夢見沢楓の休日(前編)

 スマートフォンが五時三十分の起床時刻を知らせた。

 全室床暖房とはいえ、さすがにこの時間は肌寒いのでネグリジェの上にガウンを羽織りベッドから立ち上がる。


 私、夢見沢かえでの朝は早い。なぜならしょうちゃんがその日最初に見る私の姿を完璧に仕上げておかなければならないからだ。


 鏡台の前に座り、髪にブラシとヘアアイロンを当てていると、壁の向こうにある隠し部屋から物音がし始める。


 この家は外観こそモダンな雰囲気の大きな家だけれど、その中は忍者屋敷のようにいくつかの隠し扉と通路、そして隠し部屋が存在する。


 探偵事務所に泊り込んでいるパパとママに代わり、私たちの身の回りの世話を任せている家政婦の喜多きたは、その隠し部屋の一つに住んでいる。そのことはしょうちゃんには秘密にしてあるのだけれど。


 三十分かけて髪を整え、階段を降りていくとエプロン姿の喜多が朝食の下準備をしているところだった。


「おはようございますかえでお嬢さま。今朝はスペインのアンダルシア地方より取り寄せたイベリコ豚の生ハムを用意しました。カリカリに焼いたパンにトマトのジュレと共に乗せて召し上がってください。盛り付け見本を一つ製作しましたのでご参考までに……」


「ええ分かったわ。パンは食べやすい大きさに切っておいてね。あっ、それからしょうちゃんにはカフェイン多めのコーヒーミルクを飲ませてあげたいので、ミニケトルを出しておいてちょうだい」


「ははっ、かしこまりました!」


 家政婦の喜多きたは決して出しゃばり過ぎない。私としょうちゃんのラブラブな二人暮らしを支援することが彼女の任務なのだから。


 大理石で囲まれた洗面所で顔を洗い、歯磨きをする。

 鏡の前で笑顔チェック。

 うん、今朝も完璧なお姉ちゃんになれている!


「んーっ、しょうちゃんに早くおはようって言いたいなーっ!」


 伸びをしながら独りごちる。


 私のしょうちゃんはきっとまだ夢の中。昨夜は遅くまで部屋の明かりが点いていたもの。


 星埜守高校うちの学校に合格するために頑張っているしょうちゃん。

 お姉ちゃんと一緒の学校へ行きたいって頑張っているしょうちゃん。

 私は、しょうちゃんの希望を叶えるためなら何でもやってあげるの。


 …………。


 私は喜多に気付かれないように二階に戻る。

 そっと開けるドアにはアルファベットの貝殻で『SHOCHAN』と書かれたネームプレートが掛かっている。これは修学旅行先の沖縄で私が作ってきた物。


 部屋の中は白を基調とした家具で揃えられていて、一見すると女の子の部屋の雰囲気なの。もっと男の子っぽい部屋にしても良いとは思うけれど、しょうちゃんは私のお下がりのぬいぐるみや家具をすぐに欲しがるものだから、意図せずにこのような部屋になっているんだと思うの。


 ほんと、サイコーよ! 私のしょうちゃん!


 天蓋付きのベッドで可愛らしい寝息を立てているしょうちゃん。

 ピンク色のウサギの抱き枕を大事そうに抱えているしょうちゃん。

 もちろん、それも私のお下がりなの。


 …………。


 はっ!


 もしかして、それって……お姉ちゃんだと思って抱きかかえているの!?


 お姉ちゃんを抱きかかえて寝たいんだけど、それができないからお姉ちゃんの代わりにウサギの抱き枕を抱いて寝ているというわけ!? 


 もしかして私、衝撃的な事実を知ってしまったかも!?


 頬に手を当てるとやけどをするほどに火照っている。

 頭がくらくらする。


 今すぐにでも抱きつきたい。

 でもダメ!

 しょうちゃんは今、大切な時なんだ。

 あーっ、でもでも、この気持ちは抑えられないの。


「ほほ、ほ、ほっぺにチューするくらいなら……いいよね?」


 あっ、でもでもっ、その瞬間にしょうちゃんが目を覚まして、しかも顔をこちらに向けてきたりしたらあるいは……


 いやーん! 私、しょうちゃんの初めてをもらっちゃうのーっ?

 あっ、でも……私としょうちゃん、小さい頃はよくチュッてし合っていたかもしれない。

 最近でいえば、探偵事務所の人たちとホームパーティーをしたとき、しょうちゃんとポッキーゲームをやって、しょうちゃんのくちびるにぱくっとしちゃったけど、あれはノーカウントよね。

 ああっ、目をまん丸に開いて固まっていたしょうちゃん、可愛かったなー。


 あー、ダメダメ、ダメよ楓! 今はそんな回想シーンを挟んでいる場合じゃないの! 今この瞬間にきらめけ、私!


 突き出した唇をふんわり柔らかそうなしょうちゃんのふっくらほっぺに寄せていく。


「う……ん……」

「はわ~~~~っ!」


 しょうちゃんが顔を動かしたので思わず仰け反ってしまった私。

 あのまま行ってたら唇にチューしちゃうとこだったわ! 合法的に!


 …………。


「いやぁぁぁぁぁ――――ッ、千載一遇の大チャンスだったのに――ッ!」 


「まさに悪因悪果ですな、お嬢さま」


喜多きた、いつの間に来たの!?」


「あ、お姉ちゃん、喜多きたさんおはよー」


 私の叫び声ですっかり目を覚ましてしまったしょうちゃん。

 目をこすりながらも私たちに天使の笑顔を向けてくる。


 喜多きたがカーテンを開けると、朝日がしょうちゃんに降り注ぎ、あまりにも眩しすぎて私は目を押さえた。

 

「不肖家政婦の喜多きたは出しゃばり過ぎずがモットーではありますが、かえでお嬢さまと祥太しょうたお坊ちゃまの健全な育成を奥様から申しつけられていますので、そこのところ、誤解のないように――」


 私の耳元で喜多がつぶやいた。


 

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