喜多さんの、にぎにぎ握り寿司(壱)
高校生活の濃い初日を終え、ヘトヘトになりながら、やっとの思いで家にたどり着いたころには、辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「
玄関のドアを開けると、意外な人物が出迎えてくれた。両腕を広げて待ち構えていた母にギュッとハグされたんだ。
ボクは背が低いので、うっかり気を抜くと、母の大きな胸に顔が埋まってしまう。そこでボクは、斜め下に顔を向けて気道を確保する。これは長年の経験から身につけたボク独自の技なんだ。
「すー、はーっ……ママ、今日はボクの入学式にきてくれてありがとう……すー、はーっ、あのまま事務所に帰っちゃったのかと思っていたけれど……すー、はーっ、仕事の方は行かなくて大丈夫なの?」
「うふふ、お仕事は今日一日は完全オフにしたの! 本当はパパもこっちに来たがっていたのだけれど、今はまだ事務所でママの分まで一所懸命に働いてくれているわ!」
「あ、そうなんだ。パパも大変だね、すー、はーっ……じゃあ、夕食は久しぶりにママと一緒だね! 楽しみだなぁー!」
「うふふ、
ここでようやくママのハグから解放されたボクは、通常の呼吸に戻ることができた。
「え、なにかなぁ……ボクの入学祝いをかねて、チキンとケーキかなぁ……」
「まるでクリスマスみたいな組み合わせね。季節感がまるでズレているけれど、思考のジャンプは決して悪い傾向ではないわ。でもちがうの。もっと和食系なのよ」
「和食かぁ……くんくん、あっ!」
ボクの鼻は、とくべつ匂いに敏感というわけではない。それでもつんと鼻につくお酢の匂いと、魚介類から染み出てくる磯の香りが玄関まで漂ってきている。
その結果から導き出される答えは、ただひとつ!
「ちらし寿司!」
「おしい! 不正解!」
指をパチンと鳴らして、残念がる母。
ボクは幼いころから、母によく推理クイズを出題されてきた。それはボクを立派な探偵に育て上げたいという親心らしい。じっさいに母がどこまで本気なのかはよく分からないけれど、ボクはクイズは嫌いではない。
ただ、ボクの推理はなかなか当たらない。
母に背中を押されてリビングダイニングへと入っていく。
すると、威勢の良い声がとんできた。
「へい、らっしゃい! お待ちしていましたよ、ショウタさま!」
「ええっ、喜多さん!? 何なの、その格好は?」
家政婦の喜多が、いつものエプロンではなく白い服を着て、ダイニングテーブルの前に立っていた。頭にも白い帽子をかぶっている。これは板前の格好だ。
そして彼女の前には、生魚の切り身やウニなどの魚介類が大皿にずらりと盛られていた。
「祥太ちゃん、どう? もう正解は分かったでしょう?」
母はボクの両肩に手を置いて、後頭部にたわわな胸を乗せてくる。
母といい姉といい、どうしてボクの家族はみんなボクの頭に胸を乗せてくるのだろうか。低身長のボクの頭が、ちょうどいい高さにあるからだろうけど、ちょっと恥ずかしいんだ。
でも、今はそんなことを考えている場合ではない。この推理クイズは母からの挑戦状。そしてボクにだって、探偵の両親に育てられた男としてのプライドがあるのだ!
「ふふふ、さすがにこの状況を見てしまった今となっては、もう真実はひとつだよ、ママ! 今夜のメニューは海鮮丼でしょ?」
ボクは得意満面の笑顔で、酢飯の入った桶にピシッと指さして答えた。
酢飯と海鮮、この組み合わせを見せられたら、もう推理の必要もないよね。
ところが、母はくらっとよろけて、テーブルに手をついた。
「ぶっぶーっだよ、祥太ちゃん……ハッ、でもまだ大丈夫! まだ一発大逆転のチャンスはあるから! ほら、推理の基本を思い出して!」
また外してしまった。できることなら、自信満々に不正解の回答をしてしまった三十秒前に時間を巻き戻したい。
えっと……推理の基本? なんだっけ、それ? ううっ、恥ずかしいー!
ボクを見る母の顔が、雨に打たれて震える小動物を見つけたときのような、哀れみの表情へと変わっていく。
焦れば焦るほど、考えがまとまらない。
ううっ。
「ショウタさま……」
喜多がボクの右手をとり、そっと両手で包み込む。喜多の手は冷たいけれど、不思議とほんのり暖かくもあった。
「推理の基本、それはなるべくたくさんの情報を集めることです……」
そっか。ボクはテーブルに置かれた海鮮の具と酢飯だけで判断を下してしまっていたんだ。
もっとよく観察して、それから情報を分析しなければならなかったんだ。
「そして、これも……大切なヒント……でございます……」
そう言いながら、喜多はボクの手を揉み始めた。ゆっくり、ゆっくりと、一定のリズムで。
「はー!?
志乃吹とは、喜多の下の名前だ。母は怒ったとき、喜多のことを下の名前で呼ぶことが多い。
つまり、今、母は何かに対して怒っているということだ。
「奥さまは邪魔しないでください。これはショウタさまの健やかな成長を願う、家政婦としての務めなのです。さあ、どうですかショウタさま……」
喜多はボクと母の間に入るような立ち位置に移動しながら、ボクの手を揉み続けている。
もみ、もみ、もみ、もみ――
ん!?
にぎ、にぎ、にぎ、にぎ――
「『もみ』じゃなくて『にぎ』だったのか! 答えは『にぎり寿司』だーっ!!」
「はい、大正解――――っ!!」
母は叫びながら、ボクと喜多の間に割り込んだ。
「すごいね喜多さん! お寿司を握るのって難しいんでしょ? 何年も修行が必要だって聞いたことがあるよ!」
「ショウタさまに美味しい寿司を召し上がっていただくために、不肖、家政婦の喜多、仕事の合間をぬって修行をしてまいりました」
「わざわざボクのために? あ、ありがとう喜多さん」
「いやいや、そんなに簡単にダマされちゃいけないわよ祥太ちゃん!」
「うふふ、この手はしばらく洗えませんね……」
喜多は自分の手のひらを見つめながら、恋する乙女のような顔で微笑んでいた。
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