喜多さんの、にぎにぎ握り寿司(弐)

 姉が帰ってきた。

 

「うわーん、お姉ちゃん遅くなっちゃったぁーっ、しょうちゃんはもう、先に食べちゃったかなぁー?」


 玄関のドアが開く音に続いて、感情が爆発したような姉の叫び声が聞こえてきた。

 どたどたと慌ただしい足音のあと、バーンと勢いよくドアが開く。


「ちょっと、ちょっとー! もっとおしとやかに入って来れないのかしらー?」

「お姉ちゃんお帰りなさい」

「へい、お嬢さま、らっしゃい!」


 三者三様の声かけに、『はい?』っと言ったっきり、目を丸くして入口で立ち止まる姉。

 驚くのも無理はない。だって、いつものリビングダイニングが、今夜はお寿司屋さんに大変身しているのだもの。


 まず目をひくのは、木の板に『まぐろ』『かに』『いくら』『うに』『たまご』と達筆な毛筆で書かれてたメニューや、魚のイラストが描かれたポスターが壁一面に張られていること。どれもが、まるで本物の寿司屋から持ってきたような、本格的な装飾なんだ。


 そして、寿司職人の格好をした喜多の背面には、紫色の暖簾のれんがかけられているのだけれど、小さく『きた寿司』と書かれていて、かなり年季の入った物のようだ。ボクの手首に巻かれているミサンガと同じ色の組紐で、キッチンカウンターに結ばれている。


「ど、どういうことなの? なんで家の中にお寿司屋さんがあるの? なんで喜多が寿司職人になっちゃった!? なんでママが今夜も家にいるの、仕事はどうしたの? 今夜のしょうちゃんもすごくラブリーだよ! 何か良いことあったのかしら?」


 呆気にとられていた姉が、せきを切ったように、矢継ぎ早に疑問を投げかけてくる。

 学校で見た、堂々とした立ち振る舞いの、生徒会長・夢見沢かえでの片鱗すら見られない。


「もう、つばを飛ばさないでくれるかしら。ちょっとは落ち着きなさいよ。感情を先走らせると良いことは何もありませんよ。まったく、この性格は誰に似たのかしら……私の父はせっかちな人だったから、これは隔世遺伝かしらね?」


「だーかーら、どうしてママがここにいるのよ! しょうちゃんの学級懇談会が終わったら、すぐに帰るって言っていなかったかな?」


「どー、どー、お嬢さま……まずは落ち着いて、席にお座りください。はい、お手拭きでございます……」


「えっ、あっ、はい……ありがとう。……ねえ喜多、あなた最近、ますます口の利き方が横柄おうへいになってきていないかな?」


「そんなことはございません……ただ、今夜は不肖家政婦の喜多は、職人ゆえに、職人気質により、そう錯覚される場面もあるかと……寿司職人ゆえに……」


 そう言いながら、喜多はすました顔で、だし巻き卵をタッパーから取り出し、まな板の上に置いて、サクサクと切り始めた。

 魚介類の匂いに混じって、卵の甘い香りが漂ってきて、寿司といえばサカナよりもタマゴ派のボクのお腹の虫が、ぐうーっと鳴いた。


「喜多さんはね、仕事の合間を縫って、寿司職人に弟子入りして修行したんだって! ねえ、スゴいよね! お寿司を握るのって、とても難しいことなんだよね? あ、それから今日のボクに何か良いことがあったかということについては、ノーコメントだよ。今は言いたくないんだ……えへへ」


 ボクは愛想笑いをうかべた。

 入学初日にして、あんなことや、こんなことがあったなんて、楽しい食事の席で言うべきではない。

 それに、大抵のことは時間が解決してくれることを、ボクは知っている。どんなに辛い体験も、時間が経てば色あせてくる。そのうち、気にならなくなるんだ。


しょうちゃん、どうかした?」


「えっ……」


「学校で、何か嫌なことがあった?」


「えっと……どうしてそんなこと訊くのかな?」


「うーん、何となく」


 姉は勘が鋭い。

 ボクの笑顔がつくりものであることを見抜いてしまう。


「学校では嫌なことなんか何一つないよ! うん。担任の先生も優しい人だったし、入学初日でもうクラスの友達もできたし!」


「…………」


 できるだけ自然な感じで答えたつもりだけれど、姉は無言のままボクの目をまっすぐに見つめ返してきたので、ボクは思わず顔を反対側に逸らしてしまう。

 すると、今度はボクの深層心理までも見透かそうとしているような真剣な表情の母と目が合ってしまい、背中から変な汗がにじみ出てきた。


 ――タン!――


 音にビックリして視線を正面に向けると、まな板の上には包丁で真っ二つに分かれたタコがあった。


「おっと、意外と固いものなのですね、タコというものは……ですが、郷の銘刀職人により鍛えられたこの包丁に、斬れぬものなどございませんゆえに……斬れぬものなどございませんゆえに……」


 同じことを二度繰り返し言いながら、喜多はタコを手慣れた手つきで捌いていく。

 一瞬、ギラリと光った彼女の目は、寿司職人というよりは、暗殺者のような鋭さだったけれど、よく考えたら喜多はただの家政婦なんだ。今のはボクの目の錯覚に違いない。


 姉と母は相変わらずボクをじっと見つめている。

 やはり、学校の話題は避けた方が良いと、ボクの直感が告げている。


「あー、そのタコ美味しそうだね! 最初はタコからもらおっかな?」


「……へい、よろこんで!」


 喜多の声にハッとしたように、母と姉はボクから目を離して、正面に座り直した。


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