傷口を舐めても治療にならない
リビングダイニングのドアを勢いよくを開けると、リビングの奥からバタンと音がした。
ソファーの奥には姉が立っていて、棚を背にしてくるりとこちらに振り向いた。
「しょ、
姉は何か気まずそうに目を泳がせている。閉じられた後ろの棚にはいろいろな書類やら生活雑貨などが収められていて、それから――
「花梨さんは、ばあやさんに連れられて帰ったよ。……それよりもお姉ちゃん、どこか怪我をしたの?」
「ふえっ? わ、私はどこも……怪我なんかしていないよ? ど、どうしてそう思ったのかなぁ?」
「今、救急箱をしまったんでしょう?」
そう。その棚には救急箱も入れられている。姉が慌てて何かを仕舞うとしたら、思い当たるのは救急箱ぐらいだ。
ボクの指摘を受けて姉はビクリと肩を動かした。そしてしばらく左右に視線を動かし、やがてハッと何か思い出したようにパチンと手を合わせた。
「あっ、そうだ! そんなことより早く着替えてこなくちゃだね! うっかり汚しちゃうと、七夕祭りイベントの本番で着られなくなっちゃうからー!」
姉はそう言うと、織り姫コスチュームの袖をぱたぱたと振りながら、何か都合の悪いことを誤魔化すような素振りで二階へ上がって行った。
ただ呆然とその様子を見送っていたボクは、一人残されたリビングの中心で深く息をつく。
玄関先から急に姉の姿が消え、何やら不穏な事件の匂いを嗅ぎ取って、家の中に慌てて飛び込んできたけれど。どうやら完全にボクの勘違いだったようだ。探偵の息子として情けないかぎり。大失態だ。
「まったく、近頃のお嬢様は落ち着きがないので困りますね」
喜多の声。ペタンペタンとスリッパを鳴らして、いつものエプロン姿の喜多がキッチンから出てきた。右手に包丁、左手に魚を持って。
「き、喜多さん、その格好は!?」
「あ、申し訳ありませんショウタさま。コスプレ衣装はもう脱いでしまいました。この身なりの方が料理の腕を存分に振るいやすいものですから。あの……もっと私のコスプレ姿をご覧になりたかったですか?」
「い、いや。そうじゃなくてね?」
喜多はあの紫色の衣装をコスプレと断言した。七夕祭りイベント用に姉が真剣に選んだであろう衣装を、ただのコスプレと断言した。でも、今ボクが言いたいのはそんなことじゃない。
「喜多さん、……全身包帯だらけじゃないか!」
そう。喜多の左腕と左太ももには包帯がぐるぐる巻かれ、更には顔が半分隠れるほどに頭にも包帯が巻かれていた。
「あ。これですか。これは何と言いますか……すこぶる活きの良い魚を捕まえるのに少々手こずりまして……」
「人食いサメとでも戦ったの!?」
「いえ……相手はホオジロザメよりも獰猛でした。しかし心配は無用です。お嬢様にはこのような手当を半ば強制的に受けてしまいましたが、こんな傷、本来は唾を付けておけば自然に治るのです」
喜多はボクの心配を斜め後方にかわし、ばあやさんと同じようなことを言った。包帯がぐるぐる巻きにされた身体で。前時代的な民間療法の話を。とぼけた顔で冗談を言い放ったのだ。
「ささ、ショウタ様はお気になさらずにお着替えを済ませて夕食までのひとときをゆっくりとおくつろぎください。あ、それとも久しぶりにお召し替えのお手伝いをいたしましょうか?」
「えっ、いいよいいよ、自分で着替えるから! まったく、どれだけ昔の話をしてくるの?」
たしかにボクが小学生のころ、喜多にシャツを脱ぐのを手伝ってもらったりしていた。
「うふふ……懐かしいですね。でも、あの頃からショウタ様の可愛らしさは変わりありませんね」
「うっ」
喜多にニコリと微笑まれてしまい、それ以上追求できなくなってしまった。ボクは不意打ちを食らって思わず赤面してしまったのだ。
「あ、そうだ。ばあやさんがこれを喜多さんにって……」
「え、あのクソバ――ゴホン、あのお手伝いさんがですか?」
「うん。この薬が最も必要なのはボクの家政婦の方だって」
「ぼぼぼ、僕の家政婦――ですか!? ですか!?」
なぜか喜多さんはその言葉だけを切り取って、あわわと口をパクパクさせている。
ボクは訳も分からずキョトンと首を傾けて見ていると、喜多さんはハッと真顔に戻って。
「ふっ……敵に塩を送るとは舐めた真似をしてくれましたね」
「中身は塩じゃなくて塗り薬みたいだけれど……」
「あのババアめ、
「ううん、塩じゃなくてね。あれ? その
ところがボクの声はもう喜多の耳には届いていないようで、ぶつぶつ呟きながらキッチンへ戻っていく。包丁を持つ右手と魚を持つ左手の甲で塗り薬入りの瓶を挟んで。
少し遅くなったその日の夕食は、ブリと大根の煮付けとブリの刺身、そしてブリのすまし汁だった。
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