第5話『私のための場所』




「おじさん、私、東京帰る」

「え……?」


 いつもと同じ時間に起きて、掃き掃除をして。

 本堂のお掃除を済ませ、朝の勤行を終えたところでそう呟いた私を、おじさんは無言で見下ろした。


 ぱちぱち、切れ長の瞼に綺麗に並んだまつげが揺れる。


「どうした、急に……」

「昨日、スマホの電源入れたら、会社からたくさん連絡入ってて。辞めるにしても、書類は出せって」


 スマホの電源を入れたことも、会社から連絡があったことも嘘だった。

 いつだったか、おじさんが話してくれた仏様の教えに『嘘をついてはいけない』ってあった気がしたけれど、どうすることも出来ない。


 本堂の、仏様の目の前で、私は嘘を並べ立てる。


「とりあえず、一回帰る」

「……そうか」

「いろいろ、やらなきゃいけないことあるから」


 これも嘘だった。結局、一晩眠らずに考えたのに、私には先の自分が見えなかった。ここを出て、あの街に帰ったあとの自分がまるで想像できない。

 宙ぶらりんのままの未来は足元が覚束なくて、怖い。


 でもそれを言ってしまったら、またおじさんは私のせいで苦しむことになってしまう。それだけはイヤだった。


「ごめんね、いろいろ迷惑かけて」

「だから、他人行儀かって」

「……うん。ありがとう」


 ご飯食べたら駅まで送ってくれる?

 そう尋ねた私におじさんは「おう」って笑った。ああ、こんなことならもっと早くこうしていればよかったと、そう思ってしまうような笑顔だった。


 庫裏くりのダイニングで、向かい合って朝ごはんを食べる。

 なんでだろう、おじさんもなんだか口数が少なくて、食器とお箸の音だけが部屋に響く。あたたかいご飯はやっぱりおいしかった。


 荷造り出来たら声かけろって、作務衣さむえから普段着に着替えたおじさんはそう言ったけれど、荷造りなんて大それたものは必要なかった。

 ここに来るときに持ってきた小さなバッグに財布とスマホを突っ込んで、こっちに来て買ったいくつかの日用品をエコバッグに詰め込む。


 小さなカバンがふたつだけ。私の幸せだった時間は、それだけでまとめてしまえるのだ。それが少しだけ寂しくて、それ以上に嬉しかった。

 これだけ持って、この身軽な状態で、私はどこへだって行ける。


「おじさん、準備出来た」

「おう」


 何度か乗せてもらった、おじさんの車。真っ白なそれの助手席に乗り込んでシートベルトを締めれば、ゆっくりと車は動き出す。

 村の中の細い道を抜けて、一面の田んぼが広がる道を車は進む。ラジオも音楽も流さない車内にはエンジンの音だけが響いている。


 私もおじさんも、何も話さなかった。


 窓の外の景色が田んぼから住宅街になって、工場地帯になって。ちらほらとお店が並び始めた頃、やっとおじさんは口を開く。


「昨日来てた宗純そうじゅんってやつは、ここらに住んでる」

「……昨日、何話したの?」


 そう、言い切ってから聞かなければよかったと後悔した。そして、自分はなんて性格が悪いのだろうか、とも。


「べつに。大したこと話してないな」

「……そう」

「酒飲んでただけだったな、ほとんど」


 うそでしょ、この坊主嘘ついた。


 今すぐ振り返って、運転席の男を「嘘つき」と罵ってやりたかった。

 でもそんな資格、私にはないのである。


「……生臭坊主なまぐさぼうず

「すいません」


 へら、と笑う男になぜだか泣きたくなる。

 最後まで、この男は私に本当のことを話してくれる気はないのだろう。


 ちらほらと並んでいたお店が商店街になって、小さなスーパーや商業施設が見え始めて。そうして、駅のロータリーに到着した車はゆっくりと停車した。


「ちとせ」

「はい」


 一日にそう多く運行していないこの町の電車。次が来るまでの数十分が、永遠みたいに長く感じる。

 昨日までの私なら、それを幸せだと思えたろうに。今の私にとっては苦行だ。


「おまえ、大丈夫なんだな?」

「おかげさまで」

「向こう着いたら連絡しろよ」

「わかった」

「部屋引き払うなら、週末手伝いに行ってやるから」

「え……?」


 部屋を引き払う……。ああ、そうか、仕事辞めるって言ったんだっけ、私。

 思わず顔を上げた先、茶色の瞳と視線がぶつかる。少し切れ長の、すべてを見透かそうとする瞳。


 あれ、朝から一度だって目が合ったっけ?


 そう気付いた瞬間、反射的に、目の前のそれから目を逸らしていた。やばい、と喉が締まり冷や汗が噴き出すのを感じたが、今更だった。


「ちとせ……?」

「うん、週末ね、ありがとう。考えとく」

「ちとせ、ちょっとこっち向け」

「そろそろ電車来るから行くね」

「ちとせ!」


 シートベルトを外す手が震えて上手くいかない。ガチャガチャとベルトをいじる私の肩を掴んだおじさんが、無理矢理に私の顔を上げさせる。


 懐かしいな、これ。一ヶ月前も、こんな感じだった。

 眉間にしわを寄せたおじさんが、怒ってるみたいな、悲しんでるみたいな顔で私をまっすぐ見つめて来る。


「ちとせ、おまえ、大丈夫だって言ったよな」

「……大丈夫だよ」

「じゃあ、言ってみろ。今から電車乗って、おまえ、どこ行って、何するつもりだ」


 まるで尋問みたいだけど、おじさんにそんな気が無いことはわかっていた。

 だって、一か月間、私達は毎日こうして一緒に先のことを考えて来たのだ。


 今からこの電車に乗って、それから。ふ、と息を吐いて、口を開く。

 ……おかしい、言葉が出て来ない。


 この電車に乗って、この町を、あの村を、出ていく。それから。それから、その先は? 電車に乗って、それから、それから……。

 開いたままの口からは一つも言葉なんて出て来なくて、目を泳がせるしかない私をおじさんは黙って見下ろしていた。


 そうして、私の中に答えが無いと判断したのだろう、低い声で「シートベルト締めろ」と言い放つと、サイドギアに手をかけた。


「帰るぞ」

「っ、帰るよ。帰る。東京、帰るの」

「ふざけんなよ、おまえ」

「大丈夫だから!」

「そんなツラして大丈夫つって、俺が帰すと思うか!?」

「邪魔だって言ったのはおじさんじゃん!」


 車内に響いた私の叫び声。静まり返ったそこに残響したそれが消えて、呆然としたままだったおじさんが「なんの話だ」と唸るように言うまで、私は顔を上げられなかった。


 ああ、ああ。言ってしまった。


「なんの話してんだ、ちとせ」

「……邪魔だって、言ったじゃん」

「言うわけねぇだろ。おまえがここに帰って来た日、話したはずだ。好きなだけ居ていいって、言っただろ」

「そんなこと言わなきゃよかったのにね」


 もう我慢なんて出来なかった。鼻の奥がつんとして、頭がぐらぐらする。ひどいめまいだ。

 勝手に滲んだ涙。そがあふれて頬を流れるよりも先に手の甲でぬぐうのは、私の最後の矜持だった。


「ごめん。聞いた、昨日、宗純さんと話してるの」

「…………」

「だから、ごめん。知ってる」


 悪趣味なことしてごめん。でも、全部分かってるから、だからもうここで終わりにしよう、って。そう呟いた私を、おじさんはただただ見下ろしていた。

 その茶色の目を戸惑いに揺らして。何度も何度も繰り返されるまばたきが、彼の動揺を物語っている。


 声を上げて笑い出したいくらいだった。おじさんだって人間だもん、仕方ないよ、って。


 僧侶だからってすべてを許す必要は無いし、嘘だってつくだろう。

 聖人として見られることが多い以上、きれいごとを言わなければいけない状況に遭遇することだって多いはずだ。

 その相手が、今回は私だった。ただそれだけの話。


「もう、おじさんに迷惑かけたくないの」

「…………」

「もう大丈夫だから。ありがとうございました」


 そう、ぺこりと頭を下げて。再びシートベルトに手をかける。今度は難なく外れたそれにホッとしつつドアに手をかけるも、私の肩を掴んだままのおじさんは動かない。


 掴まれたままの肩。おじさんは俯いたまま、相も変わらず瞬きを繰り返している。

 そうして、低く、苦いものを吐き出すような重苦しさで、話し出した。


「……俺だって、人間だ」

「……わかってる。だから、」

「こんなこと、二度と言わねぇから、耳かっぽじってよく聞けよ、ちとせ」


 クソしょうもねぇ、と。地を這うような声で呟くように吐き捨てられた言葉に思わずうなずいた。

 おじさんの目線は、あっちこっち、定まらない。


「俺はな、十代で散々バカやって、この道に帰って来た時に、この道を全うするって決めたんだよ。言葉にすりゃあクソみたいだしこっぱずかしいだけだけどな、身も心も仏に捧げて来たんだよ、俺は……!」

「は、はい……」

「それが突然、おまえみたいのが帰って来て、ちょこちょこついて回られりゃ可愛くねぇはずねぇだろうが!?」

「す、すいません……」


 あまりの気迫に思わず敬語になってしまった。


 それまで、床掃除でもするみたいにあっちこっち彷徨っていたおじさんの目が、茶色いそれが、見たことないくらいに潤んだそれが、まっすぐに私を射抜く。

 いつの間にか涙は引っ込んでいた。その名残みたいに、頬だけがひどく熱くてたまらない。


「俺はな、真剣に、おまえが幸せならそれでいいって最近思い始めてたんだ。どこぞの俺の知らねぇ男と結婚して、子供は居たって居なくたっていい、もし生まれたら抱かせてもらって、それが俺の幸せだって、マジで悟り開きかけてたんだ、気持ち悪ぃだろ!? 仏像に哀れまれてるって感じたの人生で初めてだぞ!」

「え、えと、だから……っ、」

「俺はここまでそれなりに上手くやって来たんだ。それを、おまえが……っ、それでまた死ぬ気だ!? ふざけんなよ、ブン殴んぞこのクソガキが!」

「口悪いよ、明慶みょうけいさん……」


 つまり、あの、どういうこと?って。一時間に一本しか走ってない電車がホームを出ていくのを横目に、見上げた先。明慶あきよしおじさんは、今にも泣きだしそうに顔を歪めて、私を抱きしめた。


「おまえが生きててくれりゃ、なんでもいい」

「…………」

「どこででも、どんな生活してても、おまえが笑って、幸せだって思って生きててくれるなら、俺はそれで、」


 でも、と。鼻をすする音。震えるおじさんの背に手を回して、ゆるく叩く。


 幸せだ、と思った。


「死ぬくらいなら、生きてるのが嫌になるくらいなら、ここに居ろ。頼むから、生きてくれ」

「…………うん」

「生きる理由がないなら、」


 ぐ、とおじさんが息を詰める。喉の奥でつっかえた言葉を吐き出すみたいに、おじさんは苦しげに、言った。


「生きる理由が無いなら、俺の為に、生きてくれ」

「……うん」


 痛いくらいの力で私を抱きしめる腕。この中を、私の席にしていいのだろうか。それであなたが苦しむことはない?

 そんな私に応えるように。身体を離したおじさんは、私の頬の涙跡を指先で擦る。


「先のことは、一緒に考えよう」

「……うん」

「俺と一緒に、生きてくれ」

「……うん」


 再び閉じ込められた、心地いい腕の中。私のための席。

 息が苦しくなるくらいの幸せの中で、私はゆっくりと目を閉じた。

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