目が覚めると既に外は明るかった。

 いつもはベッドの下に蹴飛ばしているタオルケットが珍しく腹を確りと覆っていた。

 高温多湿の不快感を堪えつつ階下へ降りると居間には朝食が誂えられていた。日和は台所に立ち食器を洗っている。どうやら朝食をまだ済ませていないのは嘉和のみらしい。時刻は既に昼に近かった。

「おはよう」

 首だけ父の方へ巡らせ日和が言う。食器を洗う手は忙しなく動き続けている。

 頭の中がすっかり明瞭であった。考えねばならぬことは多々あれど、気温も日に日に増してゆくのに不思議と心は清涼であった。

 座卓に着いて小鉢の納豆を混ぜた。醤油の香気が起き抜けの頭に心地よい。日和は作業を中断して麦茶を入れて呉れた。「起き抜けに冷たいのは良くないから」と、氷は入っていなかった。それは嘉和の喉にも清涼を与えて呉れた。

 再度、流し台へ向かう娘を見て思った。これが妻の残して呉れたものなのだ。亡妻は短命ながら、而して果たすべきを果たして逝ったのだ。これ程静粛した心持ちは居間までになかった。

 実は嘉和の後進教育は捗がゆかないでいた。というのも、自分の錬成してきた技術を呉と言われて呉れて遣るのが堪らなく嫌であったからだ。

 技術とは如何にも子のようなものである。これが未熟な内は金も時間も惜しまず我が身を捧げ、しかもこの子の行く末は見当も付かぬ。醸成を信ずる他はない。いつか必ず成ると信じてゆくしかなかったのである。そうして子が成り、口に糊する術と化したときには辛抱堪らなかった。

――お前の培ってきた技術を後進に教えて遣ってく呉れまいか。

 こともなげに言って呉れたものである。ここに告白して了えば大恩ある彼の元同僚にさえ腹立たしさを覚える程であった。

 流し台を叩く水の音に重なるようにして食器の鳴る音が聞こえている。今、この際にあって日和の行く先を思った。

 彼の甥、生哉の登場は一つの転機――こう言っては余りに彼に失礼であることは理解はしている――であったのは疑いようはない。彼の境遇はどうか。独り生き延び、且つ今猶在り続けている。この老躯より若い身でありながら多くのものを失いながら毎日を生きている。

 強靱でありつつ、一方で柔い彼の傍らに居て遣りたいと考えたが、この草臥れた老いぼれの長くはない先を考えるだに如何ともし難かった。彼の傍らに誰をかを考えたとき、日和の姿が脳裏に浮かんだ。

 嫌な考えだ、と嘉和は思った。甥の行く先のために娘の意を介さぬ希望を持つのは誤りである。何とも嫌なものだ。

 不図、考えないでもない。近頃の二人の様子を見るに思わぬではない。或いは私の本願は――。

「難しい顔しちゃって嫌だこと」

 日和が座卓の向かい側に腰を下ろして麦茶を飲んでいた。露の浮かぶ切り子のグラスは如何にも涼しげだ。

「仕方ないことばかりだからな」

 鼻で笑う。自嘲の笑いである。

 日和もまた笑った。和(やわ)らかな笑みであった。

「随分と嬉しそうじゃないか」

 ここ暫く、否、妻が亡くなってから長い間苦労の大分を彼女に任せて了っていた。言うまでもなく日和の笑顔は減っていった。久方ぶりに見る娘の自然の笑顔は不思議に嘉和へ安堵を与えた。

「ちょっとね、あったの。嬉しいことが」

 日和の頬は微かに赤みを帯びていた。喉が渇いてかグラス半分程の麦茶を一息に飲み、「食器、空いたら流しに入れておいてね」と言うなり二階の自室へと駆けていった。

 掛け時計を見ると、時刻は夙(と)うに昼を回っていた。突き板で作られたウォールナットの鳩時計である。

――好い時計よね。色が綺麗で。

 妻と一緒に選んだ掛け時計であった。日和の生まれる前からの長い付き合いである。近年、鳩は鳴かなくなり、また針の狂うのが早くなった。先月の暮れに電池を換えるついでに時間を合わせたのが、もう十五も狂っている。

 嘉和は空いたグラスを流しに運ぶと、まず古新聞で皿に残る油分を拭き取った。そうしてから水で軽く汚れを落としてからスポンジを手に取った。家のことに無頓着であった嘉和に「私がいなくなったらどうするの」と呆れながらに亡妻の教えて呉れたことは今も、存外、こうして身の内に残っているのだと妙な感慨を得た。

 残す――これこそが自分の為すべきことならば、兪この老体の引き際は近いのだと嘉和は、静かに覚悟した。

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