それぞれの誘拐事件(1)
朝から生徒会の大切な仕事があるからと、急いで朝食のパンを紅茶で喉に流し込んでいる姉。
その姉の横顔をやさしい笑顔で見つめている父。
この二人は出会うたびに、まるで仲の良い兄妹のようにじゃれ合っている。喧嘩するほど仲がいいというものね。
それにしても……家政婦の
さっきも父が家に入って来たとたんに完全に動きを止めてしまったし、変な煙に覆われたと思ったら、いつの間にか姿を消していたんだ。
本当に不思議な人だ。
慌ただしく朝の準備を終えた姉は、ボクらに名残惜しそうに手を振りながら家を出て行った。
ドアが閉まる直前に、ボクの隣で投げキッスをしている父に向かってベーっと舌を出し、しかめっ面を見せていたけれど、ボクはそんな父が羨ましい。
気心の知れた家族って感じがする。
「さてと……」
と呟きながら振り向いた父の顔は、少し引き締まった表情に変わっていた。
ボクは改めて尋ねることにした。
「ねえ……パパがたまたま偶然に家の近くを通りかかったというのは……嘘だよね?」
「……なぜそう思うんだい?」
「だって、パパがそんな無計画なことをする訳ないもん! 『たまたま』も『偶然』も、パパの辞書は載っていないはずだから!」
「ふふふ、ほんと祥太には敵わないなー、参ったなー」
頭をぽりぽり掻きながら、真っ白な歯をピカリと光らせる父。
朝の光を背中に浴びたその姿は、いつもの
威厳とはいったものの、ボクと姉がまだ幼かったころの父と比べると温かみのある厳しさだ。
ボクが幼稚園に通っていた頃は姉はまだ小学生で、そんな幼い姉は毎日のように父に泣かされていた。
周りからは神童ともてはやされる一方で、もっと上を目指せと毎日のように説教をされている姉を、ボクはぼんやりと眺めていることしかできなかった。
当時の父がなぜ姉だけにそこまで厳しく接していたのかは未だに分からない。ただただ、父が怖かったという印象だけがボクの記憶の中に残っている。
ひとり部屋に残され泣いている姉に、幼いボクは何か声をかけたのだろうか。それとも、ただ怖くて一緒に泣いていたのだろうか。
不思議なことに、その辺りの記憶がすっかり抜け落ちているので、分からないのだけれど――
「実は…… 探偵の仕事でちょっと厄介な連中と関わってしまったんだよ」
「厄介な連中って……暴力団とか?」
「まあ、そういうことになるかな。もっともその組織の下部のまた下部の下っ端集団みたいな連中なんだけれど。返ってそんな連中の方が厄介だったりするものなんだよ」
「……そっか。探偵のお仕事も大変なんだね。パパ、お疲れさま」
ボクがフーッとため息を吐きながらそう言うと、父はボクの頭をくしゃくしゃに撫でながら笑顔を見せた。
一瞬、昔の記憶に残る父の顔が重なって見えたけれど、今も昔も父の愛情は変わりはないはずだ。
「それでパパは、ボクたちに危害が加えられることを心配して、様子を見に来てくれたんだね?」
「うん。まあ、そんなところだ」
「でもボクたちは大丈夫だよ。家には喜多さんだっていてくれるし、いざとなればボクだって……」
ボクだって姉を守ってあげられる――そう言いかけて、口ごもってしまった。
だって、こんなに小柄で力のないボクが、下っ端とはいえ暴力団の男たちを相手に、いったい何ができるというんだ。
「……そうだったな。家には祥太がいるんだものな。いざとなったらお姉ちゃんを守ってやってくれ! それに、カエデにはボディーガードを付けているから外出中は安心だからな……」
「ボディーガード!? そんな人がうちにいたの?」
「うん。知らなかったか? 人選はカエデ本人に任せっきりで、パパも会ったことはないのだけれど、凄腕のボディーガードを雇っていることは確かだぞ。契約料も相場の三倍は払っているからな!」
「三倍も!?」
「うん。その分、家政婦の
「ええっ、喜多さんはそんなに給料が安いの!? 気の毒すぎるよー! もっと優遇してあげてよ、喜多さんは頑張ってくれているよ?」
「祥太はやさしい子だなー」
ボクの頭にぽんと手を乗せ、微笑む父の顔を不満顔で見上げるボク。
なぜか素直になれない自分の気持ちが不思議だった。
「でもおかしいな……。お姉ちゃんと外出しているときにも、ボディーガードなんか見かけたことはないんだけど……?」
「それはそうだろう。相手はプロのボディーガードだ。身内にも簡単には姿を現さないだろう。それに――」
父はボクの耳元に顔を寄せてきて、
「その人は忍者の
「に、忍者!?」
ボクは驚いてきゅっと胸の前で拳を握る。
その左手首に編み紐のミサンガが揺れていた。
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