お姉ちゃんと毛蟹(中編)

 二階の自分の部屋で制服から部屋着に着替え、フルーツ牛乳を片手にいちごサンドを頬ばりながら階段を降りていく。

 リビングダイニングの扉を開けると、テーブルの上に毛ガニが三尾、新聞紙の上に並べられていた。


「すごいねお姉ちゃん! これは相当高そうな毛ガニだよ!」

「うふふ、生きたまま北海道から直送された毛ガニを喜多と二人で茹でたの♡ それまでゆらゆら揺れていた脚が最期にはキュッと縮こまって、可愛かったよ~♡」

「えっ……生きたまま……茹でたの?」

「えへへ、すごいでしょ~♡」


 姉はにこにこ嬉しそうに言っているけれど、生きたまま熱湯に入れられた毛ガニの気持ちになったことを想像するとなんだか痛々しくて可哀想だな……

 ある日突然陸揚げされて、いつかは大海原に帰るんだという願いも叶わず熱湯に入れられ、苦しみもがいてその生涯を終えたんだ。


「あっ、毛ガニが可愛いとはいっても、しょうちゃんの可愛さには到底及ばないんだからね!」

「あ、うん、大丈夫だよお姉ちゃん! ボクは毛ガニと可愛らしさで張り合おうなんて、これっぽっちも思っていないから」

「じゃあ、じゃあ、なんで悲しそうな顔をしていたのかしら……」

「あ、今ボク悲しそうな顔をしていた? ……えっと、それはきっと……」


 オロオロした様子でボクの顔をのぞき込む姉。

 大きな瞳をぱちくりさせて、ボクのことを真剣に心配してくれている。


「お姉ちゃんが見たのは……生命の尊さに思いを巡らした時のボクの顔だよ、お姉ちゃん……」

しょうちゃん……尊い……何だかよく分からないけど、尊い……尊いわ!」


 姉の頬は茹でられた毛ガニの甲羅よりも赤くなり、両手で顔を覆ったまま指の隙間からボクを見つめている。

 ボクはなんだか照れくさくなって、フルーツ牛乳のストローを咥えてちう~っと一気に飲み干した。


「コホン……、ところでこの毛ガニはお姉ちゃんのお昼ご飯なの?」

「しょ、しょうちゃんの中でお姉ちゃんは昼から大きな毛ガニ三杯を一人で食べちゃうような食いしん坊キャラの設定なの!?」

「あっ、そうか! 喜多さんと二人で食べるつもりだったんだね。あれ、喜多さんは今どこに……」

「喜多なら自分の部屋に――ッ! ゲフン、ゲフゲフッ」

「お、お姉ちゃん大丈夫!? 風邪引いちゃったの?」

「大丈夫よしょうちゃん、ゲフンッ! えっとー、喜多は自分のヘアーを直しに自宅へ帰ったところよー、うん!」


 上ずった感じの声で姉が答えた。


 詳しく聞いたところによると、どうやらこの毛ガニたちは炊き込みご飯の下準備のために喜多が用意していたものだけれど、ボクが帰って来る直前に、髪が乱れたと言って家に戻ってしまったということらしい。


 ほんと、喜多さんって不思議な人だよな……


「じゃあさ、この毛ガニはどうするの? 取り敢えず冷蔵庫に入れておく?」

「ううん、お姉ちゃん一人で頑張って捌いてみるよ!」

「ええっ、お姉ちゃん一人で?」

「だってだってぇー、しょうちゃんは受験で疲れているでしょう?」


 両手の指を絡めてもじもじと身体をくねらせて、そして上目遣いでボクに視線を向けてくる姉。

 名門星埜守ほしのもり高校では生徒会長を務める才色兼備で完璧な姉だけど、守ってあげたくなる程に可愛らしく見えることもある。今がまさにその時だ。


「ボクも手伝うよ、お姉ちゃん!」

「よっ! しょうちゃん男らしい! さすが星高生!」

「えっ、ボクまだ合格が決まった訳じゃないよ?」

「ううん、しょうちゃん頑張ったんだもん。絶対受かってるよー!」


 姉にそう言われると、もの凄く自信が沸いてくる。

 なんだか、もう県立K高校なんかどうでもいいやって感じに思えてきた。




 二人のイスをくっつけて横並びになり、黙々と毛ガニの脚をもぎ取っていく姉とボク。

 もぎ取った脚を大皿に並べていく単純な作業なのだけれど、茹で立てのカニの美味しそうな匂いと姉からほんのり漂うバラのような香りが混じり合い、なんとも表現しづらい感覚に陥るボク。


「あっ、痛い!」

「あわわっ、しょ、しょうちゃんどうしたの?」

「毛ガニのトゲが指に刺さっちゃったー!」

「へっ――――!?」


 ボクの人差し指に穴が空いてそこからぷくっと表面張力による血の玉が出来上がり、やがてポタポタと新聞紙の上に流れ落ちていった。

 それを見た姉は、怪我をしたボク本人よりもパニックになり、毛ガニを持ったまま手をあたふたと振り回している。

 はさみと胴体が、カチカチとカスタネットのように音を立てている。

 ハッとした表情になった姉は、毛ガニをテーブルの上に放り投げ、突然ボクの手を握る。


 次の瞬間、ボクの怪我をした人差し指をかぷっと咥えた。


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