第2話『私、がんばったの』
「ちとせ、起きろ」
そんな声で目が覚める。
自分が眠ったのか、眠っていなかったのか、分からない。それくらいに短い睡眠時間だったというのに、すでに身支度を整えているらしい
「さっさと起きて歯磨け。シャツはそこの着ろ、俺ので悪いけど、洗濯はしてあるから」
「……いま、なんじ」
「五時」
そうだろうな、と思った。だって外はまだ真っ暗だ。
「着替えて、歯磨いて、外掃いて来い。それから本堂掃除するぞ。今日は俺も一緒に行くけど、明日からはおまえの仕事だからな」
「……なんで」
「それから朝飯な。ハイ、起きろ」
そう言っておじさんはさっさと部屋から出て行ってしまった。ぱたん、と襖が閉まる。
……着替えて、歯を磨いて、外を掃く。ぼやけたままの頭の中をおじさんの言葉がぐるぐる回る。
着替えて、歯を磨いて、外を掃く。
私は、枕元に置かれていたシャツを掴んだ。
「おお、起きたか。洗面所の場所覚えてるか? 歯ブラシとタオル置いといたから、顔洗って来い」
「……うん」
着替えを済ませ、昨日ご飯を食べさせてもらったダイニングへと向かえば、そこには何やらお茶やご飯を準備しているおじさんが居て。
おじさんは大きなシャツにぶかぶかに着られた私を気にするでもなく、洗面所を指差す。
その言葉通りに向かった先、子供の頃に何度か手を洗った記憶のある洗面所には確かに歯ブラシとタオルが並んでいた。
鏡に映った自分の姿は、目が腫れて、顔がむくんでて。大き過ぎるシャツのせいで首元がなんだかだらしない、ひどいものだったけれど、あまり気にならなかった。
だって、ここにはおじさんと私しか居ないのだ。
顔を洗って、歯を磨く。ヘアバンドなんてあるわけなくて、前髪がびしゃびしゃになった。その姿のまま再びダイニングに戻るも、おじさんがそれを気にする素振りは無い。
「俺、先に本堂行ってるから、ちとせは門前の掃き掃除」
「はい」
「だから他人行儀かって。箒はー……あー、昨日のままか。前に転がってるから、まぁ、テキトーに」
ささーっとでいいぞ、どうせ昼にはまた掃くから、って。そんなおじさんの言葉に背中を押され、部屋を出る。
昨日おじさんに引きずられるように連れて来られた廊下を進んで、立派な玄関に出て。揃えられた自分の靴を履き、ドアを開ければ少しだけひんやりした空気が頬を撫でた。
本堂を横目に門へと足を向ける。じゃり、じゃり。まあるい石のせいで上手く歩けない。
それでも、思う。昨日より、私はしっかりと地を踏みしめて歩いている、と。
おじさんの言った通り、箒は、昨日そこに倒れたそのままの姿で横たわっていた。
ぽつんと門前に取り残されたままのそれを拾い上げて、でこぼこしたコンクリートの道を掃く。葉っぱと土と、ちいさな砂利。
ほとんど形だけの掃き掃除を続ける私の目に差し込んだ光。突然の眩しさに顔を上げれば、朝焼けが空を照らしていた。
広い広い、地平線が見えそうなほど高い空。真っ暗だったそこにわずかに顔を出した太陽。光の塊。そこから広がる黄色と、オレンジと、燃え上がる火のような赤。その先で紫とまざり合う空。
ああ、そうか。空。朝焼けって、こんなだっけ。
眠れない夜を経験した数は東京の街の方が圧倒的に多いはずなのに、なぜだろう、私はあの街の空が思い出せなかった。
どんな色をして、どんな風に溶けて、どんな匂いがしたんだっけ。
いつの間にか明るくなった空。ついに私は、四年間過ごした街の空を思い出せないままに本堂へと戻った。
「おー、ごくろーさん。次こっち」
「……うん」
久々に足を踏み入れた本堂。
相変わらずピカピカで、少しだけ怖く感じるその場所。
仏像を乾拭きするおじさんは入り口に立つ私へとはたきを渡す。これで高い位置の埃を落とせばいいという事らしいが、埃なんて少しも無い。
「そらそうだろ、毎日やってんだぞこれでも」
「……じゃあ、なんの為に、」
「毎日続けることが大事なんですー」
おまえにも今度説教たれてやらァ。そう言っておじさんは笑って、私の髪をぐしゃぐしゃ撫でまわした。
「はたきで埃落として、それから床水拭きな」
「うん」
「しんどくなったらやめていいからな」
「うん」
ぱたぱた、古めかしいはたきで棚や壁や欄間をはたく。
冷たい水で絞った雑巾。一生懸命絞ったつもりが、おじさんに「へっぽこ」って言われて絞り直されてしまった。
広くて、ぴかぴかの床。自分の顔が映りそう。そこを何度も転びながら拭くこと数十分、仏像の前に正座したおじさんが私の名前を呼んだ。
「ちとせ、お疲れ。もういいぞ」
「……うん」
「次はこっち来て」
ここ座れ、そう言って示されたのはおじさんのお隣。
お座布団の引かれたそこは、どうやら私の為の席のようだ。
「朝のお勤め。
「ごんぎょう」
「ここ座ってな。足痛かったら崩していいから」
そう言っておじさんはお座布団を叩く。その言葉に従ってそこへと正座した私にどこか満足げに笑って、おじさんは
昔から、いつも思ってた。
低くて、重くて、どこか甘い。身体に直接響く声を聴きながら、私は目の前の仏様を見上げた。
金色の、ちょっぴりおぼろげな表情をした仏像。昔はこの表情がすごく怖かった。重い瞼も、少しだけ笑っているように見える口元も。
だけど、今は。すべてを許されているような気がして。
おじさんの声も相まって、私はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。おじさんに肩を揺すられて、私は慌てて身体を起こした。
「ご、ごめんさない……」
「気にするな、俺も寝そうになるときある」
「……それは、ちょっと、どうかと思う」
「俺もそう思う」
違うんです、こうね、悟りと煩悩の間を漂うような感じがね、意識がこう、ふわふわーっとね、なんて。身振り手振りで説明しながら、おじさんは私に手を貸してくれる。
おじさんの手を掴んで膝を立てたところで、静かな本堂にお腹のなる音が響く。ぐぅ、って、盛大なそれは紛れもなく私のお腹から響いた音だった。
「おまえより、おまえの腹の虫のが元気そうだな」
「……ごめんなさい」
「いや、確かに腹へった」
そうして数時間ぶりに戻ったお家。どうやら『
お味噌汁と、昨日の残りだという筑前煮と、炊き立てのごはん。目の前に並んだそれらに、じわりと口の中に唾液がにじみ出るのを感じた。
お腹すいた、なんて。何年ぶりに思ったんだろう。
「食えるぶんだけでいいから。食えよ」
「……おなか、すいた」
「朝から働いたからな」
いただきます、って一緒に手を合わせて。お味噌汁をひとくち飲んだら、また、涙が出て来た。
「ぅ、……ひっく、っ、く」
「……おまえ、飯食うたびに泣いてんの?」
「っう、く……ご、はん、おいしい、」
そら良かった、ってお箸を進めるおじさんに、私はいろいろな話をした。
両親が死んですぐに大学を辞めて働きだしたこと。その会社の労働条件はお世辞にも良いとは言えないこと。それでも、高卒の学歴しかない私にはあまり多くの選択肢は用意されていないこと。
誰かと食事をするのがとても久しぶりなこと。
しどろもどろ、鼻をすすりながらぽつりぽつりと言葉をこぼす私の話をおじさんは黙って聞いてくれた。
そうして。昨日、あの夕暮れの道でおじさんに見つからなければ命を絶つつもりだったと告げた私に、おじさんは顔を伏せる。
その頬がグ、と噛み締められて。おじさんが何かに耐えるように歯を食いしばったのが分かる。
と、次の瞬間。私は、テーブルに乗り出したおじさんの腕に、痛いくらいに抱きしめられていた。
「バカ、この、バカ野郎……っ、この、アホ!」
「……ごめんなさい」
「おまえのこと、あの日の通夜から、ずっと、一日だって忘れたことなかった」
「……はい」
「なのに……っ、なんで、」
なんで、俺は、って。耳元で、おじさんが歯ぎしりするみたいに唸る。
私を抱きしめる腕の力がもっともっと、強くなって。おじさんは、私の肩にひたいを擦りつけた。
「なんで、俺は、もっとおまえのこと……っ。ごめん、ちとせ、ごめんな……」
「……おじさん、お寺継いだばっかで、大変だったでしょ」
「理由になるかよ、そんなの」
ごめん、ごめんな、ちとせ。そう、ひとしきり唸って。おじさんは、顔を上げる。
切れ長の茶色の目。僧侶らしからぬ綺麗な顔立ちをしたその壮年の男は、すっかり泣き止んだ私のほほの涙のあとを指先で擦る。
そうして、ゆっくりと口を開いた。
「昼過ぎになったら、墓、行こうな」
そんなおじさんの言葉に黙ってうなずく。
そんな私の頭をまたぐしゃぐしゃに掻き混ぜたおじさんは、ず、と小さく鼻をすすって。茶碗洗いするぞ!と声を上げた。
◇◇◇◇◇
「
綺麗だろ?って。お寺の裏の墓地、父さんと母さんの、綺麗なままの墓石の前で、おじさんは私にそう言った。今度、一緒にお礼言いに行こうな、って。
四年間、私が放置し続けた父さんと母さんのお墓。
なのにそこには雑草の一本、苔の一つすら生えておらず、私の記憶にあるままのピカピカの姿でそこにあった。
「みんな、おまえのこと心配してる」
「……ごめんなさい」
「うん。それで?」
「……ちゃんと、お礼、言いに行く」
「今から?」
「…………こんど」
「上出来だ、ちとせ」
先の予定が一個立ったぜ、って。で、それから?って。
どこかからかうような陽気さで、おじさんは、墓石の前に座り込む私を見下ろした。
「それから……、」
「それから。まだあるだろ」
「……ありがとう、おじさん」
「おう」
そう、どこか照れ臭そうにおじさんは作務衣の合わせに手を突っ込んで頷いた。
なんだかそれがおかしくて。少しだけ笑ったら、頬がじんわりと痛む。ああ、笑ったのなんて。いつぶり?
「……あのね、おじさん」
「んー、なに」
「あのね、それからね、」
「おう」
「駅前のお店にね、連れてってほしい」
「……いいけど?」
「あのね、私ね、」
今、下着付けてない。
そう言って苦笑いしたら、「そういうことは早く言え!」って怒鳴られた。それにまた一つ笑ったら、やっぱりまた、頬が痛んだ。
それから。お墓を掃除して、裏の山に入ってお花をつんで、それをお供えして。
「特別だぞ」って、おじさんがお経を上げてくれた。
すっかり日が沈んで、薄暗くなった道を、おじさんと二人、手をつないで歩いて帰った。まだまだガキだなって、そう言って笑うおじさんこそ、子供みたいな顔して。
「ちとせ、見てみ」
そう言って、おじさんが指差した先。
「三日月。綺麗だぞ」
空に浮かんだ、細い月。子供の頃描いたみたいな、見事なまでのそれを見て、思う。
ああ、また。まただ。
「……東京にも、月は出てたのかな」
「……何言ってんだ、おまえ」
「思い出せないの」
東京の空。夕日も、朝焼けも、お月さまも。何一つ、どんなだったか、思い出せないの。
春には桜が咲いたのかな。夏にはヒマワリが? 子供達のアサガオが? 金木犀の匂いも、冬の朝の匂いも、なにもかも。なんにも、思い出せないの。
「……私、あそこで、なにやってたんだろう」
「…………ちとせ」
「……うん」
「がんばったな」
よく頑張ったな、一生懸命生きたな、って私の手を掴むおじさんの手に力がこもる。
「空見る余裕もないくらい、おまえ、がんばったんだよ」
「……うん」
「がんばったな、ちとせ」
「……っう、ん」
私、がんばったのかな。頑張れてたのかな。きっと、おじさんが言うのなら、間違ってないよね。
私、がんばった。がんばったよ。
涙が止まらないくらい、がんばったの。
あんなに認めるのが難しかったはずの自分の気持ち。それが、今は、まるで自然なことのようにすとんと胸に落ちて来る。
じんわりと温かいそれにまた、泣けてきた。
「……ごめ、っ、なさ……私、また、」
「いいよ」
おまえが泣き止むまでゆっくり歩いて帰ろう、って。おじさんが優しい顔して笑ったりするから。
やっぱり、涙は止まらなかった。
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