それぞれの誘拐事件(2)

 冷蔵庫から取り出した牛乳をケトルに注いで温める。

 カップにココアをスプーン四杯分入れて、少量のお湯を足してかき混ぜる。 

 ココアを練っているとあまい香りがキッチンに広がって幸せな気分に満たされる。

 ここで適温に温まったホットミルクをゆっくりとカップに注ぐ。

 最後に砂糖を一杯、二杯、三杯入れて、……四杯目はシュガーポットに戻してふたを閉めた。

 ボクはもうすぐ高校生になるんだから、甘さ控えめのミルクココアを飲む練習が必要だよね。


 出来立てのミルクココアに近所のコンビニで買ってきたチョコクッキーを添えて、三時のおやつの完成だ。


 家政婦の喜多きたは朝の一件以来姿を現さないし、父は事務所にいる母から緊急の連絡があって急いで帰ってしまった。

 こんな事態だから絶対に一人で出歩くなと釘を刺されてしまった以上、ボクは家でおとなしく姉の帰りを待っているしかないのである。


 昼下がりの平日のテレビは特に面白い番組もないけれど、勉強の他にはとくにやることはないので、ただ何となくテレビをつけてみた。


 テレビの前のソファーにもたれかかり、チョコクッキーを口に放り込みミルクココアで流し込む。  

 一人で食べる三時のおやつは味気なかった。

 

「あーあ、やっぱり砂糖もう一杯入れればよかったかな……」


 ため息まじりに独りごちる。


 テレビでは暴力団幹部が逮捕されたことについてのニュースが流れている。

 あまりニュースに興味のないボクでも、最近は暴力団と麻薬に関する話題をよく耳にするようになってきた。

 父の仕事は探偵だけれど、もしかするとこれらの事件に無関係ではないのかもしれない。


 父は日頃から『日本の警察は法律を守ることに縛られすぎて身動きが取れないのだ』とぼやいている。だから自分は警察を退職して探偵になったのだと――


 父はボクにとって憧れのヒーローなんだ。

 日本の平和のために危険を顧みず働いている父をボクは尊敬している。

 母もそんな父のことが大好きで、ずっと一緒に働いている。


 でも、大切な学校行事があるときには、どんなに仕事が忙しくてもどちらかが来てくれる。

 中学校の卒業式も、高校の入学前説明会にも来てくれた。


 だからこそ、今日のように何でもない日には、安心して仕事ができるように協力してあげなければならないんだ。

 ボクがもっとしっかりしなければ……一人前の男にならなければ……家のことは心配しないでと言えるようにならなくては……


「ううっ……」


 チョコクッキーをかじりながらそんなことを考えていたら、いつの間にかボクの目から涙があふれてきた。  

  

 広いリビングダイニングの隅っこで、ミルクココアを飲みながら一人涙を拭いているボク――


 そんな情けないボクをあざ笑うかのように、電話の着信メロディーが鳴った。


 ナンバーディスプレイには『非通知』の表示。

 誰だろう?

 家族間の連絡はスマートフォンで済ますし、姉の友達だったら姉のスマートフォンにかけてくるだろう。

 そしてボクには電話をかけてくるような友達はいない。

 おそらくは何かの押し売りだ。

 でも、父の仕事関係の人の可能性もあるわけで……


 何かを売りつけるための勧誘だったらすぐに切ろうと心に決め、受話器を取った。


「もしもし……夢見沢ゆめみざわですが……」

『――あれ、かけ間違えじゃないか? ガキが出たぜ! えっ、合ってるって? ああそうか、確かにこのガキ、ユメミザワって名乗っていたような……』


 声の主は乱暴な言葉遣いの男だ。すぐ近くには別の男がいるらしく、何やら言い合いをしているようだ。


「あの……押し売りでしたら切りますけど」

『待て待て、お前は誰だ? その家には小学生のガキはいないはずだ!』

「はっ!?」


 ボクは一瞬でムカついてしまった。

 確かにボクの声は幼く聞こえるかもしれないけれど、小学生と間違えられるのは耐えがたい屈辱だ。


「ボクは小学生じゃありませんが!」

『なんだ、まだ入学前の幼稚園児かよ。まあいい、お家の人にかわってくんないかなぁー、ボクちゃん!』


 ムカつくムカつくムカつくーっ!

 地団駄を踏んで悔しがるボク。


「――もう切りますね!」


 受話器を耳から離そうとしたその時だった。

 電話の向こう側から姉の声が聞こえてきたような気がした。

 慌てて耳に付けると、


『女を黙らせろと言ってるだろうが! 口をしっかりと押さえつけていろ、この役立たずがーっ!』


 耳をつんざくような男の怒鳴り声が聞こえてきた。



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