで再提出をくらいました。もう一度今度はきちんとお願いします』だそうです」

「お前かよ!期待して損したよ!」

「はい、方眼紙です」

「もうやだ」

 大賢者は痛む手首に鞭打って丁寧にグラフを作成した。老人の怪我は治りづらいのだ。

「もう辞めたい…」

「再々提出にならないといいですね」

「本当にね」

 大賢者はかなり落ち込んでいた。

「落ち込んでいないで早く次いきましょうよ」

「ちょっと休ませてよ…」

「はぁ…っと、次のは大賢者様が好きそうなやつですよほらほら」

「…何?」

「ほら、あの、別の大陸の黒いあの、女神の名前のーあぁボタン魔池ちゃんです」

「ボタン魔池ちゃんじゃないよね!?それと女神の名前がボタン魔池みたいになっちゃってたよ!?」

「はいはい、でも聞きたいでしょう?」

「…うん」

「コホン『先日大賢者様にお名前をいただいたものです。大賢者様にステキな名前を授けていただいたお陰か、元気に育っております。本当にありがとうございました』っと、ああ写し絵がついてますね。ご覧になりますか?」

「それは、勿論」

 大賢者はにこやかに写し絵を受け取った。

 そこには元気に遊ぶドラウンボアが写っていた。

「ドラウンボア!」

「小さいとかわいいですね」

「かわいいけど、かわいいけど…!」

「赤ちゃんはお嫌いですか?」

「赤ちゃんは嫌いじゃないけど…!」

 大賢者はしばらく立ち直れなかった。

 出来る女はコーヒーを勝手に淹れて飲んだ。

「次、いこう」

 大賢者は立ち直った。

 まだ、ドラウンボアの件のように本当に悩んでいるものが待っているかもしれないのだ。命名の方のドラウンボアではない。

「お、いけますかじじ、大賢者様」

「じじいって言おうとした!?」

「いきます」

「はぁ…」

「『王受けは解釈違いです』?なんのことでしょう?」

「ああああぁぁぁぁああ!!!!」

 大賢者は一週間寝込んだ。




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