◆
嘉和は汗を拭う間も惜しんで、ドラフターと机の間を、車輪付きの椅子に座って行き来している。やり甲斐とも、苛立ちともつかぬ感覚を覚え、口角は微かに持ち上がっているのに眉間に皺が寄っていた。
彼の心境を複雑たらしめる出来事のあったのは夏の口のことである。
現在は独立して一国一城の主となっている嘉和が、嘗て製図屋として勤めていた工場、三野工業は車の部品、工具、缶、あらゆる金属製品うぃ製造する伊勢原市随一の大会社である。そこの設計部長――嘗ての同期である――御自らの依頼があったのである。
「お前の培ってきた技術を後進に教えて遣ってく呉れまいか」
思いもせぬ依頼であった。自分の人生の過半を賭して得た技術を新人に指導して呉れ、というのはどうにも図々しく思われた。一方で提示された報酬の額は小本家の新しい住人の生活を保つのに足る額であったために引き受けるのが良いとも思われ、こうして複雑の心持ちならしめられたのである。
この日も遅くまで若い連中に指導を施し、日付を跨いで帰宅した。そうして、これとは別口の製図の下請けを片しているところなのである。
如何(どう)にも調子は悪かった。如何にも、自分の人生を数十年と捧げた生業であったのに相違ないが、自らの指先と指導は懸け離れて了っていた。この不調の原因は自らの言葉の拙さに依るものでもあったし、間違いなく現状抱える問題のために思考が妨げられているのもあった。
嘉和は自己嫌悪の感覚に鬱屈としていた。帰宅して、玄関の靴を見るなり突いて出た安堵の息が忘れられぬ。我が子、住和が未だ帰っておらぬのを喜ぶ手前が気に喰わない。
愚息を身から出た錆とて嘆く訳ではない。妻の早逝を恨むのでもない。只々、どうしてこうなって了ったのだろうかと思うばかりである。
気が付けば部屋は沈と静まりかえっている。椅子の車輪の鳴る音も、図面引くペンの音も止み、ほんのりと湿気を帯びた空気が部屋いっぱいに張っている。
――本当に、どうしたらいいんだろうね。
唐突に聞こえた女の声は、一瞬、亡妻の声かと懐かしく思われ、一方で心胆冷やしめた。然し、どうやらこれは娘の声であった。隣の部屋、甥生哉の寝泊まりする借り住まいでより漏れる声であった。
――私なんかじゃなくてお母さんがいれば、もっと上手にできてたろうにね。
日和の自責せる言葉に、生哉は応えもせぬ。仕方あるまい。自身も先立って両親を失っているのだ。日和の寂しさに共感すれども、どうしたら、という問いに解を持ち得はすまい。
それが分からぬ日和ではない。それでもこぼさずにはいられない不幸が彼女にはあったのである。
情けのないことだ。娘にこれ程の負担を強いているのは他ならぬ父親自身である。思えば嘉和までもが、日に日に亡妻の面影を濃くする娘に、ともすると妻に頼むように家のことを任せて了っていた。
――ごめんね、こんな愚痴言っちゃって。おやすみなさい。
結局、生哉の声は全く聞こえなかった。何も彼を責めるのではない。恐らく、愚痴を聞かされたのが自分であっても屹度何もできやしなかった。それでも堪らなく歯痒かった。
日和の言葉を黙して受け止めて呉れた彼に感謝を覚えた。また、娘の心の頼りとなる者の正体を覚えて、一つの安堵と一つの焦慮を得た。双方は互いに鬩ぎ合うように脅迫性を増して行き、嘉和の脳裏から仕事の入り込む余地を悉く奪い尽くして了った。
(明日は仕事を休んで了おう)
嘉和は不器用な男だ。一点、心中に澱みが認められると忽ちそれが気にかかり、何にも手を付けられなくなって了う。昔からこうした質であったためによく人に呆れられた。唯一人、亡妻だけが「真っ直ぐで佳い」と好いて呉れたものだった。
兎も角も禍根は断たねばならぬ。嘉和の心には三つの像がもやもやと正体の分からぬ不快感を伴って蠢いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます