第二部

 この寒々とした日々に暮らすようになってからどれほどの時間が過ぎていったか、小本嘉和には最早見当もつかなかった。いつからか自分の歳さえ数えるのを辞めて了った。知らぬ間に、直ぐ息切れするようになった。知らぬ間に膝が重くなった。気がつけば本を読むのに虫眼鏡を頼りにするようになって了った。

 ふっと、辺りが静かになる瞬間、自分の肉體が着実に疲れ果てつつあるのが思い知らされるようになった。思えば、夏の暑さも冬の寒さも苦手になって了っている。こうして肉體が疲労し、傍らにいて支えてくれた人も失い、それでも生くることを厭わずにいられたのは妻の忘れ形見のためであった。

 時刻は零時を回っている。頭上には下弦の月が呆(ぼう)んやりと光っている。湿度の高さのために光りが鈍くなっているのだ。気温の高さも相俟って、嘉和の肌着にはじっとりと汗が滲んでいる。

 嘉和は一本の庭木を眺めていた。自分の腰程の高さもない金柑の木である。着いている葉の数は少なく、色も薄い。嘉和には彼の行く末が気にかかって仕方がなかった。

 この弱々しき植木を凝乎(じっと)と眺めてみてもこの男には植物の事情は分からぬ。ややもすると、大仰に一息吐いて一人の中年は静かに、暗い家の中へと入って往った。

「ただいま」と小さく口にした。点いている灯りは玄関のものだけである。家の者は既に寝静まっていた。いや、一人は家に帰らず、どこをほっつき歩いているのかも知れなかった。愚息の靴だけが玄関に見当たらなかった。

「どうしたものか……」

 不知、溜息と共に溢れた言葉は、寂しき反響を残して家中へと飲まれて了った。付け、というものは弱っているときに一挙に回って来るものだというのは、嘉和自身、自らの短くはない人生経験に依って心得ている積もりであった。さりとてこれ程にまで現実を表す教訓とは思ってもいなかった。

 激流一過、本当に沢山のものが傍らを往き過ぎた。本当に、多くのものが……。

 それでも自分は幸いな方である甥の生哉は一時に大切な者を悉く失っている。彼を小本の家に置いてより数ヶ月を数えるが、安楽に笑っているのを見た日は未だにない。そればかりか涙を落としているところさえ嘉和は知らなかった。

 嘉和が被災地入りしたのは、津波が引いてから三日後のことである。幾度かけようと繋がらぬ電話、日に日に増していく犠牲者の数、気がつけば嘉和はワンボックスカーに乗り、一路北へと向かっていた。

 今思い出しても凄惨極まりない。建造物の数々は基礎を残して姿を消し、形を残す家々もその内側を掻き出され、人々の生活の面影は只々、荒涼の風景に寂しさを加えるばかりであった。

 島本家の情報は、島本家から山一つ隔てた先の旅館で得た。この旅館に生哉は辛うじて避難していた。独り切りで。が、生哉は丘の上の小学校の体育館にいるとのことであった。当時そこは遺体安置所となっていた。

 甥の姿を求めて入り立った暗がりの体育館には、強烈な臭気が充満していた。強い潮の香の混じったそれは――仮に存在するのであれば――海の腐ったような臭いであった。

「生哉君」

 館内は余りにも静かであった。嘉和の声は暗がりの中へ沈んでいった。この館内に生者は自分だけと錯覚しかねないくらいであった。動く者は皆首をもたげて嘉和の方を見た。生気の感じられぬ目で呆としていた。中には啜り泣く者もあったが、概ね中空を眺める如く皆虚ろな目をしていた。

「生哉君!」

 続けざまに彼の名を叫んだ。また虚ろな目がこちらを向いた。これ以上彼をここに置いていてはいけないと直覚した。遺骸の間を足早に行く。足音がいっぱいに反響した。

 夥しい数の遺骸の傍らの人共は俄に面を上げて、一人声する嘉和を見た。誰もが目の下に隈を拵え、目蓋は重く瞳にかかっていた。誰もが一様に疲労しきっていた。

 嘉和は体育館の嘗ての活気を思った。児童等の声も気配も、この骸共の静けさに取って代わられて了った。――中には、このブルーシートの下に彼等は居るのやも知れなかった。

 やがて、生哉の姿をステージへ登る階段の脇に見つけた。彼は凝乎と、傍らの青い山を一つ、うち眺めていた。

「生哉君……」

 幾分静かに、声をかけた。漸く、この甥は嘉和を見た。と直ぐに軽く会釈して、「どうも――随分御無沙汰して了って」なぞと挨拶をする。余程気でも違えてしまったのかと思われた。驚きはしなかった。仕方のないことだと嘉和は思った。

「母はそちらです」

 彼は青い山の一つに目を遣りつつ言った。

「不幸中の幸いでした。母だけは母と分かる形で見つかりました」

 卑屈な声音であった。彼の母――嘉和の妹が死んで了ったことは不幸に相違ない。形の有無はこの際関係ない。幸いであったのは彼女の子が生き残って呉れたことだけである。

 漸く嘉和は彼の心境の一端を捕まえることができた。自らの家族が失われ、独りで居ると寂しさの余り「どうして自分が」と考えずにはいられなくなるのだ。

 自分は、この老いぼれはまだ良い。余程増しである。妻は二人の家族を残して呉れて逝った。一方で眼前の若者はどうか。この老いぼれの半分も生きぬのに一昼夜の内に悉皆の諸々が失われたのである。

 かけてやりたい言葉はいくつもあった。然し、その多くは口を出ようとすると忽ち形を失って一つとて形に成らなかった。

 やがて絞り出すようにして一言、「君だけでも生き残って呉れて、本当に良かった」とのみ発しられた。

 そうして、生哉を連れて伊勢原に帰ったのは、せめて骨は故郷にと妹を火葬し終えてからであった。火葬場は既に満杯で、三日ほど斎場の駐車場に泊まらせられた。

 多くの人の待ち合う中、シートに包んだ遺骸を車の外、或いはテントの外に置く者が多くあった。海水や泥に侵された死体は冬であっても日に日に腐臭を強めてゆく。仕方のないことである。

 それでも、嘉和は寒風の中――遂に雪まで降り出した――の中に、これ以上彼女を捨て置くことはできなかった。

 同じ思いであったかどうか、生哉の心中は知れなかったが、彼もまた母を外に遣ろうとはしなかった。

 結局、帰路に着いたのは三日目の昼であった。車には骨壺と、波に曝されながら浚われなかった金柑の庭木と、沈鬱せる生哉の三つたりのみであった。助手席で生哉は骨を焼いた余熱で温い骨壺をひしと膝に抱いていた。彼の母は再びゆっくり冷たくなった。

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