「いつも遅くまで――」

 そう言って嘉和の部屋に現れたのは寝間着姿の日和であった。髪を一つ結びにし肩から胸へと落としている姿は亡妻を彷彿とさせた。彼女の持つ丸盆には、水滴の浮かぶ切り子グラスが二つ乗っている。

 嘉和はドラフターのラックにペンを預けると体を伸しながら時計を見た。丑寅の時刻。一昨日住和と対峙したのと同じ時間であった。

「お前こそこんな遅くまで」

 嘉和の傍らの机に黒の絣文様のグラスが置かれた。氷が揺れてからんと涼しげに音を立てる。

 昔、亡妻がして呉れたのと同じ風景であった。堪らず、

「大人になったものだな」

 と、呟きがこぼれた。娘は困ったように微笑み、「今更?」と返した。

 嘉和は心の内に娘と母とを比べてみた。途端に娘を悲しく思った。母と余りに似過ぎていた。それはなにも面差しがというのではない。肉の痩(こ)け方、手の皺、傷み硬そうにほつれる長髪。苦労の痕跡が浮かんで見えて、それが堪らなく悲しかった。

 結局、自分は亡妻の苦労に報恩(むくい)ぬまま、彼女を遠くへ遣って了ったのかと改めて覚え、喉が変に鳴った。鼻の奥がじわりと酸っぱくなった。

 そうして彼女の残した日和にまで苦難を強いている現状に情けない心持ちになる。

 日和は藍の小波文様のグラスを抱え、これを落とさぬように柔らかくベッドの縁に腰を下ろした。

 不知、日和の頭を撫ぜていた。娘の髪は、細く梳いた棕櫚の感触がした。

 日和は一時驚いたと見えて上目遣いに父の顔を見た。そうして父の髪の白髪のが過半を超えていること、血管が細く浮いていることに気が付いた。

 嘉和は娘の視線に応えるように凝乎と見据えて、

「お前にばかり苦労をかけてすまない」

 と、余程耳を澄まさねば聞こえぬくらいの調子で口にした。指先の感触は亡妻のそれを想起させた。懐かしき感触が怒濤の如く押し寄せた。意識は薄れ、妻の気配が満ちるように押し寄せた。

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