それぞれの誘拐事件(7)

 これは私が名門私立小学校に通い始めた頃の話だ。


 当時の私は二歳年下の弟、しょうちゃんのことが大好きだったのだけれど、それは「好き」であって「ラブ」ではなかったと思う。

 おねーちゃん、おねーちゃんと駆け寄ってくる小っちゃな弟を全身で受け止めながらも、心の奥底では別の感情を抱いていたからだ。

 それは嫉妬心――だったのだろう。今でもそのときの感情を正確には言い表せないのだけれど。


 私は幼い頃から両親に過度の期待をかけられ、様々な英才教育を受けさせられていた。習い事も多くさせられ、結果を求められていた。学校でも学年一位の成績を求められていた。

 それに引き換えしょうちゃんには両親とも甘く、彼には自由が与えられていた。

 だから、私は彼に嫉妬していたのだ。

 彼がいなくなればその自由が私に与えられるのでは、両親の愛情が自分に向くのではと――幼い私は考えていたのだ。


 とある日曜の昼下がり――当時は自宅が探偵事務所を兼ねていたのだけれど、事務所から大人が一人もいなくなる時間帯があった。それに気付いた私は、小っちゃなしょうちゃんを一人残して遊びに出かけたのだ。

 それはとても勇気のいること。そして、この上なく刺激的なことだった。

 大人が事務所に戻るまでに帰ってくればいい。しょうちゃんにはお菓子を買ってきてあげよう。そうすればしょうちゃんだって喜んでくれる。私も楽しい。誰も困らないはず――


 ちがう。

 私は弟に意地悪をしたかったのだ。


 私は初めての大冒険に酔いしれた。見るもの聞くものすべてが刺激的で、駅前のショッピングセンターを夢中になって歩き回った。私は自由になったのだ。


 アイスクリーム専門店から出て来る親子を見かけたとき、ふとしょうちゃんの姿が重なった。

 おねーちゃん、おねーちゃんと駆け寄ってくる無邪気な笑顔。彼は今、独りぼっちで何をしているのだろうか。泣いているかもしれない。その姿を想像した途端に、周りの景色が灰色に変わってしまった。


 心臓が激しく鼓動する。

 駄菓子屋でマシュマロとチョコ菓子を買い、急いで店を出る。


 だいじょうぶ。だいじょうぶ。

 しょうちゃんはきっとたいじょうぶ。

 このお菓子を渡したら笑顔を向けてくれるはず。

 「おねえちゃん、ありがと」と言ってくれる。


 空にはあかね雲がぽっかりと浮かんでいる。

 公園の木に止まっていたカラスが一斉に飛び立つ。

 

 だいじょうぶ。だいじょうぶ。でも――


 自分勝手な私に神様は罰をお与えになられたのだ――

 私が最も苦しくなる――最悪の罰を――


 角を曲がるとパトカーの赤い光が目に飛び込んできた。

 しょうちゃんは身代金目的に誘拐されていたのだ。



 よほど怖い思いをしたのだろう。外傷もなく家に帰ってきたしょうちゃんは心を閉ざしていた。

 おねーちゃん、おねーちゃんと駆け寄ってくるしょうちゃんはもういなかった。

 部屋の隅で無表情に座っている小っちゃな体を見て、私はどうしていいか分からずにただ泣いていた。

 両親はそんな私を無視するように、弟の手を取り話しかけていた。


 

 彼女が現れたのは事件から二ヶ月後のことだった。


かえでお嬢様、ショウタお坊ちゃま――初めましてなのです。私は家政婦の喜多でございます」


 それが私たち姉弟と喜多とのファーストコンタクト。


 喜多は不思議な匂いのするお香を焚き、しょうちゃんの小っちゃな体を触りながらお経のようなものを唱え始めた。

 今考えると、それは何かの呪術的な行為だったのかもしれない。

 やがてしょうちゃんの瞳に輝きが戻り、部屋の隅で立ち尽くす私を捉え――天使の微笑みが向けられたのだ。


 その瞬間、私の中の色のない世界が崩れ落ち、代わりに黄金色に輝く新世界への扉が開かれたのだ。

 

 私は誓った。しょうちゃんのためなら何でもすると。

 それは言葉通りの意味。

 命をしてもしょうちゃんの笑顔を守るのだ。

 私の心も体も、しょうちゃんに捧げるのだと――



 だからこそ、今日私が誘拐されたことをしょうちゃんにだけは知らせたくなかった。

 もし、しょうちゃんが昔の記憶を思い出して苦しむようなことになれば、私はどうしたらいいのか……と。


 ううん、それは私の誤魔化し。


 私はしょうちゃんを危険な目に遭わせてしまったという私の罪を、彼に思い出して欲しくないのだ。

 私という女は、どこまでも身勝手で罪深き存在なのだ。


(それにしても、今回も喜多に助けられたわね……)


 最寄り駅からの帰り道、珍しく隣を歩く喜多の横顔をちらりとのぞくと、彼女と目が合ってしまった。

 喜多はふっと微笑み、口を開く。


「心配はご無用ですよ、お嬢様。ショウタ様はご自身の辛い記憶は思い出していないようですから」

「ふえっ、ど、どうして私の考えが分かったの?」

「お嬢様の考えなど、私にはすべてお見通しなのですよ」


 ふふんと得意げに笑う彼女。

 きっとこれは彼女なりの優しさなんだろう。


「あれ……、そういえば喜多は最近しょうちゃんのことをショウタ様って呼ぶようになったのね。以前はショウタお坊ちゃまと言ってなかった?」

「うふふ、そうですね。それだけ私とショウタ様の関係が進んでいるということでしょうかね」

「はっ!?」


 ふふんと得意げに笑いながら、腕に巻き付けた編み紐をこれ見よがしに見せつける喜多だった。

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