おやすみなさい(弐)

 ゴロゴロと転がりもだえること十数分――


 グゥゥゥ~…… 


 腹の虫が盛大に鳴る。

 気付けば魚が焼ける香ばしい匂いが部屋に漂っていた。


 う~ん。

 こんな精神状態のときでも、お腹は空くんだね~。


 時計を見ると8時半を回っており、ボクと姉が帰ってきてからはもう30分が過ぎていた。そろそろ夕食の準備が整ったころだろうか。

 家政婦の喜多きたはボクらの帰宅が予定よりも大幅に遅くなったものだから、夕食の下ごしらえを済ませて待ってくれていたのだ。


 廊下に出てみると、すでに姉の部屋には気配はなく、先に降りて行ったようだった。

 姉は才色兼備で何事にも完璧な女性であり、学校一の人気者。だから友達とか男女の関係についての経験も豊富なはず。だから花梨さんのことについて、相談相手としてこの上ない存在なんだ。 


 でも――


 その一方で心の奥底から、今回の件は姉に黙っていた方が良いという考えがふつふつと湧いてくる。

 だから、部屋に姉がいなくてホッとした自分がここにいる。

 ただ問題が先延ばしになってしまっただけなのに……



 リビングダイニングのドアを開けると、姉と喜多が何やら真剣な様子で話し込んでいた。でもボクの顔を見るなり喜多はキッチンスペースへ下がってしまったので、何を話していたかはまでは分からない。


「しょ、しょうちゃん……ケホッ……きょ、今日は一日お疲れさま~」


 美味しそうな料理を前にして落ち着かないのか、姉はとてもそわそわした様子を見せている。


「あ……うん。お姉ちゃんこそお疲れさま。一日ボクのわがままに付き合ってくれてありがとうね」

「う、ううん。お姉ちゃんはしょうちゃんのためなら何でもするからっ。もう何でもしてあげる覚悟なんだよっ」


 拳をキュッと握り、キラリと瞳を輝かせる。


「あ……うん。ありがと……」


 と言いながらいつものイスに座ると、向かい側の姉は満面の笑みを浮かべてボクを見ている。

 大丈夫。いつも通りの姉だ。


「わー、今日の夕食は魚づくしだね。すっごく美味しそう」


 メインディッシュは白身魚のソテーで、その他にカルパッチョ、刺身、青魚の切り身が入ったお吸い物と、どれから先に箸を付けるか迷ってしまう。


「本日は偶然、漁港近くの市場に立ち寄る機会がありましたので、新鮮な食材を手に入れることができたのですよ。ええ、本当に偶然なのですが……」


 喜多が思わせぶりな言葉を口にしながら、揚げたての天ぷらを運んで来た。


「へ、へえー……そうなんだ……」


 海岸で出会った黒い人影は、やっぱり喜多さんだったのかな?


 でも、あの後ボクらはすぐ駅に戻り、姉と合流して電車に乗って帰ってきた。そしてこの家に着いたときには、もう夕食の下ごしらえが済んでいたんだ。

 だから、時間的に考えてあの黒い人影が喜多さんだったという可能性は限りなくゼロに近い。

 

「あの……ショウタさま。お吸い物のお代わりをお召し上がりになりますか?」

「あ……うん。戴こうかな」

「へい! 喜んで!」


 考え事をしているうちにあっという間に空になったお椀を渡すと、喜多はいつかの『喜多寿司』を思わせる威勢の良いかけ声と共にキッチンへと下がっていく。


「ふふふ。人は鍛錬しだいで老いも忘れられるということなのですよ。ショウタさま、私はこの若さを保ったままお待ちしておりますので……へいお待ち!」

「えっ? あ、ありがとう」


 喜多はときどきボクには理解不能なことを言う。    


「う~、しまった。こんなにいっぱい料理があるのにお代わりなんかしちゃったら、全部食べきれないかも」


 残したら一生懸命作ってくれた喜多に悪いよね。

 この間お弁当を残しちゃったばかりなのに。


「残していただいて良いのですよ、ショウタさま。むしろお残しになってくださらないと私の夕餉ゆうげが無くなってしまいます故に」

「ええっ!? それってどういう……」

「ああーん、お姉ちゃんも食べきれないよぉー。しょうちゃんお願い! お姉ちゃんの分も食べてぇー」


 この話の流れでどうしてこうなったのか分からないけれど、姉が箸で刺身を挟んで差し出してきた。


「いいえ、お嬢さまには栄養学の観点から完璧に計算された分量を取り分けておりますので、それ全部きれいに召し上がってください」

「うそっ、これ全部?」

「そうです」

「太るわよ!」

「お嬢さま……私の言葉を信じてくださらないのですか?」

「信じられないわね!」


 そして、睨み合う喜多と姉。

 

 そんな二人を眺めながらボクは料理に舌鼓を打つ。 

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