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名ばかりの立秋が過ぎた。この日、日和は書庫整理が長引くため生哉は独り帰路に着いた。汗を滲ませながら帰宅するなり件のメモ帳に次のように書き付けた。
「ここ暫く短か尾を見かけない。父なのか母なのかは知らないが恐らく死んだものと思う。」
そうして筆を置くと椅子に凭れ掛かるようにして腰を降ろし、燕の一家を思った。短か尾がいかなる故あって姿を消したのかは分からぬが、残った赤首に子燕の要求が集中して了っているのは傍目にもよく分かった。赤首は一羽で巣と外とを往復し三羽の世話をしている。
子燕等が今までの餌の量を同じに求めるならば、あの一家は崩壊する他あるまい。子燕は親の事情を慮ることはなかろう。また、赤首も餌を与え続ける他はなかろうと思われた。未熟な雛の面々が食い潰さんとしているのは何も餌ばかりではないらしい。
階下にて戸の開く音が聞こえたかと思うと言い合いの声が聞こえてきた。困ったような日和の声に、己の不満を思い遣りもなく相手にぶつける苛立たしげな声が発され、姉を罵り、そうして怒声の主は再び外へ出て行った。玄関の戸が乱暴に閉じられた後、暫く小本の家は静かになった。
日和の様子が気に掛かり、階段を降りようとすると先は真っ暗であった。彼の墨の海を思わせたが日和のことを思うとこの足は淀みなく下へ下へと生哉を運んだ。
意気消沈する日和は台所のダイニングテーブルに頬杖突いていた。眉を八の字に寄せつつ呆(ぼう)っとしていたが生哉を認めると、努めて微笑み、困ったような笑顔になった。
昔の――といっても二年か三年前のことであるが――彼女の朗らかな表情は最早面影を留めていない。柔らかで瑞々しかった黒髪は一本一本が細く、硬くなり、弾力を失い棕櫚箒の穂のようである。肌は荒れ、手は皹し(あかぎれ)ている。彼女の心労の表れ、というよりは無理に母たらんとする日和と、これを母の代わりと定めて無闇矢鱈に餌を求む弟との成した結果に相違なかった。
「生哉君、麦茶でもどう」
溜息と共に吐き出された疲れ切った声であった。生哉の答えを待たずに席を立とうとする日和を「いいよ、座ってて」と制して、彼は二人分の麦茶を支度して彼女の隣に腰掛けた。麦茶の一方を差し出すと彼女の表情は俄に和らいだ。
ちびちび麦茶を口にする日和を眺めつつ「母親の真似なんて止せ。食いつぶされて終いだ」という言葉をまた飲み込んだ。居候の身の上、只あの暴君よりも声が小さいに過ぎぬ子燕の身故、日和の選択に文句を言える筋合いにいはしない。
そもそも、日和の身を心配して「止せ」と言おうとしているのか、自分の好意を寄せる人間が他の男にいいようにされているのに嫉妬しているだけなのかも判然としない。日和の行いに口出しできぬ身の上ならば、口出しできる関係を得ればいいとも思うが、自分の慕情を目的の達成のための手段に落とし込むのは甚だ納得がいかなかった。あの男を追放したいから日和との関係を望むのではなく、関係自体を望み、またそのために尽力したいと生哉は思っている。ともすると、自分の気持ち一つを優越させるために日和の苦労を後回しにしようとする自分は真に彼女を思っているのか疑わしくもあった。
空になったグラスに着く水滴で手遊(てすさ)びしながら、ぼんやりと日和を眺めていると彼女の手に意識が傾いた。老婆みたいな手だ。青白く、俄に乾燥した具合で所々に筋が浮いている。これが自分と歳が二、三しか変わらぬなどとは到底思えない。
「あの子も生哉君を見習ってくれたら良いのにね」
困ったような笑顔で日和が言う。どうにもこの醜い笑顔が板に付いてきてしまったらしい。目尻に小皺が集(たか)り、眉間には盾に三本皺が走る。無理に持ち上げた口角が耳の脇に縫いつけられているようだ。この厭な笑顔がいかにも日和らしいと感ぜられて了う。
「こんな時にお母さんがいたらどうしたのかな」
黄ばんだ歯の間から漏れた言葉は問いかけというよりは自責の物であった。
「自分を責めるんじゃない」
矢張りこの言葉も皮下の淀みの一部となった。
日和の為さんとしていることは、他より成長の早い子燕が他の子燕を育てようとする物で、畢竟(ひっきょう)無理のある話である。かといって残った親に全ての負担を任せても破綻は見えている。子燕は只何も考えず餌を強請る他はない。
――どうやらあの燕の一家は駄目らしい。
この日の夜、メモ帳に付け加えた言葉であった。
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