第三部

 生哉が目を覚ましたのは昼過ぎのことであった。昨日、燕の一家の様子を得て自らの往く道を示された彼は興奮の余りなかなか寝付けなかったのである。

 蒲団から這い出て机の上を見ると夥しい数のメモ紙が散らばっている。彼はこれらを一纏めにすると机の奥の方へ捩じ込んだ。汚い字で走り書いたメモだ。誰に見られたとて内容は読めたものではなかろうが用心に越したことはない。

 空腹を覚えて階下へ降りた。気の利く日和のことだ。起きてこない従弟のために何かしらを用意してはいるだろうとの目算があった。

 台所より一人分の物音があった。住和である。こうして家で二人切りになるのも珍しい。いつもならば生哉は図書館へ、住和は――家族に対して反抗的ではあるが――学校に素直に通っており、居合わせることなぞ、小本の家に来てから一度もなかった。どうやらこの日は半ドンだったらしい。

 生哉は思うところあって、「おはようございます」と少々卑屈そうに、且つなるたけ平常の調子で口にした。

「……おはようございます」

 住和は仏頂面であったが、確りと挨拶に応えた。

 どうやら彼の態度は反抗期というものに起因するものではなく、彼の父と姉とのみに向けられていると見て間違いなさそうである。もし彼の敵意が二人だけでなく生哉の身にまで及ぶとしたら面倒なことであったが、どうにかうまい具合に成りそうだ。

「住和さんには申し訳ないです。こうして――従兄とはいえ他人が家にいては……。なんとか職を見つけて早く出て行きますので、暫しご容赦いただきたい」

 小さい時分、生哉を兄のように慕って呉れた彼を絆せまいかと一計を案じた。この従弟は昔から他人、他人どころか別種の生物にさえよく感情移入する少年であった。生来の性質が根本的に変じていなければ――。

「そんなこと言わないでくださいっ」

 住和は俄に語調を強め、生哉の予期した通りの言葉を吐いた。

「生哉さんは家族を失って辛い思いしているのに、そんなに卑屈になられたら――」

 最後には言葉の尻を濁し、住和は俯いた。

 生哉は余りにも自分の思う通りに事が運ぶので不思にやけて了いそうになった。必死にこれを抑えて、「けれど、昔会ったときと大分様子が違っていたものだから、伯母さんが亡くなったことか、そうでなければ僕が居候しているのが負担になったのかと思って」

「そんな、生哉さんは何も悪いことなんかないよ」

 一先ず、生哉は彼の反抗的な態度の原因を探ろうと決めた。幸い、日和は図書館、嘉和は工場といったところであろう。二人切りという機会もなかなか得られぬと判断した。

 ちらと横目に食卓の上を見ると、二人分の朝食に埃除けが被せてある。空腹も身に堪えてきた。

「ちょっと遅いけれど朝食、一緒に食べないかな」

 二人、対面に座った。生哉はこの従弟が朝食に手を付けるのを待った。目の前の従兄がなかなか食事に手を出さない理由が察せられて、「俺は食べないんでどうぞ」と促した。

 生哉は、「それはまた、どうして。朝ご飯、食べていないのでしょう」と、故意と恍けてみせる。我が事ながら実に卑怯だ。無邪気を装わせた言葉に困った様子を示す従弟に心中にて微笑する。

 水滴の浮かぶグラスを口に運び一口啜る。住和は心底困り果てている。理由を話すか話すまいか悩んでいるのが生哉には手に取るように分かった。

「もし僕に原因があるなら言って欲しい。震災に逢ったのを言い訳に居候されるのが辛いなら言って欲しい。僕が邪魔なら――」

「違うっ」

 住和の怒声が響いた。暫しの静寂の後、今にも泣き出しそうな顔で、再度「違うんです」と彼は言った。また、幾分かの沈黙を挟み、彼はぽつりぽつりと語り出した。

「俺が嫌なのは、あの二人なんです。なんでって、母が亡くなっても二人は直ぐに立ち直って今までとは変わらずに就活したり働いたり……四十九日の法要なんかじゃ、笑いながら親戚の人達と話してた。そんとき生哉兄さんも見ていたでしょう。それが俺は嫌で仕方なかったんです。増してや一年経たぬ内から二人揃って仕事ばかり。なんだか薄情じゃないですか。母さんはなんのために生きていたのか分からないじゃないですか。俺ぁ、どうしても二人の態度が分からない。分かってますよ、そりゃ自分達が生きていくには働かなきゃならないのに、いつまでも沈んじゃいられないことくらい俺にも分かりますよ。けどさ、家に居るときくらいは悲しんで遣ってもいいじゃないですか。どういう訳で二人は悲しまないって言うんですか。悲しんじゃいけないなんて決まりがないのに悲しまないって言うんなら、結局悲しくないってことじゃないですか」

 住和は浅く呼吸を繰り返しながら既に泣き出していた。終いには怒鳴るように吠えていた。そうして一呼吸置いて、声を振るわせ、更に、

「――或いは俺が感情的なだけで二人が平常だったのかも知れないと納得しようとも思いました。けど漸く俺の方が普通だって了解った。こう言っては失礼だろうけど、生哉兄さんは震災に逢ってから半年経っても――その、暗いままだった――から、俺の方が平常だって分かったんです。そうしたら二人のことが好きにはなれなくて……」

 それきり、住和は言葉を続けることができなかった。声を押し殺し嗚咽するばかりだ。

 生哉はこの哀れな従弟の告白を受けて――さて、ここに彼の思い違いと二人の真意を詳らかにしたが良いか、或いは仲違いを助長したが良いか――と、どちらにせよ自分の味方にできると覚えて、一足跳びにこの後の動かし方に思考が遷移していた。

 なんと卑怯で浅ましく厭らしいことかと生哉は自嘲する。震災のことも、家族を失ったことも、小本の家に覚えた居心地の悪さから来る閉塞も全て真実であったが、この全てを自らの都合の良いように用いようとする根性が、我が事ながら気に食わなかった。自分で自分の変貌に驚くくらいのことである。

「辛かったね」

 何の臆面も恥じらいもなく、生哉は住和を労った。

 顔を上げた住和の目からはいっぱいの涙が零れ落ちていく。鼻汁をだらしなく垂らし、浅い呼吸を繰り返している。

 卑怯者は住和の傍らに移って、

「よく頑張ったね」

 と、頭を撫で、彼の顔を自分の胸の辺りに埋めさせるようにして抱き寄せた。自分の胸板に彼の鼻汁の湿る感覚がし、一瞬間、身が強ばったが、直ぐに力一杯抱き締めた。

――人は死ぬ。実に簡単に。自然というものの中に生物というものは辛うじて生きているに過ぎないのである。

「生哉兄さん……」

 嗚咽はいつの間にか号泣へと変じていた。胸板の冷たさは涙のためか鼻汁のためか。増して、暑さのために滲む汗が気色悪い。

――自分の死ぬまでに、自分の為せることを為さねば死んでも死に切れぬ。

 住和の鳴き声は、寄せては返す波音(はおと)のようであった。絶え間なく耳を打つ雨音のようでもあった。

 彼の不快なる音の止んだのは半刻後のことであった。

◆   ◆

 結局、生哉が朝食にありつけたのは昼を大きく回ってからであった。極度の空きっ腹に「それでも俺は彼女の手の料理は食べたくない」と固辞する住和の分も合わせた二人分の食事は実に堪えた。

 無理に食わずとも日和は怒りはしない。残しても、手を付けずとも彼女はこれを責めたりしない。困ったように微笑して、悉皆許容して呉れる。それでも完食して遣りたかったのは、好いた女性に喜んで欲しいからに他ならない。

「ははっ……ぐえふ」

曖気(げっぷ)が出る。胃の調子が悪い。身体はどうにも不快な具合であったが、精神は実に快調であった。「笑うことは健康に良い」と聞くが、嘲笑、それも自分に向けたものでも充分効能するらしい。居間の畳の上に寝そべり、天井を眺めつつ相好を崩す。

「よく頑張った」

 先刻、住和にかけた言葉を再び口にする。口を離れた己の言葉は虚しく中空に霧散した。

 彼の扱いを如何するかは一時保留することとした。幸い彼は生哉の境遇に同情的である上、あの様子ならば家族二人より信頼してさえいそうなものである。こちらが巧く御しさえすれば、側に置いた方が都合が良いと思われた。

 また、幸運にも彼と日和等が程良く対立を続けさせ、且つ意志の疎通を計らえないようにっことを運べば大分都合が良い。

 飯を平らげてから随分時間が経ったのであるが、未だ腹が重かった。然し、日和の終業時刻が近かった。

 迎えに行こうと思い立ち、体を起こし支度した。家を一歩出るだけで、じわりと空気の厚さを感じられた。門柱の脇に鉢植えされた金柑の木は、乾いた色をして立ち往生しているようであった。新しい環境が駄目だったのか、最早内側が死んでいたのか定かではないが、この暑い日々の中に、金柑は死んだらしかった。

 暑い、という気温の話ばかりではない。元々暮らしていた所と比べると、身体中に纏わりつく湿気の異様さが気になって仕方がない。

 伊勢原の北部には大山という名の山がある。古来より雨乞いの霊山とされている。現実、この大山と脇に広がる丹沢の連山が屏風のようにそそり立ち、雨雲を滞留させ、裾野に多くの雨粒を落とさせる。そうした事情でこの土地はでは農作物の栽培が盛んである。

 上代より多くの人々に有り難しと祀られてきた効能にも不快を催させる側面がある。

 自身の心境の変化や遷移も実に同様で、道理に適わぬとて切り捨ててきた考えわ今こうして受け入れられるのも、日和を好きと思いつつ、故意と障害して都合の良いように手を入れようとする心理も、完(まった)く自然に適っているのだと確信できた。

 小本の家より図書館へと向かう道は、大山を背にして、小高い山を一つ跨がねばならぬ。この山巓で大山を返り見てみると、遮蔽物なく、視野角いっぱいに山の連なる姿が見える。

 気障ではあるが、生哉は彼の山々を目にし、どっしり腰を据える父か、そうでなければ子を抱擁しようとする母のようだと覚えた。

――自然の内に生活を得て、何もかも許容される。

 東北の、生哉の育った地は、山筋が海岸近くまで突き出て、あたかも覆われるくらいの心地であった。終いには津波だとて足下は水に飲まれ、頭上からは氷雨が降る。

 生哉は気づかぬ内にこの土地に惚れているらしかった。

 なだらかな坂を下り、図書館に着く頃には件の小高い山越しに見える大山の山巓、その西方に朱色が染みていた。

 ひっきりなしに吹き出る汗は、生哉のことを実に不快にさせた。しかし一方でへ、この汚れた体で以て日和を抱き締めてみたらどのような反応をするだろうか、などという、実に子供染みた好奇心をも芽生えさせた。

「生哉君」

 職員通用口より現れた日和は小走りになって生哉の傍に寄ってきた。「来て呉れたんだ」と笑う彼女のその顔は実に明朗であった。「珍しく今日は起きてこないから、一日家にいるのかと思った」と付け加え、また口角を持ち上げた。

 二人連れだって少し遠回りをして帰った。国道沿いの大型スーパーに寄り、夕飯の食材を買い、アイスキャンディーを二本、二人食べつつ長く緩やかな坂道を歩いた。アイスは半分食べぬ内から溶けだして、二人の手を甘く汚した。二人揃って苦笑いし、直ぐに二人して微笑した。

 日和が何度となく自分の顔を覗き込んでくるのが分かり、生哉は目が合う度に柔らかに口角を持ち上げ、目を細めてみせた。すると日和が嬉しそうに、また恥じるように余所を向く。これ楽しさに何度となく飽きもせず生哉は微笑んでみせた。

 やがて、坂の上に到達すると、紫がかった西方の空を見遣りつつ、「よかった」と、日和が言った。

「何が良かったので」

「生哉君が元気になって」

 日和は生哉の方を向かず、大山の裾を見ているのかそれとも徐々に青みを増していく空を見ているのか分からぬ姿勢のままで「だって」と続けた。

「あんまりにも、その、静かだったじゃない。我が儘も希望も言わないし、いつも謝ってばっかりで……生哉君は何も悪くないのに、まるで生きていること自体が悪いみたいにさ……」

 それきり日和は黙って了った。彼女の声は震え、また肩も時折上下させ、鼻汁を啜る音もしばしば聞こえた。安堵のためか、今まで心中に抑えていた感情が溢れだし、どうにも止められいのだろうと察せられた。

 生哉はまた、浅ましき策略を脳裏に巡らせながら思案した。この好機を最も今後の生活に効能させるには如何すべきか。

 感情を高ぶらせる日和を平易な言葉で慰めるのは実に簡便なことである。然し、今一歩、二人の関係を好いものにしたいものだと欲が働いた。そう思い至るや否や、生哉の口は自然、言葉を発し始めた。

「ずっと――」

 巧いものだ。と呆んやりと感じた。呟くような調子で、しかも辛うじて聞こえるくらいの声量を意識せずに実践できて了う自分が空恐ろしくもあり、好ましくもあった。

 生哉の策略に応えて、「えっ」と漏らしつつ日和は振り返った。彼女の目は潤んで光を帯びていた。

「ずっと、僕だけ生き残って了ったことが許せなかった。否、生き残ったことが、と言うんじゃなく、自分の被った不運をまるで伯父さんと日和姉とに押しつけて不都合なく生活している自分のことが気に食わなかった。自分が不自由しない分だけ日和姉が割りを食ってるみたいで、自分が許せなかった」

 覚えず、自分の声は震えており、鼻の奥がつんと酸っぱくなった。今口にした言葉には一片の偽りもなかった。だからこそ自らの感情さえ騙しおおせることができるのである。

 嘘を吐くときは真実の内に虚構を混ぜるもの、とよく耳にする。そうした技術が知らぬ間に発揮させしめている自分を、ある面ではこれを嘆き、ある面ではこれを喜んだ。

「そのせいで、卑屈なくらいに謝ってばかりいて、それが日和姉を苦しめていたのも僕は分かっていたのに全く辞められなかった。いっそ小本の家を出て身一つで生きていけば良いのに、僕の卑怯さのためにそれもできなかった」

 卑怯なのはそこではないだろうに、と胸中に思う冷静な自分があった。

「生哉君――」と、従弟の名を呼ぶ日和の声は先にも増して震えを強めていた。

 気付けば彼女の体は直ぐ目の前まで迫っていた。もう半歩寄れば従姉弟の間柄ではなくなると生哉は直覚した。

「僕は――」

 一度言葉を飲み込み、呼吸を整えた。次に続く言葉はなるたけ明瞭に発すべきと了解していた。深呼吸。さらに一拍置き、

「僕は、日和のことが好きだ」

 少々前後の接続が乱暴かとも考えたが、変に説明を長く続けて、冷静を取り戻されたり、必要以上に情けのないところを晒して、母性を発揮させるよりは余程良い選択であろう。

「それって――」

「一人の女性として、日和のことが好きなんだ」

 日和は口を半開きに、何かを考えていたかと思うと、微かに暗い顔をした。口をきっ、と結ぶと自分の足下に視線を落として、

「駄目よ」

 と言った。

 生哉の心持ちは実に快かった。この一人の女が何を思っているのか手に取るように分かったからだ。震災を経て不安定な心理にある従弟が異常の生活下での緊張を恋だと捉え違えたとでも考えているのだろうと確信した。

「駄目なものかっ」

 静かに、そうして力強く生哉は言い放った。このまま押し切れると覚えた。だから故意と論点を反らして遣ることとにした。

「確かに今の僕は自分で自分の世話もできないような情けない只の餓鬼だよ」

「そういうことじゃなくて――」

「けど、日和のことを支えたいと思ったんだ。いつだって日和は頑張ってばかりで、家のこともしながら毎日働いて、昔から好きだった読書だってずっとしていないじゃないか。夜だって次の日の朝食と弁当とを拵えて、ずっと、ずっと日和は無茶のし通しじゃないか。――もう、僕のことで日和に心配かけさせないって約束する」

 相手の負担になっていることを挙げて、努力を労って遣る。したり顔で一番の理解者だよと示して遣る。なんとも打算的だ。愛の告白がだ、これほどにまで策略に侵されて了っているのはなんともおぞましい。生哉は虫酸が走るのを堪えて、好いた女のために自分を磨き、相手の好みに合わせようとする努力が許容されるのならば、己の行状は好意をより魅力的に映えるようにプレゼンテーションしているに過ぎず、自分は充分許容されるべきと結論した。

「僕が日和の傍で、これからずっと日和を支えてゆきたいんだ。だから――……」

 失策った。何が策略だ。恋人になって欲しいとでも言うべきか、結婚してくれと言うべきか、どちらにせよ、そんな簡便な言葉は生哉は求めていない。自分の日和に対する気持ちは自分の語彙に当てはまるものが見つからない。「傍に居て欲しい」とでも言えば格好はつくが、「居て欲しい」などと乞えば、先までの言葉との整合性が全く取れぬ。かと言ってこのまま黙している訳にはいかない。

 掌に嫌な汗が滲む。掌だけではない。身体中に脂汗が浮かぶ。日和の顔をまともに見られない。否、違った。状況は一変し、日和の顔は見えなくなったのであった。

「――日和」

 半歩の距離は既に零になっていた。日和は生哉の背に腕を回し、固く抱き締めていた。泣きはらした面を生哉の左肩の辺りに埋め、「生哉君、生哉君」と好い人の名を何度となく口にし、慈しむように、存在を確かめるように腕に力を込めた。

「愛してる」

 最後の言葉はどちらが口にした言葉だったか、何故か判然としなかった。

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