お姉ちゃんの寝癖(前編)

 窓の外の電線にとまるスズメの鳴き声で目を覚ました私は、時計を見て驚愕した。起床予定の五時半はとうに過ぎ、時計の針は八時を回っていたからだ。


 どうやら私は、十七年間の人生において初めて朝寝坊というものをしてしまったらしい。

 

「うーん…… しょうちゃん……」

 

 おでこに手を当てて、弟の名を呟く私。


 春休みとはいえ、名門星埜守ほしのもり高校の生徒会長ともなれば、連日のように登校しなければならない。

 とくに今日は新入生歓迎会のリハーサルという大切な予定が入っている日なのだ。


 そんな大切な日に遅刻してしまいそうな私。

 それなのに、私の口からは弟の名がこぼれてくるのだ。


しょうちゃん……」


 これはいけない。禁断症状だ。

 ――しょうちゃん成分欠乏症。


 昨夜、しょうちゃんの笑い声で目を覚ました私は、しょうちゃんの抱き枕に搭載したしょうちゃんの寝息収集装置の故障に気付いてしまった。

 人というものは、一旦そのことに気付いてしまうと、ずっと気になってしまうもの。

 それに加えて私はしょうちゃんの息づかいを常に感じていなければ眠れない体質なのだ。



 身だしなみを整えるのもそこそこに、私は廊下に出る。

 途中、しょうちゃんの部屋の前で三分間ほど立ち止まってしまったけれど、なんとか自制心を保ちつつ階段を降りていく私。


 あぁ…… お姉ちゃんのこんな姿をしょうちゃんが見たら、きっと幻滅してしまうだろうな……


 跳ね上がった後ろ髪を気にしながら、よろよろした足取りで階段の手すりにもたれかかりながら降りていく。


「あははは……」

「――ハッ」


 天使の笑い声が聞こえ、私は息を飲み込む。

 しょうちゃんがリビングダイニングにいる!?


 そっか……


 もう八時を過ぎているものね。

 春休み中とはいえ、規則正しい生活をするしょうちゃんが起きているのは当然のこと。

 私はそんなことも分からないぐらいに気が動転していたのだ。


 天使の笑い声に吸い込まれるように足が独りでにリビングダイニング向かっていく。

 それはもう、寝癖のことを気にする余裕もないぐらいに――


 ドアを開けると、輝く天使の後ろ姿が見えた。

 しょうちゃんはダイニングテーブルに座り、楽しそうに笑っている。


 あぁ…… この一瞬のために、私は生まれてきたんだ。


 抱きしめたい。

 しょうちゃんの後ろに立って、背後から手を回して抱きしめたい。


 ううん、抱きしめよう。

 もう、ギュッと抱きしめるしかないよね?


 しょうちゃん成分欠乏症の末期症状に陥った私は、ゆらりゆらりと近づいていく。

 その間も、しょうちゃんは誰かと話をしている訳だけれど。

 そんなことはどうでもいい。


 震える手で、背後からしょうちゃんの首に手を寄せていくと――


「カエデちゃーん、会いたかったよぉぉぉ――――ぐはっ!」


 更にその背後から中年オヤジの手が伸びてきて――

 私は肘鉄をその顔面に喰らわせたのだった。


「お、お姉ちゃんいきなりどうしたの!?」


 まん丸お目々で私を見上げ、床に仰向けに倒れた中年オヤジを気遣うしょうちゃん。

  

「ぜー、ぜー、なっ、なんでもないのよしょうちゃん。こ、これは最近流行はやりの朝の挨拶みたいなものだから……」

「えっ、今のが挨拶だったの!? 本当に?」

「うん、もちろん! ねえ、そうよねパパ!」


 ジト目で見下ろす私と視線を合わせた瞬間、セクハラ中年オヤジこと、私たちのパパはゾクゾクしたように身体を震わせた。


 こ、この男は……気持ち悪すぎる。

 この世で最も苦手で、私の天敵であるパパは私に痛めつけられた頬を愛おしそうに撫でながら立ち上がり。


「今朝の挨拶は、サイコーだったぞ! カエデちゃん」

「うるさい、黙れ!」


 思わず悪態をついてしまう私。

 パパは、そんな私の反応もごちそうとばかりに白い歯をキラリと光らせた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る