日和の去ってから暫く、階下より騒動する音がした。先だって伯父が階下へ行く足音が聞こえた。嘉和と住和とのものと察せられた。嘉和は今晩決着するつもりらしい。

 生哉はこの機に便乗する心持ちになった。ここに来て好機が多々訪れるようになったのは神意だとか偶然というものの産物ではなく、己の心持ちの変じように寄るものである。

 何を欲して何を排するか、開き直って以後、あらゆる折りに好機を見ることになった。世のあらゆることは行動主の考え一つで如何ともなるのだと理解した。

 やがて、落ち込んでいるのを隠す様子もない足音が階段を上がってきた。住和のものであった。

「起きてますか、生哉兄さん」

 扉の向こうから彼の声がした。

「どうぞ」

 引導は僕が渡して遣ろう、と生哉は心中に図った。正直なところ楽しみでもあった。心機一転せる己が、どれだけ自分の思う通りに事態を動かすことができるのか試してみたくて仕方なかった。

 住和は落胆の様子で生哉の部屋に入ると、手を強く握りしめ、視線は落ち着かず、実に不安そうな調子で話し始めた。「父はやっぱり薄情者だった。もう信じられない」と呪詛を吐くように言ったのを皮切りに先の一連の話を語った。内容は所々穴があった。それは彼が自分に印象の良いように時には削り、時には誇張しているためと見透かされた。

「もう信じられない。あんなに、あんなに仲良かったのに、なんでこんなに薄情になれるんだろう。生哉兄さんもそう思うだろう」

 縋るような視線で自分のことを見る従弟に、生哉は優越感さえ覚えた。正直彼の話した内容は殆ど生哉の耳には入ってこないでいた。彼の語っている間中、ずっとこの哀れなる従弟をどのようにして追いつめて遣ろうかとばかり考えていた。

 窓の外からは轡虫の声が聞こえる。静かな夜だ――否、この土地そのものが実に静かで、――波の音が足下より上ってくる恐ろしさを感じさせない、そんな夜であった。

 生哉は住和の近くに寄って、背中に手を回し、幼子をあやす具合で背中を軽く叩いた。住和の体からふっと、力が抜けるのが分かった。

「お前の方が何も分かっていない餓鬼なんだよ。住和」

 脱力した体への奇襲は堪えたと見えて、彼は「なっ」と息を飲んで硬直した。

 生哉は囁くようにして猶も言葉を続ける。小声で話すのは背面の伯父の部屋、正面の日和の部屋に自らの声を聞かせぬためのものである。また、階下の伯父の動向を探るのにも必要の対処であった。

「お前みたいに感情任せに薄情だ卑怯だ言って、家族に迷惑をかける奴は大嫌いだ」

 意図せず本心が出た。言い方さえ工夫すれば同じ内容で彼を立ち直らせることもできそうな、そんな本心である。どのような言葉も、意思も、話者の心一つでこんなにも効能は違うのかと己の言葉に生哉自身驚いている。

「お前みたいな奴は要らない。出て行け。日和と伯父さんは僕がなんとでもする――」

 頬が唐突に熱くなった。生哉は住和に殴り飛ばされていた。どうやら日和と嘉和の存在が一つの着火点だったらしい。住和の目には明確な敵意と侮蔑が含まれていた。

――なんだ、まだ家族のことを信頼していたんじゃないか。

 と妙なところで生哉は感心したが、最早遅い。ここまで自分に対して敵意を発現させては後には引けない。

 住和は興奮の余り気付いてないが、嘉和の階段を上る音がよく聞こえていた。

 生哉は胸の高鳴りに心地よささえ覚えていた。

 おもむろに生哉は机の上のペン立てや書籍やらをなぎ倒し、床にぶちまけた。椅子を蹴り倒して、息を大きく吸い込んだ。そうしてから、

「うわああああ」

 悲鳴を上げた。日和と嘉和の足音は急ぎこちらへ向いていた。住和は状況をまだ了解できておらず戸惑っているようである。

 従弟の顔を見て口角を持ち上げて見せ、そうしてからその場に土下座をする形に跪く。と、同時に二人が部屋に飛び込んだ。

「生哉君!」

 二人の叫んだ名はいずれも自分のものと分かって、不思議と安堵した。

「本当にすみません……僕がこうして、この家に厄介になったばかりに、こんな」

 嘉和と日和の声のする方に面を上げぬまま謝った。声は愚かな程に震えていた。背中から覆うように温もりに抱かれた。日和が庇うように抱いてくれているのが分かった。

「住和っ、お前、何をした」

 嘉和の怒声が響く。伯父は住和との間に割って入って、住和を睨みつけている。こんなにも敵意に満ちて、また悲しみでいっぱいな声を聞くことになろうとは、生哉は申し訳ない心持ちになった。

「違うんです、僕が何もかもの原因なのです」

 すかさず顔を上げて、住和を庇う。ちらと住和の顔を見ると、不安そうで、今にも泣き出しそうであった。日和は背面におり、嘉和がこちらに背を向けているのを確かめてから生哉は、また住和に向かって口角を持ち上げて見せた。

 面白いほどにそれは住和に効能した。

「てめえ、ふざけやがってっ」

 拳を握りしめて弾かれたように駆けだした住和の頬をその父が張った。住和は尻餅を着いた。

「伯父さん、悪いのは僕だったんです。二人の厚意に甘えて了ったから、それが悪かったんです」

 困ったように、自分の生存を嘆くような調子で顔を上げて言った。殴られて赤くなっているであろう頬を見せるために。

「生哉君、口から血が」

 いち早く暴行の痕跡に気がついたのは日和であった。嬉しい誤算であった。わざわざ散らかした現場に見合った暴行と相成った訳である。

「違うんだっ、そいつは全部嘘吐いてんだよ。悪いのは全部――」

「住和さんの言う通りで、悪いのは――」

 もう一押しかと逸る気持ちに言葉を続けようとした次の瞬間、

「もうやめてっ!」

 日和の悲痛な叫びが全てを遮り、周囲に静寂をもたらした。日和は既に泣いていた。

「住和――」

 やけに神妙な声であった。嘉和は凝乎と息子を見ていた。

「お前の母の死んだ後、平時の調子に私が戻り、それがお前に不信を抱かせたのは私の責任だ。お前を追いつめたのも私の責任に間違いない。だが、先刻言葉を尽くした通りだ。自分の選択に責任を持たねばならない。私はそう言ったはずだ」

 実に淡々とした口調であった。その声音の中には怒りと、失望と、自身に対する不甲斐なさを呪う気配が感じられた。

「全てはお前のためにと仕事に邁進したつもりであった。それが結果、お前に寂しい思いをさせていたのは申し訳なかった。が、すまないがもう駄目だ」

 住和の顔に絶望の色が差した。体が震えている。

「金銭的な援助はする。この家を出ていって呉れ。それがお前の選んだ行動の結果なのだよ」

 生哉の傍らで日和が嗚咽していた。何度も何度も「なんで、どうして」と繰り返していた。生哉が「ごめんね」と申し訳なさそうに口にすると、彼女は腕に力を込めて従弟を抱き締めた。日和の腕の中は暖かくて、佳い香がした。

「俺、じゃなくて、そいつを追い出さなきゃ」

「もうやめて……お願い住和」

 必死に弁明しようとする日和の言葉に、今後一切住和は口を閉ざして了った。もう、なにもかもがどうにもならないと遂に悟ったようだった。途端に彼は泣き出した。「うう、うう」と鳴き声を堪えるように住和は泣いていた。日和も啜り泣く。嘉和は涙こそ見えなかったが、「ほら、もう出るぞ」と住和を促した声は大いに震えていた。

 唯一人生哉のみが、笑い出しそうになるのを堪え、あたかもしゃくり上げるような声を出していた。

 まあ、良い方だろうと思われた。巣から追い出しても殺さないだけ感謝されても構わないはずだ。金銭面での援助はあれど、もうおいそれと大学進学はできまい。

 未来のことは、一寸先のことさえ分かりはしないが、生哉には何も怖い物などなかった。この世の物事は、悉皆、燕の一家(ひといえ)に同じなのだから。


〈了〉

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