歩いて帰ろう

よもぎパン

第1話『切れた蛍光灯と、』

 



 ああ、そうだ。死のう。


 なんでだろう、その瞬間、そう思った。


 特別、何かがあったわけじゃない。その日はいつも通りの日常だった。


 朝、いつも通りの時間に起きて、いつもの満員電車に揺られて会社に向かって、いつも通りの仕事をした。

 いつも通りの社食でお昼を食べて、いつも通り残業をして、いつもの帰宅ラッシュに揉まれて。

 帰り道にあるコンビニで晩ご飯を買って、十四時間ぶりに帰った自宅でそれを食べて。


 その、いつも通りの日常で。ふ、と。確かに最近あやしかった部屋の蛍光灯が切れた瞬間。なぜだろう、「ああ、そうだ死のう」と思ってしまった。


 食べかけの親子丼ぶりにそれ以上箸を進める気にはなれなかった。

 私はただぼんやりと、ああ、死ぬなら地元の村で死のう、どうせならあの、眺めのいい墓地で。両親の眠るあの場所で。なんて贅沢なことを考えながら、ベッドにもぐり込んだ。

 

 蛍光灯の切れた部屋は真っ暗で、怖がりの私はそれがとても嫌いだったはずなのに。どうしてだろう、今はそれがひどく心地よかった。

 誰も私を見ていない。私にも何も見えない。テーブルに出しっぱなしの食べかけの親子丼だって気にならない。誰も私を叱らない。


 私が死んだって悲しむ人はもう居ない。


 ゆっくりと目を閉じる。更なる暗闇に包まれた視界。それをあたたかいと感じた。


 こんなにも穏やかな気持ちで眠りについたのは、東京に来て、両親が死んでしまってから初めてのことだった。



◇◇◇◇◇



 次の日、目覚めた私が一番にしたことは、切れた蛍光灯を取り換えることでも、出しっぱなしで乾燥したテーブルの上の親子丼を片付けることでもなく、スマホで新幹線の切符を取ることだった。


 タップ、タップ、スワイプして、タップ。便利な世の中になったものだ。これだけであっという間に新幹線の座席が確保出来てしまうなんて。


 てきとうに引っ掴んだ小さなバッグに財布とスマホを入れて、部屋を出た。

 切れたままの蛍光灯も、出しっぱなしの晩ご飯だったものも、どうでもよかった。


 この街のものは何ひとつ、空気すらも持って行きたくなくて、駅のホームで何度も何度も深呼吸した。


 最寄り駅から東京駅へ。いつもと反対側の電車に乗り込む。


 電車に揺られる人達はみんなスマホやゲームを見下ろして、疲れきった顔をしている。昨日までは私もこの中の一人だったのだと思うと変な感じがした。


 到着した東京駅の新幹線乗り場へ向かう。スーツ姿の人達はみな急ぎ足で私を追い抜いてゆく。

 まるで自分が透明人間になったみたいだった。これだけたくさんの人が居るのに、誰一人として目が合わないのだ。


 乗り込んだ新幹線。取ったばかりの自分の席へと向かえば、当然だけれどそこは空いている。


 私の為に用意された、私の為の席。

 人生もこんな風にお金で席が買えたらラクなのにな、なんてバカみたいなことを思った。


 在来線と違って、新幹線は揺れない。静かに進む車両の中は出張に向かうらしいスーツ姿の男の人がまばらに乗っているだけだった。その人達も一人、また一人と降りてゆく。

 窓の外の景色はビル街から住宅街へ、そうしてすっかり緑一色に。その頃には、この車両は私ともう一人のサラリーマンだけになっていた。

 行きついた駅で降車し、また別の電車に乗る。


 私の両親がこんなにも田舎にこだわったのは、私の知らない、母さんの実家が恐ろしいほどにお金持ちだったかららしい。

 そして、そんな母さんが選んだ男が、冴えない郵便局員だったから。


『お父さんとお母さんはね、駆け落ちしたの』


 そう、決して裕福でない生活の中で幸せそうに笑っていた母さんの横顔。昔は鮮明に思い出せたはずのその笑顔にモヤがかかり始めたのはいつの頃からだったろうか。


 こんなことになるなら、ずっとあの村に居ればよかった。


 東京になんて憧れずに、大学になんて通わずに、あの村でずっと母さんと父さんと暮らしていればよかった。

 そうすれば、あの日。母さんと父さんと一緒に、死ぬことが出来ていたかもしれないのに。


 一車両編成の電車を降りて、無人改札を抜ける。電車の時間に合わせて走っている、一日たった数本しか出ていないバスに乗り込み、生まれ育った村に着いた頃には、空は夕日に染まっていた。


 学校帰りらしい、ヘルメットをかぶった自転車の少年達をぼんやりと眺めていたら、どこか強張った顔で「こんばんは」挨拶されてしまった。

 すっかり私はもう『よそ者』ってやつになってしまったらしい。


 それもそのはずだ。十八でこの村を出て、その年の秋に両親が事故で死んで以来、四年間、私はこの村に一度だって帰って来なかったのだから。


 それでも、十八年間過ごした村はそう変わってはいなかった。

 古めかしかった日本家屋が大きな新居になっていたり、表札が変わっていたりはするけれど、道は少しも変わらない。


 細い川にかかる橋を渡って、瓦造りの家と家の間にある圧迫感のひどい道を進む。


 足取りが軽くなるはずなんてなかった。

 ゆるやかな坂と、私を見下ろす家々が、私を責めているような気すらしてくる。


 そんな道を進む私の額に汗が滲み始めた頃、それは見え始めた。


 瓦造りの、大きな屋根。そう長くはない石造りの階段の先にある、この村一番のお寺。

 昔はひどく怖く感じたそのお寺が……四年前のままのそれが、唯一私を受け入れてくれている気がして、息を吐く。


 その時、私は初めて、自分がずっと息を詰めていたことに気が付いた。


「…………は、」


 す、と息を吸い込む。土と、川と、草の匂い。東京では嗅ぐことのなかったそれは懐かしいもののはずなのに、まるでずっと吸っていた空気のように感じた。

 四年前の日常が、そのまま、今につながったみたいに。

 そんなこと、あるはずがないのに。


「……ちとせ?」


 突然呼ばれた名前に、びく、と大袈裟に肩が跳ねた。ばくばくと、暴れまわる心臓をそのままに振り返る。


「ちとせだろ?」


 そこに立っていたのは、作務衣を着た壮年の男だった。手に箒を持った、四十手前の、この寺のご院家。

 俗にいう『お坊さん』であるその男は、少しだけ開いた口をゆるく開いたり閉じたりしながら私へと近づいて来る。彼が何を言いたいのか、私には手に取るように分かった。


 両親が死んで、四年間、私は一度だってここに帰って来なかった。

 それが、今更、なぜ帰ってきたのか。

 四年前、泣きじゃくる私を何度も抱きしめてくれたこの坊主は、きっとそれが聞きたいのだ。


「ちとせ、おまえ、どうしてたんだ、ずっと。連絡も返さねぇで、みんな……すげえ心配して、」

「…………」

「……ちとせ?」


 低くて、どこか甘い、身体に直接響くみたいな声。

 墓前で経を唱える声が、本堂で説教をするその声が、私を責めている気がして顔を上げられない。


「おまえ、荷物どうした? 家なら、とくさんとこのばあさんがたまに掃除して……、」

「…………」

「……荷物、それだけか?」


 どくどく、心臓は変わらず早鐘を刻む。からからになった喉。息が苦しくて口を開けば、はく、と情けない音が漏れた。


 そしてそんな私の異変に気付かないほど、この男は生臭でも、鈍感でもないのだ。


「ちとせ、こっち向け」

「……ごめんなさい、」

「ちとせ!」


 怒鳴るみたいに名前を呼ばれて、肩を掴まれる。

 男の持っていた箒が、カラン、と道に転がる音がした。夕日に染まったそれを誤魔化すように眺めるも、私の肩を掴んだままの大きな手がそれを許さない。


「おまえ、なんで帰って来た」

「…………」

「里帰りか? 墓参りか?」

「…………」

「ちとせ!」


 こっちを見ろ、って言うみたいに。肩を掴む手が、指先が、力を強める。

 どくどく、耳の奥で心臓の音がする。ゆっくりと見上げた先、切れ長の、男の……子供の頃からずっとお世話になってきた明慶あきよしおじさんの目は、やっぱり、昔のまんまで。

 すべてを見透かすようなそれから、目を逸らす。


 それだけでおじさんは、すべてを察したようだった。


「ちとせ、言ってみろ。何しに帰って来た」

「……ごめんなさい、」

「おまえ、ふざけるなよ」

「ごめんなさい、」


 掴まれた肩を、何度も何度も、揺すられる。


 でも。だって。もう。頭の中に浮かぶのはそんな短い言葉ばかりで、その先が続かない。

 まるで私の人生みたいだ。


「墓、行く気だったのか」

「…………」

「……ちょっと来い」


 今度は手首を掴まれて。おじさんはそのまま歩き出す。道に転がったままの箒も無視して。父さんと母さんの眠る墓地とは反対方向の、お寺へとつながる階段へと。


 子供の頃は何度も遊びに来たお寺。昔は、ご住職……明慶あきよしおじさんのお父さんが取り仕切っていたこの場所は、私が村を出る寸前におじさんへと受け継がれた。


 立派な門構えも、まあるい石の並ぶお庭も、大きな鐘も、少しだけ不気味な本堂も、なにもかもすっかりそのまま、そこにあった。

 そんなお庭を抜けて、本堂の隣の、大きな建物へとおじさんは私を引っ張って行く。


 何度か足を踏み入れた、このお寺の家族が住まう家。そのダイニングで、私は、なぜか椅子に座らさせられ、そうして無言で冷蔵庫を開けた明慶あきよしおじさんの、手際のよい腕で作られたお味噌汁とご飯を目の前に並べられている。


「食え」

「……あの、」

「とりあえず、食え。話はそれから聞く」

「…………う、ん」


 正直、食欲は全くと言っていいほどに無かった。

 思えば、昨日の夜に親子丼を半分も食べずに食事を終えて以来、何も口にしていないというのに。


 そろりと見上げた先、私の向かいに座る明慶おじさんは、むっすりとした表情で私を見つめていた。


 切れ長の、茶色がかった目。

 浄土真宗だからこその頭髪は短く切り揃えられ、おじさんの、意志の強そうな眉を見え隠れさせる。


「おまえ、痩せたな」

「……そ、かな」

「そうかなじゃねぇよ、アホ」

「……すいません」

「そんなこと言ってる暇あるなら食え」


 どうやら食べないという選択肢は無いらしい。おじさんにばれないように口の中で唇を噛んで、テーブルに置かれたお椀を見下ろした。


 湯気の上がるお味噌汁。さっき、おじさんが物凄いスピードで作っていたそれには、お豆腐とわかめ、それから輪切りにされたネギが浮かんでいる。

 その隣に並べられたお茶碗には、きらきら光る真っ白のごはん。晩ご飯用のそれはちょうど炊き立てだったらしく、こちらもほかほかと湯気が上がっていた。


 ああ、そうか。あったかいごはんって湯気が立つんだ。


 ぼんやりとそんなことを考えていたら、焦れたらしいおじさんに「食えって、ほら」とお箸を握らされてしまった。


「……いただきます」

「どうぞ」


 なんでだろう、手が震える。つるりとした木のお椀を持てば、じんわりと手のひらに熱が移る。

 お箸で、粗めのお味噌が溶けたそれを少し混ぜてから、お椀に口をつけた。


「……おいしい」

「そうか」

「うん」

「米も食えよ」

「うん」

「それ、田中さんとこの新米。うまいだろ」

「うん」

「ちとせ」

「うん」

「仕事、きついか」

「…………うん」


 あれ、なんでだろう。息がしづらい。ご飯が噛みにくい。甘いはずの新米がしょっぱい。おかしいな、って思った時にはもう、涙が止まらなくなっていた。


 しゃくり上げる息が止められない。涙も、鼻水も止まらない。

 それでも、そんなみっともない私を見つめる明慶おじさんの目は穏やかで、やさしくて。

 ついに私は、大声を上げて泣き出していた。


「うぅ、……ひっ、ぐ、ぅ、う、」

「なぁ、ちとせ。聞いてくれよ。人生なんてもんはな、どうにでもなんだよ。ここでダメならそこで終わり、なんてことな、そうそうねぇの」

「うぅうう、ぅええぇぇ」

「だからさぁ、おまえ、そんな若ぇのに、自分から、なんて……なぁ、頼むわ。やめてくれ。お願いだから。ここで俺と約束して。もう、死のうなんて考え、捨てるって」

「ひ……ぐ、ぅ、あ、ああ、うあぁああん」

「な。おまえが居たいだけ、ここに居ていいから」


 先のこと、おじさんと一緒に、ゆっくり考えようか。

 そう、穏やかに笑ったその人の言葉に、私は何度も何度も、うなづいた。



◇◇◇◇◇



「悪いな。上の部屋、片づけてなくてさ」


 そう言っておじさんは、自分のお布団の隣に私の分のお布団を引いてくれた。

 それから、「気持ちの問題でしかねぇけど」と間に仕切りを引いて。そうして、今日はもう寝よう、と私に掛け布団をかぶせた。


「電気、消すぞー」

「……はい」


 カチカチ、と豆電球にされた電気。うっすらと見える部屋の中。ぼんやりと、私はその天井を見つめていた。


 ちりちり、泣き腫らした目尻が痛い。


「ちとせ、起きてるか」

「はい」

「はいってなんだよ。他人行儀か」

「……うん」

「明日、一緒に墓行こうか」

「…………うん」

「顔、見せてやれ。一人娘だろ」

「…………」

「……ちとせ? 寝たか?」

「…………」

「……びっくりさせんなよなぁ」


 はぁあ、っておっきな溜息。それから、ごろりと寝返りをうつ衣擦れの音。

 その日、おじさんの穏やかな寝息が聞こえて来るまで、私は眠れなかった。

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