第二話 奇縁(きえん)

 血液の大部分はタオルで拭き取ったがmどうにも具合がよくない。

 そこで冷水シャワーなぞで洗い落とそうと試みるが今度は別の問題が生じた。

 本能に根差す生物的な、好悪の問題だった。


 蛇口をひねり流水を送り出す。

 清涼感溢れる音がわずかに心を慰めた。

 貧乏暮らしの為に水道代もバカにならないのだ。


 やはり竜は全滅すべしである。


 風呂場で血を流すのはなぜか気が引ける。罪悪感によるものならばまだ救いようがあるのかもしれないが、断じてこれはそういった人間らしい感情から生み出されたものではないということは断言できよう。ようするに清潔感の問題だった。


 「人間の品格も千年経過すれば変わるものよな」


 扉の向こう側、脱衣所から声が聞こえてきた。

 実際には音声で会話しているわけではない。精神に直接語りかけるということをやっているわけだ。

 これから米を炊いたり、味噌汁を準備したりしなければならないというのに。


 自分にとって食事の準備こそ生活の要であり、竜退治はもののついでにやっているにすぎない。

 そもそも竜が憑りついた人間は殺してしまえば普通の人間に戻ってしまうわけだから何かと厄介な存在なのだ。

 一時間前にくらいまでは血まみれだった腕を見つめる。

 

 一か月くらい後にはリメイクして雑巾にする予定だったタオルを血痕の処理の為に使ってしまったのだ。

 貧乏暮らしには正直、堪える。

 血のりが落ちてようやく石鹸を使える状態になったのだ。


 石鹸の泡を立て、腕にぬったくり冷水で血の残滓ごと洗い落とした。

 ボイラーを炊いて温水で暖を取るという手段がないわけではないが節約の為に今回は見送ることにした。消毒さえ出来れば良い。


 脱衣所の籠に投げてある手袋の言うことには、背後から敵を襲ったことが死ぬほど気に食わなかったらしい。


 殺しにキレイもキタナイもあるものか、と帰り道で説教してやったことを根に持ってその後はこうやって愚痴を言ってくるのだ。


 「そろそろ黙っておけよ、軍手ドラゴン。こっちはこっちで人類愛の精神に則って無償で奉仕してやってるんだ。今時の人間様はなあ、成仏させてやったから感謝しろなんて理屈じゃあ納得しねえんだからよ」


 手袋。軍手ドラゴン。


 興に任せて俺は好き勝手に読んでいるが竜に憑依されたものは基本的に死を迎えることになっても別の竜に憑依されて現世を彷徨うことになる。

 これを「九竜の輪廻」と言うらしい。

 つまり九匹の竜が睨みをきかせている間は、この九重市で一度竜に憑依されたものは永遠に従僕として殺し合わなければならないのだ。


 たった一つ、外部から持ち込まれた悪竜、「斬龍」の呪いをその身に受けて殺されるまでは。


 「減らず口を叩くな、青二才。お前にやましいところが無いというなら、討ち果たす前に名乗り合いくらいはすませておけ」


 九重という場所に生まれただけで、先方の都合で竜の憑代に選ばれる対象となる。場合によっては強制的に。なるほど、それは同情に値すべき事情だ。

 

 そろそろ水の使用量が気になってきたので蛇口を締める。

 かなりの年代物なのでどんな時にでも細心の注意が必要につき、勢い良くきゅっとは締められないのが残念なところだ。

 

 斬龍の話によれば、九竜会議とは盟約の更新手続きのようなもので九重という土地は数十年に一度九匹の竜たちとの間に結ばれた約束事を再確認することで平穏無事を保っているらしい。


 「やってるよ。心の中で」


 扉を開ける。

 脱衣所に置かれた籠の中には黒い革製の手袋が入っていた。

 初見の時には龍を名乗っていたのでウロコのついたものを想像していたが、実際に出会ってみると古めかしい指の部分があいたグローブだった。

 宝石や何かの装飾が施された手袋ならば中二病気分に浸れたのかもしれないが、そこにあるのは簡素という言葉がぴったりな手袋である。

 男は一瞥した後に左手に手袋を嵌める。


 さて今日の夕飯はどうしたものか。

 ポケットに手を突っ込んだまま、そんなことを考えながら居間に向かって歩き出した。

 斬龍の方も男の態度に呆れてしまって何も言わなくなってしまった。

 ある意味それは信頼の証でもあった。男が約束通りに竜を滅ぼしている間は少なくとも竜によってもたらされる災いが起こることはないのだ。

 もしも、斬龍がこの男と出会わずに九竜会議の裏切り者たちの手によってどこかに封印されていたならば今頃巷では竜が暴れまわっていたことだろう。

 仮に災禍によって人命が失われて公に竜の存在が知られれば、それだけ竜たちが姿を顕しやすくなるのだ。

 斬龍は主を変えながら神の御世から竜を滅ぼしてきた。龍の存在が現実のものではなく、噂に過ぎぬと言われるまでずっと。その努力が水の泡となるのだ。

 それこそぞっとする話だった。


 男の思惑は斬龍の懸念とは別のところにあった。

 今のところこちらが仕留めた竜は三体。残念ながら総数がはっきりしないのでこれが多いのか少ないかはわからない。

 斬龍曰く、術者の技量によって発生する「竜」の「質」や「量」は変化するとのことだった。


 素直な感想は今まで戦った相手は手応えが無いというか、皆弱かった。

 斬龍の特性を抜きにしても倒すことは十分に可能だろう。

 敵方のリアクションの遅さを考えれば、ある程度は放置しておいても問題はないのではないかとさえ思ってしまう。


 そもそも「スーパーオオツカ」の特売セールを見逃してまですることなのか、と考えてしまう。こちらはただでさえ食い扶持が増えて困っているというのに。


 「入るぞ」


 居間の方からテレビ番組の音が聞こえきた。

 声質からしておそらくはバラエティ番組か何かだろう。

 家主は自分であり向こうは居候だが一応、挨拶をしておいた。

 

 相手はレディなのだから当然の対応といえよう。


 たとえ他人の家の炬燵に身体の半分を突っ込んで、寝転がりながらヘソを見せながら腹をかいていたとしても生物学的には女性には違いないのだ。

 というかリラックスしすぎだろ。


 「あ。お帰りなさい。コタツ使わせてもらってます」


 この緊張感の無さはどうにかならないものか。少なくとも数日前に出会った女とはまるで別人に成り果てていた。


 まあ、落ち込まれても困るのだが。


 女は俺の姿を確認するとコタツに入ったまま姿勢を座った状態に立て直した。

 羞恥心なるものは健在だったようだ。


 そろそろ紹介しよう。


 この女性こそが斬龍を俺に託し、それまで平和を謳歌していた俺を血みどろの運命に叩きこんでくれた諸悪の根源もとい九重において代々九竜会議の首魁を務めてきた九門家最後の生き残り。


 九門真砂佳(くもん・まさか)だ。



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