◆
蛙の子は蛙と、古人は言う。彼の言に従えば愚かなる子の親は同様に愚かであるやも知れなかった。
嘉和は自宅の作業場にて図面を起こしていた。シャープペンシルを手にドラフターへ向かい、紙面に黒い線を引いていく。
――時代遅れなことだ。
誰に言われたかも記憶に定かではない言葉が脳裏を過ぎると不知、相好が崩れた。
暫く帰宅の遅い日々が続いたことは心底子供達に申し訳なかった。妻の亡き後、二人の子等を寂しがらせぬようにと独立したのであったが今までこの目的を全く達せないでいた。
考え事をしながらも、必要に従い自然に動く己の指先を見る。掌の内で、芯の接紙角度を均一にすべく回転させられるペンはクリップが除かれている。ペンを回転させるのに邪魔だからである。製図屋のペンの多くは、こうしてクリップが取られている。
デジタルに依る設計、製図が如何に便利かは嘉和には充分理解はできる。そうでなければ起こした図面を何分割かしてパソコンに取り込み、結合し、レイヤーを上に重ねて主線を引き直す、などと手間をかけやしない。「自分の製図は手書きなのだ」と言って紙のまま提出しても許されるくらいの評価を嘉和は頂戴しているが、そうはしないでいるのは業務の効率化を考えたとき手書き程厄介なものはないからである。
便利より不便を取るのは業務の上ではなく心理の方にあったのだ。
階下に玄関の戸の開く音がした。日和と生哉は先刻まで和やかな一時を過ごした後――食卓を囲み笑い合ったのは実に久し振りのことであった――就寝している。住和の帰宅したのと知れた。嘉和の息が詰まった。彼は一呼吸置いてからドラフターのラックにペンを預け、階下へ降りた。
今回は玄関で靴を脱いでいるところに相対した。住和の目は前にも増して鋭く父を睨めつけていた。「まだなにかあるのか」と拒絶する意が容易に汲み取れた。
「こんな時間まで外で何をしているんだか」
責め、というよりは呆れた具合の声音で言った。靴箱の時計は零時に差し掛かろうとしていた。
「どうでもいいと思っている癖に」
そっぽ向いて吐き捨てる我が子の姿を見て不思父は吹き出して了った。父に叱られ不貞腐れる、幼少の面影が見えた気がした。
「何が可笑しいのさ」
父が立ちふさがるようにして立っているために玄関に上がれず、一段したから見上げるようにして文句を垂れる住和からは、やはり昔の面影が感じられた。
嘉和の笑みを嘲りと捉えたらしく、住和は増々不機嫌になってゆく。彼の思い違いを丁度良しと考え、父は嘲笑の調子で、
「親の金で物を買い、オネエチャンの洗濯して呉れた服を着ているような子供が勝手をするのは見過ごせない」
と、吐き捨てるようにして口にした。
悔しさに住和の顔は赤くなった。かと思いきや、一拍置いて彼の目には父に対する敵意がありありと漲った。
「あんただけには言われたくない」
この子の様子の変じ始めたのは丁度今年の春先のことで高校二年に進級した頃からであった。反抗期のためと思い過ごし、明確な結論は得ぬまま現在に至る。厳密に時期を考えてみると、進級の少し前、生哉を引き取った頃のように思われたが彼に対してだけは住和は敵対しておらず、やはり主因は察し倦ねるところである。
「せめてお前の母がお前を誇れるように生きなさい」
父の言葉に子の目は増々鋭さを強め、眉間の皺を濃くした。口を戦慄かせ何をかを言わんとしたが、暫く逡巡したかと思うと、ふっとその面に諦念の気が差した。
「自分はどうなんだよ」
一言のみ、吐き捨てるなり、彼は父を押し退け居間の方へと抜けていった。
子の言葉の意を判じ倦ねた嘉和は、一時――浅薄(あさはか)なことだ――反抗期の一言の内に解決を見ようとした。が寸前でこれを思い止まることとなった。日和だけでも生哉だけでもなく、住和にも何かを残そうと考えるならば、親は決して自ら手を離してはいけないのだと、亡妻の影が感じられた。
「待ちなさい、住和」
不知、怒声が発された。
「なんだよ、俺は腹が減ってるのに」
改めて己の子を眺めると、どうしてか随分と小さく見えた。今までこの一人の人間に覚えていた一種の恐ろしさは微塵も感じられなかった。寧ろ親に叱られるのに恐れ萎縮するように見える息子は、いっそ哀れであった。
「なんだよ」
震える声で発された声に、彼なりの虚勢が透けて見えた。長い間忘却していた一念が沸々と湧き上がってくる。身中に言葉の群が形を成して、発散されるのを待っている。
「無碍にしてはならない」
伝えたい言葉が自然と口より溢れ出る。どのようにして言葉を投げかけて遣れば通ずるのか、そんなことを考える心の余裕はなかった。
「見るにお前は感情任せに反発し、そのためにお前自身が損ばかりして了っている。もっと自分に良いように生きなさい。そうしなければならないのだよ、お前は」
沈と家が静まりかえった。この臆病な息子は戸惑っているように見えた。やや待って、住和は問い詰めるように、「自己中心的になれって言いたいの」と訊いた。
どうにも、反発心のために素直に言葉を受け入れられていないように思われた。住和は怯えを隠すように父を睨めつけた。
「お前がそうするのが自分に取って本当の幸せだと、心の底から確信するのであれば私は止めない」
自分のことながら不器用なものだ。聞きように依っては、さも見放しているように捉えられかねない言葉である。
「只、自己中心的になることで失われるものも多くあることを忘れるな。自分を生かすのによくよく考えて選択をしなくてはならいのだと気に留めておきなさい」
最早これ以上言葉を続けても何の効能も得られぬと思われた。只、凝乎と住和の様子を注視していた。
やがて――先刻よりも低くおぞましい声であった――住和は再度尋ねた。
「母さんが死んでから四十九日も前に、普段の調子に戻ったのは、つまりその方が都合が良かったからか」
漸く、漸くこの子の懊悩の主因を見た。と、同時に亡妻の像が眼前に浮かんだ。
自分の人生は彼女のために在ると確信するくらいには亡妻のことを愛していた。二人の子供を設けて猶情愛は冷めず、家に居るときなぞは常に二人で何をかをしていたものである。
これほどまでに好き合った人間同士だったものが、彼女のいなくなって直ぐに平気のように変じて了ったのが住和に不信を植え付けたのであろう。
――お前のために金を稼ぐために仕方のないことだったのだ。
余程そう言ってしまいたかったが、結局彼に良い効能をもたらさなかった我が身の行いを申し開いても、これもまた効能せぬ。そのため只静かに、
「そうだ」
と、返した。
父に倣って弟のためにと尽力した日和にまで不信感を抱いた住和は日々を鬱屈していたに違いない。そうさせ続けた自分が許せなかった。
皆自分の蒔いた種であった。どれ程親密な間柄であっても死んで了えば容易に消え失せるのが家族なのかと疑念を抱かせ、またこれを長らく放置していた失策を呪った。
「私は――そうだな。どう言葉を尽くそうと、もうどうにも言い訳になってしまう。だから直裁に言うが、お前の言う通りだよ。死んで了ったお前の母のために泣いて過ごすより、普段の調子に戻ることの方が大切と判断し、お前の言うように実際そうした。そのほうが都合が良かったからそうしたのだよ」
父の告白を聞いた住和は暫く呆けたかと思うと口を何度か開閉し、何かを言おうとしたが、結局何も言わなかった。
そうして見る見る内に住和の顔からは表情が消えていった。彼が何を思っているのか、嘉和には全く見当がつかなくなって了った。
やがて住和は黙ったまま嘉和の脇を抜けて二階へと姿を消した。
食卓にはすっかり冷たくなった住和の分の夕飯が、虫除けをかけられたまま残されたままだった。
住和がこの家を去る前日の出来事であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます