キメラにロールする

関東

書くべきこともない最初の最終話

私はますます、小さな乳房が硬くなり、まるで大理石のように、乳白色と、水色と、不透明な煙を吸収し、姿勢を正して、慎重になっていく。食器を握る手は爪の先まで伸び、壊れ物の勾玉、三日月、あるいは年老いた猫のそれみたいに、肉ごと穏やかな皮膚に包まれている。骨は温かそうで、脈動に保護され、水分にまみれた生を謳歌している。挙動のたび、かよわく風が舞い起こり、清廉な響きをまとわせて、腕に刻まれた傷を涼しくする。夏の間も脚に張り付くタイツの、汗と、繊維の感触。サンダルの後ろより走った雷はふくらはぎを伝い、背中、頭のてっぺんまで突き抜けて、汗をかかせる。テーブルの下で身じろぎ、膝から下の部分を傾け、関節部の冷たさを思う。皿に盛りつけられた野菜はどれもみずみずしく、露を抱き甘い香りを漂わせていた。水の入ったグラスはハーキマーダイヤモンドに似てどこかタイムカプセルめいており、口をつけた途端すっと時間の感覚を失わせ、瞬時に取り戻させる。私は腕時計をはめていなかった。店内の壁掛け時計は午後の二時近くを示していた。下階に小規模多機能ホームの事務所と系列の交流所を開き、この二階家はとりとめもなく自立する。ワインを嗜まない彼女の、食事だけの行きつけの店だった。剥き出しの肩に灰色のタンクトップの生地が浮いていた。俯きやすく親密さを語る。彼女はセクシーで、私の恋人だった。フライドチキンの骨に照るつよいライトのようなひとだった。

 右側には壁がなく、全面が窓となっている。木造の階段と屋根にはのうぜんかずらの花と枝が絡み、青々と影をこしらえ、泳がせていた。セミの鳴き声に暑気の鈍重さが加わり、ゆっくりと空気が下降している。太陽の光は血の匂いがする。斜めに差し込むそれの、不眠症みたいな脅迫に、刻々と進行する落日を感じる。店内は影と光の対照のため青紫色に沈み、わずかに湿り気を帯びた彩度のまま留まっている。私の動く手指、彼女の動く手指に、内側から行動を指示する寄生生物が宿っていた。ふたりは生物によって口づけを交わし、満足には足りない分の感傷だったが恋の言葉を囁きもした。私たちはひどく照れ屋で、照れている間は痴呆状態に陥っており、大変気持ちが悪かった。なので、互いの嫌悪を共有し、打破する術を求めていた。盲目となって眠り込んでしまうような暗闇。奥にへばりつくアメーバ。

 地貝さんは腰にジャージ素材の黒いジャケットを巻き、柱みたいに細い胴を内臓の形状で保持していた。めがねのレンズは淡い紫色、化粧をせずとも真っ赤なくちびるをしていた。三種のチーズとトマトソースのパスタ、おいしいパスタを想像する際、誰もが思い浮かべる、一般的で、創造性の欠如したパスタを口に運び、味を称賛する。私はデミグラスソースのかかったやわらかなハンバーグを箸でほぐし、染み出す肉汁の色にうつくしい虹を見ていた。箸でぐるぐると渦を描いて脂を満遍なくソースに与え、銅版画みたいに変わった茶色を舐めた。ハンバーグは死体を叩いて砕いた脆さ。ありふれていて、口の中でいまにも崩れ落ちそうだった。舌の上につぶつぶとした欠片が残り、そこにも肉の風味が凝っている。サラダを食べ、ハンバーグと飯を食べ、食後のコーヒーとケーキを所望した。コーヒーゼリーといちごのムースがプレートに盛られて運ばれてきた。

「手作りっぽいコーヒーゼリーだね」

「スプーンを刺してもそんな感じ。あ、手作りだ。手作りの味がする」

「良い日だね」

「そうだね」

「きょうは」

 沈黙が落ちる。

 刹那的なことを言うと、聴覚と視覚がスローになり、粉雪が空へと巻き戻るように、思考は、ひとつの言葉に執着する。声音を、トーンを確認してもう一度再生し、その間は私も同じ動作を繰り返している。同じ歯車をずっと回し続けるハムスターみたいに、真剣に遊んでいるのだった。私はひとつの操作に取り込まれ、じょじょに主体性を失い、ひたすらに手足を動かす形に変貌している。意識していたこころは確実にすり減り、誰にも手の届かない場所で、延々と回転している。その様子を感じる状態、その様子を見る状態、その様子を頭で聞いている状態へと段階を踏んで移行し、気がつけば、なにを考えていたのか、発した台詞の意味を忘れてしまう。そうしてするりと胸を水銀が流れて、すっかり陶酔しきってしまう。彼女がストローを吸うくちびるの、微細な皺。窄まりに、恍惚的な立体の具現と欠如を幻視し、見惚れて、ゼリーを掬うスプーンをテーブルへ落とす。地貝さんがやさしく紙ナプキンを滑らせ、汚れた箇所を拭い、スプーンを捧げ持つ。彼女は祈るみたいに私を見守っていた。こちらへ傾いていた。懸命に砕いた心臓の粉をぱらぱらと振りかけて、私を好いていた。純粋で、不透明な発光体の恋心を有していた。いつもそこにオパールを思う。冷え冷えと燃える貝の火のきらめきを思う。思っていた。

 白色と暗褐色の混交する銀色。ほつれるように器の底をほじくり、ゼリーをたいらげた。クリームだけが器の形状に沿ってゆったりと円を描き、陶器の質感を汚していた。使用済みのスプーンでコーヒーにガムシロップを混ぜ、強烈な甘さと香ばしさを味覚に獲得する。いちごのムースも同じく手作りだった。程よい酸味だった。

 彼女が笑い、じつに弱弱しい笑顔で私の口元を指で拭った。差し伸べられた手に顔を近づけなければ、それには出会えなかった。マニキュアをした爪がくちびるの端を擦ったことに微笑み、喉を鳴らす。店員は看板をクローズドに裏返し、階段を上ってくる。私たちは共通の友人の元へ駆けだそうとしていた。眇められた目が開き、首を傾げて地貝さんが頬に触れる。エナメルの靴に似た爪だった。靴は土を踏む。

「これから海沿いをずっと車で走って、高速道路じゃなく下道でたま子のところへ行こうと思う。その途中でガンジー牛乳のソフトクリームを食べて、お土産にチョコレートでも買おうかな」

 地貝さんはすぐに距離をとる。距離を測る。何気なく口にされただろう言葉の、その細部に、ひとり、予定を立てていた彼女と、なにも考えていなかった私の差を感じ、恥ずかしくて、安全な間隔を保って頭を正常に持ち直す。異論はなかった。地貝さんにプレゼントできる案はひとつもないのだから。彼女は私に、音楽のように滑らかに言葉を吐いてほしいと望んでいると推測されるが、いつだって、準備できているのは咳だけだった。クリーンでいかなる思惑も含まれない、からからに乾いた反応。私は地貝さんをすきだった。しかし彼女の思うように自身を改造し、ときに羽ばたき、ときに地を這う姿になりたいと、そのように思う感情ではなかった。私は宇宙一素敵な思索と施策と安寧を彼女にプレゼントしたいと考えていて、その考えの分だけ、精度の低い愛情しか抱けない私を薄汚いと思っていた。運命の前にあるとき、毎時気まずい。私は好奇心と根を同じくした恋愛感情を心から芽生えさせ、思い切り花開かせてみたかった。希望を叶える努力さえ不可能な事情があった。そう言い訳する。だから許されない。罰される可能性がある時間だけが自由だった。どこもかしこも輝いている。

 心中にはうってつけの土曜日だった。代金を支払い、階段を下りる間、なびく彼女の服と髪に、はるかな、時間の流れを感じた。セーラー服のスカートを、長くしたまま、一向に切らなかった彼女の、当時のプリーツの襞まで連想し、恋着した。ぴったりと身体をくっつけて、生後間もない赤ん坊みたいに、地貝さんに、ただ生存を目的として甘えたかった。私は生きたいと思う。生きたい、生きたいと思うと、ぼろぼろと熱い涙が落ちる。涙は実態があっても、なくても良かった。個体でも、液体でも良かった。私は燃える炎と水とを混合したようななにかを瞳から迸らせ、諾々と力なくそれに従いたかった。脳髄より伸びる管で、涙にはかつて意思だったもの、私の意思だったものが混入され、地に落ちると同時に地貝さんを拘束する。彼女は手足を縛られ、身動きのひとつも取れずにいる。メノウの内部で繁殖する水晶。卵状に彼女を覆い、きらきらと光りながらがっちりと閉じ込めて、静まる。結晶が割れる日まで。私には勝ちたいひとがいた。恋愛の表現について、そのひとを尊敬しているから、命がけで地貝さんを夢見、守る。

 破壊する。

 車に乗り込み、彼女がカー・ナビゲーションシステムに住所を打つ。画面上に表示されたボタンをタップし、表示された道順を俯瞰で確認して、適切な尺度に調節する。道順は守らないためにある。プレイヤーにディスクを挿入して出発し、鼓笛隊のサウンドを窓から流して、走り出した。エモーショナルな日差しが窓を透かして侵入してくる。暑さ、暖かさは感情に似ているのだ。極端な寒さも。感情は気温によって想起され、景色によっても依存する。安定したこころを維持できるひとは、良い景色を眺める時間と、自らのこころを眺める時間の釣り合いがとれている。バランスが崩れると、自我は肥大する。ゆえに私たちは旅行をした。日常をより苦しまなく生きる目的だ。場所は関係なかった。日常を離れ、光と風と空気を感じてトランスする。夜間にアルコールを飲んで眠ってしまえば完璧だった。長く眠り、起きて、ゆっくりと支度する。夜の間、朝の間にかける神経は細やかに、たっぷりと丹念に。旅行が終わる際にはふたり、別々に帰宅して旅を抜く。中毒だった。ハーブを吸っている。それ以外の日は、いくら会っても日常の続きで、面倒くさく、あまりにも恋しくて、ホテルで抱き合うしかなかった。私たちは賢かった。掛け値なしに、宇宙でいちばん。

 シートベルトを締め、胸を張った。彼女はサングラスにかけ直し、アクセルを踏む。車が左折し、海の方向へと、なだらかな走行を開始する。さいしょは開かれた道路、左右に大きく切り取られ、コンビニエンスストアとスーパーマーケット、輸入雑貨店、チェーン展開する書店が並び、次にガソリンスタンド、大型のカー用品店が現れる。街を離れれば離れるほど、左右の景色はだんだんと灰色に、草木もまばらで、広い面積を有する店舗ばかりが増え、次第に、それも途絶えて短い草、小さな、色彩豊かな屋根の、人家の集合へと変わる。その後に出会うのはうねった狭い道路、砂利がアスファルトの上を徘徊し、シートを細かく震わせ、目の前は一気に平野が展開され、一方に小規模な松林、一方に河川を蓄えている。松林は道と接し、そこから細い歩道が枝のように垂れており、繋がる砂地に、キャンピングカーが停まっている。車の周囲にはビキニのトップを衣服代わりにし、ショートパンツをはいた女性がうろうろしている。露わになった背中と肩はまさに日に焼かれている途中で、黄金色に光っている。砂がタイヤに絡み、音楽に妙な響きを融合させる。すべては夏の、海辺の、ありふれた光景を構成する一部で、私たちの車も、私たちも、夏に埋没している。足元より這いのぼる熱気にとっぷりと浸かって、夏の香りに、大気に、光に溶けている。それは愛だと思う。彼女はサングラスの内側に汗の粒を溜め、ハンドルを軽快に操作する。とりとめもない話をいくつかした。ふたりには時間が必要だった。

 道路は海面を右に、左に集落と民宿を配置した一角に突入した。車道は金網で囲まれ、前方には断崖がそびえている。山にトンネルを掘ってつくった通路が断続的に連なり、視界には山の緑と、海の黒青色がきつく反射する。自生する植物は針葉樹だ。先端はつやめき、膨大な明かりを表面にコーティングして、鉱物の虹色、金色と近接した彩で全体を画一的に魅力的に見せる。蒼翠にして滴るがごとし。海上を漂う波の文様は玉虫色に変化し、大きくうねる様子は夥しい数のビーズが箱の中で跳ねるかのようだった。小さく見える船は樟脳舟。箱庭を歩くみたいに、私は車に乗っていることを忘れ、思考の海辺を辿っている。そこには祠があり、地蔵がある。薄緑色の蝋燭が供えられ、ほのぼのと火が灯る。地蔵は観音像と見紛う不遜な大きさと繊細な彫りを施されて、首にピンク色の、星模様のバンダナを巻かれている。蝋燭には人名と生年月日が書かれている。グロテスクな筆跡の群れの中に、父の名前があった。祠を参る人々の背に見知ったものがある。そのひとは私の手を引き、浜を足早に帰った。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

 南無阿弥陀仏。

 フリースタイルの写真。

スマートフォンを構え、彼女越しの写真を撮った。連射モードで百枚以上を撮影し、シャッター音に驚きくしゃみをする地貝さんの首が、彼女の手首にぶつかった。端に車を寄せ、呼吸を整える。ひきつりを起こしたみたいにぜえぜえと泣いていた。サングラスを外し、眉間と瞼を揉む。色の薄い黒目いっぱいに涙を漲らせ、私を抱きしめる。温かかった。彼女が温かくなかったら、困ってしまう。

「なになに、天国さん」

 頭を撫でられる。このようなときにこそ、感情は動作しない。

「なんでもないのよ」

 私の声こそひきつればいいのに、と思いが鋭く胸を刺した。そうして、そう考えてやっと、なんだか抱きしめられたことに、泣きそうになる。目頭を押さえ、息を詰めた。沈黙が再び訪れた。

 車が続けて走っていた。ウィンカーをあげたけれど車間は開かず、ふたりは宙ぶらりんでどきどきしている。ディスクは一周し、同じ曲をかけ始めていた。車間の距離を見ている間、私はこのような瞬間をこれまでに幾度も経験してきており、流れる音楽も、空気もすべて再会しているにすぎないのだという気がする。つまり、名前をつけて保存するような種類の記憶ではなく、上書き保存される種類の記憶の一形態として、いま、まさに、上書きが施されている気がする。これは直観よりも予感に近く、きんきんに冷えていて、奥歯を痛ませ、胸をつっかえさせるデジャヴだ。私は巻き戻っているのではないか、と勘違いをする場面は確実にあり、おもに、ものを食べていない、飲んでいない、本を読んでいない、地図を見ていない、見ているとすれば、感じているとすれば風景を、季節を、肌に浸透させて、その粘度で若々しくはりを保っているみたいな限りなく動物と静物のハーフに進化しているときだ。同じ言葉を続けて二度口にしても、こんな感情には揺さぶられない。私に浮遊を促しているのは、変わりなく、いつも抱きしめるか、抱きしめないかの判断を裏切らず抱きしめ、抱きしめない地貝さんだ。彼女は想像の域をでない。ずいぶんと臆病になってしまった。彼女たちは暴虐な思春期の塊だったのに。

 海沿いの道は非常に長くつづく。トリックアートの美術館を過ぎ、港町を過ぎ、小さな水族館を過ぎ、山を過ぎた。高速道路の下を走り、道の駅でソフトクリームを買う。小さな、神社のような建物の端に、トタン屋根の小屋がくくりつけられ、男が金を勘定していた。コーンに山盛りのバニラ・アイスクリーム。ソフトクリーム。を、スプーンで掬い、目につく日の色を脳内で描写する。豪奢な茜色。とんぼの翅の色を境界に溶かし込んだ風合いで、雲と夕暮は一体化し、光は屈折していた。旭日旗に似た放射だ。コーンを齧り、地貝さんの腕に腕を絡める。汗ばんでいた。体臭は女の股間の匂いだった。甘い。

「あとで花火を買おうね。由良さんとみんなでやろう」

「いいよ。天国さんがそういうこと言うの、珍しいね」

「いまさぁ、岩井俊二が私たちのことを映画に撮っているからね。これまでの時間に四十五分割いて、地貝さんと由良さんの回想をしているところだから。幼馴染とかで。このあと由良さんと会って、花火して、ふつうに楽しく過ごすんだけど、由良さんは私たちを決してキッチンには入れないんだ。そういう話なんだよね。それで、朝に彼女の別れた恋人がきて、彼女を連れて逃げる。あなたが彼女の家の冷蔵庫の扉を開けると、牛乳パックにメモ用紙が貼ってあって、助けて、と書いてある。私にはわからない。でも地貝さんは理解する。それで泣くの。ラストで大貫妙子のいつも通りって曲が流れる。私たちはパステル調の画面でセーラー服を着ている。みんなで本屋に行って、入り口前をほうきで掃いている男性店員に挨拶して終わり。そういう話なのよ」

「二時間やる価値のない映画じゃん」

「そういう青春だったでしょ」

「もう青春なんてないんだからやめようよ」

 セミが鳴いていた。アスファルトに声が染み込み、水っぽく、あれよあれよと浸透し、夜の風を湿潤にする。生々しく肌を粟立て、怖気を走らせ、金属を噛んだみたいに口の中を異次元にする。季節によって、夕暮の色は移り変わり、夏は、水彩画のごとく透明な紫色で、雲への照り返しは郷愁を誘うピンク、浮かぶ星々は真っ白で、月はレントゲン写真のようだ。車のサーチライトは華々しい光源、街の灯りはどの季節のそれよりも純粋だ。情動と衝動を呼び覚ます色彩の連なり。女の股間の香りのする彼女は、粗野で、野蛮だった。すぐにでも離れたい思いと、もう少し嗅いでいたい思いが嗅覚を腐らせる。その甘さはつんとくる、不快感を喚起する種類だ。混乱してしまう。硬い胸が張り詰め、乳首がダイヤモンドのように尖り切って、地貝さんを刺してしまいそうな気がする。私の両乳房の先端にある、オレンジ色のダイヤモンドを切り取って指環にしてほしい。左右の薬指それぞれに嵌め、グロテスクな見た目のクモを手の甲に乗せそっとお見合いさせてほしい。彼女の手をクモの足が這い、ダイヤモンドの上でそっと絡まりあう。毛深い互いの身体に寄り添い、抱き合う彼らは、チョコレートから生まれた。クモ入りのボンボンショコラを、地貝さんか、由良さんがつくった。私にいたずらするために。一時期の私は気色悪いものばかりを彼女らに与えられていた。まったく悪気なく、コミュニティの入会と維持に必要だった。私たちの青春はふたつあり、ふたつ目はまったくばかげたものだった。ひとつ目もさして変わらないけれど。

 ろくでもないものの裏にはよりろくでもないもの、あるいは地獄のようにまっとうなものしかないので隠すしかない。

 ゴミを捨て、地貝さんが峠の向こうのパティスリーに車をつける。駐車場に繋がる道路は祭りのため交通規制されていた。ガラスの扉を抜け、ショーケースにボンボンショコラを探す。なかった。二月の季節限定商品だった。代わりにチョコレートのケーキを三つと焼き菓子の詰め合わせの代金を支払い、クッキーを三枚プレゼントされる。店員の女性に頭を下げて笑い、手を振り、扉を閉めた。ベルが軽やかに鳴り響く。太陽はもはや忘我の境地で山に隠れ、しかし線状の閃光を夜に向けて投げて、星々を撃ち落とそうとしていた。山なりに走り、数時間前に見た風景に近い、大型のスーパーマーケットの建つ付近で、由良さんにメールを送信する。コールし、すぐに切った。彼女はスマートフォンの送受信のチェックが不得手だ。駅前の交差点を左に曲がり、赤十字病院を目指してのぼる坂道の手前を、もう一度左折する。フランス料理店を右に、神社と公民館をつきあたりに。ファミリー向けのアパートの前、公園の前で地貝さんは停車し、桜並木の下に移動する。衣類とケーキと化粧品、トランプを手に、花が足りないとばらを折った。入口をアーチが囲んでいるのだ。オレンジ色の花だった。花弁は外側に向かうにつれてピーチ色を濃くし、内側の、さなぎのような花びらの重なりは淡黄色だった。花びらは付け根、先端にいたるまでにびらびらと波をなし、スカートのプリーツを思わせた。折れた枝の先を緑色の汁がこぼれ、私はそれを絆創膏で保護した。荷物を揺らしてアパートの階段を上り、インターフォンを押す。由良さんが返事をした。不鮮明な声だった。

「久しぶり」

「久しぶり。中入っていい?」

「あ、お花あげるよ」

 すぐに閉まろうとするドアに身体を押しあて、私が先に、地貝さんがあとになって室内に入る。玄関の前はトイレ前のろうか、右手側にバスルーム、奥にキッチン、その隣に彼女の居室が控えている。オリエンタルな花柄がプリントされたのれんをくぐり、カーペットに腰を下ろした。夏用の、水色の生地だ。タイツ越しに触れれば涼感があり、長めの毛足の先までしっとりとしている。ベランダ近くにふたり分の荷物を置き、ケーキを手渡す。テレビではサッカーの試合を放送している。地元のチームがゴールにボールを蹴り、一点リードする。由良さんはペットボトルの緑茶をグラスに注ぎ、カッティングされた氷を加えた。膝を揃え、正座して頭を下げる。つむじがきれいにらせんを描いていた。

「このたびはご迷惑をおかけいたしました」

「いいえ。おかえり」

「おかえり。仕事見つかって良かったね」

 茶を飲んだ。地貝さんのジャケットを受け取り、膝の上で畳む。エコバッグに片付けた。由良さんはまだ頭を上げない。

「カナダの方にいるって言ってたのに国際電話もつながらないから、困った。やっと電話できたのどこでだっけ。ホテルに住んでたとき?」

「クィーン・シャーロット諸島に行ってたんだ。観光ね。いまだとハイダ・グワイっていうのか。長居はできないからすぐバンクーバーに行って、財布とスマートフォンをなくしちゃって。仕方ないからあれこれ手続きしつつ現地で働いて、ブリティッシュ・コロンビア州立大学の人類学博物館にたびたび行って、という感じ。現地の昔っぽいコミューンでちょっとだけ間借りして、そのあとホテルに泊まれるようになったから、結構かかったね。こっち戻ってきてもバイトしながらしばらく実家で就職活動だったし。ねねやかなえさんと家は離れちゃったけどまた会えて良かった」

「でも就職が決まるまではそんなにかかってないじゃない」

「だからアパートの敷金とか親に借りちゃったよ。姉さんじゃない家族に頭下げたくないのに」

 由良さんが頭を上げる。余っていたグラスにミネラルウォーターを注ぎ、ガムシロップを混ぜた。ばらを差す。花は甘みか洗剤を食べて長期間元気に生きる。葉には一点、白く変色した箇所があり、そこに、途方もなくおぞましいものが潜んでいる気がする。うじ虫。てんとう虫。グロテスクに群体で生き、うごめくものか、太陽の名を笠に着て、煮詰めた油のごとき悪臭を翅にべっとりと塗っているものか。私は見ないふりをする。虫にも。由良さんの言葉で若干こころに残った部分にも。私たちは徒歩で近隣のコンビニエンスストアとドラッグストア、惣菜屋をめぐる。懐中電灯がなくとも、スマートフォンの画面の発光が明るい。代わる代わる互いの機器を開き、足元を照らした。大変知能が低くておもしろい。切なかった。ばかな行いをしたとき、言いしれない懐かしさに胸をつかれて、体表は冷たくなり、体内は熱くなる。尿意を催し、排尿する姿を積極的に好む相手に見せつけているみたいな、不器用な自慰の表れかと感じる。夜は青く、手を伸ばせば星の白さにライトの色がふわりと被さり、風の濁りを悟らせる。夜は、時間は、空気は細かな粒子で構成されており、そこに色が映る、その影が生じる、繊細な陰影を帯びながら、夜も、時間も、空気も成り立っている。だから、どこかにできそこないの夜が、澱みとなって落ちているはずで、きっと、それはスターを抱くサファイアか、生々しい傷を負う動物だろうと思う。都会で深夜にゴミを漁るハクビシンなどは具体化した落とし子だ。ビニールの袋を食べて胃を痛め、ほとほとと月と、星のために泣いている。この子を助けようとは誰も思わない。

 私はたぶん、そのようなものに分類されるし、そのようなものに分類されないひとはいない。私はあまりやさしくはなく、度を外した自身の愚かさに、ただただ、いつまでもまどろんでいる。いま、私がここにいる理由の起因。これからも陶酔をやめない原因。私はふたりといる間、つまずいている。ふたりとも見ないふりをしている。わかっている。私は再起不能で、私を再起不能にした相手は周囲に散らばっている。あまり怨もうという気になれない。憧れているから。生態系が網を張るように、因縁は編まれ、織り込まれて強固なハンモックになっている。私は私の所属するコミュニティの外にでることもあり、蝶を捕らえるクモとなって他者を取り込むこともある。由良さんの間借りしていたコミューンは想像がつく。彼女はフリーセックスの世界で暮らしたのだ。カスピ海ヨーグルトを信仰していた私たちのごとく。

 花火を購入した。由良さんの家へ戻る前に、デリバリーのピザ屋に適当な注文をしゃべった。練乳氷とバーボン・ウイスキーのボトル、たくさんの花、クマの形をしたグミ、するめ、フライドポテト、焼き鳥をエコバッグに詰めて戻った。ピザ・ボックスはあまりにもはやく届き、タイツを脱ぐ前から生地に切り取り線を書く羽目になった。練乳氷を砕いてウイスキーと混ぜ、乾杯する。テレビの電源ボタンを入れ、映画を鑑賞した。リチャード・ブローティガンの「西瓜糖の日々」だ。私たちはとりとめもなく話をした。練乳の香りが、ほろほろとこぼれていた。

「私たちはいま岩井俊二に撮られているからね」

「花火のシーンがいちばんの盛り上がりどころなの? そこでさぁ、ロングから回想が入るんでしょ。ワタシとたま子の。ワタシたちは仲良く天国さんをいじめたりした過去があるわけだ。後悔しているの」

「いじめたっけ? いじめたかもなあ。いじめたのね。そうそう。かなえさんは美少女だったからね。概念上」

「友達がいない子は映画ではみんな美少女だもん。みんなかわいいよ。美少女天国だ」

「友達いなかったね。ワタシたち」

「そうね。いなかった」

「日本語が不自由みたいな会話をするのやめよう」

 カーテンを開けた。夜の風は暖かく、草木の香りを運んできた。ピザはホワイトソースとサーモン。グラスの半分を占めるウイスキーはなまめかしく、白濁した琥珀色だった。喉が焼けるように熱くなり、脳天を臭みのあるアルコールが直撃して、鼻が詰まる。目頭が熱くなった。地貝さんの膝へ倒れ込んだ。彼女は私の頭を撫で、髪の毛をすき、まったく愛しいものを正しく愛するやり方で、耳たぶの裏を擦った。喉奥を鳴らして甘えれば、くらくらする額へ水を被せるように爪の背をあて、顔の形、輪郭の、顎の付け根を包んでぐっと頭を前にだした。伏せられた彼女の顔を天井に、シルクの檻みたいに髪の毛が私を遮断する。私には彼女しかいなくて、彼女が私を生かし、髪の毛のチューブより栄養を注入している。私はぱんぱんに膨らむか、年老いてしわとしみが浮かぶか、いずれかの状態に進化して、自身を、もう嫌だと考えている。口にだす。もう嫌だ。急速に進化し、地貝さんを浴びる芋虫に変貌してしまっている。私を誰よりも利口にさせたのは彼女だった。

「そういえば、ちゃんと聞かなかったけど、カナダ、どうだったの」

「おもしろかったよ。トーテム・ポールを見たのね。私も樹木葬にしてほしいなって思った。あ、トーテム・ポールは樹木葬と違うんだけど。頭から木とか生やしたいね」

「彼氏に連絡した?」

「するようだったらそもそも堕胎したあとカナダとばないんだよね」

「あー……。あのひとやっぱりそういうひとなの」

 地貝さんは私を見つめたままだった。愛撫する手を止めず、由良さんと会話をしていた。愛玩動物になった気分だった。私は地貝さんの苦しみと対話する無言の生き物になる。息を殺し、息の根を止め、全身全霊を捧げて彼女を保護する。余計な思考から。彼女には考えてはいけないことも、考えると破滅してしまうことも、こころの中に同時に存在しており、守れるのは、私ひとりだけだ。なぜなら被害者だからだ。由良さんは焼き鳥の串から肉を外し、箸でつまんで口へ運んだ。足りないと言った。マヨネーズと七味唐辛子をかける。一本の串がピザ・ボックスの端に鎮座する。異様な簡素さ、軽妙な雰囲気がある。趣深かった。私もまた地貝さんを見ていた。

「というか、言ってなかったっけ。中絶したの」

「いや、じゃなきゃひとりで海外とんでいかないよなって思っていたからわかってた。でもきけるわけないじゃない。ふたりの合意で堕胎したっていう場合もあるしね」

「ああ、始ちゃんは奥さんとはそうしてるんだって。私も中絶は別に良かったよ、しても。けどなめたこと言われたからさあ」

「……。なに……」

「言わないよ。ろくでもないことに別れてはいないからね。ちょっと腹が立ったのね。つまり……。かわいくないでしょ」

「ワタシたち誰ひとりとしてかわいいって言葉が似合う年齢じゃないじゃん」

「訂正。私と始ちゃんは恋人同士としてまったくキュートじゃない」

 起き上がった。地貝さんの肩に顎をのせ、挙手する。箸が私めがけてぐさりと伸びた。にっこりと笑う。

「真野さんの奥さん、元気?」

「咲さん? 元気元気。たぶん。この間留守電が入ってた」

「大丈夫、大丈夫。由良さんたちちょうかわいいよ」

 グラスを片付ける。地区専用のゴミ袋は鮮やかな緑色をしていた。口を結び、由良さんがキッチンへと持っていく。曇りガラスのはまった、部屋とそこの間は、じめじめとしていて暗く、ほのかに匂った。形こそはっきりとは判じられないが、白い大きな箱を、なんとか冷蔵庫だと見当をつける。床すれすれの位置に板が浮いていた。テーブルだ。彼女は毎日、惨たらしい姿勢で食事を摂っているのだ。背中を曲げ、首を縮める不自由さ。由良さんの形もぼんやりと曖昧になり、黒々とうごめく異形の塊のようになっている。バックベアードみたいだった。彼女は穴で、彼女という穴を覗く目がある。目は真野さんだ。ゾウに似て、慈愛に溢れたまなざしをしている。彼は言う。こう思いなさい。おばあさんは蹴られる様式で愛情にこたえたのだと。それならば天国さんも、蹴りましょうね。

 映画では皆が西瓜糖の灯りを頼りに歩いていた。花火をしたくなった。三人そろって靴をつっかけ、駐車場の隅にこそこそと寄る。街灯の下、黒く燃えた地面と色とりどりの飾り紐があった。三人、三角形を描いてしゃがみ、パッケージを破く。火薬はざらついた素敵な香りがした。地貝さんがろうそくの底に火をつけて溶かし、台座にしっかりと固定した。マッチを擦り、炎をくゆらすように移す。煙草を吸う仕草だ。花火に火を吸わせ、弾けさせる。シューッと鳴った。流れ星の落ちる音だ。真っ赤な火花が続々と噴出する。持ち手を咥えたくなった。堪えた。乳房はひどく穏健に、膝に潰された。

「ふたりともどうなの、さいきん」

「うまくいってる? って意味ならうまくいってるよ。ね、天国さん」

「岩井俊二も大満足だね」

 儚い。カルシウムの不足した骨のごとく、一本の花火はすぐに燃え尽きて、燃え落ち、ぺらぺらの紙になる。線香花火は自然と注目されるから、いい。オレンジ色の火の周りを、解れた糸めいて回遊する飴色の火花も、指先で確実に脆くなっていくこよりも、全身で見られて、命を縮めていく。赤色やオレンジ色や、もしくは白色、青色の火はいいのだ。上等も上等、高級な身分で、ずっと見ていてもらえる。ガスコンロの火へ一心に視線を向ける行為は、精神の危うさと、可憐さを対象に付与する。これらの火はもれなくすみれの花のようなもので、ふとしたときに宇宙を見る気持ちで、こころを捉える。私の好む火は花火の火だ。とびきりどうでもいい黄色の、ありふれた顔をした、惜しんでさえもらえない熱。さみしさを感じ取ってもらえない色。私は黄色の火に、助けてと願っている。逃げたくはない。抱きしめてほしくもない。掬い上げられ、乾いた、暖かい場所に放置されることを望む。私は菌の繁殖する余地もないほど干からび、カスピ海ヨーグルトを忘れている。砂漠で朽ちていくスライムの一種でありたいと願う。

「ねねがかなえさんのことを大すきなだけでしょ」

「そうだよ」

「かなえさんも無理に付き合わなくていいんだよ」

「いいの。気分転換みたいなものだと思ってるから」

 私と彼女の恋愛はこんなものだ。

 この恋愛は、関係は気分転換であり、転生であり、転生である限り、もとの輪廻とほかの輪廻を転々とする。ひとつの人生より手を伸ばし、別の人生に触れてみて、気に入ったら身体を伸ばして移動して、気に入らなくなったら戻って、あるいは別のところへ行って。足先で川の浅瀬を確かめるように、足と手の爪先で感じ、これは素敵、天然の、信じられる、楽しいものだと決めつける。私は地貝さんに甘えきっているが、彼女には私を無下にできない理由があり、つけ込むか、つけ込まないかは人間性の下等さに関係なく、まるきり自由だ。自由を歌い、歌は幅をもって広がり、溶ける、透明な光になる。自由のない感情は恋愛になれない。水をやって育成している途中なのだ。見事な花が咲くか否かは、私の青春にかかっている。ひとつ目とふたつ目。おもに彼女との出会いと、彼女とのあほみたいな日々に。地貝さんはいつか、「ロック・スター」と名付けたミニコミ誌の編集を由良さんと行っていた。彼女はそこに掲載する連載コラムのために、私の食生活を管理していた。その果てに私たちが繋がることになったコミューンは、自然派志向の、生活の些細な場所までフリーにする場だった。性的なことまで。

 私は彼女を許してもいいし、許さなくてもいい。しかし、大した意義を感じない。

「ごめんね天国さん。くだらないことに付き合わせて」

「どうしたの、地貝さん」

「もしかしてうまくいってると思ってるの、ワタシだけかなと思って」

「痴話喧嘩やめてくれない」

「うまくいってないひととセックスするの、もう何年も前にやめたから大丈夫だよ」

「生々しい会話だなあ……」

 線香花火を手にしたくなかった。線香花火に火をつけた。じくじくとオレンジ色の球が膨らみ、果物が熟すような音を発して、小さく歪み、大きく歪んだ。こよりを持つ手を頭の位置に固定し、目の前で、火花が爆ぜる様を待つ。彗星が流れるまで待つのと同じ、遠い時間だった。黒目に火の球が映っていると感じる。なぜならこんなにも熱い。

「かなえさんこそ、始ちゃんとは会ってるの」

「会ってないよ。職場変えたもん。私が初めて出会った本屋さんにはいないね。店長にまでなったのに、もったいない」

「そうなんだ」

「いまは銭湯の番台さんだよ。辞める前に言われた。あそこの夫婦のことまでは知らなかったし知らないよ」

「それっていつのこと?」

「由良さんがまだ日本に帰ってきてないときだよ。ほんとうにずっと前」

 線香花火が燃えた。ばちばちと火花が絡まりあい、瞬時にクモの巣を張った。ぼぼぼっと火がつよくなり、か弱いながらも、横柄にきらきら燃焼した。紙の焦げる匂いが鼻孔をくすぐる。アスファルトには、影はほとんど落ちなかった。中空で、糜爛するかのごとく盛り、しとしとと細い涙を流して果てた。地貝さんとの行為が頭の中で白く瞬く。彼女の薄く熱いくちびる、ほとんど見えない目、汗で肉がやわらかくなった脇、平らな胸、足は手の指のように細く、硬く、すべすべしていた。抱き締められると痛い。呼吸はつねに曇って見えそうなほどじゅんじゅんと湿っており、首筋は少しざらついている。腹部は驚くほどスマートで、きっと内臓はどれもコンパクトサイズだ。髪の毛につやがある。椿油を塗っている。彼女の目玉は、チョコレートムースのごとく破れやすいだろう。

「思い出すねえ。高校生の頃を。ちゃんと始ちゃんを信じてた」

「私は、真野さんのことをすきだった」

「でも所詮、量産品のダメ男だからいいじゃん。たま子も天国さんもまだ刺されてないし」

「どうせなら中絶する前のお腹を刺せよ、だよね」

「ワタシはばかだったなあ」

「地貝さんは、まだ渓谷の狭間に足を取られていなかっただけというか」

 火の球が尽きる。

「何度だって落ちるよ」

 由良さんのスマートフォンが鳴った。池に水滴が落ちる音の着信だ。彼女は電話機を耳にあて、通話ボタンを押す。靴で踏んで花火の火を消し、席を外した。アパートの門の前に立った。

「噂をすれば影、だろうな」

「あのひとの話さぁ、私、ふたりに言ってなかったことがあるんだよね。それこそ高校生のときに本人から聞いた話。真野さんね、憧れのひとが人妻を妊娠させて泣いて、青春十八切符で逃げてからそういうのがすきになったんだって」

「そういうのって、堕胎の話?」

「うん。だからね、あの頃あのときにも、どうやら奥さんに一回堕ろさせてるらしいよ。それが初めて」

「……奥さんが妊娠したから?」

「じゃなくて。由良さんが私の代わりに、天国かなえはあなたのことがすきなんですよって伝えたでしょ。それで」

「え」

「以降たぶん、ずっと奥さんとは中絶中絶なんだろうし、由良さんにも堕ろさせたんだよね」

 彼女が戻ってきた。頬が上気していた。歩幅は大きく、腕を振り回し、口を引き結んでいた。由良さんはパッケージから残りの花火をどさどさと落とし、まとめてマッチの火を落とした。紙が燃え広がり、火薬が全方向に向けて火を吐いた。怪獣のようだ。もうもうと上がる煙を地貝さんが踏み、ジャージのジャケットを濡らしてばさりとかけた。火は収まった。由良さんは足を揃えてうずくまり、苦しそうな顔をして腕に額を押し付けた。震える息を静めるためにか、肩が上下する。空を仰いだ。月に雲がかかっていた。

「これからくるんだってさ、始ちゃん」

「え、ここに?」

「住所しゃべっちゃった。ろくでなしでほんとうにごめん」

「別にいいけど……。中戻ってお風呂でも入る?」

「いいんだ。天国さん」

「どこかで部屋をとってもいいけど」

「それはダメ! 申し訳ないから。どこからくるかわからないけどどうせ時間かかるし、きたらあんまり話さないようにするから、ここにいて」

 地貝さんのジャケットは穴が開いていた。水気を切り、由良さんに渡す。キッチンへ運んだ。ゴミ袋の口が開く。何度も何度も結び直す。彼女の影は哀愁を帯びた鬼みたいだ。白くどろどろとした、口当たりの良い怨念を嘔吐する。

 チョコレートケーキを食べた。おいしかった。そう思おうと思い、現に思った。テレビでは懐かしいアニメ番組が映っている。由良さんが録画した。由良さんは床に寝そべりつつ画面を眺めている。私はチョコレートまみれの口元をティッシュで拭き、地貝さんに抱きついた。汗臭かった。女の股の匂いはひどく濃度を増している。彼女はトイレで股間を拭いたトイレットペーパーをナノレベルで薄くして身体に貼りつけていた。彼女は悲しみを感じていた。

 揺れる、孤独だ。

 目を瞑った。祖母が私の手を引いていた。祖母は私が高校生になる頃には、ショートステイで長期間に渡り介護をされていた。立ち上がることができなかった。自力で食事をすることも。祖母に可能なのは、にっこり笑って、首を仰向けていること、介護者の手をやさしく包むことだけだった。熱を突発的にだし、看護師を呼ぶか、呼ばないかの判断をする前に、夜勤職員に蹴り殺された。そのひとは祖母が呼吸を止めたあとも、退勤の時間まで、隙を見て蹴った。蹴ってくれた。そのひとは退勤後、私の家にやってきて、父に深々と頭を下げた。

「お母さんがどんなにあなたをすきじゃなかったとしても、こうすれば、あなたはあなたの生まれる前からやり直して、お母さんを愛してくれますか」

 お母さんは流れましたよ。

 祖母の笑顔はひとのこころを和ませる魅力があった。

 シャワーを浴び、化粧水をたたいて馴染ませ、身体にワセリンを塗った。プラスチックのボトルから指いっぱいに掬い、脚、腕、首筋、胸へ伸ばす。狭い洗面所だった。衝立一枚で隔たれた廊下に尻を向け、前方に足先を差し出した。温水で蒸された肌に、脂はよく溶け、地貝さんの熱っぽい視線みたいな湯気を立てた。髪の毛をタオルで包み、よく水気を切って、頭のてっぺんから順にドライヤーをあてていく。おおまかに乾かし、スイッチを冷風に切り替え、丁寧にブラッシングする。そして温風に戻し、髪の内側から風をあてて完全に乾かす。下着は新品だった。ブラジャーはつけなかった。ミント色の、丈の長いワンピースの裾をはためかせ、由良さんと交代する。アニメは連続で再生されている。見覚えのあるシーンがたくさんあった。

「改めて見るとすごい話だね。子どもにはわからなさそう」

 地貝さんの頭を膝へ倒した。鼻をつまむ。彼女が口を開ける。グミを放り込んだ。コケティッシュなピンク色のクマだ。

「硬い」

「海外製だからね。グミじゃなくて駄菓子を買えば良かった。小さいヨーグルトを木のへらで食べるのとか。名前、忘れちゃった」

「天国さんって、真野さんのことどれくらいすきだったの」

「小学生時代からの初恋だってほかにはなんの感情もないよ」

「ワタシたちのつくったミニコミ誌さ……」

「うん」

「名作だったよね。めちゃくちゃエモーショナルでサブカル系だった」

「うん」

「たまにわれに返るんだけど、天国さんにあんなことをしたワタシは死ねばいいのに」

「名作のためじゃない」

「うん。その通りだ。それに、天国さんはたま子にひどいし」

「もちつもたれつだよ」

 私は彼女を許しているのだと思う。少なくとも愛しているという状態に突入している。なぜ? 彼女は私に与していないし、貢献してもいないからだ。一体感のあるライブ会場のオーディエンスなどでは決してなく、ふたりはほとんど無関係に並んでいる。私は彼女の良いところを学んだりせず、彼女は私の悪癖に毒されない。彼女の毒は彼女のもので、その依存先や、生まれた理由を、こちらへつなげて、驕る必要性はない。地貝さんも私も、突っ立っているだけで、地面に足をつけて立つ行為に、一体なんの独立もあるものか。彼女でなければ嫌だ、とか、どうしても、と、私は思わず、彼女もまた思っていないだろう。私たちには代わりがいるから、ではなく、そんなチンケな話ではなく、あなたがいるのだ。現在に限り。地貝さんとは長い付き合いになるが、ともするとこの関係の維持の方法は、恋人同士のあり方のうち刹那的な部類に入るかもしれない。私は彼女を許してもいい。私の流れ方によって、意見は別の籠に飛び込む。とてもはやく動く、新しいもの好きな森の妖精が、見ようと思えばいつでも見られて、いつでも気分を任せられる。彼はそこまで自由には動かない、物理法則に準ずる精霊だ。私の感情と考えは物理法則に基づき、私の身体ももちろん物理法則に従う。人道に悖る彼女はひとではないだけで、私だってそこは大理石でできた小さな乳房だ。そうゆるやかに諦めるくらいに惚れている。彼女を拒む気持ちをもたないままに忘れた。

 ずっと膝に頭を抱いていて。たまに枕を並べて眠って。一緒に散歩して。叶えてもらわなくてもいい。

「真野さんってどういうひとなの?」

「なんにも知らないよ。元本屋の店長と客だもん。よくのみの市のチラシをもらったね。なんであのひとをすきだったかというと、たぶん三島由紀夫ファンだからだろうね。私は川端康成がすきだから」

「もうあんまり本を読まないのに?」

「川端康成が新刊をださないから仕方ないね」

「天国から原稿を送ればいいとでも」

「うんまあ地獄だけでも九層あるからどこだかわかんないわ」

 彼女は風呂に入らなかった。濡れたタオルで、こっそり、ふたりきり、地貝さんの身体を拭いた。由良さんの秘密のキッチンのお湯を借り、木綿生地のフェイスタオルを絞る。薄暗い、居室の隣の和室だ。彼女はビニール袋の上に胡坐をかき、衣服を脱いだ。髪の毛をかきあげるように前から腕を伸ばし、首の裏を撫でる。骨の隆起が大きかった。首の長い恐竜だ。肩より下、背中の中央にいくにつれて産毛の処理が甘くなっている。脇は陰部のたるみ、肉がよじれて、爛れるみたいな赤黒さで、脱毛したあとの毛穴がぽつぽつと膨れている。地貝さんの体内には虫が棲んでいる。頭を胸に抱き、彼女の腰、臀部に触れる。硬い尻だ。大きくて、丸く張っていて、クリトリスがはみだしている。陰毛は黒々としており、玉結びの結び目がぷちぷちと千切れた。地貝さんを抱えた途端、私はやわらかくなり、尖った乳房はぺちゃりと潰れ、壊滅的なまでに美を失う。永遠に戻ってこない。神々しい肉体はどこにもなく、私は有機生命体で、ひとつのメンチカツの皿にカリフラワーとブロッコリーを並べ、ポテトサラダにマカロニを入れ、中華春雨にじゃがいもを混ぜる。無駄なこと、取り合わせがへたくそなことを積み重ね、崩れようと気にも留めない不動の情熱が私に落胆をもたらし、地貝さんと恋人でありつづける選択を行う。諦めは深くなるばかりだ。どうしてもミステリアスになれない。ふたりは互いになにを見ているのか? 穴だ。地貝さんは溶けゆくろうそくの火の根元にうっすらと浮かぶ浅い穴。私は彼女に悲しみと孤独を想起する契機を投げていれば良いのか? ピッチング・マシンのように。

 絶対にひとつも良いものを与えはしない。けれども、気になるのだ。あなた、しあわせ?

 汗はしっとりとタオルに受け止められた。足の指の間に生地を挟み、しごいて、最後に爪を切った。正座して、彼女の右足を両手に捧げ持ち拝む。利き手側に袖を通し、パジャマを着せて、畳に寝ころび、天井を見上げた。木目の模様は奇妙だ。由良さんがタオルを首にかけ、髪の毛の水分を拭いながら部屋へ帰ってくる。私たちは両手足の指先をわさわさと動かしている。

「気持ち悪い」

 夜明けまでアニメを見ていた。窓に朝日は訪れず、室内は長く夜を保存していた。由良さんが紙パックの牛乳を手に始終ちびちび飲んでいた。パックにはメモ用紙が貼られ、助けて、と書かれていた。用紙を剥がし、裏面に簡単なフレンチドレッシングのつくり方を書いた。マヨネーズと牛乳、塩コショウを適量混ぜる。

「真野さんこないね」

「わかってたよ。そういうひとだ」

「と、思うのもいいんだけど、ふつうに事故かもしれない。いまスマフォでニュースを見たら近くのバイパスで車が逆走したって」

「ほんとう?」

「ほんとう。夏は変なひとがいるから仕方ない」

「変なひとが始ちゃんである可能性は?」

「悪いものキメてたらわかるんだけど違うんじゃない? 悪いものキメるタイプの悪いひとじゃないでしょ。もっと濡れてる」

「わかる……。変な美術雑誌購読してるんだよね。私らのミニコミ誌もとってあるんだなこれが」

「重症だわ」

「事故なの?」

「うん。怪我人の名前はまだでてない」

「始ちゃんだな……」

「奥さんに電話してみれば?」

「いやいいよ。朝だもん」

 メモは助けて、の面を上にして貼り直した。牛乳をコップ一杯飲む。額が重かった。睡眠を十分にとれなかった朝、私は腹を下すと同時に、このような症状に襲われる。気分が底上げされて、浮き沈みこそないもののテンションが高くなる。高揚する。吐きそうなくらい楽しい状態が眠るまでの間維持される。眠らない。この涙目で迎える朝はうつくしい。空の青さがカワセミの羽根のようにきらびやかに点在し、太陽は鮮烈な黄色、風は冷たく、体温は高い。部屋の中にある棚やテーブルといったものの角が非常に鋭く、アゲートでできているみたいに丈夫で素直な塊に思える。触れてもちゃんと硬い。安心して、材質を分析し、自分もいずれ同じ高さと幅の品を買おうと思う。聞こえる音はノイズが少なく、音量も低く設定され、爽やかだ。窓ガラスは驚くほど人工的な透明で、初めて接する物体であるかのごとく興味深い。純で、粋な発明だ。ベランダで休むクモの背にヒスイの愛らしさを認め、素敵な夜を過ごしたと、連続する朝にいると、胸が詰まる。けれども目にある滴をひたひたと流すほどには酔っておらず、牛の角突きを観戦するような、土臭い情景に圧倒されているだけだ。重く、確かな面積を有し、私を空へ、太陽の近くへ押しやり潰す。体温は上がるばかりで、ふと見る電球のスモーク風の反射にひどく傷つく。アニメは最終回を迎え、ヒロインたちの戦いは終わり、次なる戦いが幕を開ける。フィクションの中の戦いの幕は、軽やかにぱっと、切って落とすみたいに開かれる。仕事をしている、ひとり暮らしをしている、恋人がいる私たちの戦いの幕は、休日の終わりとともに、夜が明ければ白い闇、といった風に訪れる。また頑張らないと。私はまだ頑張らなくてもいい。日曜日なので。試練があるのは由良さんであり、彼女の不幸の象徴である彼は、彼女の幸いの記録に記された、愛くるしい名前だった。私と地貝さんは、同情すればいい。彼女を尊重して、包み込むように、適度にピントのずれた同調をする。そういうのは得意だ。私たちには、誰かのためにできることなど、ただのひとつもないのだ。完全で素敵。

 地貝さんが顔を洗いに行った。由良さんが手を叩き、大きな声で叫ぶ。アニメのセカンドシーズン、一話目がエンディングの曲を鳴らす。彼女たちはラジオの原稿を読んでいるみたいだ。地貝さんが戻ってくる。

「いまから始ちゃんがすでに死んでいるという想定で話すね」

「いいよ」

「天国でなにをしていると思う?」

「地獄にいるのでは……」

「閻魔さまの前で裁きを待っているのかも」

「それ、妥当な線だね。列は長いだろうな。いまこの瞬間にも、死んでるひとたくさんいるし。裁きにあたってさ、素直に話すと思う? 私や咲さんのこととか」

「そういうのって言わなくてもバレバレじゃん。真野さんが内心どう思っているかはさすがにどこに行ってもブラックボックスだろうけど。というか、たま子は彼に罪悪感でももっててほしいわけ。無理じゃん。そんなの死んだあとまでつづかないじゃん」

「そうかな」

「だって自分が死んだのがまず悲しいよ」

 菓子のパッケージを裂く。ビニールはさくさくと割れて、提灯につける飾り紐のようにびろびろと翻る。牛乳が丸く、円を描いて溜まるグラスの底に、窓の透明が光となって舞い降り、クオーツの蓋をする。彼は死んでしまい、脳に酸素が届かなくなり、緻密に意識を消失していく。ピーリング・パックの欠片が皮膚を離れるみたいにほろほろと脱皮する。まず理解するのは希望がないという点、次になにを考えるのか、決まっている。助けて。彼は閻魔さまの前に行きたくなかった。

「真野さんは自分が由良さんや奥さんになにを思っていたか、思い出せないと思うよ。彼自身のことで頭がいっぱいだと思う」

「ひどいことを言うね、かなえさん」

「でももう死んじゃったんだから真野さんを慰めてくれるのも抱きしめてくれるのも真野さんしかいないんだよ。いきなり死んで、悲しいでしょ。頭を整理しなくちゃ。そんなときの友達は自分の想定する良心だよ。言葉と仮想の腕でたったの二秒でも温もりを感じさせてくれるの。彼は閻魔さまにやさしさを見出すよ。外見にも、内面にも。由良さんと奥さんについて思うのは、たぶん、赤ちゃんつくっとけば良かったなっていうのがいちばんだよ。後悔するだろうね」

「私と咲さんは、子どもがいなくて良かったんだけどね」

「真野さんはふたりをすきだから、後悔するのは当然かな」

「もっと大事にすれば良かった、なんてのはいざ地獄に落ちると決まったら頭に浮かぶだろうね。子どもは思い返した都合というか。そんなもんよ」

「ばかばかしいね」

「ばかじゃないんなら死なないんだよな」

「天才は永遠を生きるのかな」

「わりと過酷めに死ぬよ」

 牛乳が匂った。私は彼に恋をしていた気持ちを正確に覚えている。地貝さんといるよりさびしくなかった。地貝さんと話しても舞い上がらない。楽しくなかった。気の合わない姉妹が必死に仲の良さを印象付けようと試行錯誤しているみたいだった。私たちは仲が良い。仲が良い。そうしてどうしたい? 私はあなたをとてもすきだから、私の応援で、嘘でも頑張っているふりで走って。あなたにしあわせになってもらいたい。しあわせの笑顔で私を振り返って、私を勇気づけて。あなたは気高いひと。そのままで、並んで、すれ違って、私の先を歩いて。きれい。うつくしい。あなたを胸の内の、秘密にしまっておきたい。

 私はあなたがすき。あなたがすき。あなたがすき。

 逃げて。

「たま子だって後悔してほしいんじゃないでしょどうせ。あのひとは死んだんだから言いたいことを言おうよ。ワタシは悲しいよ。友達の恋人が死んだんだもん。お葬式に行けるほど親しくないのがまた嫌だな」

「だったら赤ちゃんつくるより結婚したかったよ」

「本気か」

「本気だよ。あのひとが私だけのひとだったらと思うと、泣けてくるね」

「そばにいたいの?」

「あんまり。私だけのひとだったらと思うだけで、咲さんがいなければとも思わない。咲さんになりたいとも思わない。ちょっと羨ましくはあるよ。夫婦生活がそれなりにあって、ちゃんとすきあっていて、旦那が浮気してるの。楽だし、苦しくてぼろぼろになるし、彼をすきな気持ちとずっと向き合えるからね。で、自分勝手に中絶しろって言ってくる。最高じゃない? そんなひと嫌いにはなれるし憎めるけど、愛情が冷める日なんてこないよ。焼失しそうなくらいひどくひどく思いつづけるよ。炎の中にいる」

「そんなの別に真野さんじゃなくてもいいじゃん。そんなひどいこと、誰だってできる」

「あのひと以外してくれないよ」

「あのさ、ひどくないひともやさしくないひとも、宇宙の創生からいままでまったくいないからね。ひどいやつしかいないんだよ」

「彼の傷つけ方にぐっとくるの?」

「私にそんな感受性生きていないよ。もう若くないんだよ」

「単純に顔がすきなんでしょ」

「そうだよ」

 時計の針は健やかに八時を差していた。ほとんどのひとびとが起きだしている。布団に包まり目を擦っている。仕事のあるひとは車を運転し、バスに乗り、電車に乗る。船や飛行機が運航する。ファストフード店の朝食メニューの注文が増え始め、安く甘いコーヒーを飲むひとが増える。糖分は身体に目覚めよと誘い、いまだ硬い筋肉に弾力をもたらし節々まではっきりさせる。血の巡りをもっとも自覚する刹那だ。由良さんは怒ったような顔であらいざらい望み、真野さんの目鼻立ちを褒めた。彼は美男ではなかった。

「どんな顔のひとでも褒められたらうれしいけど、身体にまで指図されるんなら好みの顔のひとがいいもん。始ちゃんはね、中絶してくれって言われたらまあいいよと答えるくらい、良い顔をしているんだよ」

「気持ちはわかるよ」

「ワタシはいまいちだな」

「そんなん言ったらねねだってかなえさんの肌が白くなかったらじんましんで赤くさせよなんて思わなかったでしょ。いじめの理由それじゃん」

「私、地貝さんの顔、全然好みじゃないよ」

「え、嘘」

「うん。だからごめんね」

 彼女が傾ぐ。目を大きく見開き、床に額をぶつけた。頬を叩き、名前を呼ぶ。気絶していた。由良さんがバスタオルを脚の間に挟み、尻を軽く揺する。失禁した。地貝さんは重力以上に重くなり、心臓の鼓動は遅くなっていた。一時止まったのだ。彼女のパジャマのボトムの色に水性のつやがあらわれ、薄い尿臭が漂う。気づくまで時間はかからなかった。目を覚ました地貝さんはバスタオルを片手に廊下へ去り、戻ってこなかった。室内は小汚く散らかっている。

「私たちはやっぱりまだ岩井俊二に撮られているの?」

「もちろん」

 ウイスキーはボトルに半分以上残っていた。鼈甲色に白く影が差し、波の模様の入ったそれを斜めにテーブルへ投影していた。気温はまだ程よく下がっており、セミの鳴き声を軽妙に鼓膜へ響かせた。耳朶のほのかな窪みに音が滑り、くるくるとらせん状の糸となって聴覚を打つ。拍子をとるように、音の先端がこつこつと耳の穴をくすぐり、音は、夏の朝の総和となる。まとめられ、束ねられ、終わる昨日と、連続する昨日がきょうの私を編み上げ、リリアンの糸でウールレターを書く。私は青灰色。空洞に針金を通して書かれた文章は、岩井俊二の気に入りそうな風合いで素直にこころを綴っている。部屋を片付け、着替えをし、俯いてのれんを潜る地貝さんを抱きしめて、焼き菓子を朝食とした。テレビをニュースに変えると、バイパスでの逆走事故を報道しており、被害者は真野さんではない。私たちは一言も話さずに朝の支度を終える。化粧水をたらふく飲んだ肌は手に吸い付く弾力を有している。

「天国さん、ごめんね」

「違うんだよ。それは、私の方なの。地貝さんが私に罪悪感をもっているからって、私が地貝さんを縛る理由はないんだよ。もうひとり恋人をつくってもいいんだよ」

「かなえさんは、ねねが結婚してもきっとすきなままだよ」

「そうだよね」

「私が始ちゃんにそんな感じだからね」

 インターフォンが鳴った。由良さんが玄関口に行き、応対する。地貝さんは赤く塗ったくちびるで私にキスをした。硬化する。彼女を守らなくてはと思った。そのような意思を反芻し、こころと肉に反響させて、自分の豊かさを知る。私は青い海の波がきらめき、天井に映る、美々しい洞窟のようにもなれる人間で、誰でも、愛しい相手がいるひとは誰でもなれるだろうけれど、それは限りなく良いこと、善良で、ぷちぷちと弾けるみたいな恋慕のなせる罪だ。私は彼女を逃がそうかと考え、膝に抱き、体内の音を聞かせる。私は私の願う行為を彼女に差し出せる。すごくさびしい。このさびしさは毒だ。真の意味で、癒しを与えてくれるのは、自分だけだ。彼女には私を説得できない。私は、ほんとうは、驕っても良かった。驕るべきだった。

 彼女の恋愛感情は、彼女だけのものだったのか? 彼女がさいしょに、私をすきになり始めたのに?

 地貝さんの髪を撫でる。特別な好意による、特別な行為だ。フランスの映画で見た。夢ばかりをみている男が、恋慕する相手に縋りつくために言った台詞。「髪を撫でてほしい」。テレビのチャンネルを戻し、カラフルな、少女の戦うアニメの映像と音楽と声を背に、胸に、私は彼女が昔目指したサブカルチャーそのものの体現者、健康で、フリーで、多くの人々から欲情される幸福な若い女として地貝さんを愛する。すでに若くなく、たとえ、由良さんのいたコミューンでヨガをやりながら股を開いたところで中年の男性にしか相手にされないだろう私が、地貝さんを愛する。私の恋慕は、私の罪悪感だ。地貝さんにはもっと良いひとがいる。いなくても、ふたりでいるよりましだ。彼女には私ではいけない。なぜって、彼女は私の前を歩いている。恋をされた時点で、負けているのだ。再起不能の私を引っ張り上げてくれるのは地貝さんしかおらず、ふたりでいると賢くなれるが、永遠に、地球規模で悲しい。ふたりがふたりでいると認識しているこの星は、その瞬間に、猛烈なスピードでもって文明が退化しているだろう。バクテリアにまでは戻らない、いちおう人型を保った形で、服を脱ぎ、雄叫びあげている。恋人たちは火を恐れる。肌も記憶も焼き尽くす。

 祖母が流れて幾光年の彼方で、父は犯人に手紙をもらう。切々と後悔の念が綴られる便箋に、哀れを誘われ、彼は長い手紙を書き続けている。幸福に生きること。祖母がいなくなり、私の家族はとびきり仲良くなった。互いを思い、尊重しあい、家事は分担し、喜びを分かちあう。悲しみは半分に、やさしさは充分。家族に大切にされていると気づいてはじめて、地貝さんをすきになった。出会ってからずっと、いじめられていたのに。殺人が恋を授けてくれた。ゆえに、あの残虐にも愛情が染みていたと信じてもいい。すべての侮辱と暴力には慈しみがオパールの火のようにちらつき、泣いている。理由があるからと許されない悪があるのならば、理由がなくとも許される悪があるはずだ。いずれにせよ、わたしの性根を剣で一突きにし、肉体と精神を開花させたのは祖母が蹴り殺された事実であり、あの死を胸に宿すたび、息を吹き返すような、激励されるような、清々しい生が再起する。私はあそこで生まれ変わった。転生した。以前の記憶を有効に活用して、地貝さんへと傾倒したのだ。私は赤ん坊だ。透徹した愛で無限に抱擁する。ひどさは無邪気だ。ひととひとの適切な距離感がわからない。

 由良さんはいつまでも戻ってこなかった。玄関は開け放され、靴がなくなっていた。真野さんがやってきたのだ。彼女は運命に突き動かされ、ついていった。彼女は別段助けてほしいわけではないだろう。自由を満喫している。彼女こそ魅力的な女性なのだ。身軽になるために羽根すらも切ってしまった天使だ。

「行っちゃったね」

と地貝さんが言う。そうだね。彼女はまた子どもをつくるだろうね。

「劇的な人生を送っているたま子は、劇的に、自分が妊娠しているのは真野さんの子どもじゃなくて真野さん本人だって思ったりするのかな」

「思わないだろうね。由良さんはそこまで発狂できないよ」

 きっと、私は可能だ。しないだけだ。地貝さんを腹の中に入れてしまって、溶けあってしまったと思い込めたらどんなにしあわせだろう。金色の衣で包んだ幸福。利己的な満足。衣には青い文字でさびしいと書かれている。それほどにまで先端的にきれいで、傷のひとつもないものは、いらないのだ。私の彼女への献身は、彼女で脱皮すること、彼女と肌を合わせ、汗を流し、垢を落とすことだ。代謝し、水晶体まで涙でこそぎ落として、ぴかぴかになる。そうして私を構成する周囲のパーツを食べていく。手当たり次第に少しずつ咀嚼し、私は私の核以外を忘却する。こころは殺人のこころ、髪は地貝さんの手の皮膚と脂と結合している。びろびろに開いた性器には、昔咥え込んだ男たちの残りかすがこびりついている。そのとき、私の脚を開かせた由良さんの足裏が、踏まれた下腹部が、火傷痕みたいに厳しく膨張している。彼女へのひどさは真野さんに譲られた排他主義。いつも見つめていた視線から感染した。私の核は、私がいつも地貝さんに見られている穴。実態のない朝焼けの闇。私たちは誰しもが盲目だ。こころというものは本体からして欠陥品だ。あると注意力を失う。

 こころがある限り、朝を生活できない。夜を動いている。

 自他の接触はすばらしく、分析は楽しい。

 地貝さんは、私をいじめた。その苦しさに恋をした。では、彼女にしっかりと自分のこころと向かい合わせたのは何者だろう。

 私の血では足りなかった。私にふりかかる男たちの汗と唾液と精液。

 地貝さんは、私に注がれた生命に欲情し、恋慕した。彼女が仮に、より激しい生を求めて新しい恋人を求めても、ふしぎではない。

 許さなくてもいい。たまに。

 由良さんのマンションの玄関を閉める。荷物を持った。正午に近かった。公園まで歩き、車に乗る。エビフライの有名な定食屋まで、彼女が運転する。昨日と同じディスクがかかり、同じ順番で曲を流す。通りにはひとはまばらで、車道は空いていた。太陽は真上より光を垂らしている。スライムのように、ぶちまけた衝撃でどばりと広がる光の帯が、流れ星みたいに天の内側で増殖している。街路樹はおしなべて広葉樹であり、まろやかさが感じられる形状をしていた。モスグリーンとミント色の中間の、涼しげな色味がアスファルトに手形をつける。進行方向は満遍なく歩道の側を手に触れられ、冷えかけていた。私たちの通り過ぎたあとの道も、また、触れられる。車内の暑さがいっそふしぎだった。昨晩のウイスキー混じりの吐息が、きっと金属板に作用している。

 駅とは反対方向の、潮の香りのする店だった。客がごった返し、尻の乗った椅子が連なっている。腰を下ろし、店員に人数と苗字を伝えた。地貝さんがトイレに立った。スマートフォンが震える。由良たま子、の字が液晶に白くふやけていた。

 私は泣いていたのだ。

「もしもし、由良さん?」

「かなえさん、助けて。……どうして泣いているの?」

「わからない。疲れると涙がでてくるから、そうなのかも。暑いしね。これから地貝さんとご飯を食べるところだよ。由良さんを助けられない」

「なんで……」

「あなたに……興味がないから」

「始ちゃんとホテルに入るところなの。また赤ちゃんつくっちゃうかも。なんでだろう」

「産みたいなら、別れるしかないんだよね。ねえ、なんでカナダまで行ったの。嘘つき」

「考える時間がほしかったんだよ」

「なら考えながらセックスすればいいよ」

 通話を切った。中々真理をついた言葉だと思った。涙を拭いた。地貝さんが隣に座る。由良さんの電話の件を話した。彼女は言った。

「助けられないんだよなあ」

 牛乳パックに貼られていたメモに、地貝さんは気づいていた。彼女は聡明だ。昨日と同じ衣服を着ていても頭の良さは変わらず、日増しに複雑な思考が可能となっていく。解の明瞭さが増していく。時間だけがかかる。使用される手数も多い。地貝さんは発達しつつある。彼女は私を食べて転生している。キメラだ。私たちはふたりでいると双頭の化け物だった。パスタもハンバーグもソフトクリームも練乳割りウイスキーもピザも食べる。花火の火花が爪に引っかかっている。

 言葉をつけ足していく。なりきる。私たちが私たちと決めたものを、演じきる。

「ここのエビフライ、すごく大きいんだって」

「え、大丈夫? 岩井俊二の映画の画面で大きいエビフライってありなの?」

「大丈夫、大丈夫」

 名前を呼ばれた。隣のテーブルで、親指二本分はある太さのエビフライが皿に鎮座している。障子の貼られた窓越しに、小麦色の光が四角く畳を熱くしている。木製の低い机は鼈甲の健康さ、指に引っかかる漆の具合も風情がある。藍色のランチョンマットの上に、ぽつんと、湯飲みが置かれていた。茶柱が立っている。

「ワタシたちはいつまで岩井俊二に撮られているの?」

「きのうときょうだけだよ。じきに終わるよ。映画だもん。くだらない」

 少しも救いがない。

「深読みする価値もないよ。私たちは、間があるだけの出来損ない」

 愛しかない。刹那的な永遠だけ。さびしさだけ。悲しみだけ。

 すべて、出会いだけが、真実だったはずなのだ。誰も言及しないにしろ。

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キメラにロールする 関東 @jokanaan

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