第3話『仏門の男』




 地元の村に帰ってきて、半月が過ぎた。


 あの日から、私は毎日、朝のお勤め……と言っても、お掃除をしてからおじさんの隣に座ってるだけだけど、をするようになった。


 朝、おじさんより早く起きて、仕切りの向こうで眠るおじさんを起こして、身支度をして。門前をお掃除して、おじさんの用意したお茶やご飯を仏前に備える。

 そうして、おじさんが本堂に入るまでに拭き掃除を済ませるのである。


 朝の勤行ごんぎょう。毎日欠かすことのないそれを、毎日欠かさず用意される自分の座布団で聞く。


 私の為に用意された、私の為の席。それが毎日嬉しかった。


 それから庫裏くりに戻って、おじさんと一緒に朝ごはんを食べる。

 ここに来て半月、私はたくさんのことを任されるようになったけれど、お料理だけはダメだった。


「これは才能の問題だな」


 そう言って、私の作ったものを苦い顔をしながら平らげたおじさんの雄姿は忘れようにも忘れられない。さすが仏門の男である。


 ご飯を食べ終われば、おじさんは『ミョウケイ』としての仕事に出かける。

 いつだったか、電話口で「ミョウケイさんはおられますか」と聞かれ、おじさんに「だれ?」と尋ねたら呆れた顔で「俺だ、俺」と言われたことがある。


 明慶。普段はアキヨシで、お仕事のときはミョウケイ。ややこしい。


 はじめのうち、おじさんは私を一人にすることに抵抗があるようだった。

 姿を晦まして、自ら命を絶つと思っていたのだろう。部屋はたくさんあるのに、寝室を分けないのもきっとそれが理由だ。


 だからかは知らないけれど、来たばかりの頃はおじさんが法事やお通夜やお葬式に行くたびに写経を命じられていた。あれこそ耐え難い苦痛だった。


 そうして、帰って来てから聞くのだ。

 「今日はなにやった?」って。


 それが、私とおじさんの決まり事だった。


 夜、眠る前のお勤めを済ませた後、おじさんは脚を組み直して私の方を向く。私もそれに従う。そうして、毎日、確認し合うのである。


「今日は何をやる予定だった?」

「今日、その予定はいくつ達成できた?」

「明日は何をしようか」


 子供に言い聞かせるみたいなそれ。それでも、一つ一つ、おじさんと確認し合うそれが私の心の支えになりつつあるのは明確な事実だった。


 私はそうして少しずつ先のことを考えることが得意になって行ったけれど、それでもやっぱり、スマホの電源を入れることは出来ないでいた。


 ここに来て三日目で充電の切れたそれ。

 会社や社内の人間から連絡が入っていたらと思うと、怖くて画面が見られない。そう呟いた私に、おじさんはあっけらかんと「今はその時期じゃないってことだ」と言い放った。

 自分で言うのもなんだけれど、おじさんは私に少し甘すぎると思う。


「おじさん、時間! 遅れる!」

「分かってるって!」


 お坊さんというのは一般人が思っているよりも過密なスケジュールで動いているということを知ったのも、ここ最近のことだ。

 黒の常衣のままバタバタしてるおじさんに「緑!?」と声を掛けたら、二階から「紫!」なんて返事が返ってくる。


 なんで私がおじさんの袈裟けさの準備までしなきゃなんないんだ。


「間宮さんとこ行ったあとに田中さんとこ寄るから、遅くなる。なんだったら先に晩飯食ってろ」

「はい。あ、芹沢さんのお嫁さんから三回忌の相談したいって電話あった。折り返しますって言ったけど大丈夫?」

「ああ、どっかのタイミングで掛けるわ。ありがとう」

「うん。あ、あと」

「うん」

「なんかまたボウモリさん?に間違えられた」

「…………」


 玄関で紫の輪袈裟わげさを着けていた男の手が止まる。

 そうして、毎度のことながら形容しがたい表情でおじさんは「……そ、すか」と呟くのである。声ちっさ!


 最近の私の謎が、この『ボウモリさん』というやつなのである。どうやら私はその人に似ているらしい。


「ボウモリさんって誰?」

「おまえにはまだ早い」

「え、そういう……え、やだ、うそでしょ、汚らわし……」

「違う違うそうじゃない!」


 なんでこのクソ忙しいタイミングで!そう、吐き捨てるように言いながら、おじさんは草履に足を通している。


「今度話してやるから!」

「それ前にも聞いた」

「んなことより、おまえまたとくさんとこのばあさんから逃げてんだってな!? しゃんとしろ、しゃんと!」

「だっておばあちゃん私の顔見るたびに泣くんだもん!」


 とくさんとこのばあさんことしまキヌエさんは、私が居ない間、ずっと私の実家を管理してくれていたお婆さんだ。『とく』ってのは『徳兵衛とくべえ』という屋号から来ているらしい。


 みんな、この村の人は優しかった。逃げ出した私が、家もお墓も放り出した私が、のうのうと戻ってきても、嫌な顔一つせず迎え入れてくれた。

 まぁ、顔見るたびにさめざめ泣かれるわけだけど。


「じゃ、行ってくる!」

「はい。行ってらっしゃいませ」


 昔見た、このお寺のお嫁さん……つまり、明慶あきよしおじさんのお母さんにあたるその人がやっていたように頭を下げる。そのたびにまた、おじさんはあの、形容しがたい表情を浮かべるのである。

 これがお寺さんのルールかと思ってやっているけれど、もしかしたら何か間違っているのかもしれない。


 しん、と静まり返ったお家の中。おじさんが出て行ってしまうと、この大きなお家はすっかり静かになってしまう。


 昨日の夜、いつも通り確認し合った予定は全て終わらせてしまっていた。


 せっかくいい天気だし、お布団でも干そうかと思ったけれど、あいにくの朧雲だ。これは後々雨になるなぁ、と思いながら縁側に腰かける。


 空の色。雲の形。風の温度と、風の運ぶ匂い。

 全身、五感のすべてを使って「生きている」と感じるこの一瞬一瞬が、どうしようもなく幸せで、そして、怖い。


 この幸せを手放す日は必ずやって来るし、それはきっと、そう遠くない未来なのだ。


 吸い寄せられるように本堂へと向かう。


 最近の私は、ずっと、なにか、おかしい。

 何も持っていなかったときは、何も怖くなかったのに。なんにもつらいなんて思わなかったのに、幸せな今は、怖いことがたくさんある。

 この幸せを手放したくないと思ってしまう。


「……これは、煩悩ですか、仏さま」


 本堂の中。今朝も掃除した、ピカピカの床の上に座って、立派な仏壇に収まったそのひとへと問いかける。


「いけないことなんでしょうか」


 あの人と、ずっとこうして過ごせたら、なんて。そんな贅沢な望みを抱く私は、悪い人間なのでしょうか。

 見上げた先、相も変わらず重い瞼をした仏像の目は、今にも動き出しそうな口は、それでも私に答えを与えてはくれない。


「……あの人には、答えるんですか」


 最近、暇さえあれば本堂で仏へと向かう男。どこか思いつめたような横顔を思うと、ぎゅう、と胸が苦しくなる。

 仏さまに話せて、私に話せないことなんですか。なんて、笑い話にすらならない。相手は仏門の人間なのだ。


「ときどき、あなたが憎いです」


 うつむいた私の、小さな声。

 情けないそれは、静まり返った本堂の床へと落ちて。響くことも無く、消えていった。

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