お姉ちゃんの寝癖(後編)

 ボクと父の目の前で派手に転んだ喜多は、床に突っ伏したまましばらく動きを停止していた。


「き、喜多さん大丈夫!?」

「シノブ大丈夫か?」


 ボクと父が同時に顔をのぞき込むと、喜多はハッと意識を取り戻したように顔を上げ、


「こ、ここは桃源郷なのでしょうか?」


 ごろんと仰向けになり、意味不明なことを言い始めた。

 そしてボクと父の二人の顔を交互に見るように視線を泳がせていた。


「頭をぶつけてしまったのかシノブ! しっかりするんだシノブ!」

「ふひぃぃぃー!」


 父が彼女の頭を抱き上げると、なぜか悲鳴をあげた。

 その顔はとても苦しそうで真っ赤に変色している。


「た、大変だ! お姉ちゃん、救急車を呼ぼう!」


 ボクが慌てて声をかけると、姉はどういう訳か黙々と散乱したティーセットの破片をお盆に集めていた。

 

「……お姉ちゃん?」

「喜多はすぐよくなるから大丈夫だよ。ほら、パパも片付けを手伝って! 元はといえばパパのせいなんだからね!」

「はっ!? どうしてパパのせいなんだい? シノブがよく転ぶのはいつものことだよな? な? な?」


 頭を抱えたまま父が顔を寄せていくと、喜多の顔は沸騰しそうなぐらいの勢いで更に真っ赤になる。

 そして一瞬白目になりかけた彼女は、ぐっと歯を食いしばった。


 次の瞬間――


 パンと乾いた音が鳴ると同時に部屋が白い煙幕に覆われた。

 ボクは花火のような匂いの煙を吸ってしまい、激しくせてしまう。


しょうちゃん、ハンカチを口に当てるのよ、ほらっ」


 視界がままならない中、姉の声がボクのすぐ耳元で聞こえてくる。そして口元に柔らかな布が押し当てられた。

 ボクはそれを受け取って自分で押さえようとしたけれど、姉は手を離すことはなかった。それどころか、姉の手の上に被せたボクの手を包み込むように、更にもう一方の手を被せてきたんだ。


「……うっ?」

「だいじょうぶだよしょうちゃん……お姉ちゃんが押さえていてあげるから……」

「……ううっ?」


 頭の後ろに柔らかな胸の膨らみを感じる。

 そう、姉はボクに後ろから抱きつくように身体を寄せてきたのだ。


 一息吸うごとに、薔薇の花のような香りに満たされていくボク。

 やがてボクの精神はお花畑にトリップしていった。


 2分後――


 視界が戻ってくると、父が片膝を付いた姿勢のまま口元にハンカチを当てているのが見えた。

 でも、父と一緒にいたはずの喜多の姿はどこにもなかった。


「き、喜多さんが消えた!?」

「シノブが消えたぞ!?」


「パパまで驚かないでよ!」


 ボクと一緒に周りをキョロキョロ見回している父に向かって、姉は呆れたようにそう言った。



 ▽


「んーっ、今日も一日頑張れそうだよー!」


 しょうちゃん成分の補給に成功した私は、取り急ぎ用意したトーストとインスタントの紅茶で朝食を食べている。

 家政婦の喜多きたが用意していた朝食セットがダメになってしまったのだから仕方がないのだ。


 しょうちゃんとパパはというと、二人で協力して汚れた床を掃除してくれている。

 家政婦の喜多きたがドロンと雲隠れしてしまったのだから仕方がないのだ。


「まだ陶器の破片が残っているかもしれないから、気を付けて歩くんだぞ」

「うん、分かってるよパパ」

「しかし、本当にシノブはあれで役に立っているのかい?」

「えっ、どうして? 喜多さんは何でもできるいい人だよ?」

「いやいやいやいや、それはないだろー! シノブがまともに働いている姿を一度たりとも見たことがないぞ」

「えー、変だなぁ……」


 首を傾げるしょうちゃん。

 それに合わせて首を傾げるパパ。


 そりゃあ、パパは見たことがないだろう。

 喜多はパパの前ではドジっ娘キャラ属性が全開になってしまうのだから。


 そんなこともあって、喜多は探偵事務所から我が家の家政婦へと異動させられたに違いない。

 そもそも、どうしてそんな彼女が探偵としてパパの探偵事務所に入ることになったのかについては謎なのだけれど。


「おや? カエデちゃん……」

「なっ、なによ。私は食べたらすぐに学校に行かなくちゃならないのだから話しかけないでよ、ふんっ」


 私が冷たく返すと、嬉しそうに頬を赤らめるパパ。

 でもその視線は少し上を向いていた。


「な……なに?」


 動揺する私に顔を寄せてくるパパ。

 そして、私の頭の後ろを指さしながら。


「後ろの髪が立っているぞ。……それは寝ぐせかい?」

「きゃぁぁぁぁぁー!」

「お、お姉ちゃん!?」


 後ろ髪を押さえて発狂する私に近寄ってくるしょうちゃん。

 私は今の今まで寝ぐせのことを忘れてしまっていた。

 それをしょうちゃんに気付かれてしまったのだ。


「こ、来ないでぇー……私のこんなだらしない姿を見ないでぇー……」


 この世の終わりを迎えた気分になった私は、へろへろになって壁際まで下がっていく。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、しょうちゃんはまん丸お目々を向けて私を追い詰める。


「寝ぐせのあるお姉ちゃんって、何だか新鮮だね!」

「ふえっ?」

「だって、何事にも完璧なお姉ちゃんに抜けているところがあると、いつもより身近に感じるというか……いいなって……」

「しょ、しょうちゃん……こんなお姉ちゃんを好きって言ってくれるの……?」

「えっ!? ……う、うん。好きだよ……」

「はうっ!!」


 しょうちゃんの言葉の海に溺れる私。

 胸が苦しい。

 今すぐ抱きしめたい。

 そして私の『好き』の全てを伝えたい。

 

 今こそ――


「ぷっ、あははははははははははは」

「は?」


 突然、しょうちゃんが笑い始めたので後ろを振り向くと、パパが変顔を見せていた。

 私の渾身の肘鉄を受けて床に転がるパパは、赤く腫れ上がった自分の頬を満足そうにさすっている。


 本当に気持ち悪い。

 この男は、私がこの世で最も苦手とする、私の天敵なのだ。

  

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