第3話別れ
翌日、小川に優雅にたたずむカミラに駆け寄ったうるかは彼女に話しかけようとし、足を止めた。それが別人だったからだ。
「あら、うるか。どうしたの?そんな顔して」
「え……かみら……?」
自分と同じくらいの背をした女はカミラの声だった。
うるかはそれが本人であると理解しかけ、同時に恐怖を感じた。
「そう、私よ。この体どうかしら?」
カミラはその場でくるりと一回転し、白い服が舞った。
昨日見た美貌はやや大人びて目と唇に妖艶さが混ざり、凹凸を備えた肢体がそれに加わって男なら劣情を覚えずにはいられない魔性の女がそこにいた。
「どうって……どうやってそんな体に……」
「私は私を好きに変えられる。そういう一族なの」
「そんなことができるわけ……」
「この体は好きじゃない?醜い?」
「い、いいえ……すごく綺麗だけど……」
「うるか、あなたも綺麗になったわね」
カミラは愛しいものを見る目で言った。
「あの頃よりずっと綺麗。きっと今が一番綺麗な時よ。だから待ってたの」
「待ってた?」
何を。
彼女はそう聞こうとしたが答えを知るのが恐ろしかった。
「ああ、ところで渡したいものってなに?」
「え……えっと……」
うるかは躊躇したが大きな木の葉に包んだものを差し出した。
それを広げると微かに甘い匂いが広がる。苦味抜きをしたこぐらの実を潰し、甘いぐらの実と山芋を混ぜて焼いた食べ物だった。
「それをくれるの?」
「う、うん……」
その美貌を前にあまりに不釣合いなものを出し、うるかは恥ずかしくなった。しかし、カミラはそれを手に取ると露で湿った赤い花のような唇の間に少し入れ、しゃくっと噛んだ。
その美貌に小さな歪みが生じた。
「まずいわ」
単純で辛らつな言葉にうるかは傷つき、泣きたくなった。
その悲壮な顔に雪のような美貌が接近し、うるかの首に透き通るような白い指が触れた。どういうわけかそれは冷たかった。
「うるか、私はもっと美味しいものを知ってる。あなたはそれを持っているからもらってもいい?」
「え?」
生存本能が働き、彼女は後ろに下がろうとした。
しかし、首に一見優しげに触れた指がそれを許さない。
「怖がらないで。うるか、あなたは永遠の命がほしくない?」
「え、永遠……?」
「そうよ。100年でも1万年でもない。永遠を生きる力よ。怪我も祟りもない体になれるわ」
「怪我も祟りもない体……」
うるかの短い人生の中でもそれらは明確な脅威だった。
祖父は去年狩りの途中で怪我をして死んだ。体が熱くなり、数日間動けなくなるような異常を祟りと呼び、家族が山神に祈りをささげても彼女の兄弟のうち2人は助からなかった。
それらの心配がなくなるとカミラは言っている。
「それは……人でなくなるってこと?」
その言葉にカミラは一瞬驚きを浮かべた。
うるかには何の知識もない。しかし、健全な理性は差し出された甘い果実の奥にある毒を見抜いた。
目の前の女は人間ではない。血を吸われれば自分も人間でなくなり、親兄弟たちのいない世界に連れて行かれると直感した。
「なんて賢い子かしら。ええ、そうよ」
カミラは悪びれずに言った。
「人より優れた生き物になるの。ちょっと血を吸うだけよ。そうすればあなたも私と同じになる。悪いことじゃないでしょう?焼かれても潰されても刺されても決して死なない素晴らしい体よ。食べることも寝ることも不要なの」
「いや……」
「どうして?」
「それは生きてるんじゃない……死んだのに誰も埋めてくれないだけ……」
うるかが本能的に放った言葉は鋭い矢となってカミラの胸を打ち抜いた。
永遠に続く冷たい孤独。空虚な時間。
命の火を持つ生物たちを妬み、歪んでいく精神。
白い美貌に悲痛の小波が起こり、それはすぐに狂気の大波に覆われた。
「そうね……でもすぐに慣れるわ……一緒に世界を見て回りましょう」
カミラの青い目が真っ赤に染まった。
赤い唇が開き、黒曜石より鋭い犬歯が現れる。
「うるか、私のものになって」
「いや!」
彼女は両手でカミラを突き飛ばそうとしたが、巨岩のようにびくともしなかった。
震える喉に牙が迫り、つうっと先端が触れた。
その時だった。
「ギャアアアアアアッ!!」
猛獣の断末魔のような声が上がり、カミラは飛び退いて目を押さえた。
一本の矢が指の隙間から生えている。
「うるか!逃げろ!」
「たける!?」
うるかは後方を振り向いて叫んだ。
弓に新たな矢を番える男が勇ましい顔をして立っていた。
もうじき自分の家に迎える女に会おうとした彼はうるかの家族から話を聞き、たった今辿り着いたところだった。
カミラが与えた些細な知恵はうるかの家族を富ませ、別の家族の長男たけるとの婚姻をもたらした。それがカミラの目的を阻んだのだから運命は残酷なものだった。
さらに、この事象にはもう一つの因果をもたらした。
「ガアアアアァァァっ!」
カミラは目から白煙を出しながらその美貌を苦痛に歪ませた。
人間が放つ普通の矢ならば容易に避けられる。当たっても一瞬で治癒するはずだった。それがどちらも叶わないことが彼女を混乱の極地に追い込んだ。
「お前が何か知らないが俺の女に手を出したからには死ね」
たけるは第2の矢を放った。
その矢は音を置き去りにしてカミラの豊かな胸を射抜き、再び絶叫が上がる。
その鏃には彼の一族だけが知る必中の印と「血」が込められていた。
「ギャアアアアアッ!お前……この痛み……奴の血族か……!?」
「やつ?いや、興味ない。死ね」
彼は無慈悲に言った。
彼の一族は男系のみ異常な怪力や不思議な能力が生じることがあり、それを「かんむい」と読んでいた。他者を守る時以外に使った者はたちまち祟りにかかって命を落とすそれは山神か大地神の加護に違いないと一族は考え、厳しく戒めてきた。
その血筋を数百年、あるいは数千年辿ればカミラのいう「奴」に行き当たるのかもしれなかった。
「頭と胸を射抜かれて死なずか。まあ、いい。死ぬまで殺す」
たけるは3本目の矢を番えた。
その手をうるかが掴んだ。
「待って!」
「うるか、止めるな。こいつは殺す」
「お願い!殺さないで!」
うるかは泣いて懇願し、彼の心に躊躇が生まれた。
彼はこの時代に稀有な女の涙に弱い男だった。
「かみら、私が仲間になってもあなたは幸せになれない。他の道を探して」
「ぎぃ……ぐぅぅ……」
白煙は少し減ったが、胸を真っ赤に染めたカミラの姿は追い詰められた草食動物のようだった。
「それはきっと祟り。だから治す方法を探しましょう」
「そんなもの……どこにも……ない……」
カミラは残った目でこの世の全てを憎むように二人を睨んだ。
そこからは血の涙が流れている。
よろよろと後ずさりして川の淵まで来ると彼女は一瞬だけ寂しい顔をうるかに見せた。そして小さく何かをつぶやくと川に飛び込み、その姿はたちまち激流に飲まれて見えなくなった。
「……うるか、あれは何だったんだ?」
「わからない……でも……私の友達だった……」
うるかは冷たい川を見ながら悲しい運命を背負った女性が救われることを祈った。もう一度会えるとは思わない。最後の呟きはあまりに小さかったが彼女の心は確かに聞いた。さよなら、と。
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